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東京工業大学は職工長を養成する学校だったそうです。
理工系エリートを養成する機関ではなかったのでしょうか?
職工というのは当時の社会において相当下に見られていたと思われます。
何故その様な学校がエリート大学になれたのでしょうか。

A 回答 (4件)

皆さんもおっしゃるように、職人の親方を育成する学校ではありません。


当時から、選抜されたエリート養成のための学校だったのです。

明治時代の工業近代化に伴い、東京・大阪・京都・名古屋の順に設立された官立高等工業学校で、後の国立工業大学。東京は、最初に設立されたものです。

はじめの名称が「東京職工学校」だっただけで、1870年代のドイツのTH(ハンブルクやアーヘンにあるTechnischen Universität工業単科大学、職業専門学校マイスター制度とは異なります)を模して、富国強兵を目的として設立されたことは言うまでもありません。
ドイツのTHにならって理系に特化した教育が行われました。


その卒業生の多くが、大和を設計した平賀(東京帝国大学工学部造船学科卒)やゼロ戦を設計した堀越(東京帝国大学工学部航空学科卒)をはじめとするカリスマ設計者を補佐する技師や技手(ぎて)として活躍しました。

というか、膨大な技術計算をして部品図を完成させていく技術者は多数必要であり、その人材を供給する機関であった訳です。

彼らは、理系という理由で徴兵を免れたため、戦後は日本の復興にも貢献しました。
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質問者さんは、「職工長」の意味が幅広いことにお気付きでしょうか?


質問文の口ぶりだと、工員・作業員の班長のようなイメージかも。なるほどそれも有りかも知れません。しかし、そういう意味の職工長については、前回回答で「東京職工学校・東京高等工業学校を出て職工長だったら、話がおかしい」と申し上げました。

一方、当の東工大のサイト(https://www.titech.ac.jp/public-relations/about/ …)では、次のようになっています。
〔引用開始〕
東京職工学校は「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」(1881年制定「東京職工学校規則」)
〔引用終り〕

「職工長タル者」という文言が見えます。
しかし、これは明治14年の言葉遣いなのです。当時は「お雇い外国人」の時代ですよ。歴史で習ったと思います。欧米から学者や技術者や法律家などを、高給で招いたわけです。
たとえば、ウィキペディア(https://ja.wikipedia.org/wiki/)で「ヘルマン・ルムシュッテル」を引いてみてください。
〔引用開始〕
ドイツの鉄道技術者で、お雇い外国人として〔中略〕
彼の助言の下に、〔中略〕職工長ルイ・ガランド (Louis Garland)、機関士カール・ジューシング (Carl Duissung) が採用された。
〔引用終り〕

ほかにも「ドイツ人職工長」で検索してみると、巨大な製鉄所を立ち上げる時、ドイツから技師および職工長を招いて指導を受けたエピソードなどが出てきます。
そのように偉いお雇い職工長を、日本人で置き換えられるように、我が校でも教育しよう。前出の「東京職工学校規則」には、そんな趣旨もあったと考えられます。
欧米に追い付き追い越せの時代、先進的な工業の「職工長」は、厚遇された人もいたことが次のサイトから分かるでしょう。けっこう良い家に住んでました。

川崎市公式サイト - 産業遺産・散策マップ - アウマンの家
https://www.city.kawasaki.jp/miryoku/category/27 …
〔引用開始〕
JFEスチール株式会社 東日本製鉄所
創業当時、設備の操業のためドイツから技師1人と職工長3人を招きました。このとき工場近くに職工長の宿舎を建設したものが、アウマンの家(ドイツ人職工長宿舎)です。
〔引用終り〕

川崎の地域情報サイト「まいぷれ」 - 川崎36景 - 第24景 アウマンの家
https://kawasaki.mypl.net/mp/kyosho/?sid=6842
〔引用開始〕
しかしながら、この人がいなかったら、きっと今の日本の産業はここまでにならなかった、という、日本の産業の歴史にはとても関係の深い人なのです…
〔引用終り〕
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Wikiperia より引用



東京職工学校:

中等教育相当の「職工学校」(のちの工業学校)の教員および工場の技術指導者の養成機関


東工大の源流は「東京職工学校」で「職工学校」ではないのです。
当時も職工の養成校と勘違いされ、生徒が集まらず困ったらしいですね(^^;

後に命名が不適切ということで「東京高等工業学校」に改名してます。

教員は東大理学部出身者が多く、超エリート校だったようです。
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質問者さんは勘違いしているでしょう。

あるいは、お読みになった資料が誤植を含んでいたのでしょう。

東京工業大学(東工大)の源流は「東京職工学校」(明治14年設立)です。しかし、職工を養成する学校というより、技術者を養成する学校の先生役の技術者などを、養成する学校でした。
明治14年ごろといえば、学校自体が少なかったのです。殖産興業・富国強兵をめざし、技術者養成の学校を増やすことが急務でした。そのための先生を養成したわけですよ。
当時、工部大学校(東大工学部の前身)がエリート校で、東京職工学校などは準エリート校になっていきました。

戦前は(変遷があるにせよ)、おおむね下記のようなヒエラルキーがありました。
技師長 - 技師 - 技手 - 職工長 - 職工

技師長は、会社などで幹部クラスの待遇を受けることもあります。
技師は幹部候補生や管理職などに相当します。
技手は「ぎしゅ」または「ぎて」と読み、学校出じゃないと、なかなかなれません(職工から昇進するケースもあったが)。
職工長は、学校出じゃなくても、現場の叩き上げでもなれます。ここでいう「学校」とは義務教育ではなく、それより上の学歴です。

たとえば、夏目漱石の『坊っちゃん』で、主人公は東京物理学校とおぼしき3年制の学校を出ています。四国の松山の中学の先生として赴任します。東京物理学校は私立の旧制専門学校でした。
そして坊っちゃんは、腐敗した中学の先生どもを殴って、東京へ逃げ帰ります。街鉄(東京の路面電車)の「技手」の職を得て、小さな借家に落ち着きます。坊ちゃんの父母はすでに他界し、実家も人手に渡っていました(そのお金を相続して物理学校の学費に充てたのだ)。
女中さんの清(きよ)は、坊ちゃんが生まれついてこのかた、実家で面倒を見てくれた人でした。その清と借家で一緒に暮らします。清はもう老婆ですから亡くなって、坊ちゃんの実家の墓に入ったという物語でした。

一体全体、何の説明をしてるかというと、坊っちゃんは技手になったんです。学校出じゃないと、なかなかなれないということです。
話を元に戻して東京職工学校ですが、その後、下記の変遷がありました。ご存知のように国立です(戦前は官立と言った)。
東京職工学校 - 東京工業学校 - 東京高等工業学校 - 東京工業大学(旧制大学) - 東京工業大学(新制大学)

この一連の流れは、私立の東京物理学校(今の東京理科大学)より格上だったわけです。前述のように、東京物理学校を出て技手(出世すれば技師にも)なので、東京職工学校・東京高等工業学校を出て職工長だったら、話がおかしいわけですよ。勤め上げて職工長というのは、叩き上げの人でした。
また、東工大が他の国立大にも抜きん出てエリート校となった経緯は、たとえば筑波大学と比べてみてください。
師範学校(明治5年設立) - 東京師範学校 - 東京高等師範学校 - 東京文理科大学(旧制大学) - 東京教育大学(新制大学) - 筑波大学

という流れです。師範学校とは、小中学校などの先生の養成機関でした。その筆頭たる東京高等師範は、やがて教員養成だけにとどまらず大学としてもエリート校になります。現在、筑波大学は研究学園都市として、国立の研究機関が集中していますね。
この流れは、東工大と相通じるところがあるでしょう。
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