プロが教えるわが家の防犯対策術!

なぜ長崎には、広島の原爆ドームのような核兵器で被爆した建物が無いのでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • なぜ世界遺産にならなかったのでしょうか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/12/10 16:36

A 回答 (3件)

広島の世界遺産「原爆ドーム」に匹敵する原爆遺構が、かつて長崎市内には存在していました。



それは爆心地からわずか500メートルの位置にあったカトリック教会の大聖堂「浦上天主堂」です。 もし現存していれば世界遺産になっていたことが確実と言われています。 1945年8月9日午前11時2分、米軍が長崎市の上空に投下した原爆「ファットマン」によって、浦上天主堂は、一瞬にして崩壊し、一部の外壁だけが残されました。 西田三郎、玉屋房吉の二人の神父と、奉仕作業をしていた信徒十数人が天主堂と運命をともにしました。

長崎市長の諮問機関である原爆資料保存委員会が1949年に発足しました。 この委員会は毎年9回に渡り「浦上天主堂を保存すべき」と答申を出していました。 ところが教会側の再建の意志が固く、また当時の田川市長も遺構を撤去して境界を再建することを主張するようになりました。 そして、原爆資料保存委員会や市議会の要請も空しく、教会は1958年年3月から解体工事を実施しました。 被爆した浦上天主堂は解体撤去され、鉄筋コンクリート製の新しい天主堂が作られ、外壁の一部だけが爆心地公園に移築されました。 

長崎市は1955年にアメリカのセントポールと、日本と海外では初の姉妹都市提携をしました。 当時の田川市長はこれを受けて訪米して以降、浦上天主堂の解体撤去に前向きとなりました。 田川市長や山口司教が原爆遺構の撤去に前向きだったのは、アメリカからの圧力があったという見方をする人が、今でも多くいます。 決定的な記録は、これまでのところ見つかっていませんが、「撤去」せざるを得ない状況や時代背景が、あの時代に集中的に生まれていたことは確かでした。 ソ連との間で熾烈な核開発競争を展開する米国にとって、原爆の傷跡を示す天主堂は、目障りだったことは十分に考えられます。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2023/12/12 03:59

少なくとも4つはあるようです。


https://nagasakipeace.jp/visit/insti/iseki.html# …
爆心地、被爆校舎である旧城山国民学校校舎
崖下の小川に滑落した浦上天主堂旧鐘楼
爆風により傾いた旧長崎医科大学門柱
爆風で一本柱となった山王神社二の鳥居
この回答への補足あり
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2023/12/12 03:57

とっくに取り壊してしまったんじゃないですか?知らんけど。

    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2023/12/12 03:58

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A