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先月8日に父が亡くなって四十九日はまだ済んでません。

現在地元福岡では博多山笠の真っ最中で、あちこちに飾り山があります。

うちの姉は通勤する時にバス停を降りて、飾り山のある商店街を通って勤務先に行くのですが、先ほど親戚(伯母)から電話があって

「あんたは忌中なんだから飾り山に近づいたらいかん。別の道を通りなさい」

と注意されたそうです。

櫛田神社に参拝したわけでもないし、山笠の祭に直接参加している地域に住んでいるというわけでもありません。

ちなみにうちは仏教です。

忌中の間は山笠の飾り山の横を通りすぎてもいけないのでしょうか?

飾り山は天神や他の場所にもあるので、近づいたらいけないと言われると
「どこまでならいいの?」

というのがわからないのですが…

伯母曰く
「そういうのはちゃんと守らないと災いがふりかかる」
というのですが…

個人的には、うちは仏教だし、神社に入らなければいいじゃないの?と思うのですが、もしこれで何かあったら本当に伯母に何を言われるかわからないので、いいのか悪いのか、根拠を調べたいのですが、そういう行事に詳しい方お教えください

A 回答 (2件)

今の世の中デタラメが常識。

根拠の無い習慣を因習といいます。つまり今の世の中自分の都合だけが常識で通りが自分に合わなければ非常識という時代です。
葬儀においても、通夜は日取りに関係なく亡くなった晩が通夜にもかかわらず、何日も先に通夜を行ったり、焼き場から帰って、その日の内に立たないのに初七日をしたり・・。そのくせ忌中だとか喪中だとかいい加減な規定で制限したり。

確かに四十九日までは忌中です。しかし忌中というのはその間日常生活を忘れて神仏に故人の救済を願う期間を言います。
忌が穢れというのは歴史的大誤解なのです。その証拠に神様の食事を作る竈の火は「忌み火」といい「忌」の字を使います。寝食を忘れ神様に直談判するから「忌中」なのです。
つまり本来ならば忌中の間は仕事などすべき期間ではありません。家にこもって祈り続ける期間なのです。でも今ではそういったこともなくなってしまい、忌引き規定によって各団体で機関が決められています。だから忌引きの機関が忌中と考えられなくもありませんね。
一般生活していながら忌中などというのはおかしな理屈です。

さらに死が穢れというのっ真っ赤なデタラメです。貴方のお父様は穢れているんですか?そんな事言われて怒りがわきませんか?
この歴史的大誤解の発端はイザナギイザナミ神話です。でもあれはイザナミが死んだからイザナギが穢れたのではありません。イザナギが生きながら読みの世界に足を踏み入れたという禁則を破った事によって穢れたのです。
にもかかわらずなぜ死=穢れとなったのか、これは憶測ですがたぶん正解です。
それは平安時代や奈良時代などにおいて貴族は政争に明け暮れていました。そこで争いに巻き込まれたくない貴族や天皇までもが身内の死にかこつけて「穢れたから」といって出仕しなかったのです。
実は服忌令もそんな事から「この期間を過ぎたら出仕するように」というので決めた物であって「してはならない」という規則ではないのです。

以上が基本的知識です。

で、山は商店街などに飾ってあるんですよね。それも変だと思いませんか?
神様が乗っているなら雨ざらしにはしませんでしょ。神聖なものを野ざらしの見世物にはしませんよ。
まともな神事なら「お旅所」という場所に神様を安置し、翌朝再び山や輿を清めてから神様を移して移動するものです。

確かに1日に神入れの儀式をしますが、見世物では意味ありませんね。既に観光の一部と化しているだけです。

忌中であっても社会生活をしなければならない。神様が宿っているといいながら見世物に晒している。
これがデタラメの根拠です。

そして忌中にしてはならないのは神事に携わることであって、そこを通らねばならないのなら通るしか無いでしょ。
忌中に神事に携わらないのは穢れているからじゃありません。自分は神と直談判する身です。いっぽう神事や神棚を祭るというのは人の世界での話。人の行う神様事だから自分が携わらないのです。穢れているからじゃありませんよ。

そして何より神社本庁でも「やむをえない場合は忌中であっても“祓え”を受ければよろしい」と冊子にも書かれています。
つまりそこを通らねばならないのであれば。近くの神社に電話して、お祓いを受ければ善いのです。
とはいえ、通りを通るだけでダメなんていう因習を信じるも信じないも貴方次第。というかいずれどの道かを通るわけですから、その通る道の人が聞いたら「俺のところを通るな穢れる」といわれるでしょうね。

で始めに戻りますけど、お父様は穢れていますかね。その死によって貴方は穢れていますかね?
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この回答へのお礼

詳しいご説明をありがとうございます。

>お父様は穢れていますかね。その死によって貴方は穢れていますかね?
私はいわゆる「神道」のことは神話程度しか知りません。
なのでご回答を読んで「なるほど」と思った次第です。
私は中学・高校と仏教系の学校に通い、釈迦の教えや浄土真宗の祖である親鸞聖人の教えを学びました。
今回父の葬儀で檀那寺のお坊様も話されていたことですが、
「故人は現世での『修行』を終えて阿弥陀様の弟子になられた。葬儀というのは『別れ』でも『悲しむべきこと』でもない。浄土に行かれる方に現世での感謝を伝え、御仏のお弟子となった方を見送る儀式である」
ということでした。
なので私は父や家族が穢れているとは思いません。
以前はお葬式に参列した後は清め塩を体にふって家に入るのが通例でしたが、それは仏教の教えとは違うということで最近では仏式の葬儀を行う際はその説明とともに参列者に塩を渡すことをやめています。
これが私の認識なので、「何故穢れなのか?」という思いはありました。
(そもそも「四十九日」というのは仏教のしきたりなのに「四十九日が過ぎたら穢れの身ではなくなる」というのが、まるで仏像に向かって「アーメン」というような違和感がありました)

一応お櫛田様(神道)を信じる方々のことは考慮して神社への参拝は控えています。
(もしも何か言われたら厄介ですから…まあ、見た目でこちらが忌中かどうかなんて知合い以外は分からないでしょうけど…)
それなのに「飾り山」にまで近寄るな(別に見たくて近寄っているわけではなく、そこを通らないとものすごい遠回りになるから通過しているだけ)とまで言われて正直驚きました。
日本人が宗教をごちゃまぜにするのは今に始まったことではないですけど…

お礼日時:2012/07/06 16:37

博多祇園山笠は櫛田神社の神事、神様にまつわる行事ですので、飾り山自体に「神様がいらっしゃる」と思った方が良いと思います。


神様は「死をケガレとして忌み嫌う」とされていますので、「ケガレている(喪中の)人間は神様に近づいてはいけない。神様に忌み嫌われる」、そういった意味で「飾り山に近づくな」と言われたのだと思います。

飾り山を見ない(神様に発見されない)で通れる道があれば、そちらを行かれた方が良いかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

神事だというのはわかるのですが、通勤で近寄るのもダメだなんて…

よくわかりません…

お礼日時:2012/07/05 23:00

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