幼稚園時代「何組」でしたか?

泉北高速鉄道は南海と相互乗入していますが、地下鉄御堂筋線が泉北高速鉄道開業と同時期に中百舌鳥まで開業していたら地下鉄と相互乗入れになっていたかもしれません。もし、地下鉄と相互乗入していたら泉北ニュータウンから大阪市内へのアクセスは今より便利になっていたでしょうか。

A 回答 (3件)

仮に、御堂筋線と相互乗り入れの形態なら、本町界隈のビジネス街や北、更には新大阪まで乗り換えなしで行けますから、現状より便利になっていたでしょうね。



当時、泉北ニュータウンの開発に併せ、南海電気鉄道が直接建設することも検討されていましたが、折りしも、南海電鉄では、設備の近代化の遅れから重大事故が頻発。重い負債が負担となり、新線建設を断念。替わって大阪府企業局が主体となり、建設せざるを得なかった経緯があります。

泉北高速鉄道の開業が1971年4月。地下鉄御堂筋線の中百舌鳥延伸開業が1987年4月。
中百舌鳥延伸に際し、相互乗り入れも検討されたようですが、軌間・電圧・集電方式の違いから断念した経緯があります。
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関東在住者の私が答えるのもなんですが・・・。



確かに便利になっていたでしょう。地下鉄御堂筋線は大阪を南北に貫いて路線が敷かれているので
大阪南部から梅田経て大阪北部千里ニュータウンまで繋がる事になります。
梅田(=大阪)へは今の南海線 大阪環状経由他よりも所用時間が短縮されていたかもしれません。
但し、当時の大阪市は”モンロー主義”みたいのがあって、市内の交通は大阪市が独占し、民間業者排除
みたいな風潮がありました。その名残が大阪市の地下鉄が民鉄と相互乗り入れしている路線数が関東に比べ圧倒的に少ない所に表れています。

ただし、路線の規格(線路幅等)や御堂筋線や泉北高速線の建設当時の背景から考えると、
例え御堂筋線が当時中百舌鳥まで開業していても実現は困難だったと思います。

上記の大阪市のモンロー主義の他、泉北高速鉄道は南海の関連会社で今ではプロパー社員で(泉北高速鉄道の社員)運行していますが、当時は鉄道の運行は南海電鉄の社員で運行していました。(開業時の100形電車も南海の6000形に準じた設計になっていた)また、線路幅も南海=泉北線は1067mm 電車の1輌の長さも21mです。

また、御堂筋線も阪急電鉄の子会社北大阪急行電鉄と相互乗り入れをしており、線路幅1435mm 電車1輌の長さも19mmです。

上記の様に、御堂筋線と泉北線では規格があまりに違い過ぎる(線路幅 車輌長さetc)ので
仮に乗り入れるとしたら、3線軌道(1435mmのレールの間に1067mm幅になる様にレールを一本敷設=箱根登山鉄道や山形秋田新幹線の様な)にする必要があり、大規模な設備改修を御堂筋線に施す必要があります。

故に御堂筋線が当時中百舌鳥まで開業していても相互乗り入れの実現は困難だったでしょう。
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>今より便利になっていたでしょうか。



もちろん便利になっていたでしょう。
というか、同時期でなくとも、将来的に繋げるという
選択肢を残しておくだけでよかったのです。

先見の名のなさといってもいいでしょう。

光明池あたりから梅田あたりまで乗り換えなしでいける。
というインパクトは大きいと思います。
(難波での乗り継ぎの不便さという南海のデメリットが消えますし)
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