あなたの習慣について教えてください!!

臓器くじについて下の意見について考察し、意見や反論をお願いします。


※臓器くじについて
臓器くじ - Wikipediaより引用

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内容[編集]

「臓器くじ」は以下のような社会制度を指す。
1.公平なくじで健康な人をランダムに一人選び、殺す。
2.その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。

臓器くじによって、くじに当たった一人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた複数人が助かる。このような行為が倫理的に許されるだろうか、という問いかけである。

ただし問題を簡単にするため、次のような仮定を置く(これらは必ずしもハリスが明記したものではない)。
くじにひいきなどの不正行為が起こる余地はない。
移植技術は完璧である。手術は絶対に失敗せず、適合性などの問題も解決されている。
人を殺す以外に臓器を得る手段がない。死体移植や人工臓器は何らかの理由で(たとえば成功率が低いなど)使えない。

議論[編集]
事故にあって死ぬことよりも積極的に殺すことのほうが罪が重い。 反論:臓器が必要な人をそのまま死なせるのは見殺しにするのと同じことであって、移植しようがしまいが殺すことに変わりないのではないか。

臓器が必要な人をそのまま死なせることは消極的に殺すことであり、健康な人から臓器をとるのは積極的に殺すことであり、その意味は当然異なる。 反論:過程がどうであれ、最終的に多数の命を救う事に比べれば、一人の犠牲に対する意味の違いなどは大きく取り上げることではないのではないか。

いつ臓器を奪われるか分からない状況に怯えることになる。 反論:多数の人から無作為に選ばれるならば病気や事故に遭って死ぬ確率がごくわずかに増えるのと同じことであり、それを受け入れるのであれば臓器の移植を受け入れない理由はないのではないか。

生死は天命によるものであって人が誰が死ぬべきかを決めるものではない。 反論:臓器を移植せずに死なせることも同じように誰が死ぬべきかどうかを決めることではないか。

こうした社会制度の下では、臓器を提供する側から除外されるよう人々が競って不健康になろうとするというモラル・ハザードが起きるのではないか。 反論:不健康になれば自身が病死する確率も高まり、また、臓器を提供することのできる人間の基準が引き下げられるであろうため、長期的に見れば自身の健康をあえて損なうことの意味自体が薄れるのではないか。

臓器提供はしたい人がやればいいのであって、籤だからといって臓器を提供したくもない人が強制されるのは人権侵害ではないのか。 反論:緊急避難の考え方を社会全体に適用できないか。死ぬ人数が少ない方が、より多くの人権を保護することになるのではないか。

臓器移植を必要とする人を助ける方法は他にもあるのではないのか。 反論:思考実験の内容として「死人の臓器や人工臓器では代替できない」とある。

社会全体としては、臓器移植が必要な重病人数人の生存よりも、健康な人間一人の生存のほうが有益なのではないか。 反論:健康な人間一人が社会全体に与える損益は、その個人の生命活動そのものとは無関係なのではないか。また、移植を受ければ健康状態は格段に改善する。

臓器くじに超一流の芸術家やスポーツマンが当たった場合どうするのか。 反論:臓器をもらう側も超一流の芸術家やスポーツマンである場合もあり得るし、提供する側が凶悪な犯罪者である場合もあり得る。
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私はこの社会制度に反対である。何故ならはこれよりも総体的に優れた社会制度が容易に想到できるからである。

想到される社会制度の一つを述べる。この社会制度を臓器くじ改と仮称する。
「臓器くじ改」は以下のような社会制度を指す。
1.臓器移植が必要な人のうち希望者がくじを引く。くじは1~(参加者-●くじ)の数字くじと●くじからなる。
2.●くじに当たった人を殺す。そして臓器移植に耐えうる臓器を全て取り出し必要な参加者に配る。これは数字が若い方が優先される。

この社会制度は「臓器くじ」の仮定に則ったものであり、「臓器くじ改」の仮定も「臓器くじ」に倣う。


臓器くじを知ってから2秒で思いついた頓知ですか、何故これに類する議論がなされていないのか不思議でなりません。よろしくお願いします。

A 回答 (17件中11~17件)

私は人間ですので、人間の立場からは、この制度を認める訳にはいきません。



ただ、実験マウスに言わせれば、「差別だ」と言われそうですがw


助かる人間と犠牲になる人間が、数の上ではプラスだとしても、質的にプラスになる補償はありません。

確率計算上は人数の点で有利になりますが、健康な人間の方が社会経験等の点で、確実にスキルを積んでいます。

数だけを増やしたいなら、多子政策を拡充すればいいだけです。


犠牲になる人間の可能性を全否定(無視)して、助かる人間の可能性を肯定する根拠が存在しませんから、このシステムを実現する事に(道義上の問題を無視してさえでも)メリットはありません。
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お礼、ありがとうございます。




ですが、
「臓器くじ」はネタに過ぎません。
サンデルは、「白熱教室」で「殺人に正義はあるか」というテーマで同じような問題(トロッコ問題)を扱っています。
トロッコ問題について学生たちに議論をさせています。

~~~~~~~~
まず前提として、以下のようなトラブル (a) が発生したものとする。

(a) 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。

そしてA氏が以下の状況に置かれているものとする。
  (1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?

なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。また法的な責任は問われず、道徳的な見解だけが問題にされている。あなたは道徳的に見て「許される」か、「許されない」かで答えるものとする。
つまり単純に「5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか」という問題である。功利主義に基づくなら一人を犠牲にして五人を助けるべきである。しかし義務論に従えば、誰かを他の目的のために利用すべきではなく、何もするべきではない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD% …
~~~~~~~~

「臓器くじ」は、このトロッコ問題の変種に過ぎません。
そして、
サンデルは、同じ講義の中で「臓器くじ」と同じような臓器移植の問題についても学生たちに議論させています。


~~~~~~~
では、別の医者のケースだ。
今度は君は移植医で、生きるためには臓器移植がどうしても必要な5人の患者を抱えている。5人はそれぞれ心臓、肺、腎臓、肝臓、を必要としている。最後の1人は膵臓だ。そして、臓器のドナーはいない。君は5人の死を目前にしている。
その時、君は隣の部屋に健康診断を受けにきた1人の健康な男がいるのを思い出す。
(会場笑い)
彼は昼寝をしている。
(会場笑い)
そっと部屋に忍びこんで、5つの臓器を抜き取れば、その人は死ぬが5人を助けられる。

http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3079
~~~~~~~
ハーバード大学の学生さんたちの中から、笑いが起きていますよね。
なぜ?
笑った人は倫理的な人間でないから?
真面目な人じゃないから?

そして、サンデルが学生たちに問うているのは、
功利主義が正しいのかどうかであると同時に、
功利主義が間違っているとしたら、それはどこが間違っているのか、どこに問題があるのか、
です。
「臓器移植(臓器くじ)」が倫理的に是か否かではありません。

ついでに言うならば、
なぜ、「くじ」を採用するかといえば、
選択の際の《恣意性》を排除するためです。
臓器を抜き取るか抜き取らないかの選択における選択の恣意性が、「一人の体から臓器を抜き取り、五人を助ける」という行為の正当性に対する攻撃材料になることを封じるためです。

この回答への補足

根本的な話として、この問題を問うているのはサンデル先生ではなく私です。私はネタを大真面目に聞いているんです。回答してください。

補足日時:2014/06/29 16:19
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一人の人間から無駄無く使える部分を利用すると、いったい何人ぐらいの人がその恩恵を受けられるんでしょう。


せっかく一人の命を頂くのだから、無駄は出したくないものです。出来るだけ多くの人にその恩恵が行き渡る様にしなければ、くじに当たった人は浮かばれません。

葬儀は盛大に行って呉れるんでしょうか。もしかしたら国葬?勿論、安楽死ですよね。
死んだら天国に行けますか。

.....やっぱり何人助かろうが、殺人は“倫理感”が許さないと思います。
倫理の源は「人の良心」だから、その心があればそれが壁になって“殺人”なんて出来ないと思います。

でも「良心」が希薄ならそんな制度も採用されるかも知れません。
現代の生け贄制度、ですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
正直ごもっともな話です。しかしそれでは思考実験にならないので反論はします。

議論
「.....やっぱり何人助かろうが、殺人は“倫理感”が許さないと思います。
倫理の源は「人の良心」だから、その心があればそれが壁になって“殺人”なんて出来ないと思います。」
反論
「くじを引くのは希望制です。そしてそれは人を殺し殺される覚悟を決めることと同義です。それだけの覚悟を持って生きたいと願っている人を、貴方は倫理観の一言で殺せますか?」

お礼日時:2014/06/29 15:39

このくじに参加する人は、自分が助かるためには、他人を殺しても良いと考える人です。


そのような人は、たとえ臓器を得て回復したとしても、社会的に抹殺されて然るべきでしょう。

天国と地獄には、同じ物があるそうです。
大きな円卓の中央に、ごちそうが山盛りになっており、円卓の周囲に長い箸を持った人々が座っている。
ごちそうは、長い箸でしか食べられない。
天国では、お互いの口にごちそうを入れあって、皆が満足している。
地獄では、お互いの箸からごちそうを落としあって、皆が飢えている。

臓器くじは、地獄の発想でしょう。
全ての死体から、臓器を摘出する社会制度というのが、天国の発想だと思います。

人間は皆、自分の肉体は自分の物だと思い込んでいますが、本当にそうでしょうか?
自分の肉体は、地球の大自然、神様?、両親を含むご先祖様から、「借り受けたもの」では無いでしょうか?
とすれば、借りた物は返すのが当然であり、それを有効活用してもらうのが、当然の成り行きだと思います。
しかし私自身、それを自分の体に当てはめるには、抵抗感があります。
自分だけがそうするのは、非常に損に感じます。
しかし、社会の全員にそうする義務があるとすれば、この抵抗感も薄れると思います。

その昔、ソイレントグリーンという映画がありました。
子供心に非常なショックを受けた記憶があります。
臓器くじについては、ソイレントグリーンにも似た感触を覚えます。


>何故これに類する議論がなされていないのか不思議でなりません。
死体の臓器が使えないという前提条件が、現実に即していないため、これを現実社会に当てはめようという議論そのものが無意味です。
そもそもが、臓器くじは、功利主義に関する「思考実験」に過ぎず、現実社会に対する優れた社会制度の提案ではありません。

この回答への補足

臓器くじは思考実験だと言いながら平然と反則しないでください。
死体から臓器を摘出するのは思考実験の内容として排除されています。

そして『何故これに類する議論がなされていないのか不思議でなりません。』は、当然ながら「臓器くじの思考実験でこれに類する議論がなされていないのか不思議」であって、現実社会に対して社会制度を提案する意図は全くありません。当たり前のことです。

補足日時:2014/06/29 12:52
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この回答へのお礼

こういう意見を待っていました。多少手厳しい意見でも歓迎します。
Wikipediaの議論に則って反論します。

議論
「このくじに参加する人は、自分が助かるためには、他人を殺しても良いと考える人です。
そのような人は、たとえ臓器を得て回復したとしても、社会的に抹殺されて然るべきでしょう。」
反論
「『自分が助かるためには他人を殺しても良い』のは、現代社会でも『緊急避難』などで認められています。また、『社会制度の元に被害者と加害者が公平な立場かつ合意の上で行われる事』と、『全くの個人が自分の生命の保全の為に行う事』では当然意味が異なります。」

お礼日時:2014/06/29 12:48

こうした考え方を《功利主義》といいいます。


「最大多数の最大幸福」という言葉に象徴されるもので、
多くの人をより幸福にすることが社会正義であり、善となる。

こうした功利主義的な考え方に従うならば、
あるいは、
これを前提にするならば、
《臓器くじ》は、社会正義であり、善となる。
本当に「最大多数の最大幸福」になっているならばですが。

でも、違和感がある。
何かおかしいんじゃないか、と感じる。

人の命の値段、価値は、人によって違うんじゃないか?
スポーツ選手が、犯罪者がどうたらこうたらという議論は、これに基づいています。
───内緒話ですが、このことを口にする人は、人の命(の価値)は同じではない、と内心思っている───
そして、そういう考え方もあるんでしょうね~。

また、臓器クジが本当に「最大多数の最大幸福」になっているのか、という疑いもあるでしょうね~。
モラル・ハザードを生むのではないかというのは、その反論の一つです。

ですから。
「臓器くじ」は、十分過ぎるほど哲学的な話であり、哲学的な議論だと思いますよ。
そして、
「臓器くじ」で議論されているのは、「臓器くじ」そのものではなくて、功利主義的な考え方が正しいかどうかです。
「臓器くじ」は、あくまで、ネタなんですよ。


ただ、功利主義的な考え方は、お金持ちから税金をたくさん取って、そのお金を貧乏人の福祉の向上に使おうという累進課税の根拠の一つなので、功利主義を全否定すると、貧乏人は結構大変なことになったりします。
功利主義というのは、現在においてもなお非常に重要な政治思想であり、有力な政治哲学なのですよ。


ではでは。

この回答への補足

いや、『臓器くじ』の議論で『臓器くじの議論』しなくてどうするんですか。『功利主義的な考え方が正しいか』は『臓器くじの議論』の結果求められるものであって、あくまで議論の主題は『臓器くじ』でしょう。

私は『臓器くじ』は功利主義と倫理を意図的に衝突させるものだと考えます。実際、Wikipediaの議論の大半は倫理からの抵抗に由っている様に私は見えます。
そして私の質問をざっくりまとめると「『功利主義と倫理のバランスを配慮した臓器くじ』に対してどのように考えましたか?」です。ネタ扱いにするにしても興味の対象としては十分でしょう。ただ切り捨てるのは酷過ぎます。そしてネタ扱いするにしても真面に回答してください。

補足日時:2014/06/29 08:04
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 “アメンボ脳”の私が思いつく言葉は「本末転倒」。



 こんな事を考える人が現れるような現代社会に“歪(いびつ)な発展”を感じます。

 人間はこの先、どうなってしまうんでしょうね。

 

この回答への補足

議論に『臓器提供はしたい人がやればいいのであって、籤だからといって臓器を提供したくもない人が強制されるのは人権侵害ではないのか。 』、『臓器移植を必要とする人を助ける方法は他にもあるのではないのか。 』などの功利主義の観点に直接関係ないものが認められている以上、「代替案を提示する」事は臓器くじの議論の本から外れないと考えます。

補足日時:2014/06/29 06:57
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人の生きる目的が、お金や物質的豊かさならば、


生産性の向上のために「臓器くじ」の可能性も検討
され得る。
しかし、精神的な豊かさが生きる目的であるならば、
誰かを犠牲にして自分が助かるというのは、それが
不可避である場合であるのみとなる。

身障者が健常者より不幸であるというのは、社会が
競争社会で個人の生産性が比較されるからであって、
幸福量の観点からは、身障者も同等である。
社会生命的自覚(=助け合いとしての分業化)に於て、
全ての人が全ての人のために生きるならば、その
成果は全ての人に共有(誰かの喜びは自分の喜び)
され、その相乗効果において社会全体としての充足
量の最大化を実現するのだ。
みんなでケーキを食べるのに、争ってグチャグチャに
なったケーキを独り占めするのと、みんなで分かち
合って食べるのとでは、その量の大小に関わらず
内面的に異なる“充足量の最大化への寄与”の違い
がある。

人に物を与えるのは自己犠牲ではなく、与えた人の
方が精神的に得るのだ。
それが、即物的な考えの物質主義であるか、深い
認識に由来する精神主義であるかの、決定的な
違いだ。
充足量の最大化の観点において、身障者も健常者
も、余命幾ばくもない人も、自分の可能性を尽くすと
いう等しい貢献を成し得る。
人は病において愛(助け合い)を知り、愛によって
死を超えるのだ。(死から逃げる事が生ではない)

この回答への補足

全体的に何を言っているのか理解不能です。そして回答してください。

補足日時:2014/06/29 08:25
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