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 はじめて質問を投稿します。

 大学のゼミで私が日頃考えている問題について発表するのですが、なにか参考になる書籍や論文、もしくは私の考えと類似した問題意識を持つ人などなんでも結構なので教えていただきたいと思い質問しました。尚カテゴリ選択に悩んだのですが私の所属するゼミは人文科学系で教授は哲学の専門家なのでこちらで質問させていただきます。カテゴリ違いだと思われた場合はその旨ご了承ください。

 それで肝心の私の問題意識についてですが、テーマは「インターネットによる効率的な情報収集と未知との縁の喪失について」というものです。
 例えば学校教育(特に義務教育課程など)では教養や知識や情報は一方的に与えられる、言わば学ぶ者は受動的な姿勢であるということになります。対してインターネットなどの検索技術を用いた情報収集では学ぶ者はあらかじめ検索対象への興味関心を持っている、つまり調べたい事柄の「なにか」をもともと知っていることになりその上学ぶ者は能動的な姿勢である、ということが言えます。
 これらの何が問題かというと後者は興味関心を「深める」役割を担っている一方で興味関心そのものを「広げる」ことが(不可能とは断言できないまでも)困難であり、もしもインターネットへ過剰に傾倒する者がいたならば彼は自身の関心事については驚異的な知識量を有するがそれ以外は何も知らないという「象牙の塔」的状況が生まれ、彼は自分が全く知らない未知との縁を喪失していることになります。(極端な例を出せば、仮に彼がチェスを好む傾向を持っていたとしてもチェスというゲームの存在を知る機会【縁】が無ければ彼はチェスに興じることはない。)
 多少オーバーに書いてしまいましたが能動的な学びの姿勢を持っているがゆえに招きかねない上記の事例、未知との縁の喪失というものに私は問題があるのではないかと感じています。

 もっといろいろな例え方(SNSや動画サイトやネット記事など)がありますが長くなりすぎるのも問題だと思うのでこれ以上は自重します。
 上記の私の問題意識に近いことが書かれているような書籍や論文、もしくはこのような問題に言及している人物など、なにか参考になりそうなものを教えてください。尚ゼミの教授に相談したところ「多くの人と議論を交わして自分の考えを濃密にすることも重要だ」と言われたので、私の問題意識についての意見もくださると幸いです。

A 回答 (7件)

質問文を拝読して思ったのは,結局「情報リテラシー」に集約される問題かとおもいます。


情報リテラシーとは,

「情報が必要なときに、それを認識し、必要な情報を効果的に見つけ出し、評価し、利用する技術のこと」byアメリカ図書館協会

です。
従来の詰め込み式教育は,日本人の情報リテラシー能力向上を阻んでいるという主張があります。
そして,インターネットというのはSurvivors さんの指摘の通り,自分が欲しい情報にはドンドン手を出していきますが,興味が無いことにはまったく見向きもしない。
その上,自分に都合の良い解釈や意見は受け入れるが,その反対だと頑なに受け入れない人もいます。
インターネットの世界は玉石混淆であり,むしろ石の方が多い。
ところが,それを見抜く技術(=情報リテラシー)が無いために間違った情報を信じこんでる人は多々います。


情報リテラシーの例ですが,情報の信用度を図るのにドメインに注目するというのがあります。
ドメインとはURLの最後につく.com .co.jpと言った記号です。
これにはいくつかルールがあり,その1つが情報発信者によって分ける方法です。
「AC.JP」は大学などの学術機関,「GO.JP」で政府機関,「CO.JP」や「.COM」は民間で使えるもの等,,,
例えば,学術機関や政府機関であれば信用度は高い(少なくともド素人のトンデモ説は少ない)情報となります。
それ以外は,どこの馬の骨とも分からない人が作った情報なので信用度はグッと下がる。
ましてや,匿名のブログなんて便所の落書きは言い過ぎだとしても信用度は更に下がります。

とまぁ,情報リテラシーとは教育や学習で身につくことができる技術です。
ところが,今までの詰め込み教育はこの部分が圧倒的に欠けていた。
その結果,サバイバルの知識もなしにジャングルのど真ん中に放置されるようにネット社会に放り出された。
そしてSurvivors さんの言う「未知との縁の喪失(面白い表現ですね。もう少し深めて定義付けして説明すると良いかも)」という事態に陥るのではないでしょうか。

長々と私の妄想を書き連ねるのもなんなので,いくつかネットの漂流物を拾って来ましたので参考書籍とともに

『高等教育のための情報リテラシー基準』
http://www.ala.org/acrl/sites/ala.org.acrl/files …

『情報リテラシー教育の実際』
http://www.nii.ac.jp/hrd/ja/librarian/h16/h16_li …

鎌田 和宏 (著) 『 小学生の情報リテラシー―教室・学校図書館で育てる』 少年写真新聞社
千葉大学情報処理教科書編集委員会 (編集) 『新しい大学情報リテラシー 』オーム社

日本では情報リテラシー教育というと図書館位しか正しく認識してないので悲しいですね。
ではでは、参考になれば幸いです
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

参考資料の提供はもちろん、情報リテラシーという新たな視点を提示してくださったことに感謝します。

私は図書館学にもある程度明るいので情報リテラシーという視点を交えて再考してみます。

ちなみに「未知との縁の喪失」という言葉は暫定的に名称しているだけなのでおそらく改名します。(もうちょっとシンプルな名称にしたいと考えています。)

お礼日時:2013/06/12 04:35

プロバイダ責任制限法関連情報Webサイト


http://www.isplaw.jp/
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<遊>なるがゆえの<子ども>の教育不可能性


http://ci.nii.ac.jp/els/110006262425.pdf?id=ART0 …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

参考にしてみます。

お礼日時:2013/06/12 04:36

同じ問題に取り組む人を、初めて見ました。



受動的に与えられるものを基本として、自己の能動性に活かすことが教育の一つであると思います。
年齢が上がってくれば、自分で選択をしていきますが、気づく人は能動性をもって受動を行います。
それが情報の選択に繋がる訳ですが、その部分を自己で深めていくといいと思います。

私は心理・歴史・教育・経済などの分野に、この問題の領域は広がっていると思います。
ご自分が今まで手にしてきたものの中にもヒントがあると思います。


>上記の私の問題意識に近いことが書かれているような書籍や論文、もしくはこのような問題に言及している人物など、なにか参考になりそうなものを教えてください。

ここは問題がはっきりしている訳ですから、自分で調べるところでしょう。
自ら能動的に調べるという学びは手を抜いて省略するところではないと思います。
課題の準備を丸投げすることには、ゼミの教授もいい顔はしないでしょう。


ご自分が置かれている立場、学びをやっていく者、教育を受ける者として
真摯に自分へ問われてはいかがでしょうか。

哲学は、自分に向けて(自分が内在させている情報・手段・考え・意識などを含む)に
哲学的批判を向けることで、自己構築も課題の構築もできるように思います。

ちなみにここは議論を交わす場所ではありませんので、おそらく教授の言わんとしていることは
友人関係の中で自身の視点を見直すことにあるのではないかと思います。

何でも手軽に手に入れようとするのは学びへの放棄になります。
よくよくご自身を写してみて考えてみることを願っております。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ゼミ発表にあたって参考文献などが無ければ客観性を証明できず独りよがりな主張になってしまうことを避けるためにこのように質問させていただきました。

そもそも参考文献は人に教えてもらうものではなく自分で探すものということは重々承知しているつもりでしたが、何分取り組みたいと考えている問題が少々特異なもので論文検索サイトなども上手く機能させることができなかったので、当サイトにて回答者の方々の知識知恵を賜ろうという所存でした。

いずれにしても、ご自身のおっしゃる通り他者との議論を通し今一度自分の視点を問いただしていくつもりです。

お礼日時:2013/06/12 04:28

これは参考材料にして貰うことを目的とした回答になります。



最初に確認しておきたいポイントがあります

1.未知との縁の喪失という表現の意味ですが、
これは興味関心が広がらない事でありつまり、視野が拡大しないという意味と
同等見てよいのか?という点。

2.テーマの条件について
文面には「もしもインターネットへ過剰に傾倒する者がいたら~」としかないのですが
それを端的に世間一般的な表現にするとネット住人と同意ですが、よろしいですか?

それとテーマではインターネットへ過剰に傾倒するという点とチェスの例えが裏付けるように
未知との縁の喪失という点を結びつけておられます
しかし連動はしますが実は単独の問題なので、これはゼミで発表するのならば再考して
気づくか誰かに訊ねましょう(勿論僕でも構いませんよ)


正直題材的色々答えて上げたいと思ったのですが、もう少し整理してもう少し
訊ねたい事を明確にしてからもう一度補足などを用いて訊ねて欲しいですね
因みに、その作業と発表する技術は同じスキルなんですよ
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>未知との縁の喪失という表現の意味ですが、
これは興味関心が広がらない事でありつまり、視野が拡大しないという意味と
同等見てよいのか?

正確には興味関心を広げる、視野を拡大させる機会を失うことと規定しているのですが、私の主張したいことそのものはご自身の解釈に多方合致するところです。

>文面には「もしもインターネットへ過剰に傾倒する者がいたら~」としかないのですが
それを端的に世間一般的な表現にするとネット住人と同意ですが、よろしいですか?

個人的に侮蔑表現にあたるのではないかと勝手な心配をして表現を遠まわしにしましたが問題ありません。

>テーマではインターネットへ過剰に傾倒するという点とチェスの例えが裏付けるように
未知との縁の喪失という点を結びつけておられます
しかし連動はしますが実は単独の問題なので、これはゼミで発表するのならば再考して
気づくか誰かに訊ねましょう(勿論僕でも構いませんよ)

チェスの例は未知との縁の喪失についての説明として用いました。そしてその喪失をインターネットが助長させるというのが私の考えているところであります。

>正直題材的色々答えて上げたいと思ったのですが、もう少し整理してもう少し
訊ねたい事を明確にしてからもう一度補足などを用いて訊ねて欲しいですね
因みに、その作業と発表する技術は同じスキルなんですよ

ご指摘ありがとうございます。さらなる熟考吟味を重ねていく所存です。

お礼日時:2013/06/12 04:01

学ぶためには学ばないという態度が必要ですし


覚えるためには忘れるという姿勢が大切になります。

知識は抽象化できますから、真の知識人は忘れることを重視します。
そして、抽象化されたものは普遍的知識になりますから「象牙の塔」的状況にはなりません。

>彼は自分が全く知らない未知との縁を喪失していることになります。

その彼は生きているのであり、世界と交流しているのですから、社会における既存の知識レベルに関して未知というものはありません。彼は意識・無意識レベルで選択しなかったということだけです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>知識は抽象化できますから、真の知識人は忘れることを重視します。
そして、抽象化されたものは普遍的知識になりますから「象牙の塔」的状況にはなりません。

私の理解力が低いためにご自身の発言に対し適切なレスポンスができず的外れなことを言うかもしれませんが、知識が抽象化されるのは知識を手にし身に付けた後のステップだと推察します。
私が問題視しているのはそもそも知識を手にし身に付ける以前の段階、つまりどのように知識を手にするのかという最初期の出会いという段階であり、その段階を経験できないのではないかという話です。

>その彼は生きているのであり、世界と交流しているのですから、社会における既存の知識レベルに関して未知というものはありません。彼は意識・無意識レベルで選択しなかったということだけです。

もしかしたら質問中にチェスという常識的な社会通念を例に出したために誤解を与えてしまったのかもしれません。(もちろん勝手な推測なのでそうでない場合は申し訳ありません。)
世界との交流という点についてですが、私の思うところでは原則的にインターネットに世界との交流は期待できないと考えます。語弊を免れるために付け加えるとその個人の視野の範囲内を内的世界、視野の範囲外(簡単に言えば個人にとっての未知の範囲、視野の外)を外的世界と便宜的に名称すると、ここで指した世界とは外的世界のことです。
SNSを例に挙げると現実の知り合いなどはともかく趣味など自分との共通点をもとに構築されるネット上のみの人間関係はその個人にとっての既知を前提に成立し、その関係によって得られるものは内的世界の充足にとどまります。ネット上の友人を通じて自分にとって全くの未知について知ることも考えられますが、それはあくまで例外として捉えるべきだと考えます。(例えば共通の音楽が好きということで成立する人間関係において、音楽と全く関係のないスポーツの話題になることを事前に想定できるかというとそれは困難であると思われます。)
よって意識・無意識レベルでの選択というものはそもそも選択対象が個人の認知外なので不可能ではないかと推察します。

お礼日時:2013/06/11 05:13

こんにちは。

非常に興味深い問題ですね。

インターネットに限らず、テレビ録画が容易になったことなども問題ではないでしょうか。(うちの父は朝から晩まで、刑事ドラマばかり見ています)。要は技術革新によって、情報の取捨選択が容易になった、ということだと思います。

そもそも、「情報」とは何か、ということですよね。(あるいは、「知性」とは何か?)

機械的な行動(ルーティンワーク、「知識」の収集もふくめて)に、人が惹かれるのは、そこに何か安定したものがあるからだ、と聞いたことがあります。

同じ作業ばかりを繰り返していると、当然いつも同じような結果が得られます。人生の方針を根底から揺るがすような、衝撃的なできごとというのはめったに起こらないし、また起こって欲しくもないのです。

社会がより高度に、機械的になればなるほど、ドロップアウト(レールから足を踏み外すこと)の危険性はより増していきます。なぜなら、そのような社会は、「未知のもの」を受け入れることができないからです。

しかし、「情報」というものは、本来、「未知のもの」から発信されるべきもの、であるはずです。(そうでなければ、その「情報」に価値はありません) 本質的に、未だよく知られていない「もの」(自然や他人)から与えられるべきものです。

ですから、一つの情報についてどれだけ知っているかが重要なのではなく、その情報に向き合う姿勢、自分はいま、何を知ろうとしているか?、がより重要なのだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>技術革新によって、情報の取捨選択が容易になった

まさしく、この点は私の問題意識に合致するところです。情報の取捨選択が容易になるとは特定の情報に対して必要か不要かを自分自身が決定する、言ってしまえば自分が要らないと思えば外の世界で如何に価値を持っていても自分の内的な世界では全くもって無価値となる。
こう言うと「自分で価値判断ができない甘ったれを肯定するのか」という声が聞こえてきそうな気がしますが、十分な社会的経験を経ていない、よって価値判断が未熟な段階で取捨選択を行ってしまうとその人にとって真に有益な情報、知識を逃してしまうということにもなりかねません。(おそらくそのような経験は誰しもあるのではないでしょうか。私の場合、算数が苦手なことを「社会に出ても使わない」というありがちな正当化のもとに疎かにし、大きくなって数理的思考を培う訓練だったと気付いたとき「ちゃんとやってればよかった」とつくづく感じているところです。)

長くなってしまいましたが、人間のみならず社会が安寧を維持するために「未知」を受け入れないという精神性についての意見や、
>一つの情報についてどれだけ知っているかが重要なのではなく、その情報に向き合う姿勢、自分はいま、何を知ろうとしているか?、がより重要なのだ
という意見などは、考察すべき点だと感じました。

お礼日時:2013/06/11 00:20

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