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大阪の地下鉄は他の路線と交差するところには必ず駅があって交互に乗換が出来るようになっていますが、唯一の例外として御堂筋線の昭和町~天王寺間と谷町線の阿倍野文の里間の交差する地点には駅が無くて昭和町と文の里の間が隣接しているとはいえ微妙に距離が離れています。
谷町線の天王寺~八尾南延長の時に、谷町線が昭和町を通り交互に乗換出来るようにするというような計画はなかったのでしょうか。
一応天王寺で御堂筋線と谷町線の乗換は出来ますが、御堂筋線と谷町線の天王寺以南交互の乗換が昭和町で出来たら天王寺駅の混雑もかなり解消出来ていたと思うのですが。

A 回答 (3件)

谷町線の天王寺以南の延長が廃止された旧南海平野線の代替も兼ねているので


その旧南海平野線にあった文の里駅も存続させるような形になったという可能性も否定出来ないと思います。
又、大日~八尾南の全区間運行と都島~文の里の区間運転の電車がほぼ交互に運行されていますが
この区間運転の南側の駅の終点到着後の待機線への引き込みが
文の里駅が最適だと当時考えられていたとも考えれられます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E3%81%AE% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B5%B7% …
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/06/24 13:24

この付近で一番最初に開通した鉄道は1914年(大正3年)の南海平野線です。


この平野線と交差するように後に敷かれた鉄道には地下鉄御堂筋線・阪和電鉄(現JR阪和線)・大鉄(現近鉄南大阪線)がありますが、全て平野線と交差する部分には駅が造られませんでした。
何らかの政治的(?)な意図があって造られなかったとの史実もあるようですが、現実に交差乗換駅が出来なかったのは事実です。

で、その後平野線は谷町線が延長されることで廃止になりましたが、谷町線自体の使命としては御堂筋線との連絡よりも平野線の既存の乗客の足を確保する役目を優先せざるを得ないため、こういう形になったといえます。谷町線を無理やり昭和町に近づけて敷設することは許されなかったと思われます。

もしも現在文の里で御堂筋線と谷町線を連絡させることが出来たとすれば、御堂筋線開通時に昭和町駅をもう少し南に造っておけば、谷町線が出来たときに天王寺-昭和町間に文の里駅が造られた可能性はあったでしょう。現状の昭和町の位置では中途半端に文の里に近いのでまず造られないでしょう。また乗換客数の予測でも乗換は天王寺があれば充分と判断されたのかもしれません。

どちらにしろ、1938年当時南海平野線が谷町線に取って代わることを予測し将来乗換を考慮して敷設するのは困難なことだったと思われます。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/06/24 13:25

天王寺~西田辺の着工が1938年であり、戦時中の資材不足等での工事中断を挟み昭和町まで開通したのが1951年です。

その時期には谷町線の天王寺以南の計画が未だ存在しないので、昭和町の駅位置は乗換えを考慮していないと考えられます。
谷町線の天王寺~八尾南延長の際には連絡駅化も考えたでしょうが、新駅を造るには駅間が近すぎ、連絡通路では遠すぎます。
結局のところ、多数を占めると思われる都心方向への乗換えなら天王寺でも可能ですので、費用対効果の面でそのままになったのでしょう。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/06/24 13:25

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