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「れる、られる」を尊敬の意味で使うなとの主張をしている国語学者がいると聞きますが、どういった理論的根拠からの主張なのでしょうか、ご解説をお願いしたいです。

A 回答 (4件)

既に、そういう発言もありましたね。

「れる」「られる」は、自発・可能・受身・尊敬の4種の意味で使われます。だから、そういう使用者の使い分けや、聞き手の判断の仕方が難しくなるというのが理由でしょう。
 例を挙げて説明します。わたしが車で「追越禁止」の道を走っていると、突然お巡りさんに停車を命じられました。そして「あなた、あの車に追い越されたでしょう」と聞きました。「ほう、敬語を使うお巡りさんだな」と思いながらも、「いいえ、追い越しませんよ」と答えました。すると、また同じ質問をします。そこで、「あなたは、あの車によって追い越されたでしょう」という、受身の意味で使っていたのだと、やっと分かりました。そこでわたしは無罪放免になりました。
 「言われた」も「おっしゃった」なのか、「人から言われた」のか、たまに間違いが起きます。
 「自発」の意味で使われる動詞は比較的少なく、「可能」の意味ではほとんど「五段動詞」では使われず、「可能動詞」が存在します。
 上、下一段、カ変では「られる」を原則として使うことになっているのですが、「見れる」「起きれる」「来れる」など「ラ抜きことば」と非難されていますが、これらは可能動詞的に使っているのです。受身の「見られる」を「見れる」という人はありません。「自発」の意味で使われる例を挙げていると切りがないので省略します。
 
 
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戦後の占領軍主導の民主主義化の過程で口語化が日本語にも進められ、


「れる、られる」を尊敬の意味で使っても良いように国家政策としてなされたことが文献に書いてあります。
そうした張本人であって国語審議会を牛耳っていた金田一氏が主導して出した答申に由来することになっております。
文献は下の本にあったような気がします。
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赤塚伊三武、許すな!悪文と不正確発音、大学教育出版、2007年


のp. 72-73+46-70を参照のこと。
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一言で言うと、日本人の質が戦後の教育で急激に落ちてしまったことに根拠が在るのだと思います。



自発・可能・受身・尊敬の「れる」「られる」は日本人が千年にも渡って使って来た用法です。その用法が今まで生き残って来たと言うことは、今までの日本人には馴染んだ、誰にでも分かる混乱の起こらない表現だったからでしょう。もし日本人は文脈の中でその用法の違いを嗅ぎ分けるだけの高度な感覚や理解がなかったら、そんな用法がこんなに長い間生き残って来たことが理解できませんね。

ところが、この用法が判り難いと文句を言い出す日本人が出て来てしまったようです。と言うことは、日本人は先人達が今まで持っていたある種の感覚や文化を失い始め、少なくともこのことに関しては退化をし始めた証拠だと思います。頭の程度の下がった者に対して、この自然発生的に出来た用法なり規則が難しすぎるので、もっと頭の悪い連中にも混乱が起こらないような新しい規則を作ったらどうかと言う、至って善意でまともな主張を国語学者が言い出したのだと思います。

教育者はそこにある種の理想像が在って、人々をこう在るべきだと言う方向に教育しようとする者ですが、一方学者は、人間がどうあるべきかよりも、どう在るのかに興味があり、それを実証的に分析しようとします。現実の日本人の程度の下がり方を認識した学者が、教育を諦めて、現実に即した規則にした方が良いと言い出したのだと思います。
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