お風呂の温度、何℃にしてますか?

キリスト教を否定したり冒涜する気は皆無です。新約聖書は1回通読した程度なので理解が浅い事お許しください。
ただ、キリストはヤハヴェと聖霊と三位一体であるという解釈からするとイエス・キリストの人格=ヤハヴェであり、キリストはヤハヴェのアバター(ディスプレイ&スピーカー)と解釈できます。
キリストはヤハヴェの意思に反する行いをせず、布教して予定通りに十字架の磔刑から昇天と復活を遂げる。
この場合、布教を始めるまでのガラリヤの大工の息子だった「ナザレのイエス」も初めからヤハヴェのアバターであり、個人の人格は無かったのでしょうか。

ゴータマ・シッタルダは王族の子として生まれ、妻を娶り子を得て、人間としての(肉体的な)喜怒哀楽を経験した上で、愛別離苦に悩んだ末で修行に入ります。
あくまで個人としての救済を求める為の修行と思考であっり、最後まで人間・ゴータマの人格で生を全うする。

私個人としては良く生きる為の哲学として思考して教えを残したゴータマに人間としての親近感を強く感じます。

あくまで私個人の文学的な二人の偉人への思いの寄せ方としての疑問です。
キリスト教の教義を批判するもので無い事を改めてご理解願います。

質問者からの補足コメント

  • 皆様ご回答を有難う御座います。
    遠藤周作さんの「イエスの生涯」「キリストの誕生」を読んでこのような疑問を抱きました。
    抑制された筆致ながら一人の青年「イエス」の苦悩や煩悶に寄り添い深く共感させられました。
    ただ、日本人の文学者である遠藤さんが生み出した一人の青年の物語としての感動とは別に、なぜそこまで過酷な運命に従わねばならないのかという疑問がどうしても解消しませんでした。
    「神」を信じない自分は後世の人間が「青年イエス」に自分の理想や願望を託した素晴らしい文学作品だと思います。「ジーザスクライスト・スーパースター」も同じ受け止め方です。
    キリストは人類の救済の代償であり、ナザレのイエス個人は救われる存在では無いのなら、
    1青年としての確固とした人格がない方が逃れようのない過酷な運命をを恐れ苦悩せずに済んだのでは無いか、というセンチメンタルな文学的な願望からこのような質問を投稿致しました。

      補足日時:2024/11/28 16:53
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A 回答 (6件)

人間としての人格、個性という点で見ると、



例えば、
古事記の中で、天照大御神が
・弟のスサノオが大急ぎで高天原にやってくるのを乱暴狼藉を働きに来たのかと、弓を片手に完全武装の勇ましい出で立ちで迎えるような責任感があるけどちょっとそそっかしい人間くささ、
・周囲の意のままにならない状況にすねて天岩戸に閉じこもったものの、計略に引っかかって引っ張り出されるとか言う、天然ボケの優しい性格
そんな人間くさく親しめる性格ですね。

 イエスキリストの場合、人間としてのイエスが持っていた性格や親しみの持てる人間性は、唯一の信仰対象として邪魔になってしまうのでキリスト教信仰が続くなかで消されてしまっているような気がします。
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No.1です。


>>キリストがエジプトやインドで秘術を学んだという説は、初めて知りました。

このあたりのイエスの修行話は、幸福の科学の書籍とは無関係の他の出版社からでている書籍にも記載があります。
また、入手は難しいかもしれませんが、「聖書の真義/M・ドーリル博士著」には、「イエス・キリストの略歴」として、33歳で十字架にかかった後、復活されてから百歳までの地球での活動の歴史と、その後の地球を離れてからのことが記載されています。
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コメントの中にあった「イエス個人は救われる存在ではない」についてですが、イエスはキリストすなわち救い主ですから「イエスが救われる」と言うのは逆におかしな話になると思います。



それから「逃れようのない過酷な運命」ではなくて「自分から過酷な道にわざわざ飛び込んで行った」と考える事もできます。「そのような道を行かなければ人類を救う事ができない」と言う事が分かっていたとすれば、楽に行く道があったとしてもむしろそれを拒絶すると思います。
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結論から言えば、神学的ないし信仰的な意味からも常識的な意味からも「あるに決まってる」と言う結論にしかならないと思います。

三位一体とはザックリ言えば「神=イエス=聖霊」と言う事でしょうから、だとしたら「神の人格=イエスの人格」と言う事になるはずです。

また神学や信仰と言う観点からでなくても「神の意思通りに行動している」と言う事は必ずしも「イエスの意思ではない」と言う事にはなりません。神の意思通りに行動する事がイエス自身の意思だったと考えれば「イエスに意思(≒人格)はない」と言った突飛な結論にはならないと思います。
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キリスト教の大多数の宗派が、イエスの人格を認める。



三位一体は、三つで一つであり、しかも位格は同じかつ区別が可能という謎かけみたいな解釈です。

これは、3〜4世紀になって後付けした解釈です(ニカイア公会議)。
神でありながら人間でもあるという矛盾を、無理やり説明づけようとして当時の神学者が「考案」した概念。

神性と人性の二つを持つという解釈が成り立つ。
これなら、多くの神学者を苦しめてきた、例の「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」も説明が付く(付いてるとは、まったく思わないけど)。

史実としてのナザレのイエスは、三位一体を提唱していない。
また、現在の聖書は解釈と編纂を重ねているので、ピュアな原典ではないという点に留意すると、「考えても無駄」って気がします。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
三位一体に関する歴史的背景や解釈について、詳細な説明をしていただき、大変参考になりました。
確かに、キリスト自身は三位一体を解いておらず、後付けされたものであるという事に気づかされました。
また、史実としてのナザレのイエスと、解釈や編纂を重ねた現在の聖書とのギャップがあるという事、神性と人性の両面を持つという解釈も、一つの考え方として理解できました。
「考えても無駄」というご意見も、一つの考え方として理解できます。
様々な角度からのご意見を参考に、今後も自分なりに考えを深めていきたいと思います。
この度は、詳しくご説明いただきありがとうございました

お礼日時:2024/11/29 14:35

私の知識は、幸福の科学での大川総裁によるキリスト教の解説とか、いくつかの「イエス・キリストの霊言」書によるものとなりますが・・・。



質問者さんのキリスト教への疑問ってのは、もっともだと思います。あくまでも、イエス・キリストは、シッタルダと同じく、人間としての人生・人格で最後まで生きたわけです。その途中、イエスはエジプトやインドで学んだ秘術を使って、聖書にあるような奇跡を起こしてみせた部分が普通の人との違いになります。
そして、地球神のエル、ユダヤ民族神のヤハウェは、イエスを指導する神であり、イエスとは別の神格存在となります。
このあたりは、大川総裁によれば、キリスト教徒においても、誤って理解している部分だと言われていたと思います。
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この回答へのお礼

ご回答いただき、ありがとうございます。詳細な解説をしていただき感謝いたします。
「幸福の科学」大川総裁の解説に基づいた教義の視点からのご説明、大変興味深く読ませていただきました。
キリストがエジプトやインドで秘術を学んだという説は、初めて知りました。
地球神のエルやユダヤ民族神のヤハウェが、イエスを指導する神であるという解釈も、新約聖書にはありませんが、多様なキリスト教観の一つの形として興味深いです。
シッタルダと同様に、イエスも人間としての人生を全うしたという視点、大変興味深く感じました。
今後も、様々な宗教の解釈や思想に触れて、自分なりの理解を深めたいと思います。
この度は、貴重なご意見をありがとうございました。

お礼日時:2024/11/29 13:58

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