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1、私自身の価値ある人生とは『多くの人々に奉仕できるように、それを追い求めつづけること』

2、私自身の楽しい人生とは『自分自身の願望を満たすために、それを追い求めつづけること』


正直に語らせて頂きます。どうか聞いてください、宜しくお願い致します。


同じように受け取られるかもしれませんが、自分の心の中では決定的に違うんです。
自分自身の心は、両方とも『価値あり』と思っています。しかし、私自身が真に価値ありと感じるのは1番なんです『楽しくないかもしれない、大変かもしれない、しかし、理想だ』と感じます。それでも、自分だけのことを考えると2だと感じます。自分の気持ちがよくわからないです・・・自分のほんとうの気持ちはどっちなんだろうと考えてしまいます。

『両方追い求めろよ』と言われるかもしれませんが、なぜか物凄く拒否反応がでて、とても出来そうにないと思ってしまうんです。

『人生は楽しむためにある』こういうことをよく聞きますので、やはり2なのか?と思ってしまう時もありますが、1では『真の充実感、いきがいを感じられるはずだ』と思ってしまいます。

どう考えればいいでしょうか?

なにか助言を宜しくお願い致します

A 回答 (28件中1~10件)

こんにちは。

はじめまして。

とても難しい問題なので、私がうまく説明できるかわかりません。(今、頭の中を整理していますが、難しいです)

で、マズローの欲求段階説がヒントになるのではないかと思うので、参考URLを記載しますね。

http://www.dango.ne.jp/sri/maslow.htm

この回答への補足

なるほど・・・いい文章でした。学べました、感謝です。仮定ですか・・・たしかに私は、上から1と2の辺りにいると思います。でも、絶対こっちだとは決めれませんでした。重要な手がかり、有難うございました、思考錯誤してみます。

補足日時:2005/03/13 13:47
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私は、断固1です。

本当の楽しさは1の後に、1を追及する過程で得られるのではないですか。堀江社長の言うように「命の次に大切なのはお金」ですか?堤社長のように「友達を作らない」ことが幸せにつながりますか?本当に理解しあえる友人も1の中でこそ得られるのではないですか?私は、世間の評価としては「負け組み」かも知れません。でも1を追い求め、確実に幸せに近付いていると思います。どちらが後悔しない人生なのでしょう。1から2への切り替えは比較的簡単にできるでしょう。でも2の生き方に慣れてしまっては、1の生き方はできないでしょう。

この回答への補足

命の次に大切なのは心です。いい友達は欲しいです。
>どちらが後悔しない人生なのでしょう。1から2への切り替えは比較的簡単にできるでしょう。でも2の生き方に慣れてしまっては、1の生き方はできないでしょう。

私は、1は『真に充実し、いきがいを感じる』と思っています。それは忙しく、大変な人生かもしれませんが、だからこそ、ほんとうの楽しさを感じることが出来そうな気がしてきました。
今は大人の歳なんですが、小学校や中学校まで、学校は通っていました、たまにくる遊びの休日、最高に充実していたことを思い出しました。反対に、高校から遊びまくっていた時は、充実感も初めだけで、昔の義務教育が麗しく思えたときもありました。

ほんとうに有難うございました。

補足日時:2005/03/13 13:51
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私は2です。

でも、2を浅く解釈すると、まわりに迷惑かけてでも自分が欲しいものを追い求める、単なるわがままな人になってしまいます。でも、まわりにきらわれては、自分の目標に近づきにくくなりますよね。2を深く深く追求していくと、結果、1に通じることになると思います。自分が幸せでなければ、周りを幸せにすることなんでできませんしね。でも、徹底的に追求できないのであれば、1からアプローチするほうが無難です。

別の表現でいえば、個人の利益を徹底的に追求するならば、全体の利益をあげることが個人の利益をあげることにつながりる。たとえば、会社のサラリーマン。自分の業績をあげようとして、同僚の足をひっぱって同僚の業績を盗んでいては、会社はのびません。その瞬間は自分にボーナスがでるかもしれませんが。共に協力して共に業績をあげれば、会社そのものがのび、給料もあがる。自分の利益を考えての行動でも、まったく別のアプローチでまったく違う方向にいきます。

私には1を徹底的に追求するようなできた人間ではありません。なので、2を追求して、1にちかづいていこうとしています。

この回答への補足

有難うございます。
2は、自分の好きなことを目的にする、欲を素直に追い求める結果になりそうです。たしかに、わがままだと思われるかもしれませんが、『自分がしたいこと、好きなことを基準に道を選んできた』と思えると思います、そう思えれば、例えそれがどんな結果に結びついたとしても、自分に素直に生きてきたので、満足感が得られそうな気もします。
『欲に忠実であることは、動物が動物らしくあるということ』 けど、人間は特別ですよね・・・?では、人間らしくというのは、理性に忠実ということなんでしょうか?混乱してきました><

なにかアドバイス頂けれ幸いです。

補足日時:2005/03/13 14:10
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私もNo3の人と同じで、2が満たされた後で、1に移っていく感じではないかと思います。


例えばガンジーやマザー・テレサのような人も、2がある程度満たされている心理状態だったのではないでしょうか。
というか、そこまで聖人的な人でなくても、余程の悪人でない限り、2が満たされると次は1を満たしたい、という風に自然に心理状態が移っていくような気がします。

この回答への補足

ありがとうございました。
2が満たされると、更に1というものを満たしたくなる。
なるほど、わかるような気がします。
逆に、1が満たされると、2が満たしたくなるものなんでしょうか・・・1から2、2から1、同じようで、なにか両方別々で違う気がします。この感覚はなんでしょうか・・・

補足日時:2005/03/13 23:33
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#3です。

ちょっと追加ですが。

同じ行動でも、目的が1の場合と2の場合があります。でも、私はできた人間ではないので、人のためにやってあげた行為が感謝されなかったり誰かに認められなかったとすると、ちょっとがっかりしてしまいます。でも、自分がやりたかったからやった行為で、誰かから感謝されるとそれはプラスアルファでうれしいものです。

具体的な例をあげると、私は今育児中の母ですが、たまに友達の子供をあずかるときがあります。それを、『友達が忙しいから助けてあげよう。』と思ってあずかるのではなく、『今日、うちの子供の遊び相手ができて助かった。』と相手に感謝しながらあずかります。私は私のの願望がかなったので満足です。相手もついでに助かったりしてます。

こういうウェブページでせっせと回答しているのも、人様のために役立ちたいからではなく、私の経験、知識、考えを伝えたい、という動機なのです。役にたってくれればなおさらうれしいですしね。

この回答への補足

>私は私の願望がかなったので満足です。相手もついでに助かったりしてます。

たしかに、それこそ究極だと思います。
なにか大きなヒントだと感じました。
商品を提供しているような人も、買ってくれた人が喜び、感謝の気持ちを感じてくれる、それに対して、自分も満たされ、素直にお金という願望も満たされる、そういう人達っていますよね。
なにかうれしくなってきました、ほんとうに有難うございました。

補足日時:2005/03/13 23:40
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私達はおそらくいつまでもこういった悩みを解決できないのでしょうね。


これが答えだと思ってもまた悩み、別の答えを探そうとしてしまう。
そしてまた同じ場所に戻ってくる。
ただ、もう一度同じ場所に戻ってきたときに、これまでとは違う自分を感じることができるのは、『経験』によって学んだからではないでしょうか。

結局、答えを懸命に探し続け苦悩することこそが人間が生きる意味の答えであり成長であると思います。

『1の願望を実行することが2を願望を満たすことになる』

こう考えてはいかがでしょう。
あなたがもつ願望はきっとどちらも本当の想いだと思うのです。

この回答への補足

>結局、答えを懸命に探し続け苦悩することこそが人間が生きる意味の答えであり成長であると思います。

なるほど、そうですよね。がんばろっと!
ありがとうございます!!

>『1の願望を実行することが2を願望を満たすことになる』
こう考えてはいかがでしょう。
あなたがもつ願望はきっとどちらも本当の想いだと思うのです。

たしかに、ほんとうの想いだと思います。

正直に言うと、どうも欲のことが好きになれなくて・・・理性の目でみると、今までいくどとなく過ちを犯してきましたが、それも全て欲さえなければって思ってしまいます。
そういう時、いつも理性や善の気持ちは教えてくれてました『ダメだよ』と。それでも従っている愚かな自分がいました。

欲望は動物を動かす単純な動機、しかし、単純だけど、真理に近い事実。
『単純な動機だけで、2がひっかかるのか?』と考えてしまいます。であるならば、人間だけに与えられた力のほうが、確かではないのかと、今までの経験からも感じてしまいます。けど、『欲望に忠実であるということは、動物が動物らしくなるということ』私は、人間は動物でもあり、人間でもあると感じているんです。だから、欲はきってもきれないもの、真理に近い事実を野放しにしていけば、結局、どっちにしろ、いつまでも真に心は満たされないのではないか、いずれ自分がおかしくなるのではないか、と思うと怖いんです。価値と願望、自分なりに、どちらかを究極に求めようと考えるから葛藤が起こる、それもきずいてはいるんですが。。。

>『1の願望を実行することが2を願望を満たすことになる』

そうであるならばいいんですが・・・

補足日時:2005/03/13 23:46
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質問者さんが1か2で悩んでいるのは、自分の心の中にある


「社会的な面」と「自己の面」の間で悩んでいるのではないですか?

奉仕という行為には社会的な価値があり、その「社会的な価値」
に憧れる部分と、自分の願望を突き詰めていくという、
本能的な楽しみとの両方が質問者さんの心の奥にあって、
その二つが、お互いを「不純なもの」として見ているのかもしれません。
心の中の2が1を見ると、自分が偽善的に見えてしまい、
1から2を見ると、欲にかられた人間に見えてしまう。


私の場合、1も2です。
人に奉仕すること。それも自分が好きでやっている行為です。
誰かに気がつかれなくても、感謝されなくても、やる時はやります。
やりたいから、やります。

1なら1、2なら2、としてしまうから、葛藤してしまうのです。
奉仕も2。やりたいと思ったからやる。
やりたくないならやらない。それでいいと思います。

大体奉仕の行動が素晴らしいかどうかわかりません。だって
誰かを助ける時、「助けたいから助ける」のですよね。
「自分が助けたいから」。要するにこの行為も2です。

でもここに、人に感謝されたい…という“見返り”の気持ちが入ると
混乱します。
だけど、この“見返り”の入った奉仕はすでに「奉仕」じゃなくなっているので
やる必要も無いし、「ありがとう」の言葉が無くて頭にきてしまうのであれば、
それは「やらない方がマシ」です。


うーん何だかまとまりの無い文章となってしまいましたが
伝わりましたでしょうか。 文章が下手で申し訳ない。

この回答への補足

なるほど、しっかり伝わりました。
わかりやすかったです^^

>奉仕という行為には社会的な価値があり、その「社会的な価値」に憧れる部分と、自分の願望を突き詰めていくという、本能的な楽しみとの両方が質問者さんの心の奥にあって、その二つが、お互いを「不純なもの」として見ているのかもしれません。心の中の2が1を見ると、自分が偽善的に見えてしまい、1から2を見ると、欲にかられた人間に見えてしまう。

たしかに、一理あります。『社会的価値』理性の目で見ているといっても、そういう潜在的な想いはあると感じますし、心の中の1と2が、お互いを『不純なもの』としてみているとおもいます。
困るのが、素直に考えれば、それが大きくなるということなんです。
しかも、私なりに究極に求めるとすれば、1と2はぜんぜん違う物になると思うんです。
例えば、私が人に商品を提供する時、1の志で歩んでいるとすれば、『人々に喜ばれる物を提供して、その喜びの代価としてお金を貰おう』なんですが、2で歩んでいるとすれば『人々に売れる物を提供して、自分の願望達成のためにお金を得よう』

結果同じだとしても、自分の心はぜんぜん違ってくると思います。臨機応変に、時に応じて、その志を変えるとなると、お互いを究極に求めれるんでしょうか、そんな変なことまで考えてしまいます。

未来はどうなるかわかりません、外的事情はどうなるかわかりません、しかし、内的事情が満足するにはどうしたらいいか、それはわかりそうな気がするんです。

自分がしたいと思うこと、自分が信じれること、自分が好きなこと、素直になればなるほどわからなくなります。
まだ答えをだす時ではないからなんでしょうか・・・

補足日時:2005/03/14 22:08
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自分の好きなことをするのがいいと思います。



あなたが多くの人々に奉仕するのが好きなタイプなら、そういう価値ある人生を追い求めたらいいでしょう。

世の中には少数ですがボランティアなどの善行が好きなタイプの人間がいます。

大変で苦労してもやりがいを求めるタイプの人間は楽しい人生では心が満たされないので、いろいろ考えても体験を重ねる内に結局はそういう道に行くものです。

この回答への補足

ありがとうございました。
奉仕活動も、一例ですが、自己満足に浸るのも、両方好きなんですよね。
簡単にどちらかということ、1は人間だけが持つ働き2は、動物が持つ働きなんです。

1は嫌いでもないし、大好きとは言えない。2は大好きだけど、嫌いでもあるんです。

理性、本能との葛藤でしょうか、『これがすきなんだ!』は2で、『自分はこれがしたいんだ!』は1、両方同じ想いなんです。。。

補足日時:2005/03/14 23:11
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「自分のためにやっていることが、結果として他人のためになる」事や「他人のためにやっていることが、結果として自分のためになる」事だってあります。

楽しくやっていたことが価値があったり、価値あることが楽しかったりします。そうなるためには、自分がいかにそのことに情熱をそそげるかによります。
結局は、自分のやりたいと思ったことをすればいいと思います。

この回答への補足

ありがとうございます!

どちらでも、情熱をそそげる自身があります。

ほんとうに自分のやりたいことというのは、『自分の中にある欲がさせるもの』だと思うんです。
欲望は動物を動かす単純な動機、しかし、単純だけど、真理に近い事実だと思います。
人間だけが持つ力を総動員すると、『ちょっとまて!こうしたほうがいい』となります。

どっちが自分のやりたいことなんでしょうか??

『志をもちつづけるには、無欲でなければならないんでしょうか?』そうであるのならば、答えはでそうなんですが。

補足日時:2005/03/14 23:30
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pcbcさん、こんにちは。



人間という存在を、次のA、Bのどちらに観るかによって、
ハッキリ違ってくると思います。

A.人間は魂の進化の為に生きる永遠の生命である。

B.人間は百年足らず生きて死ぬ肉体である。

pcbcさんはどちらだと思いますか?

多分、
Aと思う人は1の方を選択する時間が多いでしょう。
Bと思う人は2の方を選択する時間が多いでしょう。
と思います。

この回答への補足

ありがとうございます。

私は、Aだと思います。

しかし、今の自分で考えた場合、Bで生きようとしています。

補足日時:2005/03/14 23:26
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