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悪気がないのが一番悪い、と人が言うのを聞いた事があります。
自分でも考えてみましたが、真意を分かったように、自分で思いません。

私が今考えているのは、

最初から自分に対して性善説しか受け入れられなくて、自分に悪気があったとしても、自分を正当化するためにそんな気持ちは自分にはないはず・・・・と、人を踏みつけても気付こうとしない人の事かなあ・・・と思いました。

そういう人は自分の全てに自信を持っている気がするので、誰かが気付いて正しても、耳に入れないので、同じ事で人を傷つけてもずっと気付かないような・・・・

では、悪気があるのを自覚していて、やった行為は許されるか?というと、
これも許されない気がします。そういう心根を直さない限り。

ただ、本人に自覚がある分、人を傷つけた時は反省も学習もできるので、その方がましだという事だろうか?とも考えましたが、それも何だか違うような気もして、わけがわからなくなりました。

どなたか、分かりやすくご指導いただけませんでしょうか。

A 回答 (8件)

 ANo.6においては、自然、そして人という二項目に対置してお答え申し上げようとしました。

そしてお礼欄でコメントを戴きました。充分、要求にお応えできていないかもしれませんが、以下の通り投稿申し上げます。
1. 【例えば様々な民事事件、本人の状況を思えば責めるのがためらわれる事もあります。】
ということは私の《しかし、人とは為した行為を意識しなければならないものだ、という原理からは、責められるべき場合もある。》と申し上げたことに関連しているかと存じます。
 このことで、法律も“故意” “過失” “善意(知らない、意識しないという事情に合理性と当然性がある)”という観念を持っています。
しかし反面、(知らない、意識しなかったことに合理性と当然性がある)と認められない場合もあります。そういう場合は責任性が問われます。一個の独立した主体としての人は、やむをえない場合を除き、《人とは為した行為を意識しなければならないものだ、という原理》とは、そういう場合のことです。

2. 【人が悪気なく他人や社会に影響を与えるというのは、ないと感じます。私はその時のその人の思慮が足りなかったためだと少なくとも今は思っています。~~~ つまり、悪気がなくやってしまった=そこまで考えていなかった認識不足であり、その意味において、人が悪気なく何かをしてしまうという事はあり得ない気がします。】と仰せになっているのは認識不足と悪気なくやってしまうということは区別されるべきだという意味ですね。だから認識不足以外に悪気なくやってしまうということはない、ということですね。その通りと申し上げていいかと存じます。つまり認識不足という事情はさまざまだということになりましょうね。そしてなお、私自身は、認識不足に入らない悪気なさもありうるとは存じますが。そういうのも行為者が知らざるが故だと、いうことですよね。そういうことでしょうね。

付言:無知は同情しても是認にはならないんですよね。
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございます。
はい、そうです。そのように考えています。

最後の下り、

>そしてなお、私自身は、認識不足に入らない悪気なさもありうるとは存じますが。そういうのも行為者が知らざるが故だと、いうことですよね。~~無知は同情しても是認にはならないんですよね。

知らない事は仕方のない事、けれどもそれをよしと認める事はできない。おっしゃる通り、認識していなかった理由は本人のみぞ知る事であり、そうなれば、人のなす行為で悪気のない事というのはあり得ない、そう考えます。

けれど、その中においてもあなた様は認識不足以外の悪気のなさもありうるとおっしゃる。
それは、後は人間愛という事でしょうか。再びつたない文章ですみません。

お礼日時:2011/06/03 04:26

> この例の二つのパターンですが、ここの所が自分の中でしっくりきま


> せん。
> 後者の人で、悪気がないのを理由にして責任逃れをしない人が大目に
> みてもらっている気がしますが、だからと言っていつまでも理解して
> くれないのでは困りますし・・・
> いつもこの辺でもやもやする気がします。
> それについてはどうお考えか、お聞かせいただけたら幸いです。

なるほど、ではその辺りをもっとクローズアップしてみましょう。
悪気はないがそれがあまり深刻に周囲から問題視されていないケースとしては、周囲の反応においては二つのパターンが考えられます。

・本人が悪気そのものを根っこから自覚できていない。周囲は何度指摘しても改める気配が無い為に注意することを止めてしまって「あの人はそういう人なんだ」と割り引いて接している。
・上記のパターンで過去に手酷い経験をした人や対策法を知らない人が、「ああいう悪気がない人には何を言っても無駄なんだ」と勝手に悟ってしまい、問題を指摘もせずにスルーしている。

一つ目は、多くの場合には幼少時の生育環境の問題や、少ない事例ながら脳の器質的な問題によって自己と他者の関係構築に障害を抱えている方が社会に馴染めていないケースで良く発生します。コミュニティでのやりとりの決まり事を守らない(実は守れない)、ある意味異物が集団に所属しているが、排除が出来ず、働きかけにも応じず(実は応じられない)、その人の存在がコミュニティの活動に支障が生じる。そうなると大抵は「その人を準構成員として扱い、問題が発生しても修正を試みるのではなくて棚上げして対処する」ようになります。『悪気があるわけじゃないし、そっとしといてあげようよ』この様な表現で組織として不問に付すのは、その人に手を焼いているが全体で対処することが難しいから問題を看過してコミュニティとしての行動を維持していこうとしている事に他なりません。大人の対応であり、組織として全体を最優先にして暫定的な対策として現状維持を考えていると言えますが、組織内の問題を先送りしてなあなあにしているとも言い換えられます。得てしてこの様な人が会社組織における「フリーライダー」となってしまいます。

二つ目のケースはより深刻です。上のように「見受けられる」人に対してろくに働きかけをせず、レッテルを貼って紋切り型に対応してしまうのです。つまりコミュニティとして改善する余地があるかも知れないのにその機会を放棄するのです。具体的には過去にそういうケースで痛い目に遭った・辛い経験をした事がある、またはどうすれば接して問題を解決できるのかを知らない・怖がって対処が出来ないような人ばかりが大半の集団で発生します。
これは非常に良くない兆候です。誰かが問題行動を起こしても事勿れ主義でその場を場当たり的に凌ごうとする。その当人も成長の機会が得られませんし、組織全体としても進歩や進歩は見込めません。

と、この様に考察を深めてみましたがいかがでしょうか?どちらも適切な対応とは言えない気がしますね。根本的に打開を図るためには「その人が何故そういう行動を起こすのかを知る」「集団として成長を図るために一体となって根気よく問題解決のために考え努力していく」事が求められます。
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この回答へのお礼

ご回答下さいましてありがとうございます。

過去の手ひどい経験からや、対策法を知らないがゆえ、勝手に悟った気になってスルーしてしまう、そうだな・・・と感じました。
他の方の回答内容も昨日よりよく分かる気がします。

悪気がないのが一番悪いと言っていた人は、そのような状況で出た発言だったのだと思います。

おかげさまでもやもやが大分取れました。
ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/02 06:40

 悪気がないのが一番悪い、と人が言うのを聞いた事はありません。


 
 自然の猛威は時として人にとって強大な影響がありますが、自然に悪気があるとは思えません。
 この自然とそして自然の猛威を悪いという人はいないし、人以外の存在が悪いといっているとは知りません。

 人において、悪気なく他人や社会、或いは歴史に影響を与えることはあります。
 その為した人が、その行為の正確な影響について意識できていたかどうかについて、責められる場合もありそうでない場合もあり、問題にされない場合もあります。
 
 結論:
  自然やその他人間以外の存在の起したことは問題外である。
  人においては、千差万別である。しかし、人とは為した行為を意識しなければならないものだ、という原理からは、責められるべき場合もある。
     
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

あなた様のお話しももう少しお伺いしたく思っております。

>人において、悪気なく他人や社会、或いは歴史に影響を与えることはあります。
 その為した人が、その行為の正確な影響について意識できていたかどうかについて、責められる場合もありそうでない場合もあり、問題にされない場合もあります。

すみません、私には理解できるようで理解できません。
例えば様々な民事事件、本人の状況を思えば責めるのがためらわれる事もあります。

しかし、人が悪気なく他人や社会に影響を与えるというのは、ないと感じます。私はその時のその人の思慮が足りなかったためだと少なくとも今は思っています。
つまり、悪気がなくやってしまった=そこまで考えていなかった認識不足であり、その意味において、人が悪気なく何かをしてしまうという事はあり得ない気がします。
今はそこまでしか考えられていません。

あなた様のおっしゃる内容をもう少し理解したいのですが、再度これについてご回答いただけませんでしょうか。

お礼日時:2011/06/02 08:01

悪気がない=無神経 と結びついているのではないでしょうか。

自分の事であれ他人の事であれ、気をつけていないので悪いことも平気でしてしまう、と言うことだと思います。

確かに興味深い質問です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

そうですね、そうとも言えますね・・・・・
よく理解できました。ありがとうございます。

お礼日時:2011/06/01 04:18

回答ではなく参考程度に受け取ってください。



私は
「詭弁師には論理で対抗できるが、カルト信者には打つ手がない」
という意味かと思ってました。

自己批判の無い「善意」ほど怖いものはありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

そのように感じます。
短くまとめていただいたようで、すんなり頭に入りました。
大いに参考になりました。

お礼日時:2011/06/01 04:17

では、車の運転で例えてみましょうか。




悪気がないのに迷惑をかける人は「運転方法を良く知らなくて車をあちこちにぶつけてしまう」人です。
悪気を持って迷惑をかける人は「事故を起こすつもりで車をぶつけにいく」人です。

悪気がなくて、なおかつその失敗を次回に生かせる人は「ぶつけたと分かったらハンドルの切り方が理解出来るようになって運転が上手になっていく」人です。
悪気がなくて、だけれど一向に同じ失敗を繰り返す人は「何でぶつかったのかが理解出来ずにいつまで経っても運転が上手くならなくって事故を繰り返す」人です。

悪気がない人がどうして周りに迷惑をかけてしまうのかというのは「運転免許を持っていなくて運転が出来ない人が無闇に車を乗り回して事故を起こされると周りの車が安心して走れない」からです。
悪気がない人をどうして大目に見るかと言えば「ああ、この人は運転は下手くそだけどこれから上手くなっていくだろうから」と考えるからです。
悪気がなければ良いわけじゃない、とは「運転が下手だからと言ってぶつけて事故を起こしたのは事実なんだ。それなのにそれを理由にして責任逃れをされたらぶつけられたこちらが迷惑だ」ということなんだと思います。

人と人とのお付き合いにも初心者マークがあったらいいんですけどね。そうしたら悪気がない人に対してある程度対応して接することが出来るかも知れませんからね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>悪気がなくて、なおかつその失敗を次回に生かせる人は「ぶつけたと分かったらハンドルの切り方が理解出来るようになって運転が上手になっていく」人です。
悪気がなくて、だけれど一向に同じ失敗を繰り返す人は「何でぶつかったのかが理解出来ずにいつまで経っても運転が上手くならなくって事故を繰り返す」人です。


この例の二つのパターンですが、ここの所が自分の中でしっくりきません。

後者の人で、悪気がないのを理由にして責任逃れをしない人が大目にみてもらっている気がしますが、だからと言っていつまでも理解してくれないのでは困りますし・・・

いつもこの辺でもやもやする気がします。

それについてはどうお考えか、お聞かせいただけたら幸いです。

お礼日時:2011/06/01 04:14

人を殺す場合、悪いことをしている、という自覚の


下に殺すのと、何も感じないで殺すのとを比較したら
どうでしょう。

後者の方が物騒です。

社会にとって危険きわまりないでしょう。
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自分なりの解釈ですが、悪気が無いということは普通の気持ちということだとしたら


悪気は無いのに悪いことをした場合
普通の気持ちで悪いことをするということ
つまりその人はデフォルトで悪ということではないでしょうか?

>ただ、本人に自覚がある分、人を傷つけた時は反省も学習もできるので、その方がましだという事だろうか?

私はそういうことだと思います。
悪100%より少しでも善意のあるほうが良い気がします。
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この回答へのお礼

デフォルトで悪・・・・全く考えない人は、その部分はそうでありつづける気がします。

ありがとうございました。

お礼日時:2011/05/31 07:09

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