プロが教えるわが家の防犯対策術!

「学生たちは、思わず、申し合わせたような・・・」の段落の「つまり、そこからはもう新しい発見は何もありえない」って何を伝えたいのですか?


読解(解説)と理由をお願いします。

A 回答 (2件)

 昨日の補足並びに追記事項です。


質問者様が高校生であるとして「正解」を求めるならば、そうした質問をすること自体にさほどの意味も認められません。
先だって、文学は多様な解釈が可能であるとのお話しをさせていただきましたので、その理由もお解りであると存じます(試験問題ならば「基準に沿った範解」はありますが、許容範囲以内ならば解答は他にもありえます)。
 さて追加並びに補足として再回答させていただいた理由ですが、もう一つの視点を提示する((1)は国語の先生がガイドラインとして喜ぶ視点)読み方です。

(1)この作品の冒頭と最後の部分に見られる「対比」が何を表そうとしているか
(2)学生AおよびBと先生は「棒である私」の言葉を聴いているのか
(3)この三人と「棒である私」との距離感はどれくらいか、の問題が残っています。
 
 先ず(1)ですが、冒頭の部分から読みとることのできる「私」の「日常性」とは、どの様なものであるか。休日以外は家庭サービスのできない平凡な勤め人が日曜日に子供とデパートの屋上へ行き、つかの間の「父親像」を演ずる。 この光景は「仕事としての父親を演じている」描写であり、「私」にとっては「非日常」といえる描写です。これに対応する「私の言葉」が「仕事を邪魔されでもしたように叱りつけて、」との一節に示されていて、ここで「私」と「子供たち」との間でのギャップが生じ始めます。 子供たちからすれば、それは押しかけ女房のようにお節介な形かもしれないが、私からすれば「父親の仕事をしている」との建前を果たしているにすぎない。
 一方作品の終盤では「『父ちゃん、父ちゃん、父ちゃん………』という叫び声が聞えた。私の子供たちのようでもあったし、ちがうようでもあった。」として、相手側が求めてくる形に変わっています。
 冒頭では「私が子供たちに使われる一つの対象」として描かれています。子供たちにとっては「自分たちの相手をしてくれる相手」が別段に「父親を演じる私」でなくともさほどの問題もない。けれどそうした問題を裏返せば「私って一体、何?」との根源的な問いも生じてくることになります。つまり「他人との関係や距離感」がなければ、私が私として存在する意味がないとのいささかおぞましい話にもなります。

 そしてこの問題((1)および(2))に答えるには、この作品が「誰の目線で」描かれているかがヒントになります。
突然にして「棒」と化してしまった私が言葉を発している部分は全て「私が観察している対象」を説明する形、つまり独白ともモノローグともいえます。ですからこの作品で台詞として書き込まれている以外は全て、「私の言葉」であると説明することもできます。
 次に「棒」を単なる「もの又はモノ」と解釈するならば、それは三人の人間からみれば、自身の身の回りにあるありふれた対象であると理解する立場とそれが特定の目的を持ったモノと理解する立場に分かれます。
 この言葉が何を意味しているかといえば、「誰しもが棒になりうる」「私しか棒になることができない」との違いです。
 私が棒になったことは確かに「非現実的」であり「非日常的」な事象です。そのいきさつと理由は作品では一言として語られてもいません。「なぜ、棒なのか。他のものではないのか」。この問題は残ったままですが、ヒントは作品中にあります。「誰かが使う。何かの目的で使う」のが「もの」であるならば、誰かに使われなければ、そして何かの目的がなければ存在する意味がない、との説明も成り立ちます。これが三人の他人が私に下した「裁きの理由」です。棒はものである。つまり使われねば意味がないとの一見正当な論理ですが、それに対する学生の問いに先生は確実に答える術を持っていない。だから「しかし何もいわずに、二人をうながして歩きはじめた。」と問いをシャットアウトする形でその場を立ち去って行く。
 この作品のオリジナル(『棒になった男』)と比較してみますと、オリジナルでは「全ての人間(マスとしての社会に生きている人間)がモノ化する可能性に生きている」として締めくくっていることと対照的ともいえます。
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 こんにちは。

安部公房の短編作品『棒』は1969年に発表された戯曲『棒になった男』を小説の形で再構成した作品です。さてこの作品に「登場する人物」はどの様に分けることができるでしょうか。
 先ずは人物を登場順に従って列挙していきます(この段階では登場する意味を求めません。事務的に取り出すだけの作業です)。
(1)「私」、(2)「二人の子供」、(3)「人(付近にいる群衆もしくは雑踏)」、(4)「子供」、(5)「大人」、(6)「上の子供」、(7)「人々」、(8)「守衛」、(9)「いたずら小僧」、(10)「一人の学生(学生A)」、(11)「連れの学生(学生B)」、(12)「先生」、(13)「人(棒を使っていた或いは棒に関係のあった)」、(14)「誰か」、この14通りの人物が登場しますが、この中で(1)とそれ以外はどの様な関係にあるかを先ず考えてみましょう。

 (1)の「私」は唐突に「棒」に姿を変えます。この時に一つの変化が生じます。むし暑い、ある六月の日曜日に腫れぼったくむくんだような街を見下ろしていた「私」が、「見られる側(棒)」へと立場を変化させます。同時にこの作品のテーマである「ものが存在する意味」が読者に対して問われ始める形です。
 学生Aは棒である私をしげしげと観察し、それが「元々はどの様な形で存在していたのか」を形状から想像し、人から邪険に使われていて、それでも誠実で単純な心をもっていたためにそうなったと説明します。
 これに対し学生Bは「ぜんぜん無能な存在だった」と説明する。Aが「棒」を意思ある主体的な存在と理解していることに対し、Bは「もの=道具」として理解する。
 そして二人の学生の「議論」を先生は「ものの本質をどうとらえるか」の問題であるとして「君たちは、同じことを違った表現でいっているのにすぎないのさ。」と説明します。
 作品では「私」が「なるべくして棒になったのか」「棒にしかなれなかったのか」は描かれてはいません。それはこの作品を目にする読者それぞれによって解釈に幅があるからであり、私が突然にして棒になってしまったいきさつを一言として描いていないのはそうした理由によります。
 さて、ここで最初の問題に立ち戻ってみますと、どのような答をすることが可能でしょう。(1)とそれ以外の「関係」の問題です。多勢の人間がいる中で、個人としての私はどのような存在であるかを、この作品に使われている言葉で説明するならば、それが「いや、この人たちが全部、棒になるというわけではない。棒がありふれているというのは、量的な意味よりも、むしろ質的な意味でいっているのだ。」との部分に記されているとの結論になります。
 世の中には「棒」など幾らでもあります。同時に「人」も大勢います。この作品で問う「本質」とは、この両者に共通する「ある」という事実に他なりません。それが「ある」ということは、何らかの「存在理由」があって存在していることだけであり(学生AとBの議論での前提要件)、それと他者との関係は更に別問題であるとのことになります。
 文学作品ですから多様な解釈が可能であり、殊に安部公房の作品はF.カフカやS.ベケットなどの不条理文学をはじめキルケゴールやハイデガーなど実存哲学に象徴される「疎外と孤独」や「実存としての人間存在の根源的な問い」の影響を受け、内包しています。
 もし質問者様の問いが高校の試験や受験問題として出されたならば、それはいささか不適切な設問であるともいえますが、学部のレポートならばかなり質の高い問題ともいえます。
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