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因果応報とか親の因果が子に報い、とか良く(?)言われますが・・・・・
皆様のご意見をお聞かせください。
”親の因果が~”というような考え方は、西欧にもあるのですか?
宜しくお願い致します。

A 回答 (3件)

ご質問の本来の趣旨から逸脱してしまうかも知れませんが、広く因果に関する回答ということで書かせて頂きます。



仏教の言葉には、本来の意味と一般の解釈が少し違うものがありますが、この「因果」もそのひとつでしょう。本来は、何事についても必ず原因には結果が、結果にはそれを引き起こす原因がある、ということを指します。それ以上の意味はありません。
また「因果応報」と言えば、その因果のなかで善悪は貫かれる(善因には善果がもたらされる)ということを言います。大事なことは、人間の行為についてこれをあてはめた場合、その因と果は同じ個人が受けるものであって、他人は絶対に介在しない、ということです。

似たニュアンスの言葉で「業」というものがあり、これは単純に「行為」(動作、言葉、思考の総体)という意味です。この業についての仏教の姿勢は、「自業自得」という言葉に集約されます。この言葉のニュアンスは否定的な意味が強いのが普通ですが、本来は、“善悪問わず自分の業(=行為)の結果は自分が受けとめる”という意味です。

ここには、自分の行為は自分の全責任において成り立っているものであること、それから、自分の存在は決して他人に代わってもらうことができない絶対的なものだ、という仏教の基本的立場が示されています。

この世の私たちは、物心がついてみればたまたま日本という国の、こういう時代に生まれてきてしまったのですし、生まれてきてみればそこには生来の貧富や美醜、利鈍、長短といった差が厳然と存在します。いわば現実は「与えられたもの」として存在するわけです。

しかしその現実を受け入れつつ主体的に生きることを目指したのが仏教です。
「私がいまこうあること」の原因を外部の何かに求めるのでなく、つまり「~のせいでこうなった」という説明をするのでなしに、自分の行為に求め、自分が受けとめようとするのが仏教のもともとの姿勢です。
ここには、「親の因果が子に報い…」といった情緒的で後ろ向きな感覚は入りこむ余地はありません。本来は自分を律して前向きに生きるための論理だったのです。

例えば、お釈迦さんの前世に関する創作話の中には、お釈迦さん自身が自分の親となる人を選択してこの世に生まれた様子が描かれたものがあります。仏教の立場では、生まれることすらも自分が主体的に選択した行為である、という考えがここにはよく表れています。
ですから、親子げんかで子供がよく言うような、「生んでくれと頼んだ覚えはない」といった態度も、道徳的以前に仏教的にも正しい態度ではない、ということになるわけです。

けれども、日本ではご質問のように本来の業論から変質して、本来自分で引き受けるべき「業」が、何か“血”にまつわるネガティブな印象をまとい、しかも他人に引き継がれる実体のように受けとめられがちです。
恐らくその背景には、日本では伝統的に「祟り」観念が強く存在したこと、また自分が主体となって三世を生きるというインドの輪廻思想が根づかずにむしろ「イエ」制度のなかで縦の歴史が意識されたこと、などの理由があったのでしょう。
この歴史を私は別に否定しているわけではありませんが、言葉を論じるなら言葉の本来の意味をまず知っておくべきだろう、と思っています。
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この回答へのお礼

丁寧に教えて頂き、考える糸口が見えたような気がいたします。
生れることすらも自分が主体的に選択した行為・・・なのですか?
とても厳しいですね。
勉強させていただきました。ありがとうございました。

お礼日時:2002/07/05 08:43

子が親と同じような運命を辿る、あるいは、子が親に似る、などといった現象を、仏教では、因縁や縁起といった言葉を用いて説明します。


寺田寅彦の随筆集に、次のような話があります。
正月になると、わけもなくイライラして、家人に当り散らす父親がいました。この父親は、普段は温厚な人柄で、極普通の父親だったのですが、なぜか、正月になると決まって不機嫌になるのです。そんな父親を見て、その子供は、何をあんなに怒っているのだろうと、いつも不思議に思っていました。やがて、この子供は、成人して大人になり、家庭をもつようになりました。ところが、正月の頃になると、どこか胸騒ぎがして落ち着かない気持ちになるのです。あまりにイライラするので、子供や妻に当り散らしてしまいます。そして、正月になると、わけもなくイライラしていた父親のことを思い出し、因縁の恐ろしさ、不気味さを知ることになります。
旧約聖書の神は、親の背信の罪を子に負わせる、と言っているのですから、これとは少々話が違います。
自業自得という言葉は、通常、因果応報、すなわち、良い事をすれば良いことが、悪い事をすれば悪いことが帰ってくる、という意味で用いられますが、これとは別に、自分の業を負うという意味もあります。つまり、キリスト教で言いますと、己が十字架を背負う、という意味をもつ場合があります。
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この回答へのお礼

自分の業を負う、キリスト教では己が十字架を負う、つまり、何があろうと
因果は、その人のみに限ったことなのですね・・・
でも、寺田虎彦の随筆にしろ、その他の見たり聞いたりしたことでも、”親の因果・・”と、思いたくなるような事って、多いです。
色々教えて頂きまして有難う御座いました。

お礼日時:2002/07/05 09:00

>”親の因果が~”というような考え方は、西欧にもあるのですか?



旧約聖書に類似した内容の記述があります。

『それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。
 あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、
 わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、三、四代
 に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、
 恵みを施して、千代に至るであろう。』
(出エジプト記 20.5-6)

モーセが神から十戒を受ける場面で、神から下された言(ことば)
です。
旧約聖書の列王記とか歴代史、エレミヤ書などを読むと、
イスラエル人の先祖が神を不信した報いで、彼らの子孫に
罰が下り、災いが起きるという記述が随所に出てきます。

ただし、一般的なクリスチャンはあまり旧約聖書は読んで
いないようで、東アジア人ほど先祖の因果にはこだわって
いないみたいです。

この回答への補足

ありがとうございました。
とても勉強になりました。
もう少しお付き合い願いたいのですが・・・
因があって果となることは、まぁ、自業自得という言葉で表わすすことも
できるのでしょうか?でも、自業自得というのは、悪い事の場合に使う言葉・・?
”親の因果~”ですが、実話としてまさに、そのものズバリ、母親とそっくりの
人生を辿った人、又は祖母と良く似た一生を送った人を知っていますが、”運命は
遺伝する”のでは? お暇な時、ご意見をお聞かせください。

補足日時:2002/07/01 06:15
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