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1、私自身の価値ある人生とは『多くの人々に奉仕できるように、それを追い求めつづけること』

2、私自身の楽しい人生とは『自分自身の願望を満たすために、それを追い求めつづけること』


正直に語らせて頂きます。どうか聞いてください、宜しくお願い致します。


同じように受け取られるかもしれませんが、自分の心の中では決定的に違うんです。
自分自身の心は、両方とも『価値あり』と思っています。しかし、私自身が真に価値ありと感じるのは1番なんです『楽しくないかもしれない、大変かもしれない、しかし、理想だ』と感じます。それでも、自分だけのことを考えると2だと感じます。自分の気持ちがよくわからないです・・・自分のほんとうの気持ちはどっちなんだろうと考えてしまいます。

『両方追い求めろよ』と言われるかもしれませんが、なぜか物凄く拒否反応がでて、とても出来そうにないと思ってしまうんです。

『人生は楽しむためにある』こういうことをよく聞きますので、やはり2なのか?と思ってしまう時もありますが、1では『真の充実感、いきがいを感じられるはずだ』と思ってしまいます。

どう考えればいいでしょうか?

なにか助言を宜しくお願い致します

A 回答 (28件中11~20件)

古来から、聖人と呼ばれる人たちは、道徳―人間としていかにして生きるべきか―について考えてきました。

孔子もしかり、ソクラテスもしかり…。

確かに、自分ひとりが楽しみを追い求めて生きていくのなら、そのような徳は不要です。本能に従って生きればいいのですから。そして、そのように利己的に生きるほうが、ストイックに生きるよりも遥かに易しく、楽です。
しかし、人間は社会的な存在です。皆が自らの欲望に忠実に行動していたら、そもそも社会とか国家とかは成り立ちません。そしてまた、pcbcさんのように、良心が痛む事もあるでしょう。

人は、自分のアイデンティティを持ちたい、と願っています。人は生きていくために、何かしらの生きがいが必要なのです。おそらく、pcbcさんは自分の生きがいを「多くの人々への奉仕」と設定したのでしょう。

この問題は、人間の、それこそ古(いにしえ)からの難問です。
そこで聖人達は考えました。「自分が、他人のために行う事を、苦痛だ、と考えるからこのような葛藤が生まれる。他人を思いやる(恕といいます)事が、そのまま自分の幸せになる、と感じられるように、自分の人格を形成していけばいいんだ!」と。


『多くの人々に奉仕できるように、それを追い求めつづけること』が具体的にどのような事をさしているのか解りませんが、その行為の中で、何か自分が幸せに感じるようなものを探してみてはいかがでしょう―はじめは、自分が利他的な事を行っている、という自己満足でもかまいません。

それこそが「思いやり」とか「仁」の精神の真髄ではないでしょうか。
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多くの人々に利益になることをするか、(利他的)


自分に利益になることをするか、(利己的)
ということが問題なのだと思います。

ここで、幸せ得点というものを考えます。
多くの人々に利益になれば、幸せ得点が一人10ポイントでも、100人いれば、10×100で、1000ポイントになります。
自分に利益になれば、幸せ得点は一人ですので、仮に100ポイントとします。
このとき、どちらが、いいのでしょうか?
合計得点からいくと、多くの人々に利益になるほうが、高得点ですが、一人あたりの得点でいくと、自分ひとりのほうが高得点です。
多くの人々に利益になることをしたとき、自分の幸せ得点が、マイナスになることがあっても、それを追求する、これは、ゲームのプレイヤーとしては失格です。しかし、自分という枠を拡張して多くの人々も自分の体の一部のようなものだとしたならば、多くの人々(自分)に利益になるので、ゲームのプレイヤーとしても問題が解消されるのです。

もうひとつ、もし、自分(多くの人々を含まない)の幸せ得点が、どちらも100ポイントで同じとき、他人の幸せ得点が、1000ポイントのほうがいいか、10ポイントのほうがいいかという問題があります。
利他的な人ならば、他人の幸せ得点が1000ポイントのほうがいいとすると思います。
しかし、利己的な人はどうでしょうか?答えは二つあると思います。というより、二種類の利己的な人が現れると思います。自分のポイントが同じ100ポイントならば、どちらでもいいという利己的な人と、自分のポイントが相対的に高くなるほうがいいから他人の幸せ得点が低い10ポイントを選ぶ利己的な人がいると思います。

問題から外れてしまったようにも思いますが、参考になったらと思います。
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再び#3です。



>『欲に忠実であることは、動物が動物らしくあるということ』 けど、人間は特別ですよね・・・?では、人間らしくというのは、理性に忠実ということなんでしょうか?

という文に対して考えたことです。

人間も動物のうちの一つだと思うのですが、人間はかなり長い時間軸でものを考えられるの動物だと思うのです。行動をおこしてそれがどのような結果になって、それが自分にどのような形でかえってくるのか、というのを考えるのが人間でしょう。行動とそれにたいする結果を考えた上で今の行動をきめる、というのが理性だと思います。

おなかがすいた。目の前にとうもろこしがあった。食べる。

これは人間にかかわらず多くの動物がとる行動だと思うのです。ところが

おなかがすいた。目の前にとうもろこしがあった。これを種としてとうもろこしを育てた。自分ひとりではたべきれないほど収獲できた。他におなかがすいている人にわけた。よろこばれた。さらに、次のおなかがすいたときに、このまえとうもろこしをわけた人から食べ物をわけてもらえた。

これも同じ食欲からきてる行動ともいえると思うのですが、ちょっぴり長いスパンで考えると自分の欲求もみたして、人々にも奉仕したことにもなってしまうのです。そしてそれがもどって自分の欲求をみたしてくれたり。にわとりが先か卵が先か、みたいなものでしょうか。
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No.12です。

言い足りなかったので再度。

宇宙飛行士の向井千秋さんは、人に奉仕する価値ある仕事として宇宙飛行士を選択したのではないと思います。純粋に自分の楽しみのためだと思います。文句なしに面白い人生でしょうねえ。

宇宙飛行士になる前は彼女は心臓外科のお医者さんで、石原裕次郎の担当医だったそうです。
お医者さんを目指した動機は、身体の弱かった弟をなんとかしてあげたかったからだと聞いています。こっちはあなたの言う1の人生ですね。お医者さんになるためにとても努力したと思います。
でも彼女の偉いところは、ちゃんと人生を楽しんでいるところです。学生時代もスポーツをやり、ポルシェに乗り(間違ってたらごめんなさい)、夫とはディズニーランドで大はしゃぎするそうです。(ちなみに、あっという間に寝付くとか)

目標を高く持って、自分のプライドが満足するような人生を送れば、価値も楽しみもあとからついてくるのではないですか。
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結果を考えてみてはどうでしょう?


あなたの考える価値ある理想的な人生が送れたとして、死ぬときにあなたは人生を振り返ってどう思うでしょうか?
とても満足して死ねるんではないでしょうか?
それとももっと遊んどけば良かったと思うでしょうか?

あなたの考える欲望のままに生きる楽しい人生を送れたとして、死ぬときにあなたは人生を振り返ってどう思うでしょうか?
果たして満足して死ねるでしょうか?
欲望に限りはあるでしょうか?
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捨て猫を助けるのも、聖人を助けるのも、心は一緒です。

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価値ある人生を送れば、それは本人にとってこの上ない楽しい人生だと思います。



楽しいというのは、おいしいものを食べるとか、ディズニーランドで遊ぶとか、そういう享楽的なものだけを指すのではありません。
自己満足にどっぷり浸かって、にやにやしてしまうような状態が、ほんとうに楽しいときだと思います。

マザーテレサはあらゆる欲望を捨て去って奉仕の人生でしたが、きっと神様にねぎらわれるのを疑わず、心安らかに昇天したと思います。自分が満足する、ということが大切で、そういう人生を選べば結果的に価値ある楽しい人生になると思います。

私には障害児の息子がいるので、福祉施設や養護学校の先生の仕事を目にする機会がよくあります。暴れる子にひっかかれたり蹴られたり、ときには噛み付かれたり髪を引っ張られたりしながらも、笑顔で働いている人たちの姿には感動します。ダウン症の子の笑顔が好き、なんて言う先生もいます。
私はそこまでできませんが、先生たちはきっとそれなりに楽しみを見いだせる価値ある人生を送っているのだと思います。

おいしい米や野菜、パンを作って買って喜んでもらう、これもじゅうぶんに価値があるかつ楽しい人生だと思います。
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あなたの考えている問題がとても素晴らしく大切なものであるように思えますので、もう少しだけ付け加えさせてください。



欲望というのは動物の中で人間だけがもたされたものです。
ですから欲望があるということは人間として自然なことであり決して悪いことではないと思うのです。
人間である以上、この欲望を捨て去ることはできないでしょう。
しかし欲望をどう扱うかも私達人間次第です。

私達は『欲望』というアクセルだけでなく『理性』というブレーキと『選択』というハンドルも持たされました。
人間はあまりにも貪欲な欲望を理性で調整し、自らの人生をどのようにでも選択することができるのです。
しかももっと素晴らしいのは、人へ奉仕というのも人間の欲望の一つだということです。
人の喜ぶ顔を見ると嬉しくなりますし、人が悲しんでいるのを見ると放ってはおけません。人を悲しませたり裏切ると苦しくなります。

ならば人へ奉仕することは自分の欲望の一つ、あるいは多くを満たすことに繋がりませんか。

簡単なことから始めてみてはどうでしょう?
仕事でお客様の立場に立って考えてみると今まで見えなかったことが見えてきます。
いつもできるだけ笑顔でいればそれを見た人も顔がほころびます。
やがてもっともっと人に喜んでもらいたいと思うようになります。

それがあなたも願望だったのかもしれませんよ。
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pcbcさん、こんにちは。



人間という存在を、次のA、Bのどちらに観るかによって、
ハッキリ違ってくると思います。

A.人間は魂の進化の為に生きる永遠の生命である。

B.人間は百年足らず生きて死ぬ肉体である。

pcbcさんはどちらだと思いますか?

多分、
Aと思う人は1の方を選択する時間が多いでしょう。
Bと思う人は2の方を選択する時間が多いでしょう。
と思います。

この回答への補足

ありがとうございます。

私は、Aだと思います。

しかし、今の自分で考えた場合、Bで生きようとしています。

補足日時:2005/03/14 23:26
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「自分のためにやっていることが、結果として他人のためになる」事や「他人のためにやっていることが、結果として自分のためになる」事だってあります。

楽しくやっていたことが価値があったり、価値あることが楽しかったりします。そうなるためには、自分がいかにそのことに情熱をそそげるかによります。
結局は、自分のやりたいと思ったことをすればいいと思います。

この回答への補足

ありがとうございます!

どちらでも、情熱をそそげる自身があります。

ほんとうに自分のやりたいことというのは、『自分の中にある欲がさせるもの』だと思うんです。
欲望は動物を動かす単純な動機、しかし、単純だけど、真理に近い事実だと思います。
人間だけが持つ力を総動員すると、『ちょっとまて!こうしたほうがいい』となります。

どっちが自分のやりたいことなんでしょうか??

『志をもちつづけるには、無欲でなければならないんでしょうか?』そうであるのならば、答えはでそうなんですが。

補足日時:2005/03/14 23:30
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