A 回答 (14件中1~10件)
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No.13
- 回答日時:
お返事ありがとうございます。
不要かもしれませんが、No.11につけられたご質問に対する返答です。
>>ポストモダニズムでは、そうは言いきれないのでは?
ここで「そう」と指示されている、「「希望」や「愛」が良い(善い)とされているのはそもそも歴史的に捏造された作り事、思弁である」という私の言葉ですが、これはニーチェの『道徳の系譜学』における価値の創出について論じられている箇所(第一論文)を自分なりに概略し、言い換えたものです。これに関しては、私の拙い言葉に頼るのではなく、最初から参照元を示すべきでした。説明不足で申し訳ありません。
『道徳の系譜学』とはざっくり言えば、愛などの道徳的価値がいかに皆にとって大切で従うべきものであるものとされるようになったか(※「いかに」は「大切で」ではなく「語られる」に係ります)の系譜を歴史的に紐解き、その正体はルサンチマン(怨恨)だ、と解き明かしたものです。少なくとも私はそのように理解しています。私はこの文脈において、愛を「歴史的に捏造された作り事、思弁である、という風にも考えられる」と書いていたわけです。ただし、「という風にも考えられる」と書いているようにこれは一つの説として提示しているにすぎません。当然、そうではないという主張も十分有り得ると思います。
そしてこれを「ポストモダニズムにかぶれた言い方」としている根拠、これはハーバマスです(本が手元に無いので引用はできませんが、これを言っているのは『近代の哲学的ディスクルス I』です)。彼は思想としてのポストモダニズムの源泉がニーチェにあると言っており、彼のこの説に従えば、ニーチェを参照した私の言葉はポストモダニズムにかぶれた言い方ということになると思います(勿論、このハーバマスの説に対する反論も有り得ます)。
ただし、私はここで敢えて「希望」や「愛」だけに焦点を絞っていました(もっと言えば「愛」だけに絞るべきでしたが)。これは何故かというと、質問文において無視の対象とされる「形而上的概念」が指しているものを、私の勉強不足ゆえに明確に把握できなかったためです。なので質問者さんの仰っている「形而上的概念」とはズレがあると思います。すなわち、この議論は「憎しみ」などには該当しません。
>>「どこでバレたり、バレつつありますか?」
「どこで」に含まれる意図を掴みかねていますが、これに対しては「時代遅れのダサいものという評価」が「一般的になっている」現代において、という答え方になります。もしそうでなければ、最初の質問文のような質問の型はまず成立し得ないのではないでしょうか。
もう一つの答え方として、この質問文を修辞疑問文と捉え、愛=作り事説に疑問を呈しているものとし、その根拠として具体的な人や派閥を提示せよ、という意味と解釈しますと、その根拠はやはりポストモダニズムということになります。ポストモダニズムにおいて、そしてポストモダニズムを経た現代において、です。ただ、質問者さんのご指摘の通り「ポストモダニズムでは、そうは言いきれない」のであれば、これは的外れということになります。しかし、私は先程書いた理由からそのようなことは"いえる"と考えているので、そう主張しています。
>>正しいから、善だから、それを認めざるを得ないのがクソ面白くないから、かも知れません。
なお、私の回答における「正しすぎるから」「善すぎるから」につけられている鍵括弧は、(これより前の文にこの言葉は出てきていないので)単なる引用符ではなく、いわゆる皮肉の引用符(scare quotes)と呼ばれる用法で、本当の意味での正しさとは区別されます。
皮肉の引用符
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%AE%E8%82%89 …
白々しいまでに、という形容も付いているように、これは(ニーチェの『道徳の系譜学』で言われているような)歴史的につくられたものとしての、すなわち作り事としての「正しさ」「善さ」を指しています。
もしそれをご理解の上でのお答えだとしたら、無用な説明をしてしまって申し訳ありません。
・・・
しかし先述の通り、私は質問文で使われている「形而上的概念」の指すところがあまり正確に捉えられていないようなので、そこが明確にならない限りは質問者さんの意図に沿えない気がします。恐らくこの語を、質問文で使われているような意味で用いる文脈が存在するのでしょうけれど、悲しいことに私は存じ上げないのです。
No.12
- 回答日時:
価値があるとは、大切である、と言うくらいの意味に捉えていただけると幸いです。
現代では貨幣価値の威力が高いので、比較したところの価値の優劣を問われがちですが、かげがえのないものの価値、という言い方もあると思います。信じるべきことは、人の心の奥深くにある、或いは真ん中にあるはずのものだと私は思います。それが、かけがえのないものとしての人間を、互いに見つ合うものではないでしょうか。
人間も生物の一種だとか、物質で構成されているとか、それらは事実ですが、人間のまことというものは、心に内在しているものだと思います。この具象とも抽象とも言えない心というものこそ、人間の拠るもの、核でなのではないでしょうか。何故人間にそれがあるのか、その仕組みを物理学や生物学的に表現できるなら素晴らしいことですが、主観とも客観とも言えないそれは、一般とか普遍と言うものとも意味が一致しないものであり、そもそも土俵(語る世界)が違うと私は思います。
信じると言うのは、私はこの、人のまことを信じられるかどうかというところに意味が在るのだと思います。ここから、その意味では演繹的に人の世界が開け広がるのだと思いました。
神仏と言うのは、その人の心に宿っている何かであり、上手く言うなら、人の精髄のことであると思います。朽ちる体、欲望に染まりやすい心、情に脆いこと、逆に冷たいこと、そういった人間のままならぬことを全て分かって、それを慈しんで、しかもそれらに執しない所に生じる人の心の穢れなきあたたかい部分の事だと思います。
信じるからそれが実現しているのか、実現しているからそれを信じられるのか。
見るから世界が在ることが分かるのか、世界が在るから見えるのか、みたいな話でもありますが、心の中にある信じたいと思えるものは、誰の胸の中にもきっとあるでしょう。それが見えているか、信じられているかどうかは様々としても。
私は以上のように思っています。
>信じるべきことは、人の心の奥深くにある、或いは真ん中にあるはずのものだと私は思います。それが、かけがえのないものとしての人間を、互いに見つ合うものではないでしょうか
色々な言い方がありますが、「互いに見つめ合うもの」というのがいいですね。
魂とか精髄(エッセンス)とかプラトンのイデアとかカントの物自体とかは、皆、人間が感じた命の本質みたいなものを表現しようとしたものであると思っています。ベルクソンのイマージュというのはもう少し複雑なことを言おうとしたのでしょうか。
そういうものを信ずることと、科学的に物事を明らかにしてゆくということは対極的なものと言えるでしょう。
ただ私は、人間は何ものかを信じている「はず」だと思います。宇宙の本質的な事は不明なわけですから、何かを「自明」なこととして、そこから理論を作っていると。
日本人はほとんど同じ教育を受けているので、概ね同じだろうとは思いますが、細かいところは違うだろうし、あるいは大きな違いもあるかも知れないと思います。例えば、私のようないわゆる変わり者は、一般とはかなり違いますね(笑)。
「自覚」の問題も大きいかも知れません。
その人の言動をよくよく見た上で、精密に分析をしてみたら、傾向性くらいは分かるようなそういう方法論もあるのかも知れないとも思います。
そういう事が明らかになってきたら、おもしろいのではないかと思っているということです。
哲学の本は難解に決まっているので、なかなか読めないでいたのですが、分かり易いものも近頃ではあるのですね、今読んでいます。
No.11
- 回答日時:
>>希望や愛などの概念は何故「良い」と言えるのでしょうか?
希望や愛などの概念は何故ダサい=悪いと言えるのでしょうか?
ポストモダニズムにかぶれた言い方になってしまいますが、「希望」や「愛」が良い(善い)とされているのはそもそも歴史的に捏造された思弁、作り事である、という風にも言えるのではないでしょうか。少なくとも縄文人が希望や愛について考えていたことはなさそうですし(現在、一般的に使われるところの抽象的なキリスト教由来の「愛」という概念が日本に入ってきたのは近代になってからだそうですね)。そしてそれらがダサいと思われるのは、作り事だということがバレてしまった、あるいはバレつつあるから、とも考えられるのではないかと思います。
ダサい=悪いという等式が成り立つかは疑問です。希望や愛などの概念がダサいと思われているのだとすれば、それって白々しいまでに「正しすぎるから」とか「善すぎるから」なのではないでしょうか。
>>「形而上のことを人間が考えなくなったらどうなると思いますか?」
これは、社会がどうなるか、という話でしょうか。それとも個人の実存にどう影響を与えるかについての話でしょうか。どうなる、というのも「どういう状態に具体的になるのか」という答え方と、「大変なことになる(大変なことにはならない)」っていう価値判断を含んだ答え方があるかと思いますが、前者の答え方についてはとても想像が及ばないですし(SF作家におまかせします)、後者の答え方についても考えてみましたが、私が言いたいことは特に思い浮かびませんでした(どっちでもいい)。実は現に、形而上学的なことについて考えているせいで大変なことになっている可能性もありますからね。そういう世界に生きているから気がつかないだけで。むしろ形而上のことを考えない世界の方が素晴らしい世界だった、なんてことは全然有り得ると思います。社会についても、個人の実存についても。
とはいえその回答だけだと忍びないので、「形而上のことを人間が考えなくなったら」という仮定自体に何か言うとすれば、近代を経てしまった以上、人間は考えたくなくても考えてしまうものだと思いますね。タイトルは形而上学概念の無視とありますが、悪もまたやはり「形而上のこと」ですし、それにダサいと言われているものもダサいと言われているうちにはまだ安泰なんじゃないでしょうか。今のところ。
ところで最初の、
>>希望・夢・愛・平等・自由・団結などは、妬み、嫉み・憎しみ・あきらめ・無関心・冷笑的・独善などの概念
このうち、少なくとも「妬み、嫉み・憎しみ・あきらめ・無関心・冷笑的」は感性的なものですし、形而"下"に分類されるのではないでしょうか。「団結」とかも(厳密には「希望」なんかも)、形而上学的概念というよりはむしろ(世俗的な)理念などと呼ぶべきものと思います。
>「希望」や「愛」が良い(善い)とされているのはそもそも歴史的に捏造された思弁、作り事である
ポストモダニズムでは、そうは言いきれないのでは?
>作り事だということがバレてしまった、あるいはバレつつあるから
どこでバレたり、バレつつありますか?
>「正しすぎるから」とか「善すぎるから」なのではないでしょうか
これは皮肉にも当たっているかもしれないと思う。正しいから、善だから、それを認めざるを得ないのがクソ面白くないから、かも知れません。
No.10
- 回答日時:
私は、語り得ぬことを何とか言葉にしようとするところに、意義や意味、言葉の精髄が含まれるのだと思います。
沈黙によって・・・と言うのは、どこか達磨に始まる禅で言うところの「不立文字」を彷彿とさせます。分かる人にしか分からない、その無言のところに智識が存在するのも認めますが、それを言葉にできるので智慧と言えるのだと思うのです。黙っているだけなら50点/100点と言わざるを得ない。古来の、神仏と共に生きた人々の姿が今は失われていて、非常に唯物的に生きている。現代においては精神性が軽んじられていると私も思います。その結果、情に薄い人々が増えたと言うのは、本当かもしれません。金の切れ目が縁の切れ目みたいな、冷たい空気は感じます。この30年、昭和の成長を支えた人々が世を去って行って、日本が停滞に入ったのも、精神性が後退したせいかもしれません。陰謀論も含めて具体の理由は様々あげられるでしょうが、日本が敗北した理由に、精神を欲望(金とモノ)で蝕まれた所為があると思います。
人間を空っぽにしてしまったのが科学文明だとするならば、一方で、強固な物質感を生命に与え、人間存在に明確な形を与えたのも科学文明です。また、蒙昧な迷信を駆逐したのも科学文明であれば、純粋で清らかな精神性や素朴さを放逐して、がつがつした欲望やある種の野蛮さを招き入れたのも科学文明だと思います。道具の延長である科学文明が、逆に人々を道具のように扱い支配してしまっていると言うのが現状で、機械・情報・産業や金に支配されて人生を失っているのが多くの人々だと思います。これは、人類が形成している支配構造にも由来する現象だと思います。
哲学によって見出されうる根の深い価値観を呼び起こし、安定的に人間を人間らしく立たせるものを再獲得する必要があることについては同意します。
ご質問されたところの本意は哲学の専門家だってうまく言えないようなことでもありますから、素人であることを負に思うことはないと思います。
専門家だってピンキリですし、専攻分野もあるでしょうし、自己の問題意識や興味のままに思索する素人の方でも、核心を語りえると思います。
>「不立文字」
なるほど。
>強固な物質感を生命に与え、人間存在に明確な形を与えたのも科学文明です
ふむ、そういう考え方がありましたか。
>哲学によって見出されうる根の深い価値観を呼び起こし、安定的に人間を人間らしく立たせるものを再獲得する必要があることについては同意します
哲学って「価値」一つとってみても、とても難しいですね。私が一番興味があることは人間の「信ずる」ということの意味です。
信ずることによって根本が決まる。決まることによって演繹的に様々な論理がその人の中に展開される。
だから、根本によって、信ずるものによって大きな違いが生まれ得る。
信ずるものって大事ですね。その信ずべきモノって、価値という観点から追求するべきなのか?
素人の「駄弁り」の続きでした(笑)。
励ましまでいただいて、嬉しく思います。
No.9
- 回答日時:
お礼をありがとうございます。
形而上の語釈については、東洋由来の言語解釈と、西洋由来の言語解釈で大きな意味の隔たりがあるようです。ここでは、無形のものと言う理解で了承しました。
ネット上で誹謗中傷を為す人々は、彼ら自身が著しく傷ついていたり、不満を抱えていたりして、そんな彼らが、我貴し、自分が一番になるのはある意味自然なことです。なぜなら彼らは、自分たちが憐憫の対象になっていることを、知らないか、知っていても自身それを認めたくないからです。そしてそれは、人間の心理として当然なことです。バカにされ、蔑まれることに対する恐怖を堪えるには優れた人格が必要です。それが備わって居なければ、他者を攻撃するようになるのだと思います。自己を、自分自身認められていないので、ネットの匿名性に隠れて攻撃すると言う、憐れみを加速させるようなか行動に出てしまう。
社会に依存する体質が、自己認知を歪めているように思います。その意味の派生として見るなら、科学文明に依存している私たちに、自己認知の歪みが起こりやすいと言うのは一理あると思いました。
「語り得ぬことは沈黙しなければならない」という言葉は、要するに「全部割り切っちゃおう」という意味に思えるのです。
科学的思考の中に宇宙の全部があり、人間が全部支配・管理できるのである、という人類総体としての自覚が、社会の上層部から少しづつ民衆の中に入り込んでゆき、「我貴し」の意識が育っていったと。
その意識は、かつての人類が神仏に手を合わせている姿を高い位置から見下ろし、高度な科学技術を使いこなす新しい人類であるというもので、ネットが発達する以前にすでに出来上がりつつあったものだろうと考えています。
また、その意識がおそらくですが、「人情」などという人間の持つ心を消していったのではないかと思います。情というものは、庶民的な自我であってこそ湧いてくるものであると思うからです。
ま、素人の言うことですが。
No.8
- 回答日時:
善いものとして列挙されているそれらは、いわゆる概念でも形而上のものでもありません。
感情や状態を表す単語で、形而下のものであり、実在、実感されるものです。また、悪いものとして列挙されている単語も、形而下のそれ、つまり心的状態やその現象を表すものです。
普通、人は悪いものより善いものを好みます。それが心地良いからです。
人を嘲笑したり、独りよがりになったりすることを悦ぶ場合もありますが、その場合は声や表情が汚く、過度に緩んだり張りつめたりしていて、印象の良くないものになります。歪んだ、雑味のある気持ち悪いものになります。
今日、カフェで隣席に居た人たちが、その場に居ない同僚の悪口を言っていました。その時の、他者をバカにする笑い声は汚い雑音のようでした。ぎゃははは、ゲゲゲッと言う感じで、ふふふっとはずいぶん違います。何故そうなるかと言うと、その悪口を言う人の心の内に引っかかるもの、障碍になるものがあるからです。笛の音色は、筒の中がデコボコでギザギザしていたり物が詰まっているとちゃんと鳴りません。一方、素直な心では、人を悪口に言うことがありません。心の内に障害がないので、言葉や声が耳にやさしくなるのです。これは、実際にある事、本当のことです。
善いものを人が求めなくなり、悪いものに傾倒すると、様々に汚くなります。人格が荒廃し、生活も荒み、部屋も散らかり、人間関係は敵が多く、信頼できず、社会も歪みます。
悪い所から善い所へ行きたいと思うのは人間なら当然です。この時、未だ善い所が実現していないからと言って、それ(善いもの)は形而上に在るわけではありません。例えば花が咲いている間には実が生っていずとも、季節が進めば実は実際になるようなものです。なぜなら、実は、ある意味で花に内在しているからです。それが現出するためには季節に沿って色々な条件がそろわなければならないということです。
同じナイフでも、使う人によって凶器にもなれば道具にもなります。
言葉も同じです。
同じことを示している言葉であっても、悪意は人を傷つけ、善意は人を導くものになる。
前述のカフェでは、次のようなセリフがありました。
「あの人、何でも分かってました、みたいな言い方するでしょ?イラっと来るわー」
これを善く言い直せば、
「あの人、何でも確認したいのよね。きっとまだ仕事を覚え切れていないんだわ。入って日も浅いし、そういう時期よね。」
同じ現象について語るのにも、解釈や受け取りが違えば、善にも悪にもなります。前者は、その同僚(あの人)が、偉そうにしていると受け取っているのでしょう。後者は、その同僚(あの人)を、気にかけている人の言い方です。
要するに、人に対してやさしく出来ているか、思いやれているかどうかという一点です。人が悪く見える、その対象を嫌悪するのも、本来はあってはならないことです。人が悪く見える、嫌悪すると言うのは、病人を悪く言うようなものです。社会集団についても同じです。その人は病んでいる、傷ついている、怯えている、悲しんでいる、満たされないでいる、心寒く思っている、などと言う風に観て、決してその人や集団を攻撃して排除しようと思い立つべきではないでしょう。
それが、道を進めると言う事です。
そして普通、人は、多かれ少なかれ、互いに不信を残しているものです。
相手に信頼されるべく振舞い、また、相手の本当を信じられるように行きたいものです。
この哲学カテには珍しく(笑)、哲学に造詣の深い方にも思えます。そうであるなら、それは喜ばしいことです。私自身が哲学に詳しくないからです。
さて、形而上、概念と言う言葉を不用意に使った反省はありますが、広義の一般的意味で、形而下とは形を備えるもの、形而上はそうでないものと言う意味で使っております。
その意味においては間違いとは言えず、ましてこれらが形而下のものであるとはどうかなとも思います。
ふむ、私なども会社の同僚と飲みに行って、上司の批判をよくしたものです。それはかなり以前のことですが、当時は会社の利益と言う公益的な観点からの批判であって、個人的な攻撃というものはありませんでした。
それは言うべきでないとか、相手に対する「情」というものはあったと思います。
しかし、仰るような個人攻撃がネット上でも、現実でも極めて多い。それは、人間に対する「情」というものが何故か枯渇してしまったということだと思います。
何故枯渇したのか?その理由の一つに「我貴し」の心が強くなったことだと思います。
では、何故自分が偉くなってしまったのか?私はそれは、科学万能の文明の根底にあるのだろうと考えています。
No.7
- 回答日時:
>「良い」とも「悪い」とも言えない、と。
>つまり、現在と言ういわば「中庸」に生きるべきだという感じでしょうか?
生き方は別の問題と思います。
未来への言葉があり、過去への言葉がある。その事実があるのみで、自分の幸せの為に何を選択するかは別でしょう。一般的には、希望等のダサいと言われる事を選択した方が、幸せに思えますが・・・・
例えば、
うつ病や将来に絶望した人へ、未来の言葉を掛けたとして、幸せが訪れるでしょうか?現在に立ち止まり、無関心となり気持ちを休めた方が、彼にとっては幸せかもしれません。これを想像したならば、一般的な悪いは悪いとは断定出来ません。善悪とはその前提となる条件を定義しなければ、判断できないでしょう。
中庸が何か分かりませんが、「良い」「悪い」を行き来するのが人間の様に思えます。その揺り幅が少なくなり、ちょうど居心地の良い場所が中庸か?
人の考え方(=哲学)と生き方をわざわざ別のものにするというのは私は深刻な間違いであると考えています。
簡単に言えば、個々の人間も社会全体も「善」であれば人々が幸せを感じ、「悪」であれば不幸を感ずるものと言えます。
個々の人間の言動は、僅かではあっても他者・社会に影響を与えるものなので、この「善悪」を避けることはできないと思います。
うつ病や絶望した人に希望的言辞を伝えることは逆効果になる場合があるでしょう。よく言われる理屈ですが、だから、一般的に希望的言葉は言うべきではない、とはなりません。
仰るところの「居心地のいい場所」とは、その善悪を避けた一人の大人として無責任な立ち位置ということになると思います。
No.6
- 回答日時:
希望や愛などの概念は何故「良い」と言えるのでしょうか?
↑
種族の繁栄とか、社会秩序を作るにプラスとかが
「良い」とされるわけで、
その点からいって、希望、愛はプラスだからです。
希望や愛などの概念は何故ダサい=悪いと言えるのでしょうか?
↑
豊かになり、あえて強調するまでもない
社会になったからでしょう。
それをわざわざ言うのは野暮だ。
貧乏国では、まだダサくありません。
形而上のことを人間が考えなくなったらどうなると思いますか?
↑
哲学的な考察や、本質的な問題に対する
深い洞察が失われるでしょう。
それは、人類の衰退に繋がると思います。
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