アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

彼女に大小含めて約束を少し守れていなかったり、破ってしう事があり、『来れない可能性があるんだったら、行けるかわかんないけどって前置きが欲しい。出来るかわかんないけど、とかまだどうなるかわかんないけどとかどうこうしようと思ってる。って言い方にしてほしい』
と言われ、確かに守れない約束なら言わないとか、もし確実性がないならまだわどうなるか分からない。と言った方がいいのも分かります。

彼女には基本頼まれ事は少ないので、私が勝手に迎えに行ったり、送ったりするということがあり、自分で言った割にやっぱ行けないとかがあるので私が悪いです。

基本的に確実に出来そうにないなら、彼女に頼まれたこと以外は変に気を使ったり優しさで〇〇してあげようと言う気持ちは持たない方がいいのでしょうか?

彼女も、じゃあむかえにきて欲しい!と言ってもやっぱいいやとか、出かける予定を立ててもどうでも良くなっちゃったというのもまた約束を破るには入らないのでしょうか?

皆さんのご意見お聞かせください。

A 回答 (1件)

それらは「良い事が一つしかない」というこだわりから生まれます。

しかしゲームであっても5つ程度のステータスがあり「どれか一つで良い」というバランスには成っていません。

どのステータスが大事なのかケースによって使い分けているはずです。そういう知識を語りつつ初心者を指導したりしていますよね。その様にゲームでは複数の要素の関連を理解して「それなりに」プレイできているはずです。

ではゲームよりも重要な人生において「複数のステータスが複雑に絡む」と考えて「時と場合により」使い分けていますか?

以下は長いのでお暇なときにでもどうぞ。

皆さんが道徳の授業で習うものは元々は儒教と言う宗教でした。これらの中から現代でも通用する部分(時代が変わっても生き残る真実)が抜き出されています。道徳が生まれた当時は「良い事ってたくさんあるよね?」的なノリで「そうした良い事」をカテゴライズするのが流行っていました。ではこの良い事と言うのはどういう観点なのか?

「為政者に必須とされる魅力を生み出す要素」

となります。現代では「この人には嫌われたくない」と思える瞬間と言い直せば良いでしょう。こういう「この人のここが好き」みたいな部分は2,
000年以上も前に解析されており、種類が羅列されているんです。これを「徳」と言います。また「人が抵抗できない魅力」と言う部分で順位までついています。下位の「徳」が得意でも上位の「徳」を他者に実践されると相対比較で(他の人に)大事にされないという事です。恐ろしい話です。

「2,000年以上も前にすっぱ抜かれたネタなのにこれを活用
 せずに生きづらいと言っている人には同情できない」

単に「道徳」の怖さを知らずに侮っているという事なんです。

では現代でも通用する「徳」はいくつあるでしょうか? 五常と言って、たった5つしか無いと言われています。例えば上下関係の激しい国があります。その国では道徳の中でも「仁義礼智忠信孝悌」という8つの徳のうち「忠孝悌」も尊んでいます。このの3つ(主、親、兄に従う)を現代的に排除すると五常が残るわけです。しかもこの五常は「相当強力な徳」とされています。欧米社会でも似たような概念があり通用すると思います。

質問者さんが主張している「優しさ」「思いやり」は五常の中の「仁」となります。彼女さんが主張しているのは「信」であり「義」「智」です。信用(信)を無くす行為を何度も繰り返し「謝って済ます」のは「義」に反しており、それくらいだったら「事前に予告する」等の智慧(智)を活用すべきと言われているんです。

徳として五常の内の3つも持ち出されているわけです。そう言われてしまうと「ぐうの音も出ない」でしょう。これに対して貴方は「仁」一つで対抗しようと頑張っています。分が悪いと理解できるはずです。

「一つしかやりたくないという姿勢だと不道徳となる」

多くの人が知らないのは「道徳では演奏をするように徳を使い分ける」必要があるという事です。良いことをするのではありません。間違った徳を使ったり、そもそも徳に反する何かを持ち出せば「その瞬間に愛情が冷める」と言う怖さを教えています。

「イメージ戦略で良い人に見せても、付き合い始めれば道徳
 音痴であるのがバレてしまう。そのせいで関係が悪化する。
 思いやりや優しさの一発押しでは上手くいくわけがない」

質問者さんはカラオケ等やりますか? 音楽では音程を外すことは最大のNGです。しかしこの音程は「ヘルツ単位」で正確に定義されております。音感の無い人には神業に思えるでしょう。

私は音痴を克服したいと思った事があります。

この時には、

「こんな微妙な違い人間が制御できるなんておかしい。全音
 でそこまでやるなんて無理。本当にみんなやってるの?」

と思いました。

しかし、慣れてしまうと半年ほどで普通に成ってしまうんです。自分でも音程を外したと思って赤面します。また、小さな揺らぎも音程外しとして拘る様になります。するとプロと変わらないくらい綺麗な歌声になるんです。

「なんだ。皆そうしていたのか。気づくの遅すぎるよ俺」

音感のある人が誰かの歌を聴いたら「む。そこの音はちょっと怪しいな」と一音毎に気づくんです。私もCD等を聞いてプロの音程外しに気づけます(今は修正されてしまうが、昔の録音では揺らぎが結構あった)。

「では道徳に関してはどうなのか?」

これも五常全体を使って「徳の使い間違い」をチェックする事が出来るんです。漫然と自分の想いのままに歌っている人もいます。歌は楽しめばいいのだと。しかし「自分の音痴度合いに嫌気がさす」と自分を嫌いに成るのが落ちです。誰だって美しい歌を他人に披露したいものでしょう。

「音程外さなくなってから楽しんでもいいよなあ」

こう思いますよ。しかし「音程外しを自分に禁ずる」として半年は頑張りませんと一生そのままなんです。

歌ですらそうであるのに「自分の人生」に関してはいつ「道徳音痴」を治そうとしているのでしょうか? 人生の序盤で半年ほど頑張った人はずっと人気者でしょう。そうじゃない人は「俺流のジャイアン手法」を強行し、ネットで同意を得る作業で一生を費やすと思います。

「皆が応援してくれたけど彼女とはダメになった」

「元気出せよ。他にいい人見つかるよ」

こんな事で人生の軌道を曲げるくらいなら是非「五常」を使って自分の道徳音痴を治しましょう。

因みに皆が応援した部分を「信」と言います。「元気出せよ」は「仁」です。「他にいい人」は「智(解決のアイデア)」ですし「見つかるよ」は「信(どうなるか保証できないがそう祈っているよ)」となります。

この様に短いコミュニケーションでも五常に分解できます。例えば「その女が酷いんだ。相手にするな」は道徳の五常のどれにも該当しません。つまりこの様な発言をしている人は人気が無くなるという事です。他者を知りもせずに下げたわけです。「義」に反すると成ります。元気出せは「仁」として音程があっているのですが「下げ」部分で道徳音程を大きく外していると成ります。

また「フラれた告白」に対して冷静に分析しても伝わりませんよね。このあたり、最初に「元気出せよ」があるか否かが大きく違います。この様に自分が話すべき事は「五常のどれか」に該当している必要があるだけではなく、そのシーンに合わせて順番も重要なんです。音符の音が出せてもメロディーに沿って正確でないと音楽になりません。

「道徳の実践はジャズセッションであり、相手の状態にあわ
 せて適切な演奏が出来るか否かが大事」

歌や音楽は「演奏によって感じて貰う」のが大事です。同じように人付きあいであっても「自分の想いをガナル」方法は共感を得られません。一歩引いて冷静に成り「演奏が正しいか?」をチェックし「もっと適切な言葉は出せたか?」と「音程があっていても良い音じゃないかもしれない」と自己研鑽するべきなんです。先ほどの例でいえば「元気出せよ」というのは「仁」という音程ではあっています。

しかし同じ「仁」であるならば「残念だったね。大丈夫かい?」と言っても良いのです。こちらの方が「仁」として良い音ですし「礼」を損ないません。「礼」の音が成っていると音楽で言う低音のバスの様に綺麗に響きます。仁義礼智信の「礼」は全ての道徳的な行為の中で全体の底上げをする大事な要素です。

「礼を損なっていないが何か嫌な事を言われてる」

「うん。慇懃無礼とか言うね。心が無いとか。そういうのは
 他の徳が含まれていないとか、徳間違いとか道徳音程を外
 している場合が多い」

綺麗ごとと揶揄される物も同じです。「智」という徳が使われていません。「解決のアイデアに信憑性が無い。現実的ではない」場合や専門知識で裏付けされていない物はそう感じるのです。無責任な印象を与えてしまいます。しかし専門家が「そういう場合はこうしているのが普通である」と言えば「そう感じない」ですよね。これも五常の「智」が貢献しているんです。

しかしその専門家が道徳的でない発言や行動をとっていれば「何を言われても信用できない」となります。これも徳が影響してしまうのです。

この様に皆さんが「出たとこ勝負」で解決している内容は全て「徳」と言う概念で解析できてしまうんです。

「音程を外しまくって音楽家として食べて生きたいという人
 は流石に無理だと言いたい。しかも音程を合わせる必要が
 無いと主張している人には可能性など無いだろう」

多くの人が「少しくらい尊重されたい」「少しは優しくして貰いたい」「愛されたい」とやります。しかし「道徳を見事に演奏する」のは勘弁してほしいと思っているはずです。

「少しも可能性がない」

音楽で音程を無視するのと同じくらいの可能性になります。道徳を軽視する人であっても、彼氏や彼女が出来るのは「イメージ戦略」で相手を騙しているからなんです。ビジュアル系で客を呼び「実は音痴」という歌手がいたらどうなるでしょうか? 長く続けられるはずがないですよね。客が悪いと言って喧嘩する姿が目に浮かびます。

私も五常に分解して識別するところから相当頑張りました。今はどういう演奏が適しているのか考えつつ道徳音程外しもチェックしています。全ての人に五常に興味を持ち「自分が魅力を感じる人」を探し「道徳で分解」して解釈する事をお勧めします。そういうチェックをして上達し「思いは技能に支えられないと意味がない」として生き方を変えるべきです。

「ネットを通じて賛同を得ても自分の道徳音痴は治らない」

以上、ご参考になれば。
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