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ロンメル将軍はナチスドイツの将軍だったのに
どうして、連合軍側はヒーローとして称えるのですか?

「ロンメル将軍」の質問画像

A 回答 (11件中1~10件)

戦闘では連合軍に多大な損害を与えたものの、以下のような人となりが連合国の人たちにも知れ渡っていたからです。



ロンメルは、騎士道溢れる軍人でもあり、火力で敵を押し込むハード・キルより、相手を撹乱することで降伏に追い込むソフト・キルを好みました。 また、捕虜に対しては、国際法を遵守して非常に丁重に扱いました。 また、1941年には、ロンメル暗殺を企図してドイツ軍施設を奇襲攻撃した英国コマンド部隊の死者を丁重に扱っています。 以後も英国コマンド部隊員を捕虜にせず殺害せよと命じたヒトラーの命令を無視しました。 ある戦いでユダヤ人部隊を捕虜にした際、ベルリンの司令部から全員を虐殺せよとの命令が下りましたが、ロンメルはその命令書を焼き捨てました。 彼は、最後までナチス党に入党することはなく、あくまで一人の軍人として戦い続けました。

また、大隊長である第一次世界大戦の頃から、自ら進んで前線に出て兵士に語りかけ、兵士の心情を理解することに努めました。 本来、通信手段が発達した近代戦では、高級将校は前線に出ず、後方で全般的な指揮を行うのが普通でした。 しかし、ロンメルは、瞬時に変遷する電撃戦では「前線で何が起きているか、兵士にさえわからない」と陣頭指揮を旨としました。 このため、ロンメル自身も幾度となく危険に晒されており、また、最高司令官の所在が不明となることがよくありました。 北アフリカ戦線において、イタリア軍は度々ドイツ軍の足を引っ張りましたが、ロンメルはそのようなイタリア軍兵士を労わったのです。 規律に厳しく兵員を直接に叱責することもありましたが、兵士からは「Unser Vater(我らが親父)」と慕われていました。 

そして極めつけはロンメルの最期です。 ヒトラーに対して反逆を企てたと疑われ、自決(服毒自殺)を迫られて非業の死を遂げたことも、連合国の人々を感動させました。
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NO.9


補足
ロンメルは第一次世界大戦も活躍した若手将校としてそれなりの知名度がありました。
ヒトラーはロンメルの著作を読んでいたく感銘を受け、首相になると、ロンメルを警備隊長に任命しました。ポーランド戦後、ヒトラーに前線勤務直訴して、新編成の第7機甲師団の師団長に転任したのです。
ロンメル自身も、入党はしていませんが国家社会主義にはシンパシーを感じて支持していました。
ロンメルが好き放題やれたのは、ヒトラーの個人的な信頼が厚かったからで、普通の将軍であればとっととクビになっていたでしょう。
また、ロンメルの司令官としての評価については、近年見直しがされて下がってきています。
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ナチスドイツと一緒くたにいうけれど、本来ナチスは党、政治組織であってドイツは国家であって別物。

ナチスはSS(武装親衛隊)という実質的な軍を擁していたので、ドイツ軍というのはSSと国防軍という二つの組織であったと考えることもできる。ロンメルはSSの将ではなく、あくまでもドイツ国防軍の将であった。
 異論はあるけれども、ドイツの戦争犯罪は主にナチス(SS)の行為であって、ドイツ国防軍は積極的に関与していなかった。そのため連合軍はSSは嫌悪したが国防軍に対してはさほど悪感情はなかったとされる。ロンメルはその国防軍の将であり、傑出した作戦指導(これも異論はある)もあったことから連合軍も好敵手と評価したのではないか。
 という説もある。
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一貫して西部戦線、北アフリカ戦線と西側連合国と対峙したので欧米での知名度が高い。


ドイツでも高く評価されて宣伝され、国民の間でもよく知られていた。
直接的にユダヤ人移送や虐殺、住民虐殺に関わっていない。
最後はヒトラー暗殺計画の絡んで悲劇的な自決を遂げた。
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ロンメルが敵である英軍からもヒーロー視された主な理由は次の通り。


①アフリカ戦線では、常に戦力が大きく劣勢の中、チュニジアから進撃を開始してエジプト・カイロまであと一息まで迫ったが、その神出鬼没な戦いぶりは英軍からも讃えられるほどだった。
②英チャーチル首相が、圧倒的大軍の英軍がどうしてロンメルに負けてばかりいるのかと国会で追及され、「ロンメルはナポレオン以来の戦術家」であると賞賛してしまった。
③アフリカ戦線には、ユダヤ問題でも悪名高いナチス親衛隊が参加しておらず、ロンメルもヒトラーのユダヤ人に対する命令を無視し続けていた。そのようなこともあってドイツアフリカ軍団には捕虜虐待なども起こらず、戦争とはいえ、騎士道精神が存分に発揮された戦場だったと評されている。
④ロンメルは常に最前線で指揮を執っていた。ロンメルを戦場で見て銃撃を加えた英兵も少なくない。実際ロンメル側近は何人も最前線で戦死している。
対する英軍の将官は激戦の最中の最前線に出向くことはなく、その指揮命令も最前線の戦況にそぐわないものも多かった。
そのため、最前線を駆け回るロンメルは末端の英兵にも敵ながら大変な人気者になっていた。
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まあ、上から目線ですよ。



「アンタ、連合軍相手によくやったよ、いやー我々も手こずったからね、殊勲賞、敢闘賞、技能賞のすべてをあげるよ、でも最後に勝ったのは我々だけどね」

ということです。

勝ったから言えるのですよ。
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みなさんのおっしゃっておられるように連合軍としても相手の作戦に翻弄されたわけですから、ある意味畏敬の念を持っているわけですよ。

上杉謙信と武田信玄が互いに相手を賞賛してたのと同じです。

それにロンメルは非戦闘員を殺害したわけではありません。これは米軍人のルメイのように非戦闘員の殺害を目的に都市に絨毯爆撃を立案した人とは根本的に異なります。

さらに加えて言えば、ヒトラーの暗殺計画にも荷担します。wikiによると彼はこういったとあります。

「戦争は負けた。彼(ヒトラー)は幻想の中に生きている。彼は、自分が国家だといったルイ14世の再来だ、自身と国民との区別を知らぬ」とのヒトラー評を述べると(ヒトラー暗殺計画について)「承知した。我々軍人の使命は国民を守ることにある」とシュトローリンの手を握った。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。映画「将軍たちの夜」を思い出しました。

お礼日時:2023/04/25 18:11

もっと簡潔に表現すれば



「敵ながらあっぱれ」

那須与一のエピソードみたいなことです。
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この回答へのお礼

なるほど、「敵乍らあっぱれ」ですよね。
有難うございます。

お礼日時:2023/04/25 17:54

あなたが誰かと競いあって、簡単に勝てたときに相手を讃えますか? 多分相手にもならない弱小者だとあざ笑うか、弱虫だったなどと蔑む扱いをするはずです。


反対に僅差で競り合って勝てたときには、相手の技巧や強さに感心し、相手を讃える感情になるはずです。それと同じ理屈です。
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「強いときには強かった」という客観的な評価。

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この回答へのお礼

そういう見方もあるんですね。有難うございます。

お礼日時:2023/04/25 17:43

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