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大阪万博についての想い出、印象に残っていることを、お聞かせ願えませんか?
1970年、「人類の進歩と調和」というテーマで、大阪は千里丘陵で開かれたアジアで最初の万国博覧会。
一大国家プロジェクトとして開催された大阪万博は、現在も博覧会における入場者数の記録を破られていません。
当時6歳、幼稚園児だった私でも、万博の印象は強烈だったためか、結構いろいろなことを今でも覚えています。

迷子ワッペンや動く歩道、太陽の塔、恐竜みたいなオーストラリア館、ブタみたいな顔のガスパビリオン、そして東京ドームを初めとしたドーム球場の原点ともいえるアメリカ館と月の石etc・・・特にアメリカ館は、まだ明るい昼過ぎから並び始めたのに、日がすっかり暮れて夜になってもまだ入ることができませんでした(おそらく4~5時間並んでいたのでしょうね)
帰りはまた、タクシー待ちの長い列に並び、本当に何をするにしても長時間並んでいた記憶があります。

9月に入って最初の土曜日には、なんと一日で80万人以上の人が会場内に押し寄せ、電車に乗れず帰宅できない人まで出たということです。もしそのとき、会場にいた方がおられましたら、どんな様子だったのか、お聞かせ願えれば嬉しいです。

A 回答 (4件)

 私も当時は幼稚園児でした。

でもよく覚えていますよ。

 当時は大阪市内(それも淀川より北部)に住んでおり、なおかつ自宅に車があったため、開催中はしょっちゅう親戚が遊びに来ており、そのたびに一緒に万博へ・・・という生活してました。もちろん幼稚園の遠足も万博でした。

 ただ長蛇の列に並んだってあんまり記憶ないんですよね。。。いろんなパビリオンは入った記憶もどんな建物だったかは記憶があるのに。それだけ気持ちがワクワクしてたんでしょうね。スタンプ帳も持ってましたね。

 何度か行くとパビリオンには行かなくなり、姉と一緒に子供の遊び場みたいなところでずっと遊んでましたね。浅い人工池に透明のパイプでできたジャングルジムのようなものがありました。パイプの中は子供が入って遊べる迷路のようになっていました。ここで遊んだ記憶ははっきり覚えています。

 あと鮮明に覚えているのは、確かまもなく閉会という時期の夕方に一緒に行っていた祖母が会場で倒れてしまい、救急車のお世話になったことです。すごい人ごみを救急車がサイレン鳴らして会場内まで来たんです。まわりは人だかりだし、母は同行して病院に行っちゃうし、残されたのは小学校1年生の姉と幼稚園児の私と確か親戚の叔父さんのみ。もちろん駐車場には母が乗ってきた車が残されたまま。。。救急車の中をはじめて見たという感動?と母と離れ離れになった寂しさと祖母が死んでしまうのではないかという不安で心の中がいっぱいで、どうやって帰宅したのかという記憶が抜けています。このことはその後亡くなった祖母の法事のときには必ず話のネタになっています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
私も万博会場からかなり近いところに住んでいたので(車で20分くらい、ただし当時自家用車は所有せず)、田舎から高校生だったいとこ姉弟が万博見物にやって来ました。
彼らは「万博に行くなら、アメリカ館、ソ連館、三菱未来館は絶対はずすな」といわれてきたそうで、この3つは間違いなく入ったはなのですが、私自身はアメリカ館しか覚えていないのですよね。後は小国の、並ばなくても入れるようなところを主にまわっていたと思います。
また、太陽の塔の記憶も、結構鮮明に残っています。数年前に一般公開されるまで、太陽の塔がパビリオンの一つで入館できたということを知らない人が多くいたのを聞いたときは、ちょっと驚きましたけど・・・
おばあさま、大変でしたね。閉会間際といえば、かなり混雑していて、救急車が現場にかけつけるだけでも一苦労だったでしょうね。

お礼日時:2007/06/09 09:27

10歳でした。


琵琶湖でしか、宿がとれませんでした。
月の石を見たいという、グループとは、決別しました。
「ただの石じゃん」と、思っていたからです。
アンチ月の石派と、行動を共にしましたが、なんか、ろくなものは、見なかった気がします。
船の科学館で、「月の石」を一秒も並ばずに、見た時、初めて、勝ったと思いました。
それすらも、ただの仕事のついでで、本当に、ただの石でした。
そこの駐車場の石と入れ替えても、気づきません。
普段は、ケチな、うちの母が、おみやげを買ってくれたりしました。
あのケチの「タガ」をはずすとは、たいしたものです。
生涯(まだ、生きていますが)ケチだった母の財布を少~しだけ、緩めた、「万博」・・・それが、私の印象です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
ケチだったというお母様の財布を緩めたのが、万博の印象というのは、なかなか面白いですね。
皆、我先にとお土産物に群がったため、そういう雰囲気になってしまったのでしょうか?

お礼日時:2007/06/09 09:17

混んでいましたね。


私も記憶にあるのは日立館だけで、ここで疲れてしまい、すぐに入場できたカナダのケベック館に入りました。
恥ずかしながらこのケベック館は全く記憶に無いのですけど、田舎では外人が珍しい時代でしたから、コンパニオンの女性が綺麗だった印象は残っています。
今確認すると、カナダはカナダ館とケベック館を別々に出しているのですね。
フジパンロボット館も楽しみにしていましたけど、帰りの時間が迫ったので諦めました。
先日愛知万博記念公園で見ましたけど、今見てもユーモラスで面白かったですよ。
オーストラリア館も数年前に見ました、現在は三重県の四日市にあり、懐かしくなって見てきました。
妻は当時大阪に住んでいて、10回以上は入ったらしいですけど、私は1回だけでした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
カナダ館というのは覚えていますが(ただし入館した記憶なし)、ケベック館というのもあったのですね~
そういえば、ロサンゼルス館とかミュンヘン館とかいうのもあったような・・・国とは別に、地方自治体からの参加もあったということですね。
フジパンロボット館の記憶もありませんが、今でも見れるのですか?
また、オーストラリア館が移築されたのは聞いていました。ただ、今はちょっと寂れてしまっているという話ですが・・・

お礼日時:2007/06/09 09:14

ああ、なつかしいですね。

それにしても6歳にして細かいディティールまでよく覚えてらっしゃいますね~!わたしは8歳でしたが小さい頃からぼんやりしてたせいかウンウン言わないと思い出せませんね。とにかく人、人、人だらけだったって言うのと人口の広い池?(噴水のある)“中華人民共和国”という言葉覚えたのたぶんこの時。“キューバ館”とか・・・。当時は『“キューバ”?なんじゃそら』でしたけど。(今もあんま変わんないですが)“月の石”はもちろん見ましたが列に並んで歩きながらチラ見って感じだったかな。『ふ・・ふ~ん?』程度の感想でした。あと“サリドマイド”についての映像とか。夜おそくまで歩き回ってお土産買ったりしてました。エキゾチックなお人形さんだとか中国の丸くてカラフルなうちわとかいろんな国のお菓子だとか。子供の私にとってはそちらの方が興味ありましたっけ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
おっしゃるとおり、すごい人でしたよね~
ただ私はあまりお土産を買った記憶がなく、父が温度計付のたて?みたいなのを買ったのですが(今でも実家にあると思う)、自分用に何か記念になるものを買っとけば良かったかな・・・

お礼日時:2007/06/09 09:10

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