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いつも使っている広辞苑を引きますと、

「偏りや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと」とあります。

平等といえば大抵人間についてのこととなりますが、人間が「等しい」
とはどういうことなのか?これがキチンと定められないので、平等とい
う概念がなかなかつかめないのではないかと思います。

1.平等と公平とはどう違うのでしょうか?

2.運動会で手をつないで皆でゴールするのは平等でしょうか?

3.先天的障害は不平等と言えるのでしょうか?

4.平等という概念は実質、観念論になっています。世の中差別に満ちているからです。
平等という概念は必要でしょうか、不必要でしょうか、その理由もお願いします。

5.その他諸々

質問者からの補足コメント



  • あと、こういう情報に食いついているんでしょうね。

    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/01/14 14:11

A 回答 (21件中11~20件)

平等平等いうんなら


あなたがまず生活・安全レベルの低い地域に引っ越してみればいいんですよ。
嫌でしょ?
あなた自身が平等を実践してないのに何いってんだか。
って。

もしも感情を害されたのなら、この回答は無視して下さい。
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この回答へのお礼

珍妙な理屈を言うと、特に中高年の男性が怒りイライラすること知っていて、
これを意図的にやるという「テクニック」が割と流通していることを知ってい
ます。

これは、そもそもは人格障害者がしばしばやることです。
私は経験上、臨床心理士等に相談し、教えられたことがあります。

対策は、振り回されないことだということです。

お礼日時:2019/01/12 09:51

うーん…



だから私はその
一人一人の人間が「平等」だとは思ってないのです
現に不平等でしょ?

ただ
「平等であるかないか」を判断する基準は一つではないですよね?
学校に置いてさえも
科目がそれぞれあるように
実際の社会では、いろんな判断基準があります

経済力や容姿などだけでなく
人間の評価は様々です

さらに例えば
「お金持ちかどうか」ということでさえ
低収入でも満足して生活している方もいるでしょうし
人よりも多くの経済力があっても
「もっとお金が欲しい」という方もいるでしょう

ちょっと話がズレるかもしれないけど
私の知る範囲ですが
美人なのに自分の容姿に自信がない女性というのはわりといます
(男性はあまりいないかも…?)
逆に、男女ともに
「失礼ながら、その容姿で、どうしてそこまで自分に自信が持てるのだろう?」
という言動の方もおられます
なんか、ちょいちょいモテ自慢とか
褒められた自慢とかしてくる…
あれ、なんなんですかね?
でも、そのほうが幸せなのかな
美人で本気で「私なんか全然だめなんです」とか人よりは
悩みないのかなあ

人間それぞれの「違い」があり
さらに自己評価も違いがある…
そしてその人の幸福感とか認識って
その人の内部のものですし…
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この回答へのお礼

>だから私はその
一人一人の人間が「平等」だとは思ってないのです

分かっていますよ。ただ私は平等と思える自然の恵みすら、不平等と言える
のではないかと思う、と言ったまでです。

大した美人でもないのに何故そこまで自身が持てるのだろう?という良くある
疑問についてですが、これ結構簡単じゃないかな。

まず、我が儘だということですね。

「私は美人に決まっているの」と、ここが固定されています。

そして、ライバルになるような、どう見てもその人より美人を低く見ます。

これも決定事項です。異論を挟むことは出来ません。異論を挟めば激怒するで
しょう。

その結果、自分が凄い美人でいられるのです。こういうシンプルなカラクリに
なっていると思います。

男が容姿について自慢に思っているのを私は見たことがありませんが、男は内面
ですね。
やはり同じカラクリで「自分は凄い、天才だ」と思っている人はいます。

男でも女でも、そのターゲットになる人のタイプは「隙のある人、心の弱い人」
だと思う。
これが差別だと思いますね。理由が理由だから、差別がなくならない、むしろ増え
ていると思いますね。

お礼日時:2019/01/13 19:42

この話にはこう言うポイントがあるかも知れません。

鯛焼きってのは、分割するのが難しいです。非対称の食べ物だからです。一見すると頭の方が餡が多い様に見えるから、それを考慮して尻尾の方を少し長く取らなきゃいけない。
そしてこの世のものも、大抵が非対称です。

この非対称と言うところをミソと見るなら、どちらかと言うと、分割する方に分があるのでは無く、選ぶ方に分がある様に思われます。分割する方は下手をすれば必ず損をする立場です。選ぶ方は、下手をし難く、例え厳密には少ない方を取ったとしても、分割者の力量に応じた最低限のものは得ることができます。分割する方には責任があり、選択する方には保障があります。
だから、分割する方には優れた者が立たなければならない。

そしてこの方法で鯛焼きを分ける提案を出来るのは、優れた方、強者の方です。何だったら弱い方を騙したり、一方的にぶんどることもできますが、それでは後味が悪い。それで、この様な方法を思いつくことによって、自分も、相手も、悲しませない道を採るのです。

で、現実の諸問題に照らして、鯛焼きに相当するのは何か?分割者に相当するのは誰か?選択者に相当するのは誰か?などを考えると言うことですね。

例えば重い障害を持って産まれた方を、邪魔な存在として扱う社会もあれば、彼らに出来るだけ自由に生きて貰おうとあれこれ工夫して、その意思や希望を汲み上げようとする社会もある。つまり、選択を与える社会です。障害者なんだからこれ食べなさい、ここで寝なさい、日中はこの様に過ごしなさい、なんて強制する方向に行くのではなく、食べられるもののうちで何が食べたいか、ケアの行き届く範囲で住める場所はどこが良いか、出来る事のうちで日々をどの様に過ごしたいか、その様な選択を、コストを払って彼らに与える事、それが平等な社会です。なぜその様なコストを社会が払うのかと言うと、彼らを蔑ろにすれば、後ろめたいからです。彼らを見限ることも出来るが、それをすれば心が圧迫されるのが人間です。

障害者を支えることによって急進する医学的知見やサイボーグなどの技術革新の恩恵を、副産物として社会が受けることも出来ます。

弱者に、出来るだけの選択が与えられる社会、これが良い社会です。


或いはまた、アフリカ大陸に知識の種を適切に蒔けば、100年、200年後には必ず大きな実りを人類社会にもたらすでしょう。知識は人を育てるからです。そして銃弾をばら撒けば、不穏の影が撒いた者共を覆うでしょう。人を争わせた者は深い地獄に落ちる。ところで、地獄に落ちた者を人々が見ることは出来ません。何故なら、彼らはこの世に帰って来ないからです。

そして本来無分別である智慧を分割する者は正しい道の体現者であり、その行いは常に安穏に帰す。その分割されたものが世間に見られる諸々の徳であり、人々の得るべきものであり、拠るべきところなのだと思います。そしてその徳を修めて、しかも道の完成を見ない人が、本来無分別のその智慧を求め、見、ついに道を完成するのだと思います。
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この回答へのお礼

なるほど、やっと分かりました。

ところで、「弱者」ということについてですが、肉体的・精神的障害者あるいは重病の
者は、一人では生存すらできないケースが多いですから、助けることには勿論異存はあ
りませんが、他にも様々あり、多くの人が事実の上で苦しんでいるのが現実社会です。

子供は弱者ですね。高齢者も弱者ですね。女性はどうでしょう?弱者に現在は入ってい
ると言っていいのではないでしょうか?
残るは青年・壮年期の男性ということになりますが、ニートも多いようですし、精神を
病む人もとても多い(一部は障害者になるでしょうが)、自殺者も男性が多い、さらに、
周囲を見回しても男性は明らかに元気がない(苦笑)。

元気なのは孫正義くらいか?彼は今楽しくてしょうがなく、あと20・30年は頑張りたい
なんて言っていましたね。
彼は最近「ベーシックインカム」のことを公式に語っています。

近い将来、孫さんに多くの国民が養われるなんてことになったら…

う~ん、超ビッグパパ、孫正義か…

お礼日時:2019/01/13 19:17

https://www.asahi.com/articles/ASM1C5HZLM1CUTIL0 …

~~~~~~~~

広辞苑とか長いkと使ってないのであたらしいのがほしいですね。
重くて使う体力がないですが。時も小さいだろうし。

呪文とか南アのでしょうか。
最近ニコニコニュースに煽れてるらしく
いやな気分ですね。

それからピースサインなの謎すか。これもふもふされたということでさんもピース新手間すしですよ。

gt4は

左側にぽよこたんが表示sレマ下が
右側はngt4の曲ですが

ゲーム速報とか漫画とか関係なのでしょうか。
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1.間違っていたら、直してください。



平等。。。憲法で保障された基本的人権を、年齢・性別・人種・学歴の有無・職業に関わりなく、いかなる国民も保有する。

公平。。。裁判になった場合、年齢・性別・人種・職業などの背景に関わりなく、公正な裁判を受けることができる。お上は、公平でなくてはいかんのです。

2.運動会という趣旨に反すると思います。もし、勝ち負けが不適正であるなら、ダンスの発表会でもすればよいと思います。勝ち負けをつけるのは、スポーツマンシップの育成に役に立ちますし、挫折感から抜け出す練習になります。全然勉強のできない子でも、足が速いことで、ヒーローになることが、できるのです。

3.先天的障害のある人たちも、一般人と同じように、基本的な人権・及び、国民の義務を負わせてこそ、平等になるのではないでしょうか。仕事を見つけて、働いて、税金を払うことで、生まれてくる誇りがあります。

4.自由は責任と同義語ですし、平等は戦って勝ち取るものだと思います。素敵な観念として、神棚に飾ってしまったら、お終いです。
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この回答へのお礼

平等と公平について、大変に簡潔に説明いただいたと思います。

運動会の話を初めて聞いたときに、私の頭の上に巨大な?が付きました。
それ以来日本の学校教育に大変に懐疑的になっています。

>平等は戦って勝ち取るもの

強きアメリカ人の文化でしょうか。

№6のお礼欄にも少し書きましたが、私は平等ということについて、差異を
極力少なくするということよりも、「差別の心」の存在を大きく問題視して
います。

多少不自由であっても、少々所有物が少なくても、差別を受けることほどの
不幸はないと思うんです。これは実は経験から申し上げることです。

今、日本では障害者が差別の目で見られることはまずなく、むしろ恵まれて
いると思います。
一方、非正規雇用者であること、合併吸収された側の社員であること、ある
いは男性であること、年配者であること、などなどによって強い差別を受け
ていると言う話は枚挙に暇がありません。

先日、知り合いの人がシルバー人材センターの中で苛めを受け、それがもとで
亡くなりました。

苛めというものは「差別感」が生み出す悪魔だと思います。

この差別という問題を解決しうるものは、哲学的・宗教的平等観であると思い
ます。

お礼日時:2019/01/11 23:26

1.平等と公平とはどう違うのでしょうか?


  ↑
平等というのは、普通は形式的平等を意味します。
つまり機械的に等しく扱う、という
意味です。

公平というのは、実質的平等を意味します。
例えば、強者にはハンデをつけるとかです。



2.運動会で手をつないで皆でゴールするのは平等でしょうか?
  ↑
それは結果平等、という
考え方です。
これに対し、機会平等、という考え方も
あります。
結果平等を目指したのが、社会主義、共産主義で
機会平等を理念としているのが、資本主義諸国です。



3.先天的障害は不平等と言えるのでしょうか?
  ↑
不平等です。
だから、援助することにより平等に
近づきます。


4.平等という概念は実質、観念論になっています。
世の中差別に満ちているからです。
  ↑
勘違いしています。
不平等だから、平等、という概念が
あるのです。
不平等を是正して平等にしよう、という
規範が誕生したのです。



平等という概念は必要でしょうか、不必要でしょうか、
その理由もお願いします。
   ↑
必要です。
この概念が無くなったら、格差がメチャクチャに
拡大します。

英国で産業革命が興ったとき、資本家は大儲けした反面、
労働者の平均寿命が二十歳未満、という信じられない
ほどに格差が拡大しました。
そのため、ドイツでは労働者と軍隊が衝突しました。
格差が拡大すると、社会が不安定になり、
強いては社会主義革命みたいな事態になり、
多くの血が流れることになります。



5.その他諸々
 ↑
平等には色々な種類があります。
相対的平等、絶対的平等。
形式的平等、実質的平等。

平等とは当初は形式的平等を意味しました。
しかし、資本主義が発達し、格差が拡大すると、
実質的平等が主張されるようになり、
福祉などが実施されるようになったのです。
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この回答へのお礼

tanzouさんはよく勉強しておられるようです。
従って、社会科学的に「平等」というと、仰るようなことになると思います。

それを踏まえて、質問文の冒頭に引用した言葉の意味について考えますと、
平等とは「差別」の反対語であり、「一様で等しい」という意味ですね。
これを更に哲学的・宗教的に踏み込んで考えてみたいと思います。

キリスト教の「神の元の平等」そして、仏教の平等観です。

お礼日時:2019/01/11 22:59

>平等という概念が必要か不必要か、あるいはどっちでもないか、ということと


その言葉を使うか使わないかは別問題だとは思いますが…

思索するに必要と思えば使うし、不要だと思えば使わないのが概念というものです。
必要と思うか思わないかは思索の主体が決定する事です。


>先天的障害が不平等だとすると、その不平等を生んだ原因は何なのだと考えら
れますか?

先天的障害は動物胚のかたちが受精卵から成体のかたちへと複雑化するプロセスに外乱が介入する事が原因と考えられていますが、具体的な外乱は確認しきれていません。
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この回答へのお礼

失礼しました、言いなおします。

「平等」という概念を共有するということが人類社会にとって有益であると思いますか?

もう一つの件について→よーくわかりました。

お礼日時:2019/01/11 22:44

回答No.1のお礼で


>平等という概念が必要か不必要か、あるいはどっちでもないか、ということと
>その言葉を使うか使わないかは別問題だとは思いますが…

概念があなたの頭に存在していれば、すなわち使ってることになります。
不毛な応酬で脳資源浪費は避けたいので、
これが違うとお思いになったら無視して下さい。
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この回答へのお礼

あ、そういう意味ではないです。

「社会にとって」という一言を入れればよかったですね。

お礼日時:2019/01/11 22:34

ちょっと思ったんですが


本当に平等な点においては
「平等にしましょう」という考えすら起きないですよね

例えば、どんな人も1日は24時間だし
一年に一回、歳をとる
この点については、すべての人は平等ですよね

これがもし
「老け顔の人は半年に一回歳をとる」制度とかになっているのなら
「不平等だ!」となりましょうが
見た目年齢がどんなに若くても
戸籍の年齢までは変えられないので
その点では平等です

しかし、多くの点で人間は不平等にできてます
不平等だからこそ
制度や法律では「平等にしなくちゃいけない」のでしょ?

運動会で手を繋いでみんなでゴール、てのもそうなんだと思いますけど
その時の徒競走の結果を平等にすることに、意味や効果はあるのか?ってことは問題です
世の中、不平等なんだから
そこだけ平等にしても意味ないですよね

一位の子とビリの子がいる
その結果は結果として
じゃあそれをどうするかってとこが教育なんじゃないですかね

ビリだけど勉強できるよね、とか
成績はあんまり良くないけど、優しいしねとか
わがままだけど歌上手いよねとか

不平等な現実だからこそ
じゃあどうするのかってとこが問題なのでは?
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この回答へのお礼

自然の恵み的なものは平等に与えられているように思いますが、例えば
「時間」のことを考えると、これは主観的に感じるもので、つまり相対
的なものになります。

苦しいことが多い人生では、その時は長く感じ、過ぎ去れば充実感のな
いものとして記憶に残ると思います。平等ではないですよね?

生きてゆく環境にしても、美しい自然のあるところもあれば、工場の煙突
の煤煙にむせぶようなところもあるわけです(私の住んでいたところがそう
でしたので引っ越しました)。

もちろん能力も違う、考え方も違う、感性も違う、運も違う。何もかも違
うと言えます。

そんな何もかも違う人々のある一面だけ合わせても、(運動会の例は分かり
やすい話として引用しました)仰るように一体何になる、と。

共産主義において所有物を合わせてしまうことが、新たな問題を生じてしま
ったように、極めて難しい問題だと思います。

ですから、人間の「違い」とは一体何物なの?そして、一人ひとり違う人間が
等しいという「平等」って何?ということを深く考えることがなければ、全然
何にもならないことをやり続けてしまってかえって混乱した、なんてことにな
りかねないと思います。

お礼日時:2019/01/11 22:23

人には、力や能力、境遇に差があります。

その様な中で平等はどのようなことを言うのかという事で、あぁ、平等とはこういう事なのか?と思わされた話があります。意外な視点です。

一つの鯛焼きを、二人で分ける時、どのようにしたら公平平等に分けることができるか、という簡単な問題にして考えてみる。

それにはまず、一人が鯛焼きを半分に割る。そして、もう一人が半分に割れた鯛焼きのどちらを取るかを選ぶ。というものです。

こうすれば、鯛焼きを割る人は、自分が損をしないように綺麗に半分に割るように努力するでしょう。選ぶ方は選ぶ方で、自分が損をしないようによく見て選ぶ。

この話を聞いて、そういえば幼いころ、兄とピザパンか何かを分ける時に同じことが起こったことを思い出しました。

こんな話が何の役に立つのかとか、平等の本質を表していないとか思われるかもしれませんが、私が平等について考える時、この話がいつも頭に浮かびます。

財、土地、資源、知識までも、物惜しみする処から争いは生ずると言いますが、所有と言うものを巡って如何に人に平等に物を行き渡らせるかと言う事において、この鯛焼きの考え方は基本的なことなのではないか?と思われるのです。

そして、物を分ける時には、つねに優れた者、強い者が、その物を分割する立場に立たなければなりません。未熟な者は、物を分割するのに等分できないからです。ピザパンの時も、兄がパンを割って、私が選んだように記憶しています。

 物の価値を正しくわかっていなければ、平等と言うものは能動的には実現するのが難しい。この物は幾らする?土地は?知識は?努力は?人材は?現代ではすべてお金ではかられますが、このお金と言う尺度は真に価値を正しく表しているのだろうか?また、人の持っている力や能力、境遇など、分けることができないものについてはどうするのか?つまり、力が弱く、能力に劣り、悪い境遇に生まれた人について、力が強く、能力に優れ、良い境遇に生まれた人は何を提示して彼らとの間に平等を見るのか?劣った者は身の丈を超える物・財・知識等を得れば破滅する。不用意に与えることで相手を破滅させてしまうこともある。そして、愚かにも人は自らに不利益なものさえ望んでしまう事さえある。
 
 また、人によって価値が異なるものについてはどうするのか?例えば、ある時点において、喉の乾いている人にとっては水は価値の高いものであるが、喉の潤っている人にはそれほど必要なものでもない。必要としているものが必要としている人のところへ行けば物の最大価値は発揮され、人類の資産の最大価値が実現するように思うが、所有と価値が置かれている状況は著しく複雑で、必要なところに必要なものがあるとはとても言えない状況です。特に知識などは分けても減らない、世俗におけるもっとも大きな財産の一つですが、知識を理解するための知識が無いとか、知識に対する対価を払わないどころか相手から盗んだ知識で相手をやっつけるなんて不届き者がいるので、容易に知識も普及しない。さらに粗悪な知識が人々を汚染するなんて状況もある。

少ない中からこそ分かち合えることがものおしみしないという徳であると言われるのに、多く持てる者ほどさらに多くを収奪し、(徳を備えた人々は早々にこの世を去って行って、)強欲な者の子孫(我々)が繁栄する結果となってしまった。

人々が幸せになるには徳を開発するしかないと思われるのだが、そのためには痛みを”知る”必要がある。だが、痛みを”感じて”さらに心が貧しくなるのが人間です。

平等と言う、自分にも、他人にも、不利益、不満、不幸を与えない立場に立ち、その方法を実践する事を考えると、なにか究極的なものの陰影が微かによぎる気がする。

・人にとっては、何に真に価値が在るのか
・それを平等に分かつにはどうするのか

このような論点です。鯛焼きの話は喩え話ですが、このように援用することで難しい問いにアプローチすることができたのかなと思います。
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この回答へのお礼

「平等」という難しい問題に対するアプローチとして、大変に面白いですね。

この「鯛焼きの話」似たような話をどこかで聞いたような気もしますが、単純な分
解釈が難しいですね。

共産主義の原理の話のようでもあり、資本主義の進化した形を表しているようでも
あり、要は、力を持った人間が、力の劣った人間の取り分を公平場合によっては公
平以上に与えることの可能な社会、いわば「徳徳主義」こそが、真の平等を実現出
来うるのだということなのでしょうか?

お礼日時:2019/01/11 21:57

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