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日本人は 人間にはならないのでしょうか


 《コミュニケーションする意図を持たない人は 人間以前である》と岩井克人が述べています。この見解をめぐってその主題の具体的な把握をおこないたい。これが 問いの内容であり ねらいです。
 
 柄谷行人との討論で 岩井克人が 次のように発言しているところです。
 ◆ (岩井) ~~~~~~~~~~
 日本人が《偽善》を嫌うという話ですが それは日本人の世界宗教性のなさということの裏返しなわけですが 同時に 日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否していることの裏返しでもあるわけですね。

 いま柄谷さんが 人間は偽善者であるほかはないと言われたんですが その場合の人間とは 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ人間という意味なんですね。そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在なわけですね。もちろん 日本人であったり イラク人であったり アメリカ人であったりはするんだけれど 人間ではない。
 (柄谷行人・岩井克人:『終りなき世界―90年代の論理』1990 p.131 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ わたしとしては この――もしそうだとすれば――コミュニケーションが成立し得ないような人間関係においては とうぜんのごとく広く漠然とした意味での社会的な身分の上下関係(これをわたしは アマテラス‐スサノヲ連関関係と言っていますが)から来るのではないかと思っていました。思っていましたが どうもその分析手法からもこぼれ落ちる事例があるのではないかと思うようになりました。
 どうやら別の問題点があるのではないか。要するに 広い意味の上司に対してアース役となってのように下の者がこうむるストレス これが 問題でありいわば病原だとも考えていたのですが どうもこの篩も目が粗いと思い始めています。
 
 《大衆の原像》ということを思っているのですが それ自体は大した内容でもないとやはり思います。
 問題は――ただの推測ですが―― 顔のない存在のごとくして自分の意志を決められず表示し得ずしたがって当然のごとく相手と意思の疎通が出来ないということ この《のっぺらぼう》と名づける事態(症候群)にあるのではないか。
 ただしそうだとしても こののっぺらぼうは 果たしてどこから来るのか。何でそうなるのか。さっぱり見当がつきません。冗談を交えてよければ 《大衆》ゆえにという答えが出されるかも分かりません。

 柄谷が《偽善》と言っていることについては 軽く漠然と《顔をつくる》――自分の貌をつくる――ことと採れば きわめてふつうのコミュニケーションすなわち社会的交通になるのだと考えます。

 取り敢えず思ったことをそのまましるしました。
 この問題に関心のある方は どこからでも自由に取り組んでみてください。わたしも考えるところがあれば 応答してまいります。どうでしょう。

A 回答 (60件中1~10件)

7か月ぶりのOK Waveです。



日本人は人間にはなりません。

人間になる大前提がないか
個々には前提があったとしてもその前提を日本人同士で共有できないからです。

人間になる大前提とは
自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があることです。
多くの日本人には「自分よりも大切な何か」と言った方が分かりやすいかも知れません。

「自分よりも大切な何か」がなければ即ち自己完結していますので
世界を相手に言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ必要がありません。

人間にはなりません、といういうよりも
人間になる絶対的な必要性がありません。
必要なときだけなればイイというぐらいの態度です。

他の回答や過去のQ&Aは読んでいません。

この回答への補足

 お礼欄につづいてあらためて 読み取ってまいります。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 人間になる大前提とは
 自分の中に「自分に先行する絶対的な何か」があることです。
 多くの日本人には「自分よりも大切な何か」と言った方が分かりやすいかも知れません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういう切り口は 気づきそうなもののこれまでまだそういう議論に会ったことがありません。あるいは この切り口で《コミュニケーションの成否》を論じるところへつなぐ議論には会っていません。

 まぁ簡単に言ってしまえば 《絶対》の問題 ないし《神》という主題なんでしょうが すべてが相対世界の中だけで動いているという世界にあるということなんでしょうね。つまり 相対世界であること自体の認識もないまま なのだと思います。しかもややもすると――つまり時には 外の世界との接触や交流でいざこざが起きたりすると―― この内向きのおらが世界が 絶対的な宇宙だということになる。こういうことなのでしょう。
 ★ 「自分よりも大切な何か」
 ☆ これは 親子の絆 あるいは 愛し合う二人というのが 昔からの相場なのですが 何とも この側面ではいやに 《合理的》になってしまったのでしょうか? だれもがそうでしょうが 自分がかわいいということであり それに終わってしまう場合が多いのかも知れません。

 ★ 「自分よりも大切な何か」がなければ即ち自己完結していますので / 世界を相手に言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ必要がありません。
 ☆ まことにそのとおりだと思います。ですからたとえば あの拉致被害者の身内の方々は この《内向き世界の自己完結》が解けて世界が開けたわけなのだと思います。決して個人の気持ちのみで発言をしているわけではないと考えられます。国家といった立ち場についても受けとめその国際関係という場を踏まえて発言するようになっていると思います。
 そうたやすくいい手立ては見つかりませんが 見つからないのですが それでもこれらの人びとは 何とかして何らかのかたちで《言葉をとおして 異なる考えを持つ人びとと話し合いを持とうと 文字どおりコミュニケ―ションを図ろう》と努めています。そういうことではないかと考えます。

 つまり決して鎖国は絶対的なものではなく 容易に解けることもあり得る。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 人間にはなりません、といういうよりも
 人間になる絶対的な必要性がありません。
 必要なときだけなればイイというぐらいの態度です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というかたちでさえも光が見えていると言っていいのではないでしょうか。
 そりゃあそうでしょう。人間に 亜種があるわけではなく 出来そこないの存在があるとは言えないでしょう。世界において 必要なかぎりで意思疎通がおこなわれているのであれば 日本人もこれに参加するのは ふつうのことであるでしょう。オリンピックみたいなものかも知れません。

 ふむふむ。この回答内容がきっかけになって 幅広い情報交換――哲学としての議論のことですが――がここですすめられるとよいと思います。ぜひとも世界を相手にして行って欲しいという願いでいっぱいです。

補足日時:2010/08/08 17:29
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この回答へのお礼

 ひゃあああああっ。われよりラディカルが現われたあああああ。

 キューさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 変な言い方をすれば キューさんは もっと穏健で中庸に満ちた内容を述べるのをつねとしていたのではなかったか。
 まいりました。また 独創的ですね。かんたんに分かるようにしかも鋭く説明した文章だと思いました。

 そうかも知れないが そのままではまづい。ひらかなきゃと思っている人間です。

 きょうは朝から数本の応答を書いてきました。ひとつ前のジネンさんにはまだ返答していません。
 ので 腹も空きましたし おゆるしを得て休憩です。

 くわしくはまた書きます。
 そう言えば 顔を見なかったなぁ。

お礼日時:2010/08/08 12:34

>日本人どうしでうまくやっているだけでは やはりまだ狭いということではないでしょうか。



こういう感覚の必要性は感じているところです。
つまりなぜアンチテーゼに視点がいくかといえば、日本の伝統をすばらしいものだとして
賞賛だけしているだけでは、なんかなんか、それは、自分をすごいすごいっていってるみ
たいで、気持ち悪いんです。内輪受けしてるだけみたいな感じがして。

いいところも、もっとさがしたいけど、わるいところももっとさがしたい。
ほめられたいけど、けなされたい。

それって、きっとみんなありますよね。

私は、今回は少し逸れたところに興味がいってしまいましたので、これで失礼しますが、
また面白そうなものがあったら参加させてもらいたいと思います。
まだまだ暑い日が続きそうですが、お体に気を付けてください。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 いま創世記の主題をめぐってやり取りがあって こんどは おかげさんで うまく行きつつあります。と思います。
 あぁ でも一喜一憂しているようぢゃわたしも思ったような器ではなかった――われながら――わいとなりました。

 そうですね。いちど閉めましょうか。
 これからもまた よろしくどうぞ。

お礼日時:2010/09/02 13:52

>《コミュニケーションが成り立つ》ためには そういう基礎固めをわたしとしては模索しています



すみません。もしかしたら知らず知らずのうちに脱線したんでしょうか。
ただ、文化論から入ると、西洋のものづくりの伝統と自国のそれはずいぶん違いがあり、
興味のあることだったということと、経済低迷のヒントになりそうな気がしたものですから。

経済というのは人間の活動が根本にありますから、コミュニケーションが関係しますね。

私は土着民族ですから、本音を言うと、どうでもいい的な部分があるんです。
生きるも死ぬも同じじゃないかと突き詰めるとそうなるのです。
それじゃあ、経済的にはマイナスです。ですから、無理にでも、アンチテーゼがでてく
るのを承知で核を作らないとってことじゃないかと、
アンチテーゼがでてきたらそれはそれで、生産につながって、してやったりぐらいだと
思ってたんじゃないかと。

皆が坊主じゃ困るよねってことじゃないかと、情念みたいなものが少しは欲しいねって
いうのが、たぶん始まりだと思うんですね。

とりあえずじゃあコミュニケーション論としては、もういいってことですか。
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この回答へのお礼

 まぁ ひとつには 現実の現場の動きについて行けていないのではないかという焦りとそれの照れ隠しのようなものでしょうか。むろん はじめの質問趣旨に戻って互いのかみ合わせを強めるという意味もあります。
 ご回答をありがとうございます。

 主題はその範囲としてどれほど広げてもよいのですが たしかに《コミュニケーションの実現》という中核を持ってすすめるなら 噛みあわせによる引き締まりが得られるかも知れません。
 あとは たぶんわたしが いつも――あなたも主張しておられたように――全体観に立とうとしているので あれかこれかという選択になると あれもこれもという反応を持ち出して来がちだということだと思います。

 今回の話題としてなら 次のような主題に目が行きます。
 ★ 文化論から入ると、西洋のものづくりの伝統と自国のそれはずいぶん違いがあり、 / 興味のあることだったということ
 ☆ のように日本と外国あるいは欧米の考え方の互いのぶつかり合いです。次も同じですね。
 ★ ですから、無理にでも、アンチテーゼがでてくるのを承知で核を作らないとってことじゃないかと
 ☆ あるいは 
 ★ (要約) 論理と情念
 ☆ とのぶつかり合いです。

 ★ 私は土着民族ですから、本音を言うと、どうでもいい的な部分があるんです。
 ☆ のように 同じ民族として認め合う間柄では 《コミュニケーション》はそれほど問題にならないかと思います。いままでそうでした。いまでは たとえば帰国子女の人たちの思惟や交通の形式が どれだけ日本人の昔からの思潮を――アンティテーゼとしても――活性化しうるかにも関心があります。
 あるいは単純に KY であることが むしろより民主的な話し合いを実現させる方向に持っていくかも知れません。

 ひとことで
 ○ 異者の受容
 ☆ をつうじてのコミュニケーションの実現を見通しています。民族内部での《異者》は 村八分かそれとも精神疾患扱いされるのが 落ちです。そうではなくすること およびほんとうに外部(ほかの民族)からも異者を受け容れるということ。一般の人びとを短い時間に多数受け容れると 摩擦を起こすおそれがあるとすれば まづさらに多くの留学生や研究者だけでもよいと考えます。
 そりゃあ 意思疎通にかんしてそれほど日本人が劣っているというものでもないでしょう。ただ 日本人どうしでうまくやっているだけでは やはりまだ狭いということではないでしょうか。大学関係に多くの外国人を受け容れるという度量を持ちたいものだと考えます。どうでしょう?
 つまり 突破口のひとつではないでしょうか?

 * この質問も長くなっていますので 同じような系統のあたらしい質問をあげるのもよいと考えているのですが いかんせん まだととのいません。

お礼日時:2010/09/02 13:12

おはようございます。



>直感重要視思想が陥りやすい罠を考えてみた場合、現代は多くの直感を直接的に形にする
>ツールにあふれていると思いませんか。


どうもこの辺がピンときていないのかもしれません。
それでは、もっと猿ぐらいに根源的な視点で。

例えば、幼児が文字を覚える時、「あ」という文字は「あ」と発音して「あ」という
絵的イメージを理屈抜きに(どうして「あ」は「あ」なのかはさておいて)、とにかく
体得すること(つまり丸のみすること)が、とっても重要ですよね。

「あ」と一、二、三角で書きます。空間にイメージをもって書くわけです。
「あ」と直感して「あ」と出力するのです。

では、今のこのツールではどうでしょう。左手の小指をたてに動かしてキーボードを
たたくと「あ」と出力できます。

もっと更に、考える間もなく直感がダイレクトに出力できます。
空間構成イメージや書き順を考える間もなくです。
しかも、このテクノロジーは、つい最近のことなのです。

今回のアンチテーゼにはここに焦点をあててみてください。

現代も昔も、天下泰平の世の中には、実行力が鈍くなるのでピリッとしたスパイスは必要
ですが、どこにきかせるのが今風なのでしょうか。

現代は逆に、「噛み砕き作業の軽視」に焦点をあててみることが必要じゃないでしょうか。

これを軽視することは、ただのカンニングになる可能性があります。
では、これをふまえて前回の海外向けプレゼンのAさんとBさんについて考えてみた時、
どちらがよく練られたプランでしょうか、どちらが下から積み上げたものか、
実績とはだれのじっせきなのか。
データーはどこから取得し分析したのか、あるいはただのコピペなのか、
過去の栄光や、規制の技術のみにたよろうとしているのはどちらか、
他人のふんどしで相撲をとろうとしているのはどちらか。

と、いじわる言えばきりがないのですが。

「カイゼン」なんて、ずるいじゃないですか、今までの実績があるんだから、
それを尊重して、その通り素直にやればいいのに、工夫して工数を減らそうと
ずるして現実逃避している。命令どうりに従えと、誰が今どき言うでしょうか。

根源的にはそういう話になります。
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この回答へのお礼

 ★ 現代は逆に、「噛み砕き作業の軽視」に焦点をあててみることが必要じゃないでしょうか。
 ☆ この命題にかんしてなら 昔もおんなじです。小学校からおそらく大学まで或る種の主流は 丸暗記でした。わたしの世代が大学入試を終えたころから 小論文というのが始まりました。わが世代は これを経験していません。
 とにかくおぼえる そのあと考える〔人は考える〕でした。そう思うと その新しさという点がまだ納得行かないですねぇ。

 ハートマインドさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 世代のズレのほかにたぶん 焦点の当て方がちがっているのかも知れません。たぶんわたしは 日本人論の基礎といった分野でまさに基礎固めをしておきたいと思っております。そういう焦点の当て方です。ハートマインドさんは それもそうだし 他面では一足飛びに現実の現場の問題を扱っておられる。これにわたしは対処しきれていない。

 あるいはさらに考え方の違いもあるのでしょうか。
 ★ これをふまえて前回の海外向けプレゼンのAさんとBさんについて考えてみた時、 / どちらがよく練られたプランでしょうか
 ☆ という問題にはまづわたしは つねにと言っていいほど 全体的な方針として考えます。すなわち 地道に課題に取り組みそこで挙げた実績にさらにもとづきしっかりと課題を追求していく。と同時に つねに――やはりつねに―― 独創的な考えをも大いに持ち寄り大風呂敷をも広げている。こういう方針です。
 そしてそれなら ひとつの段階として最終的に方針がまとまらないのではないかという問いに対しては こう答えます。それは そのときの現場責任者および総括的な責任者に――むろん参加者全員の意見を汲み取った上でですが―― 一任するということ。指導者がしかるべき方針は決めるということです。
 AさんBさんのどちらに決めるかという二者択一は 考えていないのです。そういう見方をわたしは しています。指導者本人は 二者択一のかたちで決める場合もあると考えます。

 ★(要約) 文字を筆を使って手で書くのと キーボードで入力するのとでは 直感のあり方が違って来ている。
 ☆ だとすれば 木簡から紙に移った場合もあれば 手で書く文字のほかに印刷によって表わすようになった変革の時期もありました。たぶんこういう変化は それとして必然的なものなら そのように変わって行くでしょう。そうして新しくなった条件のもとであらたに直感の有り方も いづれ考え出されていくとは思うのですが そういう見方よりもさらにいま現在の実際の情況を憂えているということでしょうか?

 ★ 噛み砕き作業
 ☆ の重要性についてはいやというほど味わっていますので たとえばちらっとですが 《断片的な知識の有無を問うクイズ番組が多くなって来ていますね》というふうに触れました。ですから そうではなく 一つか二つの主題を決めて その問題を歴史的にも深く掘り下げて 番組つくりをすればよいと思います。
 テレビ番組のことを言っているのですが 学科としての歴史を扱う場合には 案外そういう細かい分析をしていると思いました。ただそれも 社会や人間についての理論が いま少し 通念を頼りにしている嫌いがあるように思いました。たとえば《大奥》 これなどは 大前提として《人間にとって要らぬ》という考え方を持ったほうがよい。その上で過去の経験にまなぶというようなことです。(むろんそこに到るまでには 自由に批判しあう議論が必要だとも言わねばならないでしょう)。

 《コミュニケーションが成り立つ》ためには そういう基礎固めをわたしとしては模索しています。
 

お礼日時:2010/09/01 10:00

もう一つは、グローバルということに視点をおいてかんがえてみます。



日本の技術は今後も世界に誇れる技術をもっていることには変わりありませんが、

例えば、

A「私たちの実績は、たくさんあります。どんなことにも対応してきました。
  これこれこういう実証データを提出することができます。そうして発展してきた
  のです。質実剛健、実証主義、さあ追随してください」

B「私たちは貴方の国は、これまでにない全く新しいビジョンをもって発展していく
  ことが必要だと思います。独創的なアイデア、理想、未来、夢、大風呂敷バンザーイ」


好き嫌いの問題でしょうが、さあこれから発展していくぞという時に、
どうでしょう。


話は変わりますが、地動説って、相当アナーキーな発想だったでしょうね。
今までの実績のある学者を何だと思っているんでしょうか、
歴史の重みをどう思っているんでしょうか。

まずは、何だかおもしろそうだな、そうなれば、きっと未来がひらけるだろうな。
じゃあ、実証してみようとて、こつこつやったら予想があたって実証できた。

大風呂敷が始まり、これは案外重要なことかもしれません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 えぇ この主題でしたら けっきょくあらゆる角度から いろんな人びとが参加して ブレインストーミングとか昔言っていましたが何でも発言し提案するようにすればよいと考えます。
 
 それと 新しい知見や発見発明は それとして追い求めている主題の答えがそのまま得られるという場合は 少ないと思います。脇道での問い求めから 思わぬよい成果が見つかるというように思います。とすれば これも いろんな道筋を用意してさまざまにこころみることがよいのではないでしょうか。

 あるいはまた 或る種の仕方で鬼のようになって探究する人間も 主題ごとにひとりふたりいるといいのでしょうね。

 というふうに抽象的にまとめるくせが どうやらわたしにはあるようです。具体的な事例を探し出してみるよりは です。

 ★ アナ―キ― =ここでは エポケー

お礼日時:2010/08/31 17:26

熱中症に気を付けてください。



直感的ツールテクノロジーの独り歩きによる、かえってイマジネーションの貧困化の、
危険性はずいぶん長い間軽視されてきているような気がします。

それはやはり日本人が直感重要視文化だからなのかもしれません。
いろんなものが器用につかえるのだけど、それで何を作り出すのかが思い当たらない。
これほどまでに通信インフラ(無線、優先)が整っているのに、サービスが追い付い
ていない、高性能技術とそれに乗っかっているソフトのちぐはぐさ。

スピードが重視されてくるとさらにこの現象は加速するかもしれん。
そうすると何もかもがかえって後手後手になってしまう。
世界競争が加速するならば、悠々とずるして先手を取る手も残しておいても
損はないんじゃないかとおもうんですね。

環境エネルギー開発が進めば、全ての生産は人間よりも機械の方がランニングコスト
がかからないならば、ロボット産業、工場の建設が加速するなら、その設備生産と
いうように先にシフトしておくとか、サービス需要のイメージからの創造は先進国の
得意とするところだと思うんですけどね。
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この回答へのお礼

 ★ 熱中症に気を付けてください。
 ☆ ありがとうございます。書くのを忘れましたが わたしは眠るときにはクーラーを切るというのと そして昨夜は そろそろ朝にヒヤッとするのではないかと思って初めて窓を閉めたのとで 暑かったのだと思います。気を付けます。

 ご回答をありがとうございます。ハートマインドさん。

 そうですね。必ずしもわたしはよくは分かっていない分野を出してこられたかと思います。
 ★ サービス需要
 ☆ これについては 日本人のきめ細かなサービスの仕組みや実際の応対ぶりは 輸出できるかも知れないと思います。
 ★ ロボット産業
 ☆ の将来についてさらにさらに需要を先取りするということですね。

 ただし
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 いろんなものが器用につかえるのだけど、それで何を作り出すのかが思い当たらない。
 これほどまでに通信インフラ(無線、有線)が整っているのに、サービスが追い付い
 ていない、高性能技術とそれに乗っかっているソフトのちぐはぐさ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なんですか。いまいちどほかの国のものを研究したり あるいはほかの国の人びとを受け容れて一緒に研究開発をしたりと 閉じこもらずに気長にすすめていくことを考えます。

 ★ それはやはり日本人が直感重要視文化だからなのかもしれません。
 ☆ わたしは 感覚人間と理知的な人間とに分かれて分業=協業してもいいと思うのですけれど。
 共同自治も――ひとつの世界としてまとまることは上手なんですが―― 必ずしもうまく行かない。批判の自由が まだ実現していないきらいがある。批判をしっかりと採り入れて行けば 特に何か問題もないとさえ思うのですが。
 つまり いろんな立ち場のいろんな人から意見が出てくれば 或る程度その議論というものはほとんどすべての視点から出尽くすと思うのです。だからより良い施策を活用できると思うのですが 必ずしもそうはならない。

 ほかにも質問を出していて 途中までかなりいい線を行っていたのですが またまた暗礁に乗り上げてしまいました。

お礼日時:2010/08/30 21:55

>説得力のもんだいでもあるようです。



説得力。

ええと、それじゃあまたラジカルな視点から。

例えば、無い袖はふれないのはあたりまえなんで、なんらかの規制が必要もしくは
逆に規制緩和が必要になってきたとしますね。

A「国民に対して断固として規制を課す決断をします。違反者は罪を問われます。
  実質上の恐怖政治の始まりです。覚悟しとけ」

B「みんながもっとくらしやすくなるように、きまりをつくりたいと思います。
  みんなのためだからがんばってまもってね。」

全くやることは一緒だとした場合、どっちを選択すべきでしょうか。

ファシズムはBは眠くなるわ、あまやかすな断固としてAだというかもしれません。
人権擁護派はAはあまりにも人権をむししたいいかたじゃないかBにきまっている
というかもしれませn。


しかしどちらが、株価が上がって、どちらがものがよりよくうれるのでしょうか。
こんなの自弁爆弾の同線みたいなものでふたを開けてみなければわからないんです。
ただ、どっちかを選択しなければならないということと、
どんなにファシズムでもどんなに人権擁護派でも結果的に、ものが良く売れる方を
選びたいなあ。ということでは意見が一致しているのです。

やることはおなじなのに表現方法が違う為に利益に差が出る。

目的は一つなのに、青写真の技術いかんによってまたは、設計技術によって差が出る
ということです。

嘘つき技術の重要性です。

「フリークス」の監督は、それほどのリアリズムを重要視したいなら、どうして、
フィルムなんて嘘っこのものに焼き付けたんでしょうね。
じゃあ言葉も嘘だからつかっちゃあだめー。はなしちゃあだめー。

すいません。こういう幼稚なことがいいたいわけじゃないんですが。

直感重要視思想が陥りやすい罠を考えてみた場合、現代は多くの直感を直接的に形にする
ツールにあふれていると思いませんか。


その結果、肝心のロジカルなソフト部分が貧困化してきているのではないでしょうか。
言語もツールですが、ソフトは想像力(絵空事)といいすぎると、ツール技術が目的
なのか、ロジカルは絵空事だから目的ではないというこういう今までのあたりまえの
論理が逆転していることにきづくことが重要ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 こんにちは ハートマインドさん。暑い日がつづきます。昨夜はとうとう 三時半ごろ起きてしまいました。そして目が覚め水分を補給しようと思ってお茶を飲んだら ほんとうに目が覚めてしまいました。そのあと五時ごろまた眠りに就きました。
 ご回答をありがとうございます。

 ★ 直感重要視思想が陥りやすい罠を考えてみた場合、現代は多くの直感を直接的に形にする / ツールにあふれていると思いませんか。
 ☆ わたしは携帯電話を 一時期持ってましたが 持っていません。あるいはゲームだとか いろんなかたちで《ツール》があるんだと思います。そのように事情にうといので たぶんそうだろうなと思うのみです。
 ただほかに思ったことは 《直感重要視思想》と言えば 別にツール化するまでに到らなくても ありうるとは思ったことです。
 そしてまた
 ★ 肝心のロジカルなソフト部分が貧困化してきているのではないでしょうか。
 ☆ この《ロジカルなソフト部分》にさえ 《直感あるいは直観(見通しをそなえたようなかたちとして)》はかかわることが出来るとも ふと思いました。そのきっかけだとか 発想の問題ではあります。技術は技術で別に備えなくてはならないでしょう。

 そこでまたまた飛躍ですが いわゆる核兵器の時代に入ってけっこうの時間が絶った今としては 日本人の厭戦気分あるいは平和ボケというのは 《直感・直観》なのであり これからの世界の情況をかたちづくるためのソフトヱアの開発にまでさえも つながる要素があるかも知れない。
 もちろん現状は たとえば中国等の軍備増強であるとか世界中を巻き込む資源獲得競争であるとかあるいは各国は保護主義に走っていることなどなど むしろ逆向きの方向が現実ですが これではほとんど昔あゆんだ道にもなりかねません。

 そうしてこの場合は 《説得力》を度外視してでも ひとつの筋として《軍事力によってコミュニケーションを進めるやり方》に対抗するささやかな芽として 戦争音痴が省みられてもよいのではないか。たぶん しばらくは大きな勢力にはならずに ちいさく声を出し続けることがよいように思います。ただ 平和ボケのまんまでは 何にもならないかとも思います。

 おそらくディジタルな世界の中にアナログがちいさく顔を出し細々と生きているという構図ではなく アナログの大きく広い世界の中にディジタルも泳いでいるといった情況がよいのではないでしょうか。

お礼日時:2010/08/30 13:30

本質を知ろうと努めながらのアンチテーゼーもしくは懐疑的立場を捨てない


ことは、一つの方法かもしれません。

「フリークス」という映画がありました。
愛、叡智、希望そういう空々しいものをよりどころにして人間なんていうの
は生きているんだろうなという価値観にバコーンてやるような内容なんです
が、それが本当に本当に本質なんでしょうか、リアリズムだけがリアリズム
なんでしょうか、みじめで哀しいことだけが生きている本質なのでしょうか。
こういう疑問の疑問は、現代では必要なんじゃないかと思っているのです。

現代の社会は、想像で創造する文明です。
ここにも当然リアリズムはあります。ぬるーい現実からにげようとしている
ばかりでは、先に進めない気がするのです。

叡智でおまんまが食べれることから目をそむけ過ぎることから、少しづつ、
シフトしなければならなかったのに、小泉政権は知らず知らずのうちに、
逆のことを植え付けてしまったのではないでしょうか。

厳密に計算されたゆるい曲率が明暗をはっきりさせるのは言うまでもなく、

厳密なものは曖昧なものでもあり、曖昧なものは厳密ですから。
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この回答へのお礼

 ハートマインドさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 「フリークス」という映画がありました。・・・
 
 ▲ (ヰキぺ:フリークス) ~~~~~~~~
  § はじめに
 旅回りの見世物小屋が舞台で、出演者は実際の見世物小屋のスター、デイジー・ヒルトン、ヴァイオレット・ヒルトン姉妹等の本物の奇形者や障害者であった。公開当時は世間に大変なショックを与え・・・

  § ストーリー
 軽業師のクレオパトラは、お金目当てで小人のハンスと結婚する。結婚式の間も見世物小屋のメンバーたちを嘲笑したクレオパトラは、実は怪力男のヘラクレスと通じており、毒を盛ってハンスを殺害しようとする。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 リアリズムだけがリアリズムなんでしょうか、
 みじめで哀しいことだけが生きている本質なのでしょうか。
 こういう疑問の疑問は、現代では必要なんじゃないかと思っているのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしは――あまり詳しく覚えていないのですが―― 小説の映画化として《肉体の悪魔》〔だったと思うのですが〕を思い出しました。
 酸いも甘いも知り尽くした現実派の中の現実派の人間が ついに《愛》というあまっちょろいものに目覚めるというのではなかったですか。

 今となっては あまり惜しい気もしないのですが そのつてで言うならば 鳩山由紀夫の《友愛》には 一筋の現実性があったかも知れません。打ち出し方がうまくなかったのでしょうか。いっそのこと 空想ではありますがとでも事割りながら言うとよかったかも知れません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 叡智でおまんまが食べれることから目をそむけ過ぎることから、少しづつ、
 シフトしなければならなかったのに、小泉政権は知らず知らずのうちに、
 逆のことを植え付けてしまったのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 上の《友愛》の打ち出し方の問題でもあるように この《叡智》にしても どう推し出すかはなかなか簡単ではないかも知れません。
 たとえば 《教育》だと言っても なかなかその手立てや実施のあり方が描きがたいようにも映ります。たぶん いままでの失敗やらが尾を引いているのでしょう。それに こればっかりは 一律に実行するというのも 何だか右向け右!の大合唱を起こすかに思われて 早晩おぢゃんになってしまうでしょう。
 ましてや 予算を多く割けばよいというものでもないでしょう。なかなか 具体的な施策については 思案すしなければならないかも知れません。
 それにしてもテレビで 断片的な知識を問うクイズ番組が増えましたね。

 ★ 本質を知ろうと努めながらのアンチテーゼーもしくは懐疑的立場を捨てないことは、一つの方法かもしれません。
 ☆ これは 説得力のもんだいでもあるようです。

  

お礼日時:2010/08/28 15:37

賭けの様なもの、そうですね。



極右的人生論にダイナミズムを期待した時の、マイナス面について考えてみました。

第一に閉塞感と微妙に裏表の関係にあることだと思います。

例えば、格差社会の場合、富める者は一度の成功体験でだけでずっと富める者で
いる資格をあたえられるとすれば、その人は自分は人とは格段に違う、特別に努力
し才能に恵まれた人間だと錯覚してしまい、それ以上の生産努力を怠ってしまい
かねません。また、富めない者はクズ同然の人間と自分自身でも思いこんでしまい
足るを知るべきだとばかりにただ受け入れることを美徳にしてしまいます。
事実、富める者が努力家だとしても、人間はそれほど強いものではないと知って
おくことは必要だと思います。

東洋人特有の精神文化だからこそ、こういう閉塞スパイラル現象は起こりうると
思います。

そのほか、虐待問題、人権問題、いじめ問題などは、全て閉塞感がキーワードに
なっていると思います。

たまにピリッときかせるスパイスみたいなものだと考えるくらいがちょうどいい
かもしれません。
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この回答へのお礼

 そうですね。――ハートマインドさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。――わたしは 《極右的人生論》について 現場のことと言いますか 実際の体験としては ほとんど何もなく知らないのです。それこそここで脅された体験が現実的であるかも知れません。

 思弁的に想像力や推測をたくましくして考えてまいりましたが 何だか反応がにぶくなって来ました。
 ★ 閉塞感
 ☆ たしかに あれですね。前例がものを言う社会では そのままでも野望に満ちた人間は それを感じるでしょうね。
 ま 新しい人間でも 前例にたずさわっている人びとに取り入って出世をする道はあります。その取り入りが嫌な場合には 閉塞感を持たざるを得ないでしょうね。

 正直なところわたしは ここで この閉塞感を突き破ることを質問をとおして 結果として得られればよいがと思っています。言論をつうじてなら 話はすすむと思っていました。
 ですが この学問なり言論なりの場でも 取るに足りぬ嫌がらせは論外としても 政治的な――たとえば面子をつぶさないためのような――かけ引きが必要であるようです。このコミュニティも 社会の縮図であるのでしょうか。

 ★ 極右的人生論にダイナミズムを期待した時・・・〔マイナスの面は いま措いておきますが〕・・・たまにピリッときかせるスパイスみたいなものだと考えるくらいがちょうどいいかもしれません。
 ☆ つまり 存在を存在だけでとうとぶというのは 大事なことなのでなかなか 理屈抜きの人生肯定論は なくならないと思いますが 問題は 合法的な世界に生きるだけではなく 非合法の手段をも使うことにあります。金融・ノミ屋などを公務員とせよという話に――質疑応答をつうじて――なっています。
 無くせるかどうかは分かりませんが たとえば相撲協会の問題でも 線を引いて表と裏に分けることをやっていては 大した意義はないとも思います。社会に必要な仕事は全部 公務員制とする。(公務員としてそのままその世界の人びとを雇うのです)。あとは世代の交替を俟って ふつうの市民化を課題としてゆく。・・・

お礼日時:2010/08/27 15:33

>何の根拠のないにもかかわらず おれという人間がいるなら だいじょうぶという論理です。



そうですね。これ意外と、求めていることありますね。
例えば、入院した時の話ですが、インフォームドコンセントって、日本でも
進んでて、優秀で親切な若い先生が丁寧に説明してくれればくれるほど、
グレーに見えて出口のないトンネルにいるような気分になってしまうのですが、
まあ、あたりまえですよね、事実をより真摯に説明しようとすれば、そうなり
ますから、

そういう時にベテランの先生が無責任な適当な言葉を責任もって言ってくれると
気持ちもほっとしますから

さざ波も立たない海には耐えられないということなんでしょうか、どんづまりの
時には、恣意的に白か黒を決めるしかないときもあるってことなんでしょうかね。

すいません、とりとめのない答えになってきました。
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この回答へのお礼

 ハートマインドさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 たしかに こちらが素人な場合 専門家の相手に託しますから 根ほり葉ほり聞いたときにも 太鼓判を押してくれれば安心することがあります。

 存在至上主義などとも言いましたが 存在を存在というだけでとうとぶのですから わるくないかも知れません。居心地もいいのでしょう。
 たぶん ですから けっきょく理知的で細かい分析的な知解ということと相いたずさえて行けば やはりいいのでしょうね。

 ですから 小沢一郎の場合には・つまりそのたぐいの場合には 脛に傷を持つということもいっそのこと大きな傷を持っていたほうが 貫禄があるなどという《空気》がありました。

 ま こういう思潮にかんしては 或る意味で成り行きに任せておいても あたらしい人びとが出て来て たぶんよい方向に変わって行くと楽観していいのかも知れません。

 ★ さざ波も立たない海には耐えられないということなんでしょうか、どんづまりの / 時には、恣意的に白か黒を決めるしかないときもあるってことなんでしょうかね。
 ☆ これは 信仰の成り立ちによく似ていますね。賭けのようなものですから。

 今回はこんなふうに思いました。
 (日本人論をあたらしく いい主題で開ければいいとも思っていますが まだ案がまとまりません)。

お礼日時:2010/08/26 22:31
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