純文学と大衆文学の違いがわかりません。どんな違いがあるんでしょうか。

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A 回答 (3件)

 近代日本の「純文学」は、人間の自我をめぐって悩み苦しむあたらしい人間像を描いた文学、と端的に定義できるのではないかと思われます。

それに対して「大衆文学」とは、自我の問題や、人間がどう生きるべきかを主題にするよりも、まずエンターテイメントであることを追求した文学である、と定義できるのではないでしょうか。
 「純文学」も「大衆文学」も、それらをささえる「文壇」と「大学=アカデミズム」といった制度があってはじめて意味を持ち得る、といった側面があると思います。
 ご参考までに、日本近代文学における「純文学」と「大衆文学」の差異に関する文芸評論家の勝本清一郎(1899-1967)の発言を紹介しておきます。勝本は、「人生の問題について、〔夏目〕漱石の言葉で言えば、生きるか死ぬか、命のやりとりをする課題と取り組んで、全然新しいタイプの人間の生き方を示唆したり、時代の既成観念と戦って新しい美の発見を打ち出すなど、いずれにせよ独創的な道を切り開いているのが純文学です。その切り開いてるものは、前人未踏の境地にメスを入れた成果のわけだ。あとから見れば結局人間の世界にもとから存在したものに相違ないんだけれども、いままで誰もが取り出さなかったもの、美にせよ真理にせよ生活的事象にせよ誰の目にもつかなかったもの、世人の認識も感覚も感情もそこへいっていなかったものを取りだしてくるといったようなことをやってるわけです」と述べ、「それに対して大衆文学のほうは、家庭小説であろうと、探偵小説であろうと、いわゆる大衆文芸であろうと、とにかくなにか純文学の人が一ぺん歩いたあとの材料を再構成している事情がある。だから産業で言えば、第一次産業ではなくて、第二次産業です。〔中略〕江戸川乱歩の探偵小説が出てくるためには、どうしてもその前に谷崎潤一郎の「刺青」とか「お艶殺し」とか、もっと直接的には「柳湯の事件」とか「途上」とかいう作品の出現が社会的条件です。それらがなければああいうものは出てこないわけでしょう。乱歩の「D坂の殺人事件」だとか「心理試験」だとか「人間椅子」だとか、これらはあきらかに谷崎文学の初期の怪奇趣味やエロチシズム、ああいうものから来ているんだし〔後略〕」と言っています(柳田泉・勝本清一郎・猪野謙二編『座談会 明治文学史』、岩波書店、1961年6月、pp.479-480.)。
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こんにちは。



No1さんの言うとおり、大概は以前大衆文学だったものが純文学に移行するケースが多いような気がします。

一番有名どころでは(古典になるけれども)
『源氏物語』
貴族の子女を中心とした大衆文学ですよね?当時は。
学校では、難しい文体の作品を純文学の部類にしがちですよね。
堅苦しいイメージがついて、逆に読み難いったらないのですが。(因みに若い頃、小説を読みふけっていると男女ともに意外とモテますよ。)

今でも世間ですと、
 "大衆文学の『時代小説』読んでいます。"
で充分純文学読者の扱いをされますね。
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 文体の美しさ、表現の美しさといったことを重視する、いわゆる「芸術としての文学」のことを純文学といいます。


 対して「暇つぶし用の読み物として楽しい」もののことを大衆文学といいます。

 これら通常、相反するものとして語られることが多いですが、その境界線は必ずしもハッキリしているわけではありません。
 たとえば有名な「雪国」などは、どちらに分類すべきものなのか、いまいちはっきりしません。

 また、本来は大衆文学として書かれたものが、時代ごとの人々の考え方の変化によって純文学として扱われるようになったり、またはその逆のパターンがあったりします。
 夏目漱石の小説などは、教科書を見ていると「おいおい、『坊ちゃん』は純文ぢゃねぇよ」とツッコミれたくなるような扱われ方をしていることがあります。
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