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塩田剛三という方の技は、真実なのでしょうか?私は詳しいことはわかりませんが、あんなに小柄の人間がもし総合格闘技(階級無差別)などに出場した場合、果たして通用するものなのでしょうか?
私は格闘技を10年ほどやっていますが、体重は格闘技において非常に重要な要素です。同じ技量の選手で30キロの体重差があれば、あらゆる技が効かなくなるのは常識。
この方の映像を見ると単に相手が投げられてやっている気がしてしょうがありません・・・・これは本物なのか?・・・

A 回答 (34件中1~10件)

Gです。

 こんにちは!!

ご質問の原点に戻り書かせてもらいますね。

>あんなに小柄の人間がもし総合格闘技(階級無差別)などに出場した場合、果たして通用するものなのでしょうか?

2倍の体重を持った人(格闘技や武道の経験がなくとも)を投げ飛ばすには自力ではまず難しいと言わなくてはなりません。 私たちが言う「倒れてくれるように誘導する」という事をしなくては「筋力では無理」なのです。 

しかし、重心を守れる立ち方から崩す裏投げや大外狩りにしても重心を体からはずすことが筋力では難しいと言うことを知りそれにはどうしたらいいかという事を「教えそして出来る実力をつけられるトレーニング」をすれば「軽く」裏投げなどが効く様になる訳です。 27万5千のひとつですね。

反射神経には守るためのものと攻撃(反撃)をするものがあります。 この二つは全く違う反射神経の働きと私たちは見ます。 もちろんどちらとも適切な訓練で伸ばすことが出来ます。 27万五千のひとつですね。 そしてこの二つの違った反射神経を反映させるためにはこれをもっているだけでは身を守ることには「役に立たない」という事になってしまうわけです。 (塩田先生の握力がとてつもなく高い、と言う事もヒントになると思います)

また、相手を誘導することには自分を体を使うことと相手の体の動きを使うことで可能となります。 守る反射神経とは相手の動きを動く前に見る先先の先であり、この正確さを磨くことは多くの準備訓練に耐えてきて「更に習える実力を向上」を植えつけた後に急速に発展します。

さて、これらのすばらしい武道の教えがあるわけですが「ひとつだけ」難点があるのです。 それが、「武道に先手なし」の「忠告」なのですね。 これを「喧嘩をするな」「先に手を出すな」と言う理解しか知らないのはこの「更に習える実力の向上が出来ていない」弟子が(当然ながら)ほとんどなわけで一番手っ取り早い「守り」なのです。

そして、それを逆手に取り徹底的に追求したのが「居合い道」でもあるわけです。 先の先、と言う、「先手追及」なのです。

つまり、今の日本の道場の多くがやってしまっているように、この二つの観念を別々にしてしまっている、と言う事でもあるわけです。

いろいろなスポーツ(競艇等)で鍛えられた「握力」と確実に自分へ引く「引力」、タックルで鍛えたベアハッグ(あの背骨折りの力)と瞬発移動力などを持ち合わせた人間が「守りを重要視した」武道類の人に冷静にしかも「動きを持たせない」、つまり運動量保存性を高めた、ままで近づくことで「先手のない」攻撃には対処することは非常に難しくなります。

そして攻撃性反射神経によって自分の「間合い」の中での瞬発力に頼る打撃に対する守りは「守りを重要視した」訓練では「無理」が生じるのです。

しかし、この「先手のない瞬発力」がブルースリーが重要視した日本の武道のひとつの技(名前のついていない)でもあるわけですが、この技はかなり現代的な攻撃技とされていて多分塩田先生の時代には「考えられなかった」物だと思います。

つまり、攻撃が見えない攻撃に対して守る反射神経の向上への訓練方法の重要性の存在がなく、ないからトレーニング方法もなかった、と言う事であり、トレーニング方法がなかったわけですから「素質」に頼るしかなかったわけです。

また、守りの反射神経への訓練とはすなわち「攻撃法を知る」と言う非常に効率の悪い訓練方法でもあるわけですね。

なぜ私たちが「何でもありの、複数の相手を前提にした」観念を貫き通しているのかこれでお分かりになったでしょうか。 なんでもありと言うことはどんな攻撃にも対応できる、と言う事でもあるのです。 つまり、なんでもありの攻撃方法をする、と言う事だけではないのです。

その何でもありの攻撃は残念ながら塩田先生の演武では見られないのです。 

非常に簡単すぎるくらいの例では在りますが、こう考えてみてください。 塩田先生の演武では「運動量が満ちた」技をする相手に対しての技(必殺では在りませんが)を見せているのです。 これに対し、じりじりと何もしないで部屋の隅に迫り込むタイプが間合いに入ったとたんに複数の複雑なコンビネーション攻撃をしたとしたら「時代の差」が出てきてしまうと言うことになるわけです。

大晦日に大きな問題になったらしい桜庭選手がそれを感じたはずです。 正確で破壊力を持たせた相手の打撃能力に反応することが出来なかったですね。 (試合の勝ち負けについて私は言っているのではなく、見えないパンチは自分に届いてしまいます、そして届かないキックは何の意味もないと言う防御性反射神経と攻撃性反射神経の差がそこのあったのです)

そして試合ルールがある限り村上選手も同じ道を歩むことになるのです。

その時代の最高潮の人の一人に塩田先生がおられたわけです。

なぜ、宮本武蔵は死に、五輪の書は行き続けるのか。 なぜ、彼の流派は今となっては存在しないと言ってもいいレベルになってしまったのか。 それは流派が五輪書に書いてある27万5千の事柄を「武道の流れに乗せなかった」からなのです。 乗せ続けることを教えなかった武蔵だったわけです。

我が人生に食いは無し、と書き、例証・実例の足りない「60余の生死をかけた戦い」に説得力が乏しいのも、武蔵と五輪書とのギャップがあるからなんですね。

あいまいな表現をしているからこそ今でも十分「使える」27万5千の教えがはっきりと書かれているわけです。

ひとつだけヒントになることを書いておきますね。 なぜ、あれだけ怖がられた嘉納柔術が自らを安全性を高める方法に持って行きながら沖縄からわざわざ空手を持ってきたのか(空手を日本本土で普及することへ力を注いだのか)、を考えると少し今回のご質問への回答に結びつくと思います。

ではまたの機会にお会いしましょう。

この回答への補足

詳細なご回答、ありがとうございます。

私も宮本武蔵の著書を昔読んだことがありますが、ちょっと難解で、よくわからなかった部分が多々あった気がします。すいません、もう一度読んでみます。
でも宮本武蔵の時代なんか、本当に命をかけた真剣勝負で、本当のノールールで闘う訳ですから、凄いことですよね。そういう人間が書いた書物ってもっと大切に読まれていいような気もしますが。

沖縄から空手を持ってきたというのはなぜでしょうか?

補足日時:2007/01/18 01:01
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随分、白熱していますね。

ただ、残念ながら、若干、冷静さを欠いた原理主義に陥っているのではないかと、思われます。こういうことは、格闘家、武術家にあるまじき所業として、厳に慎まなければと自戒しています。

さて、塩田師範を信じる方は信じればよろしいし、信じられない方は、別途の方法で技を追及されればよろしいということに尽きますね。

つまり、徒手空拳での戦いの場合に限定されますが、眼球を横に払うフィンガージャブが最速最強、または、膝頭から弁慶の泣き所への「虎趾」での前蹴りを最速最強と考えて、それをひたすら追求してもよろしいわけです。こういうものは、先手必勝の論理ですが、日本の文化としては、「後手必勝」ですよね。私自身は「後手必勝」を追求しています。刀文化とは、概ね、そういうものです。近藤勇の得意技の「龍飛」、刀を後方に残したまま無防備の左肩から突進する手法だって、「後先」ですよね。ボクシングさえも究極的には「後先」であると私は理解しています。

例えば、柔道。今日でも入手できる講道館の書物(市販本)に、基本の形として、前蹴りや突きが写真図解入りでありますね。有段者の中にもそういうことを知らない方がいてビックリることもありますが、柔道を突き詰めていくと打撃技も習得すべき嘉納柔道ということになります。競技柔道ではありえませんがね。言いたいことは、多くの柔道有段者は、ストリートファイト的な戦いに不安を抱いていますが、しかし、柔道家が史上最強を名乗ってもよろしいということです。つまり、競技への出場や道場稽古では、最強の追求は不可能ということです。笑われる方がいるかも知れませんが、究極の技に向けて精進するには、たった一人での山籠りなのですね。あらゆる競技での勝ち負けなど、究極の「最強」とは全く別物です。

また、誤解を恐れずに申し上げますと、例えば、極心さんは、かつての伝統空手を「明るく楽しく元気」なものへと導いた功績が大であるということですね。今でも思い出しますが、第一回オープントーナメントに招待されて、かなり真近で試合や大山館長の演武、拝見しました。他流派(空手協会系)の私らからは一番遠い隅の方で演武されていた大山館長が微笑ましく、懐かしく思い出されます。その時、松井さんも試合に出場されていて、何故か、次々に大柄な外人選手にぶつかるのですね。そして、何度も顔面を殴打され、崩れ落ち、顔面を朱に染めながら、「反則勝ち」を拾っていくわけです。

そういう光景を見て、私らは声が出ませんでした。ああ、こういう空手も好いかも知れぬ、と、皆、内心で感じたからなのでしょうね。第一回オープン当時の大学(東京都内)の正規の空手部では、前歯の無いのが当たり前でした。顔面に二度続けて当てられますと、「反則勝ち」になってしまいますので、即座に慌てて(?)当て返す技術が必要でした。「反則負け」はその後しばらく、大いに威張れますが、「反則勝ち」などしようものなら後輩にナメられて退部を余儀なくされました。正規の応援団や大学関係者が見守る中で、当て返すことが至上命題でしたし、応援も当て返すことを要求しました。ですから、当てる、当て返すが稽古でも繰り返され、失神者は続出しました。しかし、極心では、私らの試合では必ず湧き上がる「返せ、返せ」の大合唱は起きなかったのです。それが大山カラテの神髄でした。後に最強を名乗るのが分かった気がしました。

以上、とりとめのない昔話でした。暗くなってまいりましたので、そろそろ山に帰ります。
失礼致しました。ごきげんよう。
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私は、合気会の合気道を20年以上継続しています。

その経験から言わせていただければ、やはり合気道を習って下さいとしか言いようがありません!経験こそ最高の教師です。学者になりたければ、DVDを見ればよい。だが、武道家になりたければ、実践あるのみです。論より証拠ですから。私も、貴殿同様に、極真カラテを10年修行して、黒帯を許されました。極真は、無差別ですよ!貴殿は、勘違いしていますよ。30キロの体重差を覆すことを学ぶのが、極真です。そして、貴殿は、よく分からないことに、口を出している。合気道は、演技じゃないですよ!立派な武道です。若松河田の本部道場へ、お越し下さい。朝6時30分から一般クラスがありますから。初心者クラスも、合気道学校もありますよ。さあ、経験しましょう!!
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偽者です。


中学生にも負けます。
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まだ終わってなかったんですね。



体重に関わらず、掴んで捻れば、相手が勝手に飛んでいきます。点穴を狙えば、これも体重に関わらず一瞬で無力化します。合気道もそういうものが基になっていますから、投げれて当たり前です。

>30キロの体重差があれば、あらゆる技が効かなくなるのは常識。

あえて言いますが、どこの世界の常識でしょうか。
私を含め、様々な方が様々な分かり易い説明を行いましたが、いまだ質問内容の解決には至っていない。ということでしょうか?
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Gです。



#32の記述に間違いがありましたので訂正させてください。

>そして試合ルールがある限り村上選手も同じ道を歩むことになるのです。



そして試合ルールがある限り秋山選手も同じ道を歩むことになるのです。

となります。 
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 体がボロボロにならないよう、死んでしまわないように「防具」を使用して戦いをシュミレートして技術の向上を得たのだろう、と考えています。


具体的な彼の鍛錬の経緯は知らなくとも、演武で見せる「反応力」を見る限り、孤高に山の中で鍛錬したものではなく、相当な技量を持つ者たちと組織的に相対訓練を散々やらねば得られないはずだからこのように考えています。
 
これを少し違った角度から説明しますと、

もし、ある戦闘集団が素手でこん棒を持っていたら敵対する集団はどんな武器を持っていると考えますか?
素手ないしはこん棒を持っていると考えられます。

もし、集団が頭にヘルメットのようなものを被っていたら、敵はどんな武器を持っていると考えますか?
こん棒に加えて石斧や投石をやってくると考えます。

もし、集団が盾を持っていたら、敵はどんな武器を持っていると考えますか?
剣や槍を持っているはずです。

もし、集団が甲冑のような全身を身包み武具で覆っていたら、敵はどんな武器を持っていると考えますか?
弓矢などの飛び道具の存在を確信します。(人間の「反応力」が及ばない目測で捉えきれない武器の存在が、手に持った盾では反応しきれなくなったことを意味するからです)
防空壕があれば空爆があるとの判断ができ、原潜からの核戦略が主流になっていたら地上の核施設はことごとく偵察衛星からその存在を見破られていることになります。
と、このような論理で、一方の状態からもう一方は目には見えないけれどそこにあるべき構造を「闘いの方法論」から浮かび上がらせることはできるものです。塩田剛三の反応速度の件についても推論や想像で言っているのではありません。弓矢の柄にどんなマークが付いているか、といったことは実際に見てみなくては分らないでしょうが、「身包みの盾」の存在から人間の反応力の限界を超えた「武器」の存在は判断できるのです。
 
 この場合防具やシュミレートという発想を「ガチ勝負」からかけ離れてしまったような軽いニュアンスで捉えるのは間違っています。スパルタカスの時代から剣を木剣に替えて防具によるシュミレートをやっています。剣術の達人は合戦に参加したからといって技術の深いところが向上するわけではなく、道場内で組織的に木刀などを使用して時に寸止めのように実践をシュミレートしながら対人訓練を反復しなければ技の向上はありません。柔道においても岩場や岸壁で実戦を行って殺し合いをしても個々の技術の向上は望めません。
防具とは「失敗を繰り返すことの可能な訓練環境」を広義的には指し、つまり「木剣」も「木刀」も柔道場の「畳」も「ボクシンググローブ」も防具という名称はなくとも意味するところは防具の一種であり、シュミレートとは実際に殺し合わなくとも「勝負あった!」という人間の認識力に働きかけて双方理解のもとに工夫をして鍛錬を繰り返していくものです。それでも怪我や骨折、体がボロボロの一歩手前にはなるものですから、やはり並外れて壮健な人物だったのではないでしょうか。
 宮本武蔵は28、29歳まで60余の真剣勝負に全勝しましたが、それらは「相対的な勝利」で、技を極めたが故の勝利ではなくそれを極めようと朝夕鍛錬した後、「 をのづから兵法の道にあふ事、我五十歳の比也」と書いています。50歳の武蔵は間違いなく28歳の武蔵に勝ちます。
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 私は合気道には無縁の者ですが以下に挙げる理由で塩田剛三のガチ勝負における実践力は確証をもって本物だと考えています。



 人の攻撃方法というものは、それが打撃や柔道技や何であれ全ては筋肉で作り出した「力の作用」のことですが、その手足の動きの元を辿っていけば行き着くところは攻撃者の意思、つまり脳内で発信された微弱な電流のようなものです。脳からの指令を経て体の各部位は動き始めるのですが、各部位が動き始める以前の経緯は目に見えないため、普通の人は攻撃を防御しようとすれば、攻撃者の手足の動きのその後から何らかの対応を開始することになります。しかし仮に攻撃者が「さあ、行くぞ!」と言わんばかりの血走った目で攻撃を開始すれば、よほど鈍い人でもない限り攻撃者の動きを事前に「察知」できるものですが、この「察知」とか相手の動きを「読む」といった能力の実態を科学的に追及していくと、攻撃者の脳内で展開されている伝達のための信号を、未だ解明されていない何らかの仕組みで、離れた位置からキャッチできる能力のことなのだと思います。

 塩田剛三の動きは攻撃者の動きの始動時に「始動点を捉える技術」に集約されていると考えています。

 分り易い例として合気道から離れて、AがBに下段回し蹴りを出した場合を例にしますと
Aが放った下段回し蹴りの始動位置を「0」として、Bの足に当たる到達位置を「10」という数字で表します

Bは当初「10」の辺りの最も蹴りの破壊力の大きな位置で前足のスネ受けで防御します(自分の足がかなり痛いレベル)
         ↓
Bは鍛錬を経て「8」辺りで下段蹴りを止められるようになります(やはり自分の足が痛いレベル)
         ↓
Bは「6」辺りで自身の足を僅かに前にせり出して蹴りを止められるようになる(自分の足はさほど痛くならないレベル)
         ↓
Bは「4」辺りで蹴りを止められるようになる(相手の方が足を痛がるレベル)
         ↓
Bは自身の足をかなり前方に繰り出して「2」から「3」辺りで蹴りを止められるようになる(相手は蹴りを出した瞬間に蹴り足が止められたような感覚に見舞われます)
         ↓
Bは「0」から「1」辺りで蹴りを止められるようになる=蹴りを出そうにも出せないように防御の体勢を攻撃者の動きより先に出せるようになる(相手は蹴ろうとした瞬間にその意思さえも事前に見破られてしまったかのように感じ、蹴りが出せなくなります)

このように反応力が極限まで高くなった場合、筋力を駆使した対応から開放されて相手側の意識を事前に捉えられるまでになる、、、、ということになるわけですが、こうしたことを一時期流行した「気」とか、はたまた荒唐無稽なSFアニメのサイコティックな世界と勘違いしてもらっては困ります。
若い現役キックボクサーやプロボクサーや実践空手の有段者を集めて、情け容赦のない最速の攻撃を一方が繰り出して、もう一方の者は防御だけに専念して長期間に渡ってのべ数千回以上の対人訓練を積みますと、時に前述の「0」に近い位置での防御を偶然にせよ実践できる場合があります。この時両者の動きは瞬間的にですが妙にゆっくりとした特異な動きになってしまい、当人達は必死で汗をかいているものの外から見ると何をやっているのか分らない別次元の動きを垣間見ることがあります。例えていうなら太極拳とか中国拳法の型みたいなふわーとした動きになってしまうことがあるのですが、この経験からおそらく大昔のシナ大陸には似たような反応力の水準に到達した者がいたらしいことが理解できます。(その動きの見たままを型として継承している人はもちろん格闘技とは別の単なる体操ですが)
この反応力の習得には当初は激しい筋力を駆使したガチ勝負を散々やって、実際の現役最強クラスのキックボクサーやプロボクサーや実戦空手家などを相手に怪我や失敗の血みどろの限りを経験して、途方もない時間を費やした果てに反応力を徐々に高め、相手の始動時を捉えられるようになるための生々しい経緯が無ければ「始動点を捉える」「筋力から開放される」段階までは到達できないものです。前述の「0」に近い到達点と思しき一端をそれでも塩田剛三の演武で見る限り、(相手が同じ組織の弟子である点を割り引いても)塩田剛三の持つ反応力のズバ抜けた高さをそこから推し量ることが出来ます。こうしたことから彼の持つ技術的な到達点は過去の一時期に打撃系や組技系のエキスパートらと相対稽古を散々経験したと考えなければ、その反応力の高さの理由は説明できません。私が見る限り、あの動きは普通の人が生物として持っている0.2秒前後の反応力からかけ離れた反応速度であり、弟子たちは「先生のお相手をさせていただく身」で確かに気迫の欠片も見当たらないのは残念ですが、塩田の動きを支える反応速度そのものに偽りは一切ありません。
人がこの反応力を極限にまで精度を高めた場合には、総合格闘技や戦争の白兵戦や道端でのケンカ殺し合いなどのガチ勝負であっても「筋力」から開放される戦いの方法論は決して絵空事でも空論でもなく、現実的にあると確信しています。

 塩田剛三が体現しようとした世界はおそらく「絶対的な強さ」です。
理論的に「絶対的な強さ」というものを例えますと、100メートル走の記録でいえば「記録0秒00」であり、野球の打者の打率では3割台後半がせいぜいですが絶対的な強さとは「10割」のことです。百M走の0秒00は不可能ですが、野球の打者の10割は理論的には可能です。塩田はオリンピックの金メダルを目指したのでもなければ首位打者を目指したのでもなく、0秒00で走る世界を追究し打率10割を実践しようと試みた偉大な実践格闘家だったのだと思います。
昔の百M走の優勝タイムが11秒台だったからその時世界一の走者も現在のトップアスリートと比べると、、、、このような論点で質問者さんは塩田剛三の力量を、単なる時系列での比較優位論で「その当時は強かった」「彼が他者に知られていなければ強かっただろう」と理解すべく終始していますが、これではやはり格闘技における「反応力」の世界だけが全く見えていません。人生経験豊富な精神論や武道論にいくら共感しても、塩田剛三の脳内に構築された反応力と具体的な格闘技術の究明に至ることはないと思います。

この回答への補足

長文にてのご回答ありがとうございます。
とても論理的に書かれており、私にもなんとなく趣旨がわかりました。

「始動点を捉える技術」ですか・・・確かに相手の先を取る、相手の気配を察知して行動を予測する。という考えは私も聞いたことがあります。
東京オリンピック出場の神永先生も以前そのようなことをおっしゃっていました。「技とは自転車のようなもの、動き出しは止めやすいが、動いている途中は止めにくくなる。だから相手が技をかける前に制することが重要だ」と。

>生物として持っている0.2秒前後の反応力からかけ離れた反応速度・・・ですか。そういう意味では「力から開放された闘い」では塩田剛三は無類の強さを誇るのかもしれませんね。反応力という視点から見れば、また違った意見が出てくるんですね。面白い。

質問、塩田先生は
>激しい筋力を駆使したガチ勝負を散々やって・・・
ということを実際に経験されてその境地に達したのでしょうか?実際にそのようなガチ勝負をムチャクチャやると、境地に達する前に体がボロボロになったり、死んでしまうような気がしますが・・・

補足日時:2007/01/12 22:57
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Gです。

 こんにちは。 (長くなってきましたね。 本題から離れがちになってきましたね)

>その時代の武道家の中では塩田剛三は一流であり、強かったけれども、それは過去の話であって、現代の格闘家とは比較の対象になりえない、と。

一流と言うことはつまり「一般人からかけ離れた実力の持ち無視」と言う意味合いであれば普通の人では考えられないほどの実力の持ち主だたと思いますよ。 英語的表現をすれば「信じます」です。 また、私は他のその頃の一流の人たちの実力は私が感じる以上にすばらしいものを持っていたと信じます。 いろいろな面で尊敬するものでもあります。 なぜかと言うと私の武道にはその頃の先生たちの「スポーツ化、美徳化」する前の彼ら(この表現しか私の語彙力にはないのでお許しください)の武道に対しての考えを反映しているからなのです。

柔術(柔道や合気道になる前)には必然的に打撃もありました。 打撃無しで「武道」は考えられないからです。 そして、当然ながら打撃も含めた彼らの武道はそれだけ「恐れられて」いたわけですね。 

前にも書いたように、彼らは彼らなりの「向上」の道を歩む決断をしたのです。 する必要性があの頃にはあったという推測は現実に近いものだと私は思います。 ただその「向上」が私の個人的考えから離れているということに過ぎません。 誰が正しいという言うような幼稚な判断をするのではなく、自分に一貫したひとつの考えを支えとして生きることは武道家にとって大切なものと私は感じます。 つまり、私の考える向上と彼らの考えた向上に差はあるもののそれを支えにして自分の信じる道を歩んだわけです。 私自身私の道を歩んでいるつもりだということでもあり、また、日本の武道を私なりに「アメリカ化」していると言われても私は多分そうかもしれませんと言うでしょう。 実際に私の考える日本の武道がこちらで色々な所で採用されていたり、私のほかの日本の武道も重要視され使われているのですから。 自分の武道への考えをしっかり持たないで教えることは無理だということを私は知っています。 散々「辛苦をなめされた」事もありましたし。

と書きながら、言おうとしたことから少し離れてしまいました。

問題は「達人」を一人「一般的に存在する武道」や「武道指導者」と分けないでその一人がよければその「血を引き、そして向上させるべき立場にいる指導員」も良いとは言い切れない状況が日本にある、と私は個人的に判断する、と言う事なのです。

指導できる指導員がいないとも、合気道がおかしいということを言っているのでは決してありません。 しかし、明治の頃の「~家」と言えばその道の「大家」「実力を保持したもの」とされていたのです。 同じことが50年前の(空手の)黒帯といえば恐れられる程の実力があったのです。 4大伝統空手の黒帯はどれだけ「恐れられる実力」を持っているというのでしょうか。 中学生で黒帯、これは何を意味するのでしょうか。 体力的な実力、人間としての精神力、そして、武道家としての「人生観」、常識、「世間」の事をどれだけ持っているというのでしょうか。 ただ試験に合格しただけの黒帯では黒帯がなくのです。

>さらに、合気道などの各種武道は実際のストリートファイトでは、有効な護身術とはなりえない。ということですね。

いいえそういうことではありません。 武道の中に存在する「護身術」を自称しているだけの武道家は「使える護身術」を教えていない(道場)自称だけの指導員が多すぎる、と言う事なのです。 つまり、護身術という武道の一部を教えない、だから弟子は知らない、知らないから使えない、と言う事なのです。 そして、今では、その弟子が指導員・道場主としての看板を背負っているのです。 つまり、私は彼らが出来ないのは仕方ないと言うのです。 (英語をしゃべれない英語の先生がどうやって英会話を教えることが出来るのかと言う「批判」と同じことなのです)  

>Gさんのおっしゃる真の武道とは、生死をかけた闘いに勝つ、ような一種の殺人術のような意味合いになるのでしょうか?

軍隊・SWAT/警察での武道の実践的要素(体力的だけでなく頭脳も含めた体全部の要素のことであって、名前のついた技や型からの教えではなく))だけを護身術に「応用」しています。 これは生死をかけた「法的戦い」ともなり殺人罪にはかかわりのない殺人(あえて言います)方法も含んでいます。 

私個人が考える武道には殺人術(と呼ぶべきがどうかは疑問ですが)は当然ながら含まれます。 と書くと必ずどこかで私の言葉を批判する人が出てきますが、その人は空手や居合い道の考えを知らないだけの人です。 一撃必殺と言う単語は日本で知らない人はいないと言って良いくらい知られていますね。 

明治の頃の柔術や合気道にも打撃と言う単語は当身と言う表現をしていますが、それでも、当身に打撃力がなければ意味がないということですね。 ここまでは良いですね。 

でも、打撃力がある、と言う事はどういうことでしょうか。 

相手に危害を加え、死にも追いやる可能性の持った実力と言うことなのです。 どんな奇麗事を言っても、実際の結果は同じなのです。

一撃必殺、受けて反撃、先手なし、これすべて「現実を知らない・気がつかない・教えてくれなかった」殺人術につながる実力なのです。

)もしそうでないなら、50kgの女性が100kgの男性に勝つ方法は無いような気がします。 まぁ何をもって「勝つ」という意味合いにするかは、難しいですが・・・KOする、生き残る、暴行されない、他いろいろな定義によっても「勝つ」の意味はありますが・・・

使える護身術を持つ50Kgの女性であれば100Kgの「使える護身術を持たない」男性には必ず「勝てる」と確信しながら教えています。 そしてもちろん今まで15年以上の教えからそれを実証した女性たちは多くいます。 また、私の護身術の教えを貫いて教えている全国の護身術指導員が実証した数はすでに数え切れないと言っても良いほどになっています。

逆を言えば私たち護身術指導員は彼女たちにとって一番怖い性犯罪者になる可能性を持っているということでもあります。 また、警察にとっては一番手ごわい殺人犯人になる可能性を持っているということでもあります。 この質問でも書かれた方がおりましたが、か弱さを強調した「技」は女性にとっても「老人」にとっても武器であり、武器であればその使い方も教えなくてはならない、と言う事なのです。 

2万5千といかにも私の回答を理解していない方もあられるようですが、27万5千と言う「50-100ではない」数がこの「技」が含まれるのはご理解できると思います。 実際には武道としてはこれより多くなると私は思いますよ。

なぜなら、また書きますが、私が言う「技」とは名前のついた技だけでなく、武道家・護身術者として「生きる」為に知るべき事柄すべてを含むからです。 言ってみれば「武道家護身術者として生きる技」と言って良いでしょう。

自分の向上を信じる方法も「武道家の技」なのです。 名前のついた技を実際に使えるようにする為の「応用技」もしかりです。 小手返しだけでも使える状況を考えると50は楽に「応用技」として教えることになるでしょう。 しかし、それらすべてに名前はついていません。 27万もの技に名前をつける必要はないし、名前をつけたらその名前を覚えるだけでも大変なことになってしまいますね。 (また、名前をつける事だって大変なことになり命名者ですら何がなんだか分からなくなってしまいます。)

つまり、実戦応用方法をどれだけ実際に使える実力を持たせることが出来るかという事が指導員としての責任でもあるし実力でもあるわけです。 だからこそ、私は「指導することの出来る指導員」が今の時代には必要となっている、と言ってきたわけです。 私の名前を使わなくては教えられないと言うのであれば教えるな、とまで言う私です。 

言い換えると「流派で売るな」と言うことであり、流祖の実力と流派全体の実力とは、特に今では、違うものを私は感じる、と言うことであり、批判的には聞こえると思いますが、批判の為の表現ではなく、もう一度見直して欲しいと言う願いからの「指摘」的なものだと言うこと知ってもらいたいし、Gが言っているから気に留めない、では結局自分を見ていないと言うことになってしまうよ、となり、さらに自分がちゃんとやっていれば「批判」としてはとらないと私は思うのです。 逆に何かのヒントになった、位に思っても良いのではないかと思うわけです。

そして、私自身こう書いていますが、皆さんからの回答も多いに自分にとっていろいろなヒントになっているのです。 (日本語向上も含めて)

>もしヒョードル選手のような格闘家が相手であっても、路上の闘いならGさんは勝つ自信がおありでしょうか?

どんなジャンルでも(テレビに出るような)プロのトップのさらにトップの実力は一般人には考えられない実力を持っていることは常識を持っている人であれば十分分かっているところです。 あれだけ人口の多いゴルフですばらしいスコアーを出しているセミプロでも、また、プロ資格保持者でも、また、これだけ多くの人がカラオケでプロ顔負けの歌が出来る人でも結局プロには程遠いのです。

格闘技と言う狭められたルールの下でのヒョードルです。 すばらしいと感じる以上のものを彼が持っていることは、プロレスは真の格闘技ではないと分かっていなくても、十分知られた事実ですね。

しかし、ヒョードルが相撲の土俵で、ボクシングで、または、K-1で、また、ムエタイルールでどれだけの実力を出せるか疑問はありますね。

ですから、ヒョードルが私と言う人間を知らないでナイフでアメリカにいる日本人を殺すだけの理由でかかってきたら私が彼を知っていると言うだけでも「負けない」自信はあります。

しかし、路上で私を知っていながら彼と「やるのかよ、ちょっと顔出してくれ」と言うレベルでの殺し合いであればなんともいえません。 私のすべてを出すことになるでしょうね。 <g>

この回答への補足

再度の長い回答、ありがとうございます。

”黒帯”に関して、私も海外で一時期、小さな道場の指導をさせていただいた事がありますが、海外の”黒帯”は日本の黒帯とはかなり違った意味を持つと思います。日本では中学生くらいになるとある程度の者ならば、試合をして、形を習えば黒帯をもらえるのですが、海外では10年くらい稽古をして、かつ指導の経験がなければ黒帯がもらえません。だから私が黒帯だと言うと外国では尊敬されました。まぁだからこそ無様な姿は見せられないと思い、日本にいたときよりも一生懸命練習し、指導したんですが。
ホイホイと黒帯を与える日本柔道と、本当に頑張った者にのみ与える外国と・・・この違いは何なんだ?と思いました。

>逆を言えば私たち護身術指導員は彼女たちにとって一番怖い性犯罪者になる可能性を持っている・・・

このことはものすごくアイロニックですね。確かにそのような危険な技を大柄な男性に教えることは社会にとって良いことなのか悪いことなのか、難しいところですが、だからこそ指導者が正しく導いてやることが重要なのですね。

最後に、ヒョードル選手について、もし私が彼と戦うとなったら、どんな状況にあっても、私は必ず負けると思います。私が日本刀を持っていようが、拳銃を持っていようが、私は負けると思います。

なぜか?、Gさんのおっしゃるようにプロのトップファイターというのは一種常識では考えられないくらいの、人間ではないような人たちだからです。
私は学生時代に日本代表のBクラスの人間と試合をやってみて、わかりました。”次元”が違うと。オリンピックに出るような(出れそうな)人間というのは、一般人がガンバッテ何とかなれるという次元ではありません。体力とか運動神経とかというレベルではなく、脳味噌が違う感じがします。

そのような常識では考えられないような人間たちが挑んでいく格闘技の世界のプロで、しかも一番危険な格闘技で、一番強いという人間に、物理的にも精神的にもかなう気がしません。

かなり話が脱線してしまいましたが、Gさんの回答をいただいて、私も思うところを書かせていただきました。

補足日時:2007/01/09 22:04
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>うーん、確かにこれらの長い論議を大まかに振り返ると、私の意見は前にも書いたように、率直に言えば、合気道は総合格闘技という分野では使えないものである、という意見に見えてしまうのかもしれません。



それなら間違っていませんよ?ジャンルが違うのですから当たり前でしょう。それどころか『実戦』で、合気道どころか武術というジャンルよりも格闘技というジャンルの方が優れていると仰っているように見えるのですが。

合気道は格闘技ではたいして使えないでしょう。
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