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アンドレ・ジッドはノーベル文学賞を受けるほど国際的に評価されていたにも関わらず、死後に彼の著書はローマ教皇庁から「禁書」に指定されたそうです。

ジッドの作品のうち「背徳者」「狭き門」「田園交響楽」の3つを読みましたが、なぜこれが禁書にされるのか、よくわかりません。(私自身がキリスト教をよく判っていないからかもしれませんが)

「狭き門」「田園交響楽」は要約してしまえば、敬虔なクリスチャンが信仰に悩む話ですし、「背徳者」だけがやや積極的に教えに背いていますが、ニーチェのキリスト教批判に比べたら全然大したことない気がします。

これらの小説がなぜ禁書に指定されたのか、教えてください。

A 回答 (3件)

 こんにちは。

回答はすでにご質問の文面に表れているかと思います。ジイド(と、私の世代は習った)の作品は、ニーチェのような全面的な反対者ではなく、「敬虔なクリスチャン」の主張として、本当にヴァチカンの言うとおりなのかという問題提起をしたものでしょう。身内の反乱とても言うべき事態に、いわゆる近親憎悪が昂じたのではないでしょうか。異端審問みたいなものだと、私は思っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。身内の反乱、とは面白いですね。

確かにアンチキリストというより、「信仰してるけど疑問がある」みたいな主張が『背徳者』の中に感じられた気がします。

お礼日時:2006/12/17 20:12

ジッドがプロテスタントだからです。

敬虔なといっても、それはプロテスタントのものですから、カトリックにとっては異端です。
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この回答へのお礼

なるほど。プロテスタントとカトリックの対立も背景の1つにあるのでしょうか。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2006/12/17 20:11

質問者さんが『法王庁の抜穴』をお読みになれば、あ、こりゃ発禁になるわ、と納得がいきます(笑)。


だから、読んでみてください。これはジッドのなかでも実際におもしろい本だと思います。

この本には詐欺師グループの「百足組」が詐欺を働くために「ローマ法王は法王庁の地下室に幽閉されていて、いまの法王は偽者だ」というデマを流すことが一本の大きな筋になっています。
もちろん直接的なバチカン批判がなされているわけではなく、なによりも、主眼点は、非常に複雑な主人公ラフカディオの〈無償の行為〉と精神にあります。
とはいえ、登場する法王も高僧も実は偽者なんですが、そうした詐欺師たちの言動の節々に、いまのバチカンには真のキリスト教精神はない、という皮肉がどうしても読みとれてしまう。
しかも『背徳者』以来、はっきりとはあきらかにされてはいなかったけれど、それとなく問題になっていたジッドの性的傾向が、この作品のなかでも、ある聖職者のなかに現れている(ジッド自身は『一粒の麦…』のなかであきらかにしていますが)。そうしたことも当然問題になったでしょう。

バチカンの禁書目録は1948年までで4000あって、そのなかにはデカルトやカントの著作もあったわけですから、まあ当然かな、という感じもします。
ジッドの性的傾向、共産主義への接近、さまざまな理由はあると思いますが、『法王庁の抜穴』が大きな引き金になっていたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「法王庁の抜穴」ですか。タイトルは聞いたことあります。
回答を読む限りでは、確かに禁書になりそうな内容ですね。
図書館で探してみます。ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/17 20:10

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