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>Will dich im Traum nicht stören, 夢見ている君の邪魔をしないでおこう、
War' schad' um deine Ruh', 君の安らぎを壊したくはないから。
Sollst meinem Tritt nicht hören, 僕の足音が聞こえないように
Sacht, sacht die Türe zu. そっと、そっと扉を閉めよう。
Schreib' im Vorübergehen 通り過ぎる時に君の戸口に
An's Tor dir: Gute Nacht, おやすみ、と書いておこう。
Damit du mögest sehen, 君がそれを見てわかるように、
An dich hab' ich gedacht. 僕が君の事を想っていたんだと

War' schad' um deine Ruh'はWaer'ではないでしょうか?普通の文だとEs waere schade um deine Ruhe.というところでしょうか?

>Ach, nuelich hatt' ich auch wohl drei:  ああ、あの時僕には太陽が三つもあったが、
Nun sind hinab die besten zwei.     いまはその中の最良の二つが沈んでしまった。
Ging' nur die dritt' erst hinterdrein,    三つめも沈んでくれさえすれば、
Im Dunkeln wird mir wohler sein.     暗闇の中で僕はまだ気分よくいられるだろう。


Nebensonnenにでは、3つの太陽のうち、die besten zweiが沈んで、三番目が沈むとすれば、楽になるだろうにと言っていますが、この3つの太陽というのは何を指すのでしょうか?
3番目は恋人でしょうか。nuelichはneulichですね?

宜しくお願いします。

A 回答 (3件)

>梅津時比古氏の冬の旅解説本を買いました。



どういうものか調べてみました。これはかなり割り引いて、用心してお読みになった方がよいと思います。著者は音楽評論家という肩書で、現在音大の学長でもありますが、もともとは哲学が専攻で、ジャーナリストなどをしていた人です。一応、ケルンの音楽大学に留学とは書いてありますが、なぜか日本で音楽評論家の肩書を持つ人の多くは、音大で楽理を学んだ人ではなく、一般大学の出身者です。こういう評論家が本を書くときは、これまでにない新説を構築しようという功名心がかなりあります。功名心というと言い過ぎかもしれませんが、そういうものを出さないと評価されない世界でもあります。目次と本文の一部が閲覧できたほか、この本の発表後にもう一度ミュラーのテキストを読み直して違う結論を出したという論文が、ほかの著者との共著の形でインターネットに出ているのを見ましたが、あまりにも学究的な深読みが過ぎます。哲学や宗教との関連を含め、かなり難しい内容で、共著者も哲学専攻の人です。象徴ということにあまりにもこだわり過ぎて、詩を文学的感性で読むのではなく、哲学的謎解きの材料にしてしまっています。
http://www.waseda.jp/w-com/quotient/publications …

インターネットに出ている論文と書籍の内容がどのくらいかぶっているのかわかりませんが、Weltbaum(世界樹)などという概念を持ち出したり、水平的存在、垂直的存在などという見方を導入したり、凍った川を倒れた菩提樹と読み替えたりしています。杖を表すWanderstabという語に権威の象徴という意味が強いとかで、Weltbaumに結び付けていますが、論拠がどこからきているか不明ですし、そんなに深刻にとるべき表現ではないと思います。Wanderstockという語もありますが、これはステッキのようなもので、旅に使うものではありませんし、指揮棒のこともStabということがあります。凍った川を倒れた菩提樹と読む理由には、Rindeという語がかかわっているのかもしれませんが、ミュラーは、『冬の旅』以外の詩でも、凍った川の表面をRindeと形容しているので、これもかなりのこじつけだと思います。下の個所などは笑ってしましました。

「僕の心はほとんど死んだように凍てつ」いたのだから,ミルクが凍ると水分と脂肪分が分離するように,〈僕〉と〈僕の心〉とに分離したのではないだろうか。それは自我の崩壊寸前の状況であろう。しかし,〈僕〉は〈僕の心〉を客体化した上で,それに揶揄するように問いかけることで,完全な崩壊をくい止めているのであろう。

哲学に憑りつかれた人は、こういう読み方をしないと気が済まないようです。
あるいは、Herz(心)とKopf(頭、理性)との対立について書いてある個所がありますが、そのこと自体はまあよいとしても、「頭上に」という表現でミュラーがHauptという「雅語」を使っているから、単に「頭」ではなく「理性」を主張している、という見方も強引です、辞書の見出しには「雅語」と書いてありますが、詩で雅語を使うのは当たり前ということもありますし、Hauptは、普通に頭という意味でも使う言葉です。

例文
Durch das ständige glatt föhnen und der schweren Haarextensions wird das Haupt des Models nämlich immer lichter.
Er rannte zu seiner Oma und heulte in deren Schoss: «Oma, Oma, sie haben mir den Willi abgeschnitten!» Oma streichelte Herbertchen übers Haupt – und sagte nichts.

「三つの太陽」の意味については、「恋人の眼」説を流用して、それにいろいろ理屈を付け加えています。残っている一つの太陽は「臓器としての心臓」と言っていて、つまり死を望むという解釈です。私は、この意味の詮索はあまり凝り過ぎるべきではないという考えですが、今図書館から借りている「シューベルト作曲 歌曲集 冬の旅 対訳と分析」によると、ミュラーのこの詩には、Ludwig Uhlandの『Wanderlieder』という「お手本」があったということで、その中の第6作『Winterreise』はこのような詩です。

Bei diesem kalten Wehen
Sind alle Straßen leer,
Die Wasser stille stehen,
Ich aber schweif umher.

Die Sonne scheint so trübe,
Muß früh hinuntergehn,
Erloschen ist die Liebe,
Die Lust kann nicht bestehn.

Nun geht der Wald zu Ende,
Im Dorfe mach ich halt,
Da wärm ich mir die Hände,
Bleibt auch das Herze kalt.

この詩の内容が、Nebensonnenとかなりダブるので、かなりの程度下敷きになっている可能性があります。これをそのまま素直に典拠として使うならば、「Erloschen ist die Liebe, Die Lust kann nicht bestehn.」とありますので、一番大事な二つはLiebe(愛)とLust(喜び)ということになりますが、このぐらいでちょうどよいのではないかと思います。そして、「Die Sonne scheint so trübe」と「Bleibt auch das Herze kalt」という行から、最後に残った太陽は「希望」とも解釈できます。いまだに希望が捨てきれないので、それが完全になくなった方がよほど静かに生きられる(Im Dunkel wird mir wohler sein)ということではないかと思います。これを「死」と考えるのは、私は少し無理があると思います。シューベルトの曲は、穏やかで諦観に満ちた曲ですし、詩の順番にも留意する必要があります。シューベルトは、ミュラーの詩の順序を変えているのですが、オリジナルではNebensonnenが20番目で、そのあとにFrühlingstraum、Einsamkeit、Mut、Der Leiermannと続くのです。シューベルトにつきまとうイメージは「さすらい人」ですが、ミュラーの『冬の旅』のお手本となったウーラントの作品は『さすらいの歌』ですし、永遠にさすらう人の孤独というテーマが貫かれています。死ぬのではなく、そのままずっとさすらい続けるのです。

思いがけず長いやり取りになってしまいましたが、『冬の旅』を訳したがる人は多いようで、ほかにも2つほどネット上にありました。御紹介するほどのものではありません。しかし、専門知識のある人は、また逆の意味でまちがいをしやすくなります。あまりいろいろな知識を寄せ集めて結びつけるので、奇怪なものができてしまいます。ドイツ語による解説書があるとよいのですが、今のところ適当なものが見当たりません。日本で出ているものには、あまりよいものは無いと思います。今私が借りているものぐらいがちょうどよいです。絶版で入手が困難なので、お近くの図書館にあるようなら御覧になってください。

シューベルト作曲 歌曲集・冬の旅 対訳と分析
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83 …

なお、ミュラーが手本にしたウーラントの『さすらいの歌』のテキストは下のサイトで見られます。
http://www.zeno.org/Literatur/M/Uhland,+Ludwig/G …
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この回答へのお礼

>詩を文学的感性で読むのではなく、哲学的謎解きの材料にしてしまっています
何度もありがとうございます。本を手にして、まだ全部ではありませんが、関心の強いところを読んでみました。
ご紹介いただいたものほど「哲学オタク」ではないようですが、Nebensonnenの最後の太陽は自身のDoppelgaengerという説を自分の新解釈として出していたり、ニヒリズムや反体制、革命などニーチェやハイデガーなどと関連づけて論じています。
小難しい話はよくわかりません。それより、詩の美しさをそのままで堪能したいものです。
この本ではどちらかと言えば無難な解釈がなされているように思います。
「買って損をした」というほどのものでもないようで、まあまあ、普通な感じでした。
長文のご解説ありがとうございました。

お礼日時:2015/11/09 00:10

『冬の旅・対訳と解説』という書物を今日図書館で受け取りました。

まだ開いているので、もう一度まとめ直します。
書物の著者は作曲家と独文専攻の方ですが、名字が同じで、同時期にドイツの同じ都市に留学していることから、御夫婦ではないかと推察しています。やはり、あくまでも歌う人のための参考書でしたので、期待したほどには細かい解説はありませんでしたが、参考にはなりました。私の最初の解釈でよいと思われた部分もありますが、解釈を絞れないところや、新たな解釈が思いついた箇所もあります。

まずein zerbrochner Ringの件です。今日借りてきた本にも、この部分については解説がありました。

(・・・)「壊れた指輪と訳されているのをしばしば見受けるが、この“Ring”は単なる「輪」であり、指輪ではない。(・・・)文字のまわりに輪を刻み込んだ。(・・・)壊れた輪、即ち破線の輪(・・・)第1曲において、恋人と青年の結婚について、母親が語ったと歌われているので(・・・)、「結婚」と関連させて「指輪」と解釈するのは不可能ではないが、(・・・)即物的に言えば単なる「輪」である。

この下に、名前と日付を破線の円で囲んだイラストが出ていました。やはり、私の最初の解釈と同じです。先の回答では、「指輪」の可能性も考えて、幻影として浮かんだという可能性も考えてみましたが、その際参考にした指輪の象徴的イメージは、フロイトの夢判断に関係するサイトで、そういう象徴的意味がこの時代にすぐ連想されたかは疑問です。詩全体の内容から言って、「結婚」から「指輪」への関連は少し無理があることから、今のところ、破線の輪と考えておく方がよいと思います。最初に楽譜の訳詩を見てそのように回答した際には、シューベルトの楽譜を見て、シューベルト自身がどう解釈しているかを考えたのですが、この部分のピアノの伴奏で、右手と左手が交互に和音を刻んでいく形が「とぎれとぎれ」の印象を与えるので、楽譜の訳詩の通り「とぎれた輪」でよいと考えました。今回借りた本には、楽譜の分析もあるのですが、この伴奏形については何も書かれていません。ドイツの音楽学者なら、こういう点に着目すると思います。私がインターネットも含めて見た翻訳は5種類ですが、「割れた指輪を描き込んだ」としている人が一人、この人も独文専攻の人ではないような気がしますが、やはり不自然だと思います。インターネットに出ているほかの訳は、「途切れた輪で囲む」、「名前と数字の周りを囲んで、切れぎれの輪っかで」の二つで、この訳者たちもプロではないようですが、全音楽譜出版社の楽譜の訳「とぎれた輪で囲んだ」、および、今日借りてきた本の「破線の輪で囲もう」という解釈を踏襲した形です。今挙げた、問題がありそうな訳は下のものです。このどれかを御覧になったのでしょう。

http://gakuyuu.exblog.jp/4061271

http://homepage2.nifty.com/182494/LiederhausUmeg …

http://www.musicapoetica.jp/record/20090123d.pdf

どれもまずいです。2番目の人は、『菩提樹』の訳を否定している人ですが、ここで、「zerbrochner」を検索しても1000件ぐらいしかヒットしないのであまり使われていない言葉ではないかとか、クライストの戯曲『こわれがめ』と結び付けられるのではないかなどと書いています。しかし、「zerbrochner」は、詩のリズムの制約から「e」を省略しているだけで、本来は「zerbrochener」です。「zerbrechen」はごく日常的に使う語ですので、古い辞書で独学しただけの人ではないかと思います。また、氷に関係する語が原詩にないので、あえてそのまま訳したとありますが、「皮」や「殻」はどうしてもわかりにくく、楽譜の訳や解説書の訳のように「氷」を補足した方がよいと考えます。3番目の人の訳は、言葉使いが荒すぎます。Wasserflutという曲の題名の訳は、2番目の人が「溢流水」、3番目の人が「洪水」で、とてもついていけませんね。

次にreißend schwilltの個所ですが、解説書では、私の最初の解釈に近い「裂けんばかりにたぎっているのか」という訳になっていました。私の場合は、氷との連想で「裂ける」ととったので若干違いますが、動詞reißenの原義に近いという点で似ています。全音の楽譜の訳は「みるみる想いの水嵩が増そうか」で、やや穏やかです。ただ、シューベルトはこの行を3回も繰り返して強音で情熱的に歌わせているので、reißendという語が激しさを表すことは確かです。この箇所の訳は少し難しいです。ネット上の訳は、やはりみな問題があります。1番目の人は意訳が過ぎて、原詩から離れすぎてしまっています。2番目の人の、「心よ、この小川に自分の姿が見えないか・・・お前の殻の下もまた激しく昂ぶっているのではないのか」は、これでは誤訳になります。ここでduと呼びかけているのは「わが心」であり、Rindeは凍った川の表面なので、「お前の殻」ではつじつまが合いません。この部分の訳は本当に難しいですが、「reißend schwillt」が川の流れの「激しさ」と「水嵩の高さ」を言っていることは間違いありませんし、nunの意味も入れたいので、暫定的な私訳としてこのようにしてみます。

私の心よ、この小川の中に
おまえはいまみずからの姿を見てとるか?
その固い表皮の下でも
きっと波高い激流となっているのではないかと

Nebensonnenについては、やはり複数の解釈の可能性があり、そのいずれにも執着せず、幻想の中で遊ぶ方がよいというのが、解説書の著者の意見でした。

① 青年の幻影
一つは空の太陽、二つは恋人の眼の象徴。
② 詩的表現
二つは彼女への愛と信頼、最後の一つは将来への希望。
③ 生理現象
目に涙がたまったとき、特定の角度で太陽を見ると、涙の中で反射し、涙の上下に太陽が見える。
④ 気象現象
先の回答で触れた「幻日」の現象

ネット上の訳者のうちの二人は、恋人の瞳説のようですが、私はいま、少し違う視点を持っています。Ach, neulich hatt’ ich auch wohl drei:という個所ですが、Achはシューベルトによる変更で、ミュラーの原詩ではJaです。どちらかというと、今ふと思いついた、という印象ですし、wohlという推測の副詞もあります。ミュラーは、最初から三つの太陽にそれほど限定的なイメージを付していないのではないかという気がします。解説書の著者は、ミュラーがNebensonnenという語を使っている以上、その時代にすでに「幻日」という自然現象が確認されていたことに相違ない、と書いています。一番自然なのは、やはり前半で見ているのは実際の自然現象の「幻日」ととることです。それを見て、「そうだ、つい最近まで、自分にもきっと三つの太陽があったのだ」と連想するわけで、みな、「一番良い二つ」という表現に惑わされて特定の意味を読み取ろうとしますが、「幻日」で見られる幻像が「二つ」であることをそのまま流用して、これまでのことは幻に過ぎなかったと気づいた、と言っているだけかもしれません。残っているのは本当の太陽なので、主人公が今置かれている現実ともとれそうです。シューベルトによるこの詩の作曲は、ごく穏やかな音楽で、「一番良い二つ」という個所は、音楽上の完全な終止形になっていないことから、限定的な意味よりも、漠然としたイメージが表れているように思いました。仮説ですが、みな少し考えすぎなのではないかという気がします。
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この回答へのお礼

三度の丁寧なご解説ありがとうございました。
>この部分のピアノの伴奏で、右手と左手が交互に和音を刻んでいく形が「とぎれとぎれ」の印象を与えるので、楽譜の訳詩の通り「とぎれた輪」でよいと考えました。
そうですね、ピアノの音も考慮に入れて判断なさったのですね。とても的確だと思います。
>氷に関係する語が原詩にないので、あえてそのまま訳したとありますが、「皮」や「殻」はどうしてもわかりにくく、楽譜の訳や解説書の訳のように「氷」を補足した方がよいと考えます。3番目の人の訳は、言葉使いが荒すぎます。Wasserflutという曲の題名の訳は、2番目の人が「溢流水」、3番目の人が「洪水」で、とてもついていけませんね。
勘が鈍くて、恥ずかしくて、馬鹿な質問をしてしまいました。Rindeのことですね。(汗)
一番目の人の訳はあまりに勝手な意訳が多くて、ちょっとびっくりしました。スペルミスもたくさんありますね。
「溢流水」とか「洪水」とか、ちょっと笑ってしまいます。自治体の災害関係部署の文書かと思ってしまいます。三番目の人の訳はなるほど、言葉がべらんめえ調で、死に場所を求めてさまよう繊細な主人公のイメージに全然そぐいませんね。詩の訳ですからもう少し文体を考えていただきたいです。
私が参照したのは
http://www.musicapoetica.jp/record/20090123d.pdfです。上記の3番目のものと同じですが、訳は違っています。よくわからないのですが。Wasserflutは「涙の川」となっています。レベルは同じぐらいかと思います。
>シューベルトによるこの詩の作曲は、ごく穏やかな音楽で、「一番良い二つ」という個所は、音楽上の完全な終止形になっていないことから、限定的な意味よりも、漠然としたイメージが表れているように思いました。
みんな考え過ぎかもしれませんね。Tastenkasten先生のご意見に賛同します。
梅津時比古氏の冬の旅解説本を買いました。まだ届いていませんが・・・
知識がほとんどありませんので、少しは役立つかと思って買いました。読んでみます。
久しぶりにネットでですが、フィッシャーディスカウを聴きましたら、昔若いころと随分歌唱が変わっていてびっくりしました。数十年経っていますので、当然かと思いますが・・・
ありがとうございました。

お礼日時:2015/11/05 00:05

War' schad' um deine Ruh'のWarは、御指摘通りWär'の間違いです。

もし君の夢を邪魔してしまったら、君の安らぎについて残念なことになるだろうから、という仮定の用法です。昨日頂いたコメントを読んで、日本語訳が出ているサイトがあるようなので見てみましたが、nuelich同様、書き間違いがかなりあり、しかし多くの人が見ているようで、あちこちにコピペ引用されています。困ったことです。
詩の解釈は時間がかかり、このような連作の場合は、全体をよく読み込まないとうっかりしたことは書けません。私が『冬の旅』をよく聞いたのは、まだドイツ語を勉強する前の若いころで、詩はあまりよく読み込んでいませんでした。もっと素朴な詩のように思っていましたが、今見てみるとそうでもないですね。
Nebensonnenですが、これはまず自然現象として、太陽と同じ高さに光が現れるというものがあります。日本語では「幻日」といいます。写真を見ると、たしかに三つの太陽が出ているように見える場合があるようです。
https://de.wikipedia.org/wiki/Nebensonne

この詩が書かれた時代から、Nebensonneには、Unheil(大きな不幸、災難)という文学上の象徴的意味があるとされています。英語のあるサイトでは、そのようなむずかし意味ではなく、自然現象の「幻日」だとしていましたが、前半はその通り、幻日の現象を実際に見ていると考えられるとはいえ、最後の4行では、一番良い二つが沈み、残りの一つも沈めばよいと言っているので、別の意味が込められていることは間違いありません。ただ、これが何かということになると、いろいろな解釈があり、定説というものがあるようには見えません。一つの解釈は、一番いい二つは恋人の目だとするものです。ごく素直な受け止め方をするなら、消えてしまえばいいというのは主人公自身のことになると思います。そして、その前に、実際に目の前に見えている幻日に対して「他の人の顔を見てくれ」と言っていることを考えると、これまでは太陽が自分を見ていてくれたと解釈できますので、その太陽は恋人であり、一番いい二つの太陽が恋人の両方の眼だという見方も一応わかります。また別の解釈では、三つの太陽をGlauben、Hoffnung、Lebenの寓意だとします。信じることができなくなり、期待をつないだもののそれもなくなり、最後に残った命も消えてしまえばいい、という解釈です。またある人は、三つの太陽を人生の時期を表していると解釈します。ほかの解釈もあるでしょう。大事なものをだんだん失っていく時間的な経過を考えると、Glauben、Hoffnung、Lebenとする二番目の解釈もわかるのですが、「一番いい二つ」と言っている以上、その二つは同程度のよいものである必要があります。LiebeやGlückとする考え方もあるでしょう。今のところ、独自の解釈というものが出せないので、恋人の眼だとする説も排除できずにいます。

前回の詩の解釈についても、補足と変更があります。

Um Nam' und Zahlen windet
Sich ein zerbrochner Ring.

という個所ですが、「壊れた指輪で囲った」という訳だとよくわからないので、日本の出版社から出ている『冬の旅』の楽譜の巻末の訳詩を参照しました。「とぎれた輪で囲んだ」となっていました。その方がまだわかるので、それをもとに考えたのですが、あとから疑問が起きています。「囲んだ」と訳すと、いかにも主人公が氷の上に自ら何かを書いたように聞こえますが、sich windenという再帰動詞を使っています。あくまでもRingが主語です。割れた指輪というのは、愛や誠実さが壊れたことを象徴すると考えられるので、ここはやはり指輪ではないかと思っています。そして、これは氷の上に主人公が実際に描いたのではなく、名前と数字のまわりに、それを囲むように割れた指輪の幻像(イメージ)が現れた、ととることもできるように思います。
また、最後の行のreißend schwilltなのですが、reißendというのは「激しい」「猛々しい」というような意味になります。氷のイメージに合わせて、あえてreißenという動詞のもとの意味にとってみましたが、reißendとschwellenの2語の組み合わせを検索してみると、大部分は激しい川の流れの描写でした。reißendを「氷を割るがごとく」というような意味にとれるかどうかはちょっと疑問に思っています。schwellenはもちろん増水した状態をいうと思います。ですから、見た目は凍りついて動かない川でも、その中にある自分の心は激しく流れているということになります。楽譜の訳では、「みるみる想いの水嵩が増そうか」となっています。「煮えたぎる」という訳はあまり感心しません。これでは情熱や怒りを連想します。楽譜の訳の方が私には自然です。
御覧になっている訳がどのようなものか、インターネットで探して見ましたが、訳者は独文専門の人ではないようです。ほかにもちょっと似たようなレベルの訳がありましたが、この人もやはり独文専攻ではないようでした。一人の人は、Wasserflutという題を、『溢流水(いつりゅうすい)』などというものものしい訳をしており、『菩提樹』についても、釈迦がそのもとで修行した菩提樹とは違う種類のものだからという理由で、その訳は適切でないとし、『リンデの樹』などと訳しています。これに感心して引用している人もいるようなのですが、この訳者が論拠にしているのは、今はもう入手できないような古い岩波の独和辞典のようです。しかし、昔の外国語の辞書では、植物名などの専門用語はまだあまり整理されていないものが多くあります。調べてみると、インドの菩提樹は、クワ科のインドボダイジュで、日本の菩提樹はシナノキ科、西洋菩提樹も近縁のシナノキ科となっていました。従来の訳を超えたいという功名心なのかどうかわかりませんが、十分考証せずにこのようなことが書かれてネットに出回るのも困ります。また、仮に日本の菩提樹と西洋の菩提樹が全く同じものでないとしても、詩の訳としては『菩提樹』という言葉は悪くありません。学術的に万全な正確さが、文学的によい訳になるというわけでもありません。この人の訳は、全体的に文学的センスが足りないと感じました。
いろいろ調べている途中で、シューベルトの『冬の旅』についての解説書が出ているのを見つけました。著者は、ドイツに留学したあと、東京芸術大学の教授をしていた作曲家と、独文専攻の人二人です。興味があるので、近くの図書館で取り寄せ依頼をしてあります(その図書館にはないので、ほかの区からの取り寄せです)。今月はあまり時間がないので、じっくり読めないと思いますが、収穫があったら、次回の御質問のときにでも御報告します。
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この回答へのお礼

Tastenkasten先生、とても詳細なご説明をありがとうございます。
>大事なものをだんだん失っていく時間的な経過を考えると、Glauben、Hoffnung、Lebenとする二番目の解釈もわかるのですが、「一番いい二つ」と言っている以上、その二つは同程度のよいものである必要があります。LiebeやGlückとする考え方もあるでしょう。今のところ、独自の解釈というものが出せないので、恋人の眼だとする説も排除できずにいます。
恋人の目というのは冬の旅でも美しき水車小屋の娘でも出てきますね!なるほどと思います。書いた詩人にしかわかりませんが、今となっては、ある程度、その解釈は読み手に委ねられますね。

>これは氷の上に主人公が実際に描いたのではなく、名前と数字のまわりに、それを囲むように割れた指輪の幻像(イメージ)が現れた、ととることもできるように思います。
主語がein zerbrochener Ringでsich windenなのでおっしゃるようにイメージと取る方が自然な感じになると感じます。

私が参考にしたのは、ネットで一番簡単に見つかる対訳のサイトですが、本当に初級者でもわかるような間違いが多く、信頼できませんね。これが拡散していくのは困りますね!昔もレコードの付録でついてくる解説書は結構デタラメなことが多くありました。学生のアルバイトの手になるものかと思っていました。冬の旅の対訳はドイツ語専門でない方がfreiwilligになさっているのでしょうか?専門でも先般のドイツ国歌の解釈のようなこともありますね!(笑)
正確な詩と訳を願いたいものです。Tastenkasten先生がしてくださるとたすかりますが・・・
冬の旅の信頼できる解説書をお読みになっての収穫をまたいつか教えていただけるなんて嬉しいです。ありがとうございます。
それにしても、既に音楽はもとより、ドイツ語に関しても「大家」でいらっしゃいますのに、清野氏の文法書をお買い求めになったり、たゆまずに学び続けるという、謙虚なご姿勢に感服します。素晴らしいです。
ありがとうございました。

お礼日時:2015/11/02 13:34

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