プロが教えるわが家の防犯対策術!

 私は合気道を大学から始め、約一年になります。
 体術目的の入部だったのですが、流派が岩間系だったのが運の尽き。今日に至るまで毎日腕立てができなくなるほど剣の素振りをやらされます。しかしそれは別にいいんです。鍛えられてるのが屈筋であることに疑問も感じますが気にしません。
 不満は剣の持ち方が右手前の左手後ろの一辺通りであることです。右足前の半身ではさほど気になりませんが左足が前だと窮屈でしょうがありません。練習後、疲労が左右で微妙に差が生じていることが気持ち悪いです。何とか均等に疲れようと自由稽古の時間に逆持ちで素振っていますが、決まって先輩に注意されてしまいます。家に木刀はないです。
 武士道云々はもっともだと思いますが、心身の健康効果を謳う武道が成長の妨げになっているとしたら皮肉にもなりません。余計なお世話ですが今幼い剣士たちの未来が心配です。
 長くなりましたが私にアドバイスと持ち方の固執に対して意見を聞かせてください。

A 回答 (10件)

私は合気会系の道場ですが、以前稽古について先生に聞いたことがあります。


その時、木刀を無闇に振り回すのではなく、きちんとゆっくり左右均等に稽古しなければ意味がないと言われましたので、私も質問者と同じ事を聞きました。
そしたら、必ず持ち替えなさいと言われました。
理由は聞き手ばかり鍛えても意味が無いことと、逆手を鍛えることで左右のバランスが良くなり幅広い動きが出来るようになると言われました。
それに、苦手な部分があると弱み(死角,弱点)になるとも言われました。
また、左右対称な動きになるので稽古では理解がしやすくなりましたね。
まぁ、大学の部活はかなり右よりの考えが多いので違和感はあると思いますが、いつかは貴方も毒されるでしょうね。
因みにある道場の師範が言っていましたが、大学は確かに稽古する時間が多くあるが全く日々の稽古をいい加減にやりすぎているので技の切れが全くないと言っていました。
ですから、私の道場には大学生が稽古に来ています。
その学生に聞いてみたら、やはり学校の稽古と道場の稽古では注意されるところが全く違うと言っていました。
それに、レベルが違い過ぎて言っていることが全く分からないし、今まで先輩から習ったことが全く通用しないと言っていました。
それと、先輩がいくら高段者でも勝てるそうですが、道場の同じ段位の人には全く歯が立たないとも言っていました。
私もその人と相手しましたが、技が全く掛かっていないので、簡単に逃げることができました。
合気道は一人で稽古をすると間違ったことを覚えてしまうし、きちんとした指導者の元で稽古しなければまた上達もありえません。
学生なのであまり道場に行けないかもしれませんが、連盟に加盟している道場や学校に来ている師範の道場に行って直接指導してもらうのも一案と思います。
しかし、貴方がそこまで好きでもなければそのままも一利と考えます。
一度検討してみる価値はあると思いますよ。
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この回答へのお礼

今回私にとって理想的な回答ありがとうございます。
>同じ事を聞きました。
疑問をすぐに質問できる雰囲気はすばらしいと思います。同じ疑問を持っている人がいることは励みになります。

>いつかは貴方も毒されるでしょうね
そうなれば終わりですが、淡々と技をかけていくことが作業なのかなのか悟りなのか私には判断がつきません。あきらめないようにはしていきたいです。

三年かかって良師には否定的なのですが、これを機会に近くで見学できる道場を渡って生きたいと思います。だいたい考えがまとまりましたので後一週間を目処に締め切ります。

お礼日時:2007/03/21 18:07

面白そうなので一寸、考えてみました。


剣の振り方が一辺倒なのは、剣術との相性だと思います。
中華剣であれば、逆手も振ると思いますが、侍はこれには、凄い拘りが在ったと思います。

そして、「型」には必ず「意味」が存在します。一辺倒な理由は、上記の通りと仮定しての話ですが「それが剣術だから」とすると、確かに、一辺倒なのは、現在では、あまり必要ないですね。

なんですが、その岩間流が、右手前で振る事を前提として創られ、最適化されている以上、やはり、右手前で振る事に意義があるはずです。
現在に必要な形に変えようと思うのであれば、一度全部を身体に修めて、その上でになると思います。
もしくは、宗家にメールしてみる…。とか?

自分のやってる事に疑問を持つのは良い事だと思います。
一寸、截拳道っぽく考えてみました。

この回答への補足

>剣の振り方が一辺倒
すみませんが一辺倒なのは持ち方であって振り方ではありません。

剣の理合が技の理合であることは承知しています。ですが技は左右対で一つの技なのです。であれば自ずと剣の持ち方も対になるはずではと思い、質問させていただきました。
「そんなに変えたきゃ合気道の師範になって内部から変えていけばいいのに」 とキャラはいいますがそこまでやる根性はないです。宗家って道主ですか?恐れ多いw

疑問なのか愚痴なのか自分でも整理がつきません。

補足日時:2007/03/31 00:07
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Gです。

 補足質問を読ませてもらいました。

>長々と解説していただき恐縮ですが、どうやら私が「練習がキツイから楽に強くなる方法ない?」という類の質問をしていると受け止められたようですね。とても残念です。

>逆を素振っていたのは練習が終わってからであり、

はい、この点は私のほうが良く見ていなかったようです。 申し訳ありません。

>その際「窮屈な」左手前の右足前もやっています。常に疑問を抱いて修練に望み、その後青空に映る理想を求めて模索することが背いているとは思えません。

青空を見ろ、は本人が決めることではないのです。 貴方を良く見ている師範が、今は空を見るだけでいい、と判断した時に言う「教え」です。

>回答中の武蔵の言葉はいわば全身全霊で生き延びろという武士道の真逆の言葉ですが、私には「マシと思うなら何でもやれ」ともとれます。佐川幸義は思いつく限りのトレーニングを試し、時にビルダーのような肉体を誇っていたと聞きます。

武道はと体系付けられた、全てを組み込んであるトレーニングメニューなのです。 

そのトレーニングをさせてもらいそのトレーニングの意味と理由とを身につけていないままで「思いつき」のままでは、その「思いつき」には独りよがりの、経験不足の、その人のための効果を出せるだけのトレーニングにはなりえないのです。

人間と言う複雑な理念と思考、動きと攻防、を何百年もかけて、何世代もかけて作り上げたコンクリートの土台に全ての「家のとなるもの」を持ち合わせた武道が大きな家を作り上げる事ができるわけです。 それを出来る人が大家と呼ばれるようになるわけです。

思いつきででは砂地に好き勝手に作ったバラックでしかないわけです。 床には、壁には、ドアには、窓には、台所には、寝室には、トイレには、屋根には、電気・ガス・電話・ワイヤレスネット、テレビ、机、おなべ、炊飯器、箸、フォーク、ナイフ、スプーン、包丁、まな板、お風呂には、階段には、1000も一万もの多くの物をそしてその品質、全て大きな家に必要な物の選択と設置法と使用法、などを教える「家の作り方」が武道なのです。 

その作り方を知らない自称師範が犬小屋を作るつもりで教えていては「犬」がかわいそうなのです。 

どんな状況にも負けない武道家を作り上げる為には、それなりの厳しさを知らなくてはならないのです。

土台を作るときにドアをどんなデザインにしたらいいのか、どこにキッチンをもって来るべきなのか、そして何を先に作っていかなくてはいけないのか、などを考えていてはだめなのです。 土台は自分のと言う地面を「素手で」掘り起こさなくてはならないわけです。 

今までやったことの無い、墓穴を掘ると思われがちの穴を掘らなくてはならないのです。 

墓穴を掘っていると感じる人にはそれなりの教えを身につけてあげなくてはならないのですね。 そしてどうやったら、そんな地面なのか、を判断しそれによって必要な道具を選び効率よく穴を掘るのか、次の段階の為の準備期間でもあるわけなのです。

のこぎりの使い方、ハンマーの使い方、正しい鑿(のみ)の選び方、のこぎりの研ぎ方、終わったあとのしまい方、トレーニング方法は全て出来上がっているのが武道と呼んでもいい方法なわけです。

これらを知るには、その「行動のみを」できるだけでは教えることはできないのです。 いつどんな時にのこぎりを研ぐ必要性を感じるのか、一つ一つの歯は違う方向に向かっているので歯を一つ一つ砥いで行かなくてはならないのです。 無心に、邪心無しに研ぐ事が自分の精神をも砥いでいくのです。 これらは全て立証されたトレーニング方法なのです。

なぜ、五輪の書がこれほどまでに世界中で読まれ実践に使われているのでしょうか。 そして、その実践がビジネスでもあるでしょうし、社員教育の場でもあるわけです。

武道が喧嘩の為にあるのではなく、人間一人の「悔いの無い人生」を感じながら死ねる場を作っていくわけですね。 武道無しで死ぬわけには行かないということでもあるわけです。

そして、それが次の世代に引き継がれていく為に、武道自体が向上を続けなくてはならないわけです。 しかし、果たして今の日本の武道業界にいながらも教えることが出来るように育ってきた人が非常に少なくなってきているわけです。

何もできないで昇段試験に必要な事だけを限られた時間内でテストして、「おめでとうございます、昇段です」じゃ、実力無しの有段者、と世界中で笑われる日本人昇段者が生まれてきてしまったわけです。 残念です、と言うよりもなんてかわいそうな事を弟子たちの時間、努力、そしてお金と交換にしていると言う事なのです。 

教えを守ると言う事はすなわち「知っている人を信じる」と言う事なのです。 昔から言われている守破離と言う段階を無視し(無視することを許し)、基本の重要さを説得できなければ、自分のための自分による自分の武道ができないわけです。

基礎作りに「思いつき」はタブーなのです。 つまり、教えていることには何百年も使って作り上げた道具なのです。 

素振りの意味合いは初心者から「大家」にいたるまで必要な事です。 そして、自分のいるレベルによって素振りの意味合いが変わってくるのです。 しかし、素振りの意味合いも分からないまま後輩に教える場でしかない学校道場では邪推は当然出てきてしまいその邪推を許してしまうと言う「もったいない」事をしてしまうわけです。

素振りの運足、前進・後進、降ろし・上げ、目付き、呼吸、など少なくとも100(百)もの教えが既に組み込まれているわけです。 素振りは単に木剣を振ればいいということではありませんね。 そんなことだけをするために弟子たちの時間を割くわけにはいかないのです。 人生は短すぎます。 だからこそ、世代を超えて武道は向上するわけですね。

ではまた。
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この回答へのお礼

>のこぎりの使い方、ハンマーの使い方、正しい鑿(のみ)の選び方、のこぎりの研ぎ方、終わったあとのしまい方
この例えはわかりやすかったです。邪道に使えば邪道なけっかになりますね。

今後素振りをするうえで大変参考になりました。世代に抜かれぬよう精進します。

お礼日時:2007/03/31 00:06

アメリカで使える伝統空手と護身術を教えている者です。

 そして居合い道を勉強しています。

まだ一年なんですね。 「不満を感じる」「気持ちが悪い」「窮屈に感じる」のはなぜだと思いますか? 本当に教える事が悪いからでしょうか。

合気道に武士道はありません。 空手にもありません。 そして、居合い道にもありません。 しかし、心身の健康効果は副産物としてでも受ける事はできるでしょう。 (先生の教え方によってですが)

この二つを一緒に検討すれば何かのヒントになると思い書いています。

まず、体が動きになれていないと言うのと同時に精神の方がまだと言うか全くなれていないと言う事なのです。 一年みっちりやっていれば、今頃には心身ともになれてきているはずです。

ストレスを感じる人はストレスが大きいからでしょうか。 勿論それもあるでしょう。 しかし、ぶどうをやっていてこれらからも本当の武道と言うものを身につけて生きたいのであれば「ストレスを感じるのは精神力がトレーニングが必要」と言う事なのです。 つまり、ストレスの原因をストレスと感じないだけの実力があればストレスに対しての愚痴は出てこないし、医者の世話になる事もないわけです。 お分かりでしょうか。

武道の中の「己に勝つ」と言う部分がこれに当てはまるのです。 体を鍛える、と言う事は必ずしも筋肉を強くすることだけではないのですね。 柔軟性を持たせ、スピードを持たせ、そして必要な筋肉群に力をつけると言う事ですね。 精神を鍛える、と言う事は? お分かりですね。

己に勝つ、手始めと言ってもいいのが、素振りでもあるわけです。 同じ動きを何回も何回もやることでその動きに必要な筋肉群を鍛えるわけです。 それによって、動き自体がスムーズになるわけです。 筋肉記憶の事はここでは省きます。

しかし、素振りに耐えられる精神力はどうでしょうか。 そして、流派の持つ決まりきった事への意欲と関心の持続力、知識と実力がつくまでは「批判はしない」、でも、「疑問は持つ」「質問はする」なのです。 質問に答える時期ではなければ、それを十分理解できる段階でなければ「青空の雲を見て考えて見なさい」と言う返事も返ってくることもあるわけです。 (ただ、多くの場合、私の経験からは、答えを知らない自称師範が多すぎるからこのような「回答を避ける返答」をすることがあるみたいですが。 (先輩のレベルでは多くのことは返答できないでしょう。 また、いつ「空を見ろ」と判断できるとは思いません)

疑問を持ち苦難することの重要性は、それ自体が流派の持っている教示項目なのです。 だから先生は、苦しめ、自分のために苦しめ、と言うわけです。 言わないのであれば何かおかしいのです。

体が動きになれていないから逆手に持って素振りをするということはぶどうの教えに背いているわけです。 楽な方法、は武道には無いのです。 命を懸けている状況を前提にしているからこそ心身の健康効果を高める為に心身を強くするわけです。

左右均等にする必要なありません。 「適当に」より均等にするだけでいいのです。

刀を両手で持たなくてはならないこと自体が、現実から離れているのです。 剣豪、と言われ世界的に有名な五輪の書という書物をご存知でしょうか。 唯一、二刀流を推した剣術流派です。 しかし、推してはいるけど実際にやることではない、と言いきる勇気を持った宮本武蔵なのです。

武蔵の五輪の書の「地の巻」の「此一流二刀と名くる事」に、一命を捨る時は、道具を殘さず役に立てず腰に納めて死する事、本意にあるべからず。と書いてあります。 確かにこの文章の表面だけを見ると何か刀の事が欠いてあるように見えますね。 武士は刀を二本差す、だから両方使わなくては死ぬにも死にきれない、と書いているみたいですね。

この道具とはいわゆる物体的な道具と見るだけでなく自分が持っている全ての道具のことを示します。

つまり、それは体力、精神力、運動神経、感覚機能、ありとあらゆる「物質以外の道具」も含むのです。

こちらのやり方のほうがらくだから、と言うような訓練の仕方ではもしその「楽ではない」やり方を必要とした時にできなければ(道具を殘さず役に立てず腰に納めて)では命をなくすのです。 そしてそんな理由で死ぬのは「本意ではない」と言いきっているわけです。

私の流派では(私のプロフィールを見てください)全ての状況から自分の命を守る事が前提となっています。 試合のようなルールの下ではなく何でもあり、となるわけです。

自分の持っている「向上できる能力」を向上させなくては「向上できる弱点」を向上させる事ができないわけです。 しかし、これらをちゃんとやっていればストレスと同じように「どんな動きでも」違和感を感じないわけです。 全て人間のできる意味のある動きは武道によって出来るようになるのです。

しかし、それには訓練、試練、トレーニング、鍛錬、など全て始めた頃にはしごきととってしまうわけです。 

学校の道場の弱いところは先輩しかいない、と言う事なのです。 それ嗚2-3年しか訓練の差が無いのです。 組み込まれた訓練の意味合いを知るにはまだ早いわけです。 できるのは、こう教わった、と言うだけで、奥の深い説明は自分ですら学んでいないわけです。

もし、私が言っている事が理解できましたら、ぜひ流派の直系道場(学校内ではなく)出の教えを受けてみてください。

素振りだけしか「教えられない」先輩であれば仕方ないのです。

もし心身健康管理が理由であれば、何も武道でなくてもいいと思いますがどうでしょう。 健康管理に適したスポーツは多くあるはずです。

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。  

この回答への補足

まずお礼が遅れたこと、拙い文章をお詫びします。

長々と解説していただき恐縮ですが、どうやら私が「練習がキツイから楽に強くなる方法ない?」という類の質問をしていると受け止められたようですね。とても残念です。
逆を素振っていたのは練習が終わってからであり、その際「窮屈な」左手前の右足前もやっています。常に疑問を抱いて修練に望み、その後青空に映る理想を求めて模索することが背いているとは思えません。回答中の武蔵の言葉はいわば全身全霊で生き延びろという武士道の真逆の言葉ですが、私には「マシと思うなら何でもやれ」ともとれます。佐川幸義は思いつく限りのトレーニングを試し、時にビルダーのような肉体を誇っていたと聞きます。
とはいえ>「適当に」より均等にするだけでいいのです
のお言葉は最もだと思います。いたずらに風呂敷を広げるのではなく、弱点の向上には疑問ですが歪みを肯定して己の自然体の原型をつかむという考えもアリな気がしています。

補足日時:2007/03/28 06:34
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私も若い頃には同じような疑問というか不安を持っていた時期はありました。

もっと言えば恐怖に近かったかも知れません。原因は合気道ではなく他の武道ですが、左右の歪みからくる故障が実際に出ていましたから。
その後、さらに稽古や経験を積み、また色んなタイプの名手と接するにつれ、武道の理合や身体操作法(体術全般)に対する見方、価値観が変化し、今は特に何も不安はないですが。

10代~30代までは、中心軸や丹田、そういうものを体術の中心に考えていましたが、現在はそういうものを「ただの結果」と感じるようになり、ことさら意識して鍛えるものではないと思っています。歪めても歪まず、正しても正されず、それを目的にしてもしょうがないもの。技が出来れば結果としてそこにあるもの。そんな感じです。

とはいえ、身体の歪みとりは大事です。剣ではなく、杖を振るようにすれば良いのでは?杖術なら左右逆にして練習をしても怒られないでしょう。
あるいは鍛錬にはなりませんが、歪みをとるだけの目的であれば家で何か適当な棒を探して振ればいいようにも思います。

それよりも、目的が心身の健康であれば、思い切って合気道をやめて他のスポーツに切り替えることも考えた方が良いかも知れません。フィットネスを目的としたスポーツサークルは色々あるはずですから。

合気道を含む各種武道、あるいは様々な競技スポーツは、健康を目的にやるものではないと思います。一流のスポーツマンは、パフォーマンス自体は常人離れしていても、健康という意味では一般人よりコンディションが悪いなんてザラです。
というか、トップクラスでやってる人達だと常に体調はどこかしら悪いものです。トップアスリートは日常的に精神や肉体を鍛えていますから、大体において活力にあふれて元気な連中ではあります。しかし「元気さゆえに健康的に見える」だけであって、実際に健康で悪い所のない身体を持っている場合はごく少ないです。

競技スポーツも実戦的武道も、本気でやれば身体は壊れます。それはそういうものだとしか言いようがありません。
「身体を健康にして競技成績もよくなる」をモットーにする指導者、ハウツー本は多いですが、ただのモットーだけです。本当に身体を壊さないようなトレーニングだけしてたら、身体を壊しても本番でのパフォーマンスを求める選手には勝てません。
身体を育てるための運動はまた別にあります。そういう目的であれば、そういう種類の運動を選ぶしかないのではないかと思います。

強さを追求する場合は、健康は捨ててください。少なくとも左右偏りのない成長などを考えていては、実戦的な強さは得られません。理念としては美しいですが、現実には偏りを恐れない者の前に敗れます。敗れなかったとすれば、それは実際に戦わなかったからでしょう。弱みがないのは、強みがないのと同じです。強みがなければ実戦では勝てません。

格闘技術に限らず、多くの運動競技もそうですが、左右を全く均等に使用するというのは人間にとってはむしろ不自然なのです。人間は左右均等にはできていませんし、左右均等には動けません。
身体をいびつに使うのが、人間の活動の自然な姿なのです。歪みにはその裏に力と理があります。歪みの中に秘められた強みを見出そうとする研究と努力が、本当の練達を生むでしょう。
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この回答へのお礼

>技が出来れば結果としてそこにあるもの
要素ではなく全体を一とするわけですか。ますます型稽古が活きてきます。
現在打ちにあった箒を振っています。なかなか抵抗があってやりがいがあります。
>本気でやれば身体は壊れます
もっともです。壊れる0歩手前で維持させるトレーナーの必要性がここにあります。そして私は命をその競技に捧げられるほど上質な人間ではありません。
>弱みがないのは、強みがない
針を思い出しました。驚異的な貫通力を持つのは多くて二点だけ、ですね。弱みがあれば工夫できます。強みがあれば迷いがありません。ですが活かされるのは競技内であると思われます。
>身体をいびつに使う
まさしく利き腕ですね。歪みをその流れるままに伸ばしていけば成長があると思います。ですがもともと備わっている歪みの器に逆の歪みを蓄積させていった場合、裏にある力と理が腐り身体が悲鳴をあげることが予想できます。逆らわないという意味はこういったことにも表われているんですね。

回答には目から鱗が落ちました。案外自分の歪みを肯定することが修行の始まりなのかもしれません。ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/26 02:29

で、先輩や師範の方には質問されたのですか?

この回答への補足

してません。
先輩は門前払いですし、師範は週一しか来ない上、幹部の先輩方が常にガードしていますので隙がありません。

ついでにいうとうちは流派こそ岩間ですが、そっからさらに分化した一派で師範の派とは違います。つまり師範はお客様状態(先輩談)という複雑?な状態です。

補足日時:2007/03/20 22:23
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確かにそうですね。


私は富木(合気道協会)ですが、技では左右あるのに剣は右前持ちばかりです。
富木は組み手というより対短刀が基本ですから、組み手(基本技)左右を教えられる際に、よく刀の振りを例にとって説明されたので、あまり気になりませんでした。ようするに左右対称。
残念ながら、現状はそれ以上の欲を持つゆとりがありません。が、いずれは左前持ちでの型にも挑戦してみたいと思います。(試合や昇段に関係ないですが)

岩間流は判りませんが、植芝先生の流れなら型を大事にするので変わった練習は敬遠されるのかもしれませんね。
部活や体育以外で練習するしかないでしょう。
素振りや独りでの練習なら木刀でなくても出来るのではありませんか?
私は子供の買ってきた土産物の木刀や、塩ビパイプに砂を詰めて素振りをやりました。(型が崩れるかな?)

将来は高段位を取り、是非、一派を興して下さい。
右前持ち右半身、右前持ち左半身、左前持ち左半身、左前持ち右半身もお願いします。
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この回答へのお礼

富木というと軍隊と乱捕りというイメージがあります。短刀(=ナイフ?)ってところに実戦の匂いがします。型の左右逆は私には無理です。強制されればまた違うのでしょうけどw

>変わった練習は敬遠される
はい、そんな感じがします。少なくとも私のところでは。
塩ビパイプは握れるサイズがあるかしらwダイシン行ってみます。

>一派を~
無茶言わないでください。とはいえそのくらいの気概なく疑問を持つことは愚かしいということは分かってはいるんですが・・・
貴重な他流の意見感謝します。ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/20 22:15

No1です 少しだけ気に成ったので・・・



利き手を失ったときとっさに対応できるかを考えています>
野球も剣道も基本は左腕だと思いますけど・・・
左手で握り右手は添えるだけ(野球は右打者の場合ですが)その為 左手一本の素振りはどちらの競技でもよくやらされると思いますが・・・
 今はやらないの??私はよくやらされました。

ノッカーも慣れている人は決まって右手でボールを上げ左手でバット操作をして打ちますよ逆をやるのは小学生ぐらいでしょ

打撃系の武道もしていましたが確かに左右平等に鍛錬します
でも基本の構えは利き腕が後ろの右利きならば左前構えです
ボクシングのように前の手はジャブで利き腕はストレートみたいな偏った鍛え方はしませんね。

そこで考えてみたのですが柔道のような組討系の格闘技でしたら利き腕が無くなったら組み手で袖をとっても掛ける技は限られるので逆構えにするかもしれませんが打撃系の場合は 利き腕がイカレても構えを変えることはしないですね

 構えを変えなくても有効打を与える事が出来るからじゃないでしょうか?変える必要は余り感じられません。

以上経験上から
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この回答へのお礼

>左手一本の素振りはどちらの競技でもよくやらされる
それは知りませんでした。やはり同じように鍛えることが必要なんですね。ノッカーは守備の練習のためにいるとの認識が強いので疑問を持ちませんでした。右手でボールを上げるのは打つのに都合がいいからだとという思い込みがあります。卓球やテニスでは都合が悪いので左手で上げるわけです。こちらは逆の練習をすることがないんですね。

例えばミルコ選手ですが、彼は両腕を振り回して左足で、あるいわその逆で相手を沈めているように見えます。平等とはいえ、構え一つで各々の手足の役割がある程度決定されてしまうと思います。

>利き腕がイカレても構えを変えることはしない
なるほど確かに体重移動の壁となる足がイカレればどうだろうとは思いますが、打撃形(多分寝技も)は比較的対応しやすいと思えます。ですが剣道(これも打撃ですが)は構えを変えずにどうにかなるとは思えません。素人考えで恐縮ですが間合いが狭まると思います。

繰り返しどうもありがとうございます。

お礼日時:2007/03/20 12:19

>心身の健康効果を謳う武道


効果はあるけど、目的じゃないしね。
>皮肉にもなりません。
利き腕がある99.9%の人間にとって、別に皮肉でもなんでもありません。
それにきちんと振れば左右同じように疲れるようになります。何十万回と振ってきた実感です。
ですので豆剣士の心配はご無用。

武士道と武道とは全く別のものだけど、
そもそも武道とは、その教えの中で普遍的な価値観を追及していくもの。
武道に限らず、茶道・華道などもそうでしょう。
なぜ剣は左に差すのか、なぜ逆はないのか、それに想いを馳せるのも立派な武道の教えのひとつ。
ただやれといわれたことをするだけでは、とてもとても武道をやっていると語ってはいけませんよ。
ただ盆踊りをやっているとでも言っておいてください。

まあアドバイスとしては、自分の考えと違うものを皮肉ってみたり、
こんな誰とも分からない人間たちに回答を求めたりしているようでは駄目ということです。
内なる疑問を解消するためにもがいてみるという過程を経ようとしなければ、
武道だろうと、仕事だろうと、人生だろうと、どれも成果は得られないと思いますよ。
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この回答へのお礼

>目的じゃない
武道の目的ではなく、学ぶ人の目的です。
>何十万回と振ってきた実感です
貴重な意見ありがとうございます。余計な心配だったと反省しています。

>普遍的な価値観
疑問があります。質素倹約はまぁ普遍的でしょうが、日々是精進に当てはまるとは思えません。慢性的の間違いでしょうか。
>想いを馳せる
申し訳ないですが回答になっていません。
>ただやれ~盆踊り
疑問をもって試行錯誤することですか?私のしていることは盆踊りですか?(盆踊り結構。あれは十分武道です)

>回答を求めたりしているようでは駄目
言い訳かもしれませんが「解答」ではなく「回答」です。自分の文章の稚拙さもありますが、考えもせずただ不満をぶちまけただけと受け止められるのは残念です。ありがとうございました

お礼日時:2007/03/19 23:42

以前回答者としてご一緒した事がありましたね(*^^)v



何故刀を持つ手を逆にしたいのか 私には理解不能です??
柔道の時 平等に鍛えようと左組み手とかします??・
私はした事有りません 技をかけるとき左とかも確かにしますけど・・・

心身の健康効果を謳う武道が成長の妨げになっているとしたら皮肉にもなりません>
テニスプレーヤーなどはみんな利き腕と逆の腕の太さがまるで違いますそれを成長の妨げと感じるのでしたらその競技はやらなければ良いと思います。
 高校時代強豪の学校にいたのなら お友達やご自身も体のどこかに故障が有ると思いますが スポーツはある一定のレベル以上になれば体の健康に良い訳が有りません
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この回答へのお礼

本当だ(*^^)vレベルの低い回答を提示したことを後悔した覚えがあります。
別に持つ手を逆にしたいのではなく体の軸のバランスを保ちたいだけです。なぜか日々強迫観念に襲われており、利き手を失ったときとっさに対応できるかを考えています。柔道に限らず相手がサウスポーだとやり辛いじゃないですか。だから練習では左の技もやりました。試合では使えませんでしたがw下手な文章ですみません。

腕の太さは妨げではなく、進化だと思っています。野球の打者は前記のバランスを保つため逆の素振りをすることがあると読んだことがあります。
質問のレベルは弱いけど好きです程度でお願いします。ちなみに柔道を「やっていた」のは中学で、高校では駆り出されただけです。

お礼日時:2007/03/19 23:21

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