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老子は著書『老子』において、「学を絶てば憂いなし」と
述べていますが、これは学問に励むことを真っ向から否定
しているのでしょうか。勉学に努めることは無意味なこと
だから止めなさいと言っているのでしょうか。この言葉の
意味が分からないので教えてください。

質問者からの補足コメント

  • 皆様回答をありがとうございます。

    学ぶことによって知識を得るのは良いが,
    あくまで他人の解釈ではなく、自分が思う
    解釈で捉えて良いよと老荘思想は伝える。

    このように皆さんの回答を見て考えたの
    ですが,適しているでしょうか。

      補足日時:2015/07/29 14:10
  • 皆様回答をありがとうございます。
    老荘思想の学問に対する見方が少し分かってきた
    気がします。

    最後にこの質問とは逸れてしまいますが、皆様が
    好む中国の思想を教えてください。
    ちなみに、私は自由奔放な老荘の考えが好きです。

      補足日時:2015/07/29 23:06

A 回答 (14件中1~10件)

『老子』第20章ですね。

引用文は、以下の書籍を使用します。
『老子』小川環樹訳注 中公文庫

「学を絶てば憂いなし」のすぐあとには、
「はい(唯)というのとああ(阿)というのとが、どれほどのちがいがあろう。善と悪のちがいだって、どれくらいのものであろうか。」
(第20章 42ページ)
と書かれてゐますから、直接的には、道徳や礼儀作法についての知識のことを指してゐます。
「私の心はまったく愚かものの心なのだ。それほど(私は)なまくらなのだ。世のなかの人びとは光り輝く(かしこい)人ばかりなのに、私ひとりは暗い(無知)のだ。」
(第20章 43ページ)
なんて記述は好感がもてます。中身ではなく、形式的なマナーについてうるさく指摘するのは、たしかにうんざりします。無用な争ひの原因でもあります。

とはいへ、すぐ前の文章を読むと、礼儀だけの見解とは思へません。
「英知をなくしてしまい知識を投げすてよ。(そうすれば)人民の利益は百倍にもなるであろう。仁愛をなくし、道義をすてよ。(そうすれば)人民は孝行と慈愛にかえるであろう。技術をなくし、利益をすてよ。(そうすれば)盗人どもはいなくなるであろう。」
(第19章 41ページ)
技術や利益の話がでてきますから、かなり一般的な知識も念頭に置いてゐるやうです。

結局は、余計なことは考へるな、といふことではないのでせうか。

礼儀を重視する人は、マナーの悪い人を責めます。平和を切望する人は、争ひをおこす人を攻撃します。正義を主張する人は、悪人を懲らしめます。他者への愛を標榜する人は、みづからの愛に反する人を憎みます。知識があると自認する人は、無知な人を馬鹿にします。
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plapotiさんの違った一面を見たようで


嬉しい喜びに驚きを隠せません。


私見ですが、簡単に言えば「拘りを手放せ」だと思います。
学んだことを守るのはいいのですが、形に囚われると
本来の趣旨から反することになります。

自身でそれは必要な事だと理解してやり続ければいいのですが
形に囚われると形を他者に押し付けることに、人は夢中になります。

たとえば、孔子はすごいと思いますが
それが自分の中から湧き出すものでは無く
形を守ろうとすればするほど、争いは起きます。

学びにより枠にハマるか、自ら理解して内に持つかの違いですが
多くは枠として捉え、反する者を罰したくなります。

それに対しての話かなと、個人的には思っています。
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「学を絶てば憂いなし」の学ってのはさ、文献(学生時代に読んだやつだけどね)によると、儒教を指してるんだって。


んでもって、儒教の教えってのは、「礼儀」に対してものすごーくうるさいんだよね。
「学を絶てば憂いなし」の後に、No1様も言う様に「「はい」と答えるのと「うん」と答えるのにどれほどの違いがあるだろうか?人の言う善と悪にはどれほどの違いがあるのだろうか?人の嫌がる様な事はしてはならないが、どこまでも厳しく律していたら際限が無いではないか。」って続くわけじゃん?
要するにこれって、儒教に対する批判なんだよ。
儒学は「見せかけの礼儀、見せかけの愛」があるって老子は批判しているんだよね。

そもそも儒学は「礼儀」で、老子は「無為」の世界って言われてる。
無為ってのは、ケセラセラ、あるがままに生きること、自然の摂理や法則に逆らわず、まるで水が川として流れているように環境状況に適応しながら生きることだよって教え。

だから、学問に励むことを真っ向から否定してるんじゃなくて、儒学を学んで返事するには「うん」じゃなくて「はい」だろうがっ!って言うのは、アホなんちゃうん?意味通じるんだから「うん」でも良いじゃんかよって感じ。
自分は自分だよって言うわけじゃなくて、「取り繕わないで自然に出てくる言動を大事にする」ってこと。

で48章なんか見ると
「学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損ず。これを損じて又た損じ、以って無為に至る。無為にして為さざるはなし。」
ってあるから、あれれ?やぱり「学」を否定してんの?って思うけど、ちと違う。
1章で「故に常無を以ってその妙を見んと欲し、常有を以ってその徼を観んと欲す。此の両者は、同じきに出でて而も名を異にす」とあって、続く2章で「故に有と無と相い生じ、難と易と相成り、長と短と相い形われ、高と下と相い傾き、音と声と相和し、前と後と相い随う」って言ってる。
要するに、「相反するモノは、補いあうもんだよ」ってこと。
「学」と「道」は相反するモノだから、対立して否定するもんじゃなくて、補い合うものだって言ってる。
「学ぶこと」や「知識」ってもんの先に老子の教えである「道」はないけど、決して否定しているもんじゃないんだよね。

以下余談
ちなみに私が最初に「老子」を読んで、「学を絶てば憂いなし」で感じたのは、「確かに学べば学ぶほど憂う」です。
学ぶの止めてれば憂うことないよってわけじゃん?
これをアイロニーだと思ったんだよね。
例えば数学なんかだと、公式おぼえて、問題こなして、解けるようになってくるじゃん?
「うおー!数学おもしれー」ってなるんだけど、更に学んでいくと「あれ?なんでこの公式が成り立つの?あれれ?なんで?」って、どんどん深みにハマっていって、「ああ、これもわかんねー」、「うお、これなんて俺の理解の大気圏外だ……」ってなって、自分の知識や学の無さに「憂う」んだよね。
だから、「学ぶの止めたら、憂うことないよ」ってのは、真理だなって思ったよ。
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道理という言葉の意味は二つあります、一つは。

明日に道(トウ)を聞かば夕に死すとも可なり、(論語)。つまりは道が全く解っていない、意味もある、儒教の道理(どおり)と
もう一つは、身の丈7尺、髭を蓄え身なりを整え、威風堂々としていたと伝えられる、老子、が、
道(トウ:世界を世界として有らせている本質)を聞くべく、老子を尋ねたら。道を知りたくば、まずはその身なりを改めなさい。他人の評価を気にするようでは明(ミン:一般の知恵とは分離されるむ、道を知る知恵)は無理だと追い返された。との寓話がある。道の在り方。老子の道理(とうり)です。
老子が人々に説いたのは無為自然と言う事
作為を捨てよ
才能などというものを重視さえしなければ、競争はなくなり、人民はやらかに行きられる。
道徳などというものを強制しさえしなければ、心を偽る必要がなくなり、人民は自然の情愛に立ち帰る。
商工業などというものを廃しさえすれば、欲望をそそるものがなくなり、人民は盗みをしなくなる。
才能、道徳、商工業の三者は、いずれも作為であり、自然に反する、すべてとるに足らない。
政治の根本は、人民の本性を回復するにある。すなはち、無心にさせ、私欲をなくさせることである。
取ろうとすれば失う
天下を取ろうとして策を弄する者に天下が取れたためしはない。天下とは、まことに扱いにくいものである。まとめようとすればバラバラになり。追いかければ逃げる。思うままに動かそうと作為しても、動かせるものではない。「先」があれば「後」がある。「緩」があれば「急」がある。「強」があれば「弱」がある、「安」があれば「危」がある。およそ物事には、必ず対立する二面があり、一方に片寄れば必ず他方に転化する。
だからこそ聖人は、物事の一面に執着せず、作為を排してただ自然に従うのだ。「中国の思想、老子、烈士」
より
「老子」とは、牛にのって、死出の旅?の途中に出会った知り合いに、500余文字、思想を伝え、聞いた者が製本して残した。とされる、書、の名前のようです。世の常でしょうが、多くが?後の付け足し。とも見れます。
「老子」が、かって理解出来た者が一人もいない、難解な哲学。と言われるのは。最初の、一章、と二章。道は道にして常の道にあらず。名は名にして常の名にあらず。という、道理(とうり)がすべてでしょう。
道理を知るなら、勉学を絶つ亊と、勉学に努める亊が同じである亊が解る。??
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私見です。



>学ぶことによって知識を得るのは良いが,
>あくまで他人の解釈ではなく、自分が思う
>解釈で捉えて良いよと老荘思想は伝える。

相手の話しを見聞きして、知ったことで解釈するのでは無く
あるがままにやって行くことで、伝えたいものを見極める。
そのものを理解し相手を理解し、その事が何であるかを理解し
そこから自分の考えをスタートさせる。

私のやり方ですが、後で気がついたら「守・破・離」と言って
既にあるやり方でした。

ただ思うだけでは、あるがままでは捉えられない。
「あるがまま」まで自分を持って行かなければ
そこに立たなければ、相手の話しさえ捉えきれない。

老荘は、自身の立ち位置から学ばなければ
理解できないかもしれません。
二つと同じ道が無いのですから。
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老子の教えは大道にあります。



学というのは、この場合は知識のことを
指します。

知識に頼っていては、大道は解らない
ということです。

あるいは、学というのは言語と考えても
よいでしょう。

大道は言語では表現できない、という
意味でもあります。
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回答番号1のアホ、plapotiでございます。

アホは恥を知らないので、優秀な回答が数多くついてゐても好き勝手に投稿することができます。補足を拝見いたしました。ありがたうございます。哲学カテゴリは対話であるべきです。

>学ぶことによって知識を得るのは良い

良いとも悪いとも断定しないのが老子なのではないでせうか。あへて言へば、知識がないほうに軍配をあげてゐるやうに思へます。
「人民が知識もなく欲望もない状態にさせ、知識をもつものがいたとしても、かれ(聖人)はあえて行動しないようにさせる。かれの行動のない活動をとおして、すべてのことがうまく規制されるのである。」
(第3章 11ページ)
いはゆる愚民政策です。ジョン・スチュアート・ミルが否定した「満足した豚」です。私は豚派であり、「不満足なソクラテス」こそが諸悪の根源だと見てゐます。(ミル『功利主義』)
老子の愚民政策につきましては、専門家(ペット供養の専門家でもあります)がゐるのですが、最近投稿なさらなくなりました。

>他人の解釈ではなく、自分が思う解釈で捉えて良いよ

おつしやることは、そのとほりと存じます。Q&Aサイトのやりとりにしても、回答はあくまでも参考にするものであつて、質問者は自分で考へ、自分で決めるべきです。ただ、老子の主張かどうかは、疑問に感じます。そのやうな記述を見つけることができません。

アホは楽しい。
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いろいろな思想家のいろいろな主張が対立して


争いが生まれている当時の世の中の実情から
いっそそんな学問をすべてやめてしまえば
平和になるのにといったリセット願望を
コンパクトに述べたセリフでしょうね。
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好みは、ありません。


それぞれがそれぞれに、素晴らしいと思うことはあります。

言い方を変えて、同じことを表現している所もありますし
捉え方や消化の仕方、進む方向の取り方や参考になる所は
それぞれに有ると思います。

違いも共通性も理解して、自分として前に進めれば
いいかなと考えています。

そう言う意味では、東洋哲学も西洋哲学も同じですね。
カントには驚きましたけど、あの人もあるがままの人だから
自分であることのスタンスが選ぶ道と言うのも、基本共通ですよね。

長く残っているものは、それぞれが大きな気づきをもたらすので
どれもよいものだと思います。

運用は別ですから、そこは今回は置いておきます。
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No3です。



私もNo9様同様で、好みってのは特に無い。

ただ、私がこういった思想等に興味を持つきっかけになったのは、中学1年生の時に読んだ「荘子伝斉物論」。
初めて読んだ時にはガキんちょも良いとこだったから、よく意味が解らなかったんだけどね。
「我、胡蝶の夢なりや。胡蝶の夢が我なりや。」
ここだけものすごーく印象に残って、当時子供なりにものすごく考えさせられたんだよ。
「人はみんなお金や地位や名誉を欲するけど、その命は、もしかしやら胡蝶の夢なのかもしれないよ」
なんかね、思春期だったからかね、心にグサグサきたんだよね。
そっから、孔子や老子、孟子とかいろんな本読んでみたわ。
あの頃の読書が今の自分の基本を形成してんじゃないかなって思うよ。
大学生の頃にも何度目かで読んで、ようやっとだいたいどの本の言っている事も解るようになったなって思ってたんだけど、アラフォーの今再び読むと、「やっぱ大学の頃も全然解ってなかったじゃんかよ(笑」って思うわ。
また10年後に読んでもそう思うんだろうね。
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