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直接対決は中原の圧勝じゃん。

質問者からの補足コメント

  • それは大山も同じだったんじゃないか?

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/11/07 20:08

A 回答 (5件)

なんか考え方が単純ですね。


そりゃ、棋士人口、将棋人口の違いです。時代も違います。
大山先生がプロになった頃は、プロ棋士は全部で30人超、いまの現役棋士は170人くらいいます。中原先生の修業時代も100人以上はいたでしょう。まぁ、大山先生と中原先生、そして谷川先生以降ではプロになる条件が違いすぎますね。
大山先生の頃はタイトル数が3〜5と少なかったですが、棋士人口も少なかったので実力が突出していた大山先生のタイトル独占時代が続きました。大山先生がプロ入りした頃は、他の棋士は失礼ながら縁台将棋を強くしたレベルです。プロでも大山先生の首を狙うのは升田幸三先生くらいだったんでしょう。
その後は棋士人口、将棋人口が増えていき中原先生が大山先生を倒したわけですが、その後中原先生の首を狙うものはたくさんいたわけですよ。打倒・中原を掲げて数多くの棋士が挑んでいったわけですが、ことごとく跳ね返されました。ただ、タイトルは7つに増えていて、さらに普及業務も重要視されていた時代なので、中原先生も対局に集中という感じではなかったのでしょう。
ま、将棋は後進の方が強いです。だって、先人の棋譜を並べて勉強するので。ですから、大山康晴と藤井聡太を比較するのは意味がないです。同様に、大山康晴と中原誠は同時代を戦ってますが、中原先生は振り飛車の名手であり、それは大山先生の棋譜を並べて学んだものです。将棋においては少しでも時代が違えば、強さの比較はできません。
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若い女に現をぬかしてたからじゃね?

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大山には升田幸三という手強いライバルがいました。

ライバルとの対決による緊張感が高いレベルを維持していた一因。
前世代のトップを打ち負かしてトップに、そして、次世代の追撃をふりきってこその長期政権。大山は、前世代が戦争で実力発揮できなかったのが、追い風。早くトップに上り詰め、それを維持する粘りがありました。
中原氏には、同世代に強敵と呼ばれるほどのライバルがいなかった。将棋の進歩が加速し、長期政権が維持しにくくなった世代のハシリです。
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研究が進んで、棋士の棋力が


平均化されたからでしょう。

野球にしても同じです。

数少ないのが突出して、という
時代は終わったんだと思います。

突出した人が出れば、皆でよってたかって
研究してしまいますからね。

すぐにならされ、均一化されてしまう
のです。
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大山さんは、活躍期間が長かったですから。


タイトル戦を戦える体力がありました。
中原氏は、すぐ下の次世代の台頭が早かった。
この回答への補足あり
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