蝶子が柳吉に対してあんなにも献身的である理由が分からないのですが、
既読の皆様はどう思われましたか?

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A 回答 (1件)

実は、織田作は、いずれ読んでみたいと思いつつ未読でしたが、青空文庫で読めるようだと知って、サッと読んでみました。


法善寺境内の名物、夫婦ぜんざいを味わった思い出が あります。みもふたもない私は、あんな ちょびっとの量やったら、わざわざ二つに分けて運んでくるほどのことも なかろう、一つの お椀に入れたら ええがな、と思ったことを憶えています。(それじゃ「夫婦ぜんざい」に ならないな 笑)

>女給の手にさわり、「僕と共鳴せえへんか」

この部分で苦笑してしまいました。いかにも、しょうのない男が言いそうなセリフやなあ、と。
せっかくですから(?)雰囲気を盛り上げんとて、大阪弁まる出しで いってみます。
私も大阪育ちですが、母は まさに大阪の ど真ん中で育った、ミナミあたり、自分ちの庭みたいなもんやと、長い黒髪を なびかせ、肩で風きって闊歩してたというのが自慢の人でした。ですから、母方の家に行ったおりなどに、かなり時代のズレは あるものの、この作品に描かれる人間模様から醸しだされる独特の空気感のようなものには、私の子ども時分には、まだ、触れ得ていた記憶が残っています。

むかしの時代の親ゆうもんは、いまでは考えられへんほどの厳しいところがあったと聞いてましたけど、
柳吉の父親のような固い考えかたや態度も、理解できないでは ありません。こういうところも含めて、近松の『心中 天の網島』でしたっけ、治兵衛の女房おさんの父親と言い、大昔から こんにちまで変わりのない親の心情というものは あるもんやなあ、と思いました。
そして、やはり、ヒロイン 蝶子の父・種吉のような おとうちゃんは、ええ おとうちゃんやなあとも思います。

>お辰はあれでは蝶子が可哀想やと種吉に言い言いしたが、種吉は「坊ん坊んやから当り前のこっちゃ」別に柳吉を非難もしなかった。どころか、「女房や子供捨てて二階ずまいせんならん言うのも、言や言うもんの、蝶子が悪いさかいや」とかえって同情した。そんな父親を蝶子は柳吉のために嬉しく、苦労の仕甲斐あると思った。「私のお父つぁん、ええところあるやろ」と思ってくれたのかくれないのか、「うん」と柳吉は気のない返事で、何を考えているのか分からぬ顔をしていた。
◇◇◇
こういう、種吉の、おっとりノンビリした善良さと、柳吉の茫洋としたと言うか、肚の つかみどころがないようなところが、蝶子にとっては、二人の男に共通した性質であり、彼女が理由らしい理由もなく柳吉に引き寄せられてならなかった潜在的な原因のように思えました。まぁつまり、ファザコン?(笑)そういえば、柳吉のほうが、かなり年上ですよね。

>柳吉が蝶子と世帯を持ったと聴いて、父親は怒るというよりも柳吉を嘲笑し、また、蝶子のことについてかなりひどい事を言ったということだった。――蝶子は「わてのこと悪う言やはんのは無理おまへん」としんみりした。が、肚の中では、私の力で柳吉を一人前にしてみせまっさかい、心配しなはんなとひそかに柳吉の父親に向って呟く気持を持った。自身にも言い聴かせて「私は何も前の奥さんの後釜に坐るつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望や」そう思うことは涙をそそる快感だった。その気持の張りと柳吉が帰って来た喜びとで、その夜興奮して眠れず、眼をピカピカ光らせて低い天井を睨んでいた。
◇◇◇
このへんですね、実は、私の母を彷彿とさせるところがあります(笑)
むかしは、男を一人前にしてこそ、女も一人前、みたいな気概があったらしいですが、いまどきは、どうでしょうか、たまには見かけるんでしょうか、ほら、
「あの人には、私が ついててあげないと!」とかって悲愴なことを言う女性。
私自身、若い頃から、お花と お金だけは、もらうことはあっても、男性に あげるのは美意識に反する、などと根拠もなく思い込んでいるところがありますが(笑)ろくに報いてくれそうもない男はんに尽くしまくるなんてなあ、、、と思うのが正直な気持ちです。けど、知人のなかには「男に貢ぐ、というのを、いっぺんやってみたいの」、と鼻息を荒くして のたまうような女性も おりますから、私は、そうか、そういう女性も いるもんなのね、と感心しつつ(?)思わずヒキました;
しかし、そうですね、よく思い起こせば、自分にも全く縁がなかったわけでもないことで、時間でも労力でも、お金でも気持ちでも、つぎ込めば つぎ込むほどに、要するに、「元を取り返す」までは、と貼り付く執着心ですねぇ。世間で よく聞かれる、 いわゆる「女の意地」というやつ?(笑)

蝶子の場合、出発点が、まさに「不倫」ですから、いまどきは不倫が「フリン」かプリンくらいの軽さ漂う ご時世ですけれど、作品中の時代には、さすがに、いまよりも もうちょっと抵抗感や後ろめたさが強かったかも しれませんね。それでも、いつの時代も、好きになり、恋うる気持ちを、リクツや なんかで止めることは できしまへん。そやから、蝶子にしても、家庭のある男性を、その妻や娘から奪ったという後ろめたさ――それは、柳吉の娘が急に訪ねてきたとき、勝気な蝶子が顔をシワだらけにして笑顔で「いらっしゃい」と駆け寄り迎えた、という場面に、彼女の後ろめたい気持ちと、それを なんとか挽回したいという、媚びと言っていいほどの願い、なんとも いじらしい心情すら感じさせるところに表れていると思います。

先述の『心中 天の網島』だったと思いますが、「子ゆえの闇」とか「恋路の闇」とか、実際は、まだ小娘と言っていいような年齢だったかと思われるヒロイン 小春が、自分たちを とり巻く人々それぞれの心の うちを思いやり、そして自分自身の心の うちの苦しみをも客観的に見通す場面のセリフを、つられたように思い起こしました。

やはり、心理的に、素朴さと複雑なものが両方あるんでしょうね。
好きになるのにリクツは関係ないでしょうし、リクツで止めることも できないでしょう。それは、ごく素朴なことであり、同時に、個人の潜在的な心理の働きとしては、複雑なものも含んでいるかもしれません。
どうにも好きになってしまわせた相手にとって、この自分が、同じくらいの重みがないとなると、勘定が引き合わんやないかいな。
加えて、さきに申し上げた、後ろめたさ、罪の意識を負っているゆえの、そのぶん、媚を含むまでに切ない、挽回への願い、柳吉の家庭を崩壊させたことを贖うためにも、一人前の男にしてみせるに欠かせぬ存在であらねば、という強迫的なまでの意地。
そうしてみると、案外、柳吉のためなんてのはアヤシイもんで、むしろ、蝶子自身が、その意地に支えられているまでに至ってるんやないのか、と思えてきます。

だからこそ、年下の蝶子に折檻されながら、「おばはん」などと憎まれ口を たたきつつ、「頼りにしてまっせ」という柳吉のハゲマシ、本当のところ、「頼りにして」いるのは、どっちなんでしょうね(笑)

手塩にかけて育てた一人娘に、あっさり 背かれても、その幸せを一番に願い続け許し続けることを苦にもしない、蝶子の親。
その蝶子に、自分と親の どっちが大事や、と試すように冷たく迫る柳吉。
柳吉にとって最高に必要な存在であり続けたいがためには、断腸の思いを忍んでも、無償の愛で慈しんでくれる大事な親をさえ裏切り、捨てかねない蝶子。
「頼りにしてまっせ」このコトバは、これからも果てしなく柳吉に尽くせよ、という厳しい叱咤であり、同時に、その煩悩ゆえと言うべき奉仕によって、実は彼女が生かされているのだということ。

どなたの発言でしたか、必ず、どちらかのほうが、いくらか片思いなのだ、という、これは、恋愛に関するコトバでしたが、恋愛に限らず、人間関係全般に言えるのかも しれません。


さてさて、蝶子の親、柳吉、蝶子、誰が一番愛されているのか。そして、誰が本当の「愛の勝者」なのでしょうかね。
私、ちょっとアタマ痛くなってきた(笑)
長い感想文で、失礼しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/30 11:31

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Q皆様の好きな日本の古典文学とその理由を教えてください。

皆様の好きな日本の古典文学とその理由を教えてください。

私は「竹取物語」ですが、「竹取物語」は今から1000年も前にこんなSFみたいな話があったんだという感激を覚えるからです。
当時の風俗が分かるという意味で「東海道中膝栗毛」もよく読んでいます。

Aベストアンサー

>「竹取物語」は今から1000年も前にこんなSFみたいな話があったんだという感激を覚えるからです。

確かに、かぐや姫も彼女を迎えに来た月よりの使者(天人)にしても、間違いなくUFOに乗ってやってきた宇宙人にほかなりませんからね。

で、私が一等愛読してきたのは伊勢物語、古今集、大鏡で、中でも伊勢物語が名作中の名作であり、日本文学の基本構造を最も洗練させた形で純粋結晶化されていると思っています。
日本語が「自立語(名詞、用言等)+付属語(助詞、助動詞等)」から成り立っているとすれば、日本文学の原型は「和歌+散文(詞書)」という基本構造を持っているのではないでしょうか。

それを典型的な形で体現しているのが伊勢物語だと思いますし、その後の日記文学、物語文学にせよ、本当の主人公は実は《和歌》そのものであると言えるような気がしてなりません。

Q余りにも芸術的な芥川に対する谷崎の反論内容。

具体的に谷崎側の主張内容を教えてください。転載して頂けると助かります。
その谷崎の主張が読める書名やサイト名がありましたら紹介も宜しくお願いします。
そもそも芥川はなぜ批判めいた事を口走ったのでしょう(発端は芥川側ですよね)。精神力の低下により谷崎生意気だと発狂し始めたのでしょうか(それこそ中身のない感じの浅い批判文をさらしてまで)。
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ちなみに当方は読書家ではありません。でもこの二人の文学論争は近代文学(作家)の本性を伝える重要な資料になると思うのです。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

何をもって「発端」とするか、どこまでさかのぼったら「発端」と言えるのかは解釈によって変わってくるとは思うのですが、芥川龍之介と谷崎潤一郎との論争は、昭和二年、雑誌『改造』に発表された谷崎潤一郎の「饒舌録」から見ていくのが妥当かと思います(参考:平野謙・小田切秀雄・山本健吉編『現代日本文学論争史(上巻)』)。

簡単に『饒舌録』が書かれた背景を説明します。

大正末期から昭和初頭にかけての文学の状況は、一方で急激に台頭してきたプロレタリア文学があり、他方にはそれに対抗しようとする新感覚派の提唱があって、それを明治以来の自然主義の系統とそれにつづく白樺派といった「主流」が迎え撃つ、といったものでした。

大正十四年、その「主流派」である久米正雄が『私小説と心境小説』として、自らの小説観を発表します。久米はここで「私はかの私小説なるものを以て、文學の、――と云って余り広汎過ぎるならば、散文藝術の、真の意味での根本であり、本道であり、真髄であると思う」(引用は『現代日本文学論争史』からの孫引き)という主張をおこないます。

久米は、芸術が真の意味で別の人生の「創造」だとはどうしても信じられない、そういうのは一時代前の文学青年の誇張的至上感にすぎない、自分にとっての芸術は、たかがその人びとの踏んできた、一人生の「再現」としか考えられない、というのです。

「私」を「コンデンスし、――融和し、濾過し、集中し、攪拌し、そして渾然と再生せしめて、しかも誤りなき心境を要する」、そうした意味で、真の意味での私小説=心境小説こそが芸術の本道であり、真髄である、と主張したのです。

この発言を受けて、中村武羅夫や徳田秋声や田山花袋、佐藤春夫や宇野浩二などがこの「私小説論争」に加わって、心境小説とは、本格小説とは……と活発に議論されるようになります。ただ、本格小説(あるいは客観小説)、心境小説といっても、それらの意味するところはきわめて曖昧で、曖昧な概念用語を用いての議論でしたから、どうしてもとりとめのないかたちになっていかざるをえませんでした。

そのさなかに(論争に加わるかたちではなく)自然主義の陣営の外から出されたのが、谷崎の『饒舌録』でした。

「いったい私は近頃悪い癖がついて、自分が創作するにしても他人のものを読むにしても、うそのことでないと面白くない。事実をそのまま材料にしたものや、そうでなくても写実的なものは、書く気にもならないし読む気にもならない」(『改造』1927年2月号:以下引用はすべて『現代日本文学論争史』からの孫引き)

谷崎にとっては、当時論争の焦点であった心境小説と本格小説の優劣など眼中になく、

「…そんな主義でも抱いているように取られそうだが、決してそういう次第ではない」
「素直なものよりもヒネクレたもの、無邪気なものよりも有邪気なもの、出来るだけ細工のかかった入り組んだものを好くようになった」
「此れは或いは良くない趣味だと思うけれども、そうなって来た以上仕方がないから、まあ当分は此の傾向で進んで行こう」

これを見てもあきらかなように、自分の考えを述べたというより、ただ小説についての自分の好悪を吐露したものでしかありませんでした。

それについて、雑誌『新潮』の合評会で芥川龍之介が言及したのです。批評しようとしたものではなく、たまたまそれにふれて、自分の気持ちを述べた、という性質の、文字通りの「言及」です。

その背景には、かつての芥川自身が誰よりも谷崎の言う「素直なものよりもヒネクレたもの、無邪気なものよりも有邪気なもの、出来るだけ細工のかかった入り組んだもの」を書く作家だった、ということがあります。

初期から中期にかけての芥川は、王朝もの、キリシタンもの、開化ものと呼ばれている、技巧を尽くした作品を発表する作家でした。そうして「技巧派」「理知派」という批判を浴びることになったのですが、それに対しては「芸術活動は意識的なものなのだ」と反駁してきたのです。

けれども後期に入ると(といっても芥川の作家活動自体が大変に短いものでしたが)、次第にそうした自分の作風に反発を感じるようになって、作風に変化が生じてくるのです。そうして、たとえば志賀直哉の『焚火』のような小説に、自分には決して書けないがゆえのあこがれを持つようになります。

谷崎の『饒舌録』の主張は、まさにその芥川の思いとは逆の主張だったからこそ、合評会でそれにふれずにはいられなかったのでしょう。それがこのような発言となりました。

「芥川:僕は谷崎氏の作品に就て言をはさみたいが、重大問題なんだが、谷崎君のを読んで何時も此頃通説に感ずるし、僕も昔書いた「藪の中」なんかに就ても感ずるのだが話の筋と云うものが藝術的なものかどうかと云う問題、純藝術的なものかどうかと云うことが、非常に疑問だと思う。」

「芥川:筋が面白いために藝術的の価値が低下すると云うことはない。それは積極的ではない。併し谷崎氏のは往々にして面白いと云う小説と云うものに、其筋の面白さで作者自身も惑わされることがありやしないか。」(「新潮」1927年2月号)

これに対して谷崎は翌月の「改造」でただちに反論します。

「筋の面白さは、云い換えれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築的の美しさである。此れに藝術的価値がないとか云えない。(材料と組み立てとはまた自ら別問題だが、)勿論此ればかりが唯一の価値ではないけれども、凡そ文學に於いては構造的美観を最も多量に持ち得るものは小説であると私は信じる。筋の面白さを除外するのは、小説と云う形式が持つ特権を捨ててしまうのである。そうして日本の小説に最も欠けているところは、此の構成する力、いろいろ入り組んだ筋を幾何學的に組み立てる才能、に在ると思う。」(「改造」:1927年3月号)

その谷崎に答えるかたちで、芥川も同じ「改造」に『文藝的な、余りに文藝的な』の連載を始めます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/26_15271.html

あれこれと弁解の続く文章ですが、谷崎に対する回答となるのは、以下の点です。

「「話」らしい話のない小説は勿論唯ただ身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙はるかに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、――通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋な小説である。」(「改造」:1927年4月号)

こうして芥川は、谷崎の「構造的美観」に対し、「詩的精神」を対置しようとするのですが、その「詩的精神」がどういったものか、芥川自身にもはっきりとつかめていたわけではなかった。ただ、「話」のある小説しか書いてこなかった自分にあきたらなくなって、なんとかして転換していこうとした先に見えていた(あるいは見ようとしていた)かすかな光、という程度のことだったのではないでしょうか。

それに対して、迷うことのない谷崎の回答は容赦ないものでした。(「改造」5月号)

「私には詩的精神云云の意味がよく分からない。」
「私は斯くの如く左顧右眄している君が、果たして己れを鞭うっているのかどうかを疑う。少なくとも私が鞭うたれることは矢張り御免蒙りたい。」

けれどもその谷崎自身

「藝術は一個の生きものである」
「実際人を動かすような立派なものが出て来れば、いいも悪いもあったものではない」
「現在の日本には自然主義時代の悪い影響がまだ残っていて、安価なる告白小説体のものを高級だとか深刻だとか考える癖が作者の側にも読者の側にもあるように思う。此れは矢張り一種の規矩準縛と見ることが出来る。私はその弊風を打破する為めに特に声を大にして「話」のある小説を主張するのである」

というように、それ以上の考えがあったわけではなかったのです。

芥川はこれに対して『再び谷崎潤一郎氏に答ふ』を書きましたが、特にこれといった主張があるわけではない、儀礼の域を出るものではありません。

この論争も、論争によって互いの思想を確固たるものにする、とか、議論を先に推し進めていく、といったものではなく、あるいは何らかの解決や一致点を見るものではありませんでした。単に、両者の作家的資質のちがいを鮮明にするにとどまるものだったのです。

> 文学史上極めて貴重な論争ではないか

と質問者氏は書かれておられますが、果たして「貴重な論争」というものが、少なくとも日本文学史上、あるものかどうか(いや、誰かに怒られるかもしれませんが)。

実際、過去の「論争」の多くは果たして「論争」と呼んで良いものかどうか迷うほどなのですが、ひとつ指摘しておきたいのは、その多くが実作者によるものであって、理論家によるものではなかった、という点です。この点に関しては批評理論とも関連してくるので、ここではふれませんが(そうしてまたその能力もわたしにはありませんが)、少なくとも作家にとって、理論を構築するのが目的ならば、小説など書く必要はありません。

けれども、多くの作家にあっては、創作を書かずエッセイを書く時期というのは、意識的である場合もそうでない場合もありますが、その作家が転換期に入ったことを示すものといえます。過去の自作の再生産に終わらず、新しい方向を模索するとき、作家というのは「文学とは」「小説とは」と考える。そうしてそれが「論争」というかたちで今日まで残っている、と考えるのが妥当ではないのでしょうか。

何をもって「発端」とするか、どこまでさかのぼったら「発端」と言えるのかは解釈によって変わってくるとは思うのですが、芥川龍之介と谷崎潤一郎との論争は、昭和二年、雑誌『改造』に発表された谷崎潤一郎の「饒舌録」から見ていくのが妥当かと思います(参考:平野謙・小田切秀雄・山本健吉編『現代日本文学論争史(上巻)』)。

簡単に『饒舌録』が書かれた背景を説明します。

大正末期から昭和初頭にかけての文学の状況は、一方で急激に台頭してきたプロレタリア文学があり、他方にはそれに対抗しようとす...続きを読む

Q「あそこの家はお父さんがいないからあんなふうなのよ」の意味を教えてお願いします。

下の文は読んだ文章から引用しました。「あそこの家はお父さんがいないからあんなふうなのよ」、「人からうしろ指をさされる」、「気負い」分からないんですが、教えてお願いします。

それゆえに、私たちを育てる過程で、「あそこの家はお父さんがいないからあんなふうなのよ」というように、人からうしろ指をさされるようなことだけはない子どもたちに育てなければという気負いが母にはあったと思う。

Aベストアンサー

お父さんがいない=働き手がいないから収入も少ない→貧乏。
お父さんがいない=主導権を握る主がいない=ルールやケジメがない。→我侭放題で物事の良し悪しが分からない。乱暴物で思いやりももてない。世間の常識も分からない。
お父さんがいない=お母さんが変わりに働いていていつも留守で鍵っ子→子供を押さえつけるものが何もなくしつけも何も出来ていない。自由奔放。勉強もせずゴロゴロして遊んでいる。
よって
その家の子供は 我侭で自由奔放で世間の常識もなくルールも守れない。と思われている。
だからこそ
そういう陰口を言われない為に 常に神経を張り巡らせて躾をしルールを守らせ 素直な優しい思いやりある子に育てなければと自分自身に言い聞かせながら必要以上に片親だからと言う責任を感じて 両親揃っている子供と同じ事をしても きつく叱ったりして躾をしている様子。
気負い=必要以上の責任感。

今時では 片親当たり前。
両親揃って裕福な育ちをしている子ほど 世間知らずで我侭自己中だもんね。
文章の意味が わかんなくて当然かな?

Q紫式部が源氏物語を書いた理由、と、清少納言が枕草子を書いた理由

こんにちわ、初めまして。
学校の課題で、紫式部が源氏物語を書いた理由、と、清少納言が枕草子を書いた理由を記録に残されている根拠を使って書く、という課題が出たのですが、図書館などで本を見てもあまり「創作動機」については記されていません。ちょっと詳しめに、もしよろしければ作文形式でお返事ください。
どうかお助けください。宜しくお願いいたします。

Aベストアンサー

枕草子については、跋文に書かれていることから類推するのが一番でしょう。
ただ、枕草子が枕草子として成立した理由は「つれづれなる里居のほどに」「目に見え心に思ふことを」「書き集めたる」が「心よりほかにこそ漏りいでにけれ」とあるんですが、書き始めた理由は「ない」んですよね。
単なるメモですから。大げさな「書き始めた理由」なんてないんです。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/maku2.htm#319

源氏物語については「書いた理由」は、現代では「分からない」が正解ですよ。
土佐日記のように「おとこもすなるにきといふものををんなもしてみむとてするなり」という動機は見当たりませんから。
「源氏物語」は、物語なので作者が書いた動機を入れるのは変ですしね。
また、「記録に残されている根拠」と言っても、当人の談でなければ「根拠」とは言えないでしょう。

#3さんがおっしゃっているように「文献に拠っていれば、作者自身の述べるところでなくともかまわない」というのであれば、源氏物語に関しては、『無名草子』もありますよ。
このあたりが参考になるのではないでしょうか。
http://www.asahi-net.or.jp/~mq9k-ymst/KYkobun/sakuhin/murasakisb/kaisetu.htm
http://www.f-izumi.com/~bk8s-sndu/mei37.html
http://www.f-izumi.com/~bk8s-sndu/genji.html

大斎院選子内親王から上東門院彰子に「退屈しているので、何か物語を貸してください。」という依頼があったので、彰子が「どれを差し上げたらいいかしら。」と紫式部に相談をした。
紫式部が「新しく作って差し上げては?」と申し上げたら、彰子が「じゃあ、あなたが作りなさい。」と言われた。
それで、源氏物語を作って差し上げた。

という話ですね。
尤も、源氏物語は、紫式部が上東門院彰子に仕える前から書いていた…とされていますから、説としてはどうでしょうか。

当時は、「紙」が高価なものでしたから、随筆や物語を書く、書き留めるだけの「紙」を手に入れることができたから書いた…という言い方もできるのではないでしょうか。

枕草子については、跋文に書かれていることから類推するのが一番でしょう。
ただ、枕草子が枕草子として成立した理由は「つれづれなる里居のほどに」「目に見え心に思ふことを」「書き集めたる」が「心よりほかにこそ漏りいでにけれ」とあるんですが、書き始めた理由は「ない」んですよね。
単なるメモですから。大げさな「書き始めた理由」なんてないんです。
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/maku2.htm#319

源氏物語については「書いた理由」は、現代では「分からない」が正解ですよ。
土佐日記のよう...続きを読む

Q純文学愛好者の皆様に質問です。

純文学の条件として、「物語性の無さ」を挙げる人をたまに見掛けます。
そういう意見を聞くたびに不思議に思うのですが、「物語性」を否定すると、
ドストエフスキーの「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」、
漱石の「こころ」、三島の「金閣寺」なども否定されてしまうんではないでしょうか。
いわゆる純文学扱いされている作品でも、物語性に富んだ作品は多いと思うのですが。

Aベストアンサー

>純文学の条件として、「物語性の無さ」を挙げる人をたまに見掛けます。

たしかに、そんな見方もないとはいえないですね。いうひとの気分はわかります。物語性が希薄な文学作品(小説)でも感銘を受ける作品は純文学には多くあります。それは純文学の特性といえるかもしれません。逆に、大衆文学で物語性の希薄な作品は、なくはありませんが少数です。多くは失敗作といえるでしょう。

しかしそれは純文学全体にはいえても、おっしゃるような小説としての純文学の条件だとはいえない思います。
純文学かどうかは、文学作品として芸術性が高いと認められるか、それとも読み物としての要素が大きいか(面白みを加味するために文学作品としての芸術性を犠牲にしていないか)どうかで分けられると思います。

>いわゆる純文学扱いされている作品でも、物語性に富んだ作品は多いと思うのですが。

その通りですね。面白いかどうかは純文学の条件ではありません。むしろ面白いことが文学としての価値を高めることすらあると思います。


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