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こんにちわ。
現在、何時逝ってしまうか分からない“母”のことで皆さんにご相談したい事があります。先日、主治医に最近呼吸が止まってしまうことが何度か続いている。との事でエアー.マスクをし、心音や脈拍、肺の状態が判るように身体に吸盤の様なものを付けられそれがN.Sに心電図の様なモニターに現れる装置を付けられています。医師は家族の方としては悲しいことだとはわかりますが、呼吸が停止してしまうのは、今日かも知れないし、明日かも知れないし、こればかりは『神様』しか判らない・・・。と言われ毎日が気が気では有りません。

『生老病死』それが自然で有ることは判ってはいても、嫁に“いびられ続けられたこと”が頭の中に蘇り、よく我慢をしてきたね。頑張ったね・・・と思うともうやり切れずで、悔しいやら、可哀想やらで耐えられないでいます。

こうした親の死を目前とされた『体験』をされた方どうかアドバイスをお願い致します。

A 回答 (4件)

私もあなたも、お母様も皆等しく帰っていきます。


皆に訪れる事は不幸ではありませんよね
お疲れさま、私もしばらくしたら行きますね
それは事実であり、その気持ちが救いになるように思います
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この回答へのお礼

今晩わ。早速のアドバイス有難うございます。

 >『お疲れさま、私もしばらくしたら行きますね。』この気持ちは私にも大いに有リます。頭がボケて無いうちは死というものに対して、“母の所に行ける。”と思えばなんら怖いことは無いと思っています。
有難うございました。大変救いになりました。

お礼日時:2010/01/17 17:54

この様な時こそ、自分の心と向き合うチャンスです。



悲しみの原因が嫁のいびり??
悲しみの原因も、親が亡くなるかもと言う現実よりも、他人の所為なのでしょうか?

親があなたに(多分)最後に教えてくれる事、チャンスを他に転嫁しては勿体ない。

本当に悲しいのなら、他に転嫁することなく、悲しみを自分自身で十分に味わう事です。
それこそが親の恩に報いる事でしょう。
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この回答へのお礼

こんにちわ。ご意見有難うございます。

家の“恥さらし”の様で質問内容ではお話はしては無かったのですが、>悲しみの原因が嫁のいびり?>チャンスを他に転嫁しては勿体ない。

という事に対してですが、仕事を捨ててまで田舎に戻って来たことは、母の1本の電話からで、身体の自由が利かなくなってしまった自分達にどうすることも出来ずに成すすべもなく縋ってきたことから始まり、在宅介護から現在に至るまで11年もの間、心身ともに“ボロボロ”になりながらも自分に出来ることは身を粉にして頑張ってきました。

母と嫁は全くの他人。しかし、常識というものがあるものですが、子供の前で平気で親の悪口を言う。モラルの欠片も無い。
家事一般や、一番大事な食事も作ってやらない。スーパーで買ってきたものを出され毎日を過ごしていたらしい。

仮にテーブルに2人座っていても、一人はステーキ、1人は沢庵の一切れといったことを平気でする、考えられない事ができる・・・。なぜかと言えば、父を煽てておけば“お金”が出る・・・。何でも損得勘定で人の心まで計算済みの行為。

こうした事を見たり、聞いたりとしていたら“怒り”が込み上げてくるというものです。神仏に手を掌せるという事もなく、別世界の存在・・・。

 >悲しみを自分自身で十分に味わう事です。

全くその通りですね。涙の枯れるまで泣くつもりです。母の死によって少しは強くなれるかも知れませんね。不愉快な思いをされたとおもいますが、実際のことでよく母はそうした行為に耐えてきた、と思うとどんなに辛かったか、悔しい思いをしてきたかと・・・可哀想で悔し涙が溢れてしまうのです。

愚痴になりましたが、どうか勘弁してください。
アドバイスして頂き有難うございました。感謝いたします。

お礼日時:2010/01/18 14:09

>現在、何時逝ってしまうか分からない“母”のことで皆さんにご相談したい事があります。

先日、主治医に最近呼吸が止まってしまうことが何度か続いている。
 肺疾患で入退院を来る返す母親を10年看ました、膠原病から来る間質性肺炎の繰り返しです。
 この段階で行けるなら幸せでは無いですか?慢性期で病状安泰なら退院ですよ、その退院後が又介護で大変です。これを10年関わる事は並半端な気苦労ではないですよ。
 本人も気弱で常に電話してくるなど、気が無い分喪失感を持つと言うメンタル面での支えはしんどかった。

>医師は家族の方としては悲しいことだとはわかりますが、呼吸が停止してしまうのは、今日かも知れないし、明日かも知れないし、こればかりは『神様』しか判らない・・・。と言われ毎日が気が気では有りません。
 死の予告など何時か分かりませんし、常にピンと張り詰める気丈な分、覚悟出来たと言う段階に来ます、人間生まれた段階も裸、死ぬ時も裸です。
 同じ様に後追いしますか?
 その方が全うした人生ならそれで良いでは無いですか?

>『生老病死』それが自然で有ることは判ってはいても、嫁に“いびられ続けられたこと”が頭の中に蘇り、よく我慢をしてきたね。頑張ったね・・・と思うともうやり切れずで、悔しいやら、可哀想やらで耐えられないでいます。
 嫁にいびられてと言うのは質問者さんの主観です、本人はそんな気では無いかも知れないです、魂は各人違うから価値感に変わるですよ。
 思い込みが激しいと言うか、それが人生と言う客観視をした方がベストでは無いですか?

>こうした親の死を目前とされた『体験』をされた方どうかアドバイスをお願い致します。
 身内を送りましたけど、長期闘病ケース、急死のケース色々あるから、おくりびとにもなるでは無いですか?
 おくられびとから看て、泣かれる姿が良いかと言えば気持ち良く送り出す、ご苦労さんと言う思いで送りましたけど・・・
 一度「おくりびと」の映画を見てみると死に対する考えも変わると思います、死は門と言う名言を言う火葬場のおじさんです。
 次のステージに変わると言う意味で捉えましたけど・・・
 
 
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この回答へのお礼

こんにちわ。貴重なご体験のアドバイス有難うございます。

働き者でお人好しで“縁の下の力持ち”といった母。そんな善人を長男夫婦は毛嫌いし、手こそ挙げないものの、言葉の暴力に耐えてきた母。長男は50代半ばで他界いたしました。これは“罰”が当たったものだと想います。
その後も嫁のイジメは続きました。

>嫁にいびられてと言うのは質問者さんの主観です、本人はそんな気では無いかも知れないです、魂は各人違うから価値感に変わるですよ。

これに関しては相談内容には書きませんでしたが、“回答番号2”様にもお話ししたように、とにかく母をまるで仇の様な状態でした。

ただ、自分が食べたいから買ってきただけのものを、“親切ごかし”に年寄りには到底食べられないような物をわざと出し、父が『・・・こういう堅いものは食べられない。』という。それを承知でそうした行為をするその“腹黒さ”には鬼としか言いようが無い・・・。相手の身になってやるといった親切心などもちあ合わせていない。

>その方が全うした人生ならそれで良いでは無いですか?

確かに仰るとおりです。最後のさいごまで面倒を看てくれた人が居たというだけでも幸せ者だと思います。そして頂いた人生を、時を、生き抜こうとする様はとても立派に感じます。

あなた様も相当ご苦労(されてこられたんですね。私も両親を在宅介護から始まり、11年になります。父は施設で現在の所これと言った病気もせず安定しています。もし、母が亡くなっても今度は父の番です。また振り出しに戻るといったものです。また、先の見えない“トンネル”状態の始まりです。

人の面倒を看るという事は自分を犠牲にして成り立っているようなものだと・・・。
この先の自分の人生を“犠牲”とした二文字で終わってしまうのかと思うと何とも言葉になりません。決して長くは無い自分の時間をこんなかたちで過ごさなければならないのかと思うと本当に“辛い”の一言です。お世話をすることが嫌と言うことではなく、若くも無い自分、限られた時間であるにも拘らずまた縛られるであろうこれからの後半の時間が勿体無いやら、情けないやら、悔しいやらで、気持ちばかりが焦ります。

また違った角度でのアドバイス有難うございました。とても参考になりました。

お礼日時:2010/01/20 17:30

25歳の時に父を癌で亡くしました


ずっと父の入院に付き添っていました(仕事帰りや休日に)

死を目前にした人の前で嘆いたり悲しんだりしないことが
一番だと感じています
一緒に(無いかもしれないけど)近い将来のことを話したり
自分にあった面白い出来事や、考えてることなんかを話したり
ごく普通の家族を病院でやっていました
それが一番ではないかと思います

死を目前にした人が、今を楽しく幸せに過ごせることが一番大事だと
思います

死は突然やってきます
最後まで笑顔を絶やさずに普通に接することが本人にとっても
安心できるのではないでしょうか
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この回答へのお礼

アドバイスをして頂き有難うございます。

あなた様の場合はお父様はお若くして亡くなられたようですね。
私の場合は11年の介護暦があり、ここまでくるまでに、“今度こそダメか”といったことが何度かありました。
しかし、今回は本物の様です。医師からも何時呼吸が止まるかは『神様』しか判らない。とはっきり言われています。もうかなりの高齢なので亡くなったとしても『大往生』としたものです。

お見舞いに行っても、耳元で『お早う。』とか、『誰だか分かる。』と言っても朦朧とした状態です。寝たきりが続きもう言葉を発すことも出来ず、意思表示は出来ません。でも、自分の娘だという事は“魂レペル”で感じているはずだと思っています。逝くときは眠るように昇ってほしいと願っています。

若くしての死、大往生の死、逝ってしまうことには何ら変わりはないですが、いずれにしろ残された者は辛いですね。

25歳という若い時に親の死を体験するなんてとてもお辛かった事と思います。

私は今までの時よりこれからの時間がもう限られている年齢に達していますが、やはりまだ受け入れがたい心境です。

ご意見有難うございました。感謝致します。

お礼日時:2010/01/20 17:58

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