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事情に詳しい方にお尋ねします。私の祖父についてなのですが、母から戦後昭和21年に、中国の旧満州、現在は遼寧省の鞍山市の病院で親戚に看取られて亡くなった、と聞き、鞍山市の死亡証明書らしきものもあるのですが、戦後の反日感情の強い中国、命からがら引き揚げた人が多いこともよくテレビや文献で見ますので、どうも信じることができません。母の感情を考えると、そう信じたまま一生を終えるのが適当だと考え、そのようにしたいと思っています。
ただ、私自身としては、近現代史とは分野こそ違え、社会科学の分野で大学院を修了した者として、また、自分自身としても自分のルーツの真実を知りたいと思っています。ここで質問することで真実が分かるわけではないのは百も承知ですが、現実に、当時のあの辺りがどのような状況であったのか、詳しい方がいらっしゃったら教えていただきたいと思います。

A 回答 (8件)

No.7のkoniyama様



質問をしました MikeF です。どういうわけかログインができず、
パスワード照会もうまくいかないので、別IDよりお礼申し上げます。

まさかお父様が華北交通関係者の方からお答えいただけるとは思わず、
大変嬉しく思います。

祖父は華北交通の太原勤務においては、通信技師をしておりました。

太原が終戦後安定していたことを伺い、母に実情を話し、安心させたい
と思います。

そして、最後まで華北交通に勤務した祖父を誇りに思いたいと思います。

本当にありがとうございました。
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 終戦前後の太原の様子ですが、私達家族は太原城内の南西北街に住んでおりました。

父は華北交通太原 鉄路病院のレントゲン技師でした。住居付近は日本人家族数軒が門と塀で一郭を中国人も同じ様に混在 していました。小学校も一人か友達と二人かで歩いて通学していましたが二年生の時夏休みとともに学 校は無くなってしまいました。終戦後も外を出歩いたら駄目とかは無く、中学生と野鳩を捕りに行った り割りに自由に過ごす事ができました、母も買い物に行った時中国人の商店主が言っていた言葉(中国 人と日本人は兄弟、でもたまには喧嘩もするさ)でした。
 日本の兵隊さんも家によく遊びに来ていましたが終戦後変わったことは実弾装填の小銃を携行していた ことです。昭和21年5月下旬、私達はこの地区で最後の引揚者ですが、夕刻女学校に集まり2,3百人が 注意事項やスケジュウル等聞き暗くなったころ太原駅行きました、ヤンチョウ(人力車のこと)の青年 達が送ってくれました家族五人で3台でした。
 太原では日本軍と中国の軍閥の関係が良かった(実際は複雑な問題もはらんでいた)らしく安定してい たように思います危険を感じた事は無かったです。
 あなたの御祖父様も技術者ですから中国の関係者から帰国しない様強く引き止められたと思います、鉄 道関係者なら鞍山え行けた可能性も充分あります。父もあなたや家族の安全は保障するし厚遇するので 是非残ってほしいと何度も言われたらしいです。
  追伸   終戦後も此の地区では日本軍の武装解除はありませんでした(重火器は別かも)           秋頃、部隊の駐屯地お別れ演芸会があり,兵隊さんの素晴らしい演技演出でした。                 
    
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着の身着のままで逃げてきているような人がですね、ニセの死亡証明書欲しさにわざわざお金を払うってそれって現実的にあり得ると思いますか。

そんなものをもらうくらいならなにか食べ物でも買ったほうがよっぽどよくないですかね。日本中が「米のご飯をおなかいっぱい食べたい」と思っていた時代です。

また中国残留孤児という人たちがいたのをご存知だと思います。わずかな食糧や衣服と引き換えに日本人が赤ちゃんを中国人に売ったわけです。で、その赤ちゃんたちがどうなったかというと、もし食べちゃったなら中国残留孤児として生き残っているのはおかしいですよね。あの人たちが生き残っているということは、食べ物を与えて育てた中国人がいたということです。
確かに、日本人を殺した中国人もいたでしょう。しかし、日本人を生かした中国人もいたわけです。一元的に物事をとらえるのは学問の世界に身を置く方として理知的な判断といえますかね。
同じく遼寧省の大連は日露戦争後から日本となじみが深い都市ですが、そのため日本語が話せる人が非常に多いそうです。なにしろ日本語フリーペーパーがあるくらいだそうですからね。一時期、大連に日本企業のコールセンターが置かれることがブームだったときがあったんです。日本語コールセンターが開業できるほど日本語が喋られる中国人が多かったからです。ただ、やっぱり細かいニュアンスは伝わらないので一過的なブームで終わってしまいましたけどね。今も昔も大連は親日的なことで有名です。だって大連では日本軍が虐殺したとかもなかったし、日露戦争後は近くで戦闘があったということもありません。日本の統治で平和で豊かに暮らしていたんだから、あんまり反日にはならんでしょ。
戦闘や虐殺があった南京や上海あたりと、大戦中もおおむね平和だった旧満州国あたりを同じ「中国」とくくってはいけませんよ。ついでにいえば中華人民共和国というのは意外にもああ見えて中央集権国家とはいえないところがあり、各地方によってかなり違うのですよ。例えば台湾の総統選挙ってのがあるときは人民解放軍のお偉いさんが「台湾にはいつでも上陸作戦を行える」なんていうのですが、同じ時期に上海市の市長が「台湾と上海の友好は強固だ」と発言したりするんです。

満州からの引揚者の方とは何人かから話を聞いたことがありますが、やっぱり恐ろしい話となるとだいたいソ連軍がらみですね。ソ連軍の兵士は相当乱暴だったらしいです。

この回答への補足

ご回答いただき、有難うございます。別に一元的に見ているわけではありません。
親戚については私自身は一度も会ったことがないので、彼らが着の身着のままで
引き揚げてきたかは定かではありません。ですので、彼らが多少の余裕があったとしたら、
祖父を入院させることも、死亡証明書を作らせることも両方が可能ということになり、
ますます事情が分からなくなってしまうのです。

ただ、同じ華北交通で、済南から帰ってきた方のサイトを見て、鉄道列車における中国人の
日本人引き揚げ者への蛮行があまりにも酷く、実際どうだったのか、考えてしまうのです。

補足日時:2012/12/12 08:54
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中国東北部の長春で反日デモか 100人規模 - JChere中国ニュース速報/JChere日本商品直送/JChere展示会


http://newschina.jchere.com/newsdetail-id-223338 …

今だって同じです。朝日新聞はたった100人の反日デモでも嬉しげに報道しますが、長春市の人口は750万人いるのです。笛吹けど踊らず。1万人に一人も集まらないってことです。これで反日と言えますか?
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直接の回答ではありませんが、日清戦争直前の明治27年に当時の朝鮮を歩いたイザベラ・バードと言うイギリス女性が著書「朝鮮紀行」の中で次のように書いています。



(日清戦争の混乱を避け、ソウルから満州の奉天に避難し、途中一時長崎に戻った時の記述)
 「真っ赤な紅葉の燃えるように美しい長崎で、それまでとはがらりと変わった気持ちの良い一日を過ごした。 清潔で、完璧なまでに治安が良く、道路には穴ぼこもゴミの山もない。 この小ぎれいな町は、清国のどの都市でも見られる吐き気を催すような不潔さやみすぼらしさとは胸のすく対象を示している。 日本にいる清国人は支配民族の一員である雰囲気で長崎の通りを歩き回っている。 彼らは憂さとはまったく無縁の様子で商売にいそしんでいる。 同じ頃清国では、日本人が国外へ逃げ出し、人身、物品の危害を受け、はぐれた「倭人」が見つかろうものなら間違いなく殺されていたというのに。」

奉天といえばといえば当時の満州。その頃から中国人は日本人が大嫌いで、たびたび虐殺が起こっていました。日中戦争後はさらに酷かったでしょう。
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何か話がそれた。



鞍山の製鉄所もそうだけど、中国東北部の産業基盤のかなりの部分は日本によるモノ
そう言った産業で生計を立てた中国人も多数いるし、病院などの整備も行われた。
だからそう言ったモノに携わった中国人に関しては日本=悪とも感じていない

ま、それはある意味植民地経営の常道で
現地の住民を支配に寄与するグループと支配されるグループとに分断して、少数の日本人が多数の中国人を管理する為の方策だったんだろうけど

そう言うグループ分けをするのであれば、富裕層知識層は国民党支持で、農民や下層労働者は共産党支持という図式になる。
国民党は比較的知日派が多かったので、そう言う意味でも質問の様なケースもあながち嘘っぱちとも思えない
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鞍山には、中国有数の製鉄所があります(ありました?)


その施設は元々日本が作ったモノです

で、当時の日本人に対する感情ですが
同じ中国と言っても東北という大きな地域、また東北地方でも都市部か農村か、工業地域か商業地域か、同じ地域でも持てる者持てざる者という色んな面で一様ではありません

確かに地区に寄っては避難民が襲われて多数の人が亡くなっているケースもあるが
比較すれば東北部の都市の方は、比較的に悪感情が薄いのではないかな?
農村地域の場合は、開拓といって強制的に農地を収用したこともあるし、共産党による農村部への浸透も行われていたし、終戦後の治安も悪かったようだし

ウチのババの様に、着の身着のまま子供三人抱えてながらも鉄道沿いを歩いて帰還したことでも分かるように、中国全土が反日という訳でもない。
どちらかと言うと、共産党が政権を取ってから自己の正当性を高める為にも反日を利用したという側面が大きい

※個人的な感情は別
 誰だって、気に入らない奴はいるし、アイツに騙されて一家が路頭に迷うことになったてな相手には好意なんか持たないが、ソレは個人レベルの話であって民族間の好悪とは別次元
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満州は今現在も親日ですよ。


大戦後国共内戦に勝利した共産党政権は最初は意外と親日的でした。
しかし1970年頃から方針が変わり反日になりました。
反日教育は1970年以降だから、中国大陸でも50代以上の人は反日は意外と少ないです。

満州は国民党政権と共産党が分割統治しました。
国民党統治の満州には残留孤児はいません。
また満州は満州人の国で日本の資本が満州に行き潤っていましたから満州人も案外親日的でした。
命からがらは侵略してきたソ連軍から逃れるためです。強姦・強奪と暴虐の限りを尽くしたそうです。

当時の共産党や国民党なら安心して日本に帰国できました。
ソ連にかかわってしまった人が大変な目にあったのです。

この話は満州に住んでいた伯母や中学生のとき近所に住んでいた人から聞いた話です。
うそはないと思いますよ。

この回答への補足

補足と申しますか、実は私の祖父は、満州からの引き揚げではなく、華北交通の鉄道技師で太原で
働いておりましたが、終戦後、果たして、生きて鞍山まで辿り着けたのか、もしかしたら、太原、
或は引き揚げしようと引き揚げ船の出る港を目指したが、その途中で中国人に殺されたか、そして、
死亡証明書のような紙切れ一枚は、無事鞍山から引き揚げた親戚が日本で待つ家族を思って鞍山市に
金を出して作らせたのかな?などと思ったりします。

ネットなどで調べても、終戦後の漢人の日本人への残虐行為はかなり酷かったみたいなので。
私としては鞍山の病院で安らかに亡くなったとしたらそれに越したことはないのですが、学問に
携わる者として、より可能性の高いことを知りたいと思っています。自分には専門外のことで、
また、同僚の東アジア史が専門の者に聞くのも、プライバシーを知られるようで憚られます。

補足日時:2012/12/11 10:55
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