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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E6%95%99
上記に次のように記されています。

(1)天安2年(858年)真雅の推挙により、藤原良房の外孫惟仁親王(のちの清和天皇)の即位を祈祷するため、九州の宇佐八幡宮へ派遣されることとなった。
(2)しかし、親王がまもなく即位したことから、翌貞観元年(859年)改めて天皇護持のため宇佐八幡宮に90日間参篭した。
(3)このとき神託を受け、翌貞観2年(860年)宇佐八幡宮から山城国男山の護国寺に八幡大菩薩を勧請して石清水八幡宮を創建した。
(上記サイトより引用)

(1)では「行教は宇佐八幡宮の派遣がされることになった」とあり、「派遣された」とは書かれていません。
ところが、(2)で「改めて宇佐八幡宮に参篭した。」とあります。
ここに「改めて」とあるので、行教はいったん宇佐にいったが戻ってきて、再度宇佐に行ったというようにもとれます。

行教が宇佐八幡宮に行ったのは1回ですか?
それとも2回?

A 回答 (2件)

他のサイトで調べてみると、宇佐八幡宮に行ったのは、859年だけのことのようだね。

858年に即位を祈祷するために派遣されることが決まっていたが、即位が早まったので、「祈祷」改め「護持」のために参篭。そういう意味の「改めて」だろう。
http://kotobank.jp/word/%E8%A1%8C%E6%95%99
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この回答へのお礼

回答、リンクをありがとうございます。
なるほど、リンク先を読めば1度のように思われますね。
日本語って難しいですね~。

お礼日時:2014/04/05 12:38

暇にまかせて調べてみたら(すぐに見つけられると思いますが)面白い資料を読んだので、参考にしてください。


なんせ先達も、少ない断片的な資料をつなぎ合わせ、それぞれの資料の異なる部分や矛盾した部分を総合的に考えての考察のようですので、これが正しいとは言い切れないですが、おおよそ正しいのではないかと思われます。


行教は、大同2年(807年)に唐から帰ってきて(本当に唐に行ったか行かなかったかは分からないようですが)大安寺に住んだようですが、そのときに宇佐八幡宮に寄った(行った)ようで、そのころから個人的にでしょうが大安寺で宇佐八幡を祀っていたようです。

その後、彼が偉くなるにしたがってか、斉衡2年(855年)に、大安寺に宇佐の八幡神を勧請したようです。このときにも宇佐八幡宮に行っていると思われます。

この実績によってか、貞観元年(859年)の宇佐八幡宮への参篭および石清水八幡宮の建立となったようです。

ちなみに大安寺に勧請する帰りの途中で薬師寺(大和国添下郡右京薬師寺?)の近くの丘で休んだ所に、後(寛平年間889~897年)に別の人(栄紹)が鎮守八幡宮を勧請しているようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

行教は唐帰りだった可能性があるんですね~。
唐の帰りに宇佐八幡宮によったと。
その後大安寺に住んで、のち大安寺に宇佐八幡宮を勧請したところを見ると、
行教は宇佐八幡宮を厚く信仰していたんでしょうね。

このような実績があったので859年に宇佐八幡宮への参篭が命じられたと。

薬師寺へは何度か行ったことがありますが、その隣に休ヶ岡八幡宮がありました。
栄紹という人が勧請したというのは、その休ヶ岡八幡宮のことですね。

http://www.nara-yakushiji.com/guide/garan/garan_ …

そこは行教が休んだ場所だといわれているのですね。
下記にも同様のことが記されていました。

http://beauty.geocities.jp/gyhrt256/yakusiji-2-s …

知らないことばかりで、大変参考になりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/04/06 22:19

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