
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
下記のサイトによりますと、以外と農民は裕福だった見たいですね(飢饉の時は大変だったとは思いますが)。
実際、質問文でもご指摘のように、お米は日がたつに連れてまずくなりますから、お金のように溜め込んでおくことは出来ません。つまり消費しないといけないということですね。
このことからも、勿論、農民もお米を食べているはずですね。
http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub226.htm
参考URL:http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub226.htm
No.3
- 回答日時:
高校時代に同じ疑問を持った覚えがあります。
私も同じように「農民は粟や稗を食していた。」と教えられました。でも,質問者の方と同じような疑問が浮かびました。それでは,米の生産量と消費量の説明ができないではないかと。
85%の農民が米を食べず,粟や稗を食べていたのなら,粟や稗の方が米より生産量が多くなければ,説明がつかないのではないかと。
まず,人口の85%を占める農民全てが米を作っていたわけではありません。この農民には,漁業や林業・養蚕業に従事する人,米作をせず,綿・麻・野菜・根菜などの栽培をしている農民,猟師,庭師,なども含まれています。
次に,米作をしている農民は,半分を年貢として納めても,手元に残り半分の米があり,これを売って,生計を立てていましたし,さらに残った米に,粟・稗・麦などを混ぜて食べていました。
ただ,これは自作農の場合で,小作人の場合は,年貢+地主への上納米を納めなければなりませんから,手元に残る米はわずかです。そのわずかな米を売って,生計を立てざるを得ませんでした。このような小作人の様子が,あたかも全ての農民の生活のように伝えられたもののようです。
No.2
- 回答日時:
年貢は厳しい取り立てと誤解があり、また農民は米を食べていないと誤解があるようですが、例外的な事がない限り(飢饉や天候)収穫の半分近く保有米がありました。
それに新田開拓や隠し田を作って自衛していました。
年貢は最初の検地で定められましたからその時の収穫が低ければ平年作より低い年貢高に定められた事もあるのです。
支配側はこれを防ぐ為検地を繰り返して実情に合わせるよう修正しましたので、農民側は検地拒否などで抵抗したのです。
しかし後世になると年貢高も重くなり、新田の開拓余地も無くなりましたので、次第に換金作物(綿作など)を栽培し、金納が増えてきました。
税金対策に知恵を絞るのは昔も今も変わりはありません。
年貢の米も支配側が換金して財政支出にあてたので、この米が流通し酒造米などに流れたのです。
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