今日は、成人の日ですよね。
ずいぶん前に過ぎてしまいました・・・
けど、自分が大人であるとは思いません。
自己完結できないことはたくさんありますし
いまだに自分に自信を持ちきれていません。
みなさん、自分は大人だと思いますか?
また、大人ってなんでしょう?

皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

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A 回答 (18件中1~10件)

●子供をもって大人になる について


 すこし解説しておきます。

 子と親とは生物としての関係を示す言葉です。
 親と大人を混同してはいけません。
 
 大人とは・・・と考えるとき
 生物学的には 成熟して子をつくれる能力ができた時でしょう
 しかし これは大人という言葉よりも成人(成熟した人)のほうが言いえてます。
●子供が大人になるという いかにも人間的な表現を はたしてどのように
 考え 定義すれば より幸せに指向するのか考えるわけです。
 世界が子供だけでも 世界として成り立つわけです。
 世界が大人だけと考えてみると なんか変ですよね。
 大人だけっていうことは 子供だけっとも言えることに気づくわけです。
 つまり 大人とは子供がいて大人たり得るわけです。
●ここで自分の場合を考えてみます。
 するとどうでしょう 子供をもってみてはじめて こどものためなら死んでも
 かまわないという感覚があることを知り。
 子供の笑顔に すべてが救われることを知り。
 子供が健やかに成長してくれることを願い 仕事にうちこんできた。
 なるほど こどもをもって大人っぽくなったもんだと 回想するわけです。
●社会も子供をもってはじめて大人の社会となるのではないでしょうか?
 子供はその意味で自由であると思います。
 子供をもつということは 自由を奪うことではけっしてありませんが
 子供をもつ という感覚は本能にうらうちされた はっきりと子供とはちがう
 境地が存在するものです。それがなんであるかを 記述するよりも
 「子供をもつことで大人になる」としたほうが 正確だと思いましたので
 そのように記述したわけです。
●子供をもつことで生まれる境地に近い感覚でふるまえる人は大人と呼べる
 でしょう。しかし 子供をもつ能力があるのなら是非子供をもって
 大人になっていただきたいものです。
 わたしは 子供をもつまでは子供でした
 分をわきまえ 自らを律して生きていましたが 子供だったと回想します。
 人は子供をもってはじめて大人になるのです・・・。
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僕は誤解した。

見るべきところを見るべきでした。
 
子をもつということは大人になると言うこと。
 
確かにそうです。素直眼に見ればそうです。なかった視点を得るとはこういうことと思います。どの方の回答も参考になりますが、新鮮であると言う意味ではこの回答が僕にすれば新鮮です。大人と親を引き合った意味がわかりました。
 
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僕ももう一言だけ追加して置きます。



実は僕自身、何を以って大人とするのか、自分も将来大人になるのだろうか、
幼少の頃から長い事考えてきました。
そしてちょうど、この質問を見つけたので、現在の自分の考えを書かせていただきました。

nao-toさん自身の考え方も含めて、いろんな考え方があって答えがあって、
人それぞれ、いろんな考え方があるのだなと再確認できて良かったと思っています。

#ちなみに、僕の場合、「子供をもった人」のことは、その子供の「オヤ」と呼ぶことにしています。
#「オヤ」のオヤから見ればその「オヤ」は子供というわけです。それが大人かどうかは僕の中ではあまり関係有りません。

もしよければ、nao-to さんの考え方もぜひお聞かせ願いたいところです。
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大人は意識の問題で、親は血の問題です。

それが質問の意図と思います。
(ホントはどちらも意識ですが、とりあえず。血縁が関わるので。育ての親も親です。人間と言う意味で、親も子も他人も血は同じです。いのちと言う意味でみなその血は同じです。)
 
親も子どもです。何故なら、その人にも又、親があるからです。子でない人はいません。自らも子であることを忘れたのですか?

子を持つ?
子は親の所有なのですか?
親や多くが子を支え、「子が育つ」のでは?
主体性が人にあるとはそういう事ではないのですか?
確かにそこから、いい悪いは別ですが、
育つのはその人です。
大人と親子をどう関係されたのですか?
産み親のいない子(遺伝子を相続しない子)はないのですが、大人はすべて親ですか?
子を産む、または養子をとるだけでは、子を支える事にはなりません。
親も、さらにその親にすれば、「何時までも子ども」だと思います。
そういう意味で子どもでない人などいません。
 
 親は親 大人は大人
大人≧親とするのは、フツーに考えて無理っぽいというか、意味が解らないと思うのですが、。
遺伝子ですか?愛ですか?両方ですか?
親にならなければ分らないのですか?←そうかも
でも、親と大人とは別です。やりすぎです。
子をもてば無理にでも、少女でも大人「かも」しれませんが、大人が子をもってるのか?何をおっしゃっているのかよく分りません。親がでかいのか、大人がでかいのか、親と大人を引き合う理由がよくわかりません。
 
 親にならずして大人にならずとは、大人の必要条件で子をもつことがあるのですか?子どもが子どもを生むのです。血縁はそうして繋がります。大人と子どもとは話が違うように思うのです。子孫もまた子孫。常に末裔です。先祖の事をおっしゃりたいのですか?大人と子どもに、血縁や親子関係は関係ないのでは?
大仰な話ですが、イエスや日蓮に子はありません。(彼らに大人を引き合うのもおかしいですが、とりあえず大きい人ですよね)
大人、子ども、成人、親、先祖、子孫のどれも違うと思います。それぞれの意味があると思うんです。遠い先祖を親といっていいものか。祖父母は先祖ですか?いいすぎでは?先祖が遠いものとするのもおかしいですが、
それぞれを引き合いに出すのがそもそもおかしいのでは?それはそれです。
ぼくが、小人といったのはそのためです。
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またまた、書かせて戴きます。


chihokoさんにひと言。
それでは、成人式を向かえただけでは、大人とは言えないということでしょうか?
少し、厳しいのでは?もっと寛容でも良いと思います。だって、質問者のことを考えてみて下さい。質問者が悪いことを言いましたか?質問者は、chihokoさんの御意見を受けて、どうすれば良いのですか?質問者の質問を尊重した上で、大人としての御回答を御願い致します。子供は大人を見ているのですよ。
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●子供をもって大人になります。


 それ以外に定義するのは 間違いのもとです。

 子供を持てないひとは いつまでたっても子供です。
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私も再び書かせて戴きます。


caballeroさんは素晴らしいですね。
でも、人は多くの挫折を経験します。その度に、自分は、まだまだ未熟だなあと思います。
20代のうちは、上司や先輩に、常識のない奴だとか言われて、結局、周りと自分を比較せざるをえない生活を送ることになります。また、フリーターの方は、やりたいことが分からなかったり、夢を追いかけたり等して頑張っています。
大人とは、人が向上していく過程の途中段階以降のことであり、断片的な物ではありません(法律は別問題ですが)。
また、思想哲学の観点から言えば、大人という言葉が、向上していく為の精神理念、ある意味、ステータス、スタンスとは何か、規範、模範として成り立つ社会性を形作る意味合いを持ち合わせていると言えます。そして、モラル、デリカシー、個人のポリシーに繋がる大人らしさを追及していく為の手段として、社会経験があるとも言えるのではないでしょうか。いずれにせよ、何かに対して恥じない自分を目指す精神があれば、大人と言えるのかもしれません。何かに入る物は、人によって違うでしょう。自分であったり、他人であったり、親や社会、外国であったりもするでしょう。要は、他人と比較するしないでは無く、社会性に富み、恥じない姿を追求し、伝統文化や愛国心等に冒涜する性質を持ち合わせておらず、自分の子供を愛し、先人に敬意を払い、常識という範疇に固執しない程度の知識を持つ者が大人と言えるのではないでしょうか。
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横柄だと思わないで下さい。


nao-toさんをはじめ、皆さんに、読んで頂きたいので、もう一度登場させて頂きました。
 
NO.2の回答を何度でも読んでください。
 
「大人」を考えるよりも、「自分」を考えてください。
大きくなるよりも、「あなたになって」ください。自立しない人間は、他者を支えれません。お互いに寄りかかっていては危ないです。自分で立てているから、他者を支えられ、倒れている人を起こせます。
個人とは、「他者あっての個人では無い」のです。個人における個人の認識が、大切です。そのようなものは、見せ掛けの競争(現代社会)に惑わされず、見せ掛けの共存(現代社会)に惑わされず。過去の自分と今の自分を比較できるが「囚われず」、先を見るが「縛られない」。何故なら今に生きてるからです。我欲を無理なく満たすが、それに振り回されません。

いいでしょうか。
「あなた」は、何か、誰か、あなた以外の者と、
             
               「比べるような者ではない。」んです。

だから、大きくもなく小さくもない。比べる者がないからです。
それが、「個人を得る」ということです。
人に成るとは、そのようなことを外して、考えれません。
疑問のある人は、NO.2をよく読んでください。
お願いします。
自分(自立)を求めるのに、外に手を伸ばすような事は必要ないです。
聞いて頂いて、ありがとうございました。
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自分に自信が持ちきれて大人と称するのは、メチャメチャハードルが高すぎると思うわ。


それやったら日本は大人のいないメルヘンの国になってしまうぞ。

僕も学生の頃真面目に勉強していたんですが、それではどうしても自分に自信が持てなくて孤独になって自分探しの旅に出てしまったんです。

ところが後になってこれは無謀な挑戦である事に気づきました。

思うに、人生は皮肉なものに出来ていて、一生懸命答えを探そうと努力しても悟りが開くのは年を取って死ぬ直前だったりするのではないでしょうか。

大人とは何かと問われたら、ホースマン(競馬愛好者)の僕としましては、ギャンブルの打てる人(負けの責任の取れる人)と答えます。
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僕自身も、随分前に成人式を迎えました。


しかし、自分が大人になったとは思っていません。
そして、あえて大人になりたいとも思っていません。
僕にも「自己完結できない」「自信を持ちきれない」というところはあります。
その他いろんな理由があるんですが、とてもここには書ききれません。

そもそも、大人になるって、本当にいいことなんでしょうか。

幼少の頃、見知らぬ大人にここは何番地かとたずねられて、
△△番地ですと正しい情報を教えてあげたのに、
「いいやあそこが○○番地だったからここが△△番地な訳がない」と叱られたり、
壁にイタズラ書きがしてあれば「これは子供の字だ、この近所で字が書ける子供は
ichigotaちゃんぐらいしかいないからいないからきっとichigotaちゃんが書いたんだ」
とヌレギヌを着せられたり。

大人というのは、僕の中では「偏見と固定概念にしがみつく傲慢な、態度のでかい人」という感じでしょうか。
そういう人々は、自分の間違いを指摘されても思い直す事をしません。学習しない人々なのです。
僕は自分をそういうふうにさせたくないのです。
こういうふうに考える僕自身がもしかしたらある意味で偏見にとらわれているかもしれませんが。

取り留めのない内容に成ってしまいましたが、意見のひとつということでどうぞ。
書き込みをさせて頂き、有難うございます。
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別の理由で考えると、馬鹿にされていそうな人が多いです
例外もありますが言われてる人のほうが実際見た目に関しては努力してそうです。
悪いか良いかはともかく一定のこだわりを感じます

Aベストアンサー

怖さからだと思います。
老いや傷病によって人は醜くなります。先天的にも後天的にも、どうしようもないことというのがあり、そのどうしようもない事であるにもかかわらず、それが原因で嫌われる事を潜在的に恐怖しているのです。
そうして対象を笑う事で、恐怖の対象を乗り越えようとするわけですが、方法が間違っているのでその願いは叶いません。
避けがたい苦しみがあると知って、どうそれに向かい合うのか、ここら辺が人間として真っ当になれるか、卑しくなるかの分水嶺がある気がします。

Q自信のない自分

 社会人ですが、いろいろな人を見てきて、ほぼ全員が、「自分」というものを確立していて、ものを言う際に自信を持っているようなのですが、自分は常に何かにオドオドしているようで、自信を持ってものが言えません。これは、「自分が人とは違う(常識というものがずれている)人間である」ということが、心のどこかにあるからだと思います。
 自信を持って生きられる人生を送るには、日常生活で、何をすればよいでしょうか。どういう心構えでいればよいでしょうか。職場では仕事に追われ、家に帰れば家族の相手をしている毎日で、どこかで「自分を鍛える」ということが必要なように感じます。
 なかなか状況が分かって頂けないかもしれませんが、このように「自信を持てない自分」「常に何かにオドオド・ビクビクしている自分」から脱却するには、あるいは自信を持って生きている人はどういう気構えでいるか、アドバイスをお願いします。

Aベストアンサー

回答者のみなさん、いいことをおっしゃいますね。
こういったことは視点が多様なほど、質問者さんに資することになると思うので私も参加させていただきます。

「常識というものがずれている」と、異質という印象を他人に与えます。
異質なものに対して人は無意識に怖れを感じるため、排斥したり、無視したりしようとする傾向があります。
これはむしろ本能的なものですから、「常識というものがずれている」という認識がおありでしたら、まず、異質と見られることは止むを得ない、とお考えになってください。
たとえば、生活習慣の異なる外人さんが隣に引っ越してきたりすると、興味を持ちながらも、ある種の怖れの感情も人は同時に持つものです。
昨今では、そういうことも少ないかもしれませんが、わたしの子供の頃には「や~い外人」などという文言が悪口として通用していた時代もありました。
むろん、こうした悪口は主に子供の口から出るもので、外人であることが悪いことのように言ってしまう自分を恥ずかしく思うのがまともな大人です。
なぜまともかというと、外人であること自体に悪口に相当するような理由がないことは論理的に明らかだからです。
ただ、本能的な感覚を制御できない、つまり、精神の発達していない人は異質と感じる相手に対して、安易に、自らの(本能的な怖れという)感覚だけに頼って人を判断したり、物を言ったりします。
こういう人間の群れにあって、自信を持ってものを言えない、というあなたの感覚はむしろ自然でしょう。

しかし、よく考えてみると、あなたのこの感覚もまた他者に対する怖れからきていることになると思います。
そこで、他者というものは本当に怖れるに値する存在なのか、と考えてみましょう。
述べてきましたように、あなたが怖れる対象としている他者とは、いかに立派な肩書きを持っていても、「本能的な感覚を制御できない、つまり、精神の発達していない人」です。
「常識というものがずれている」こと自体に何ら本質的な問題はないのに、単に自分とは違う、というだけで怖れていることになるからです。
たとえば、現在の世で、黒人であることを理由に差別する人は稀でしょうが、ほんの数十年前までは、白人と同じバスに乗ることすら法律的に認められていない時代がありました。
その当時、言ってみれば、白人であることが常識で、黒人であることは「悪いこと」という認識が蔓延していたことになります。
このとき、黒人本人が、「何とか白人にならなくては・・・」と考える必要があったかと言えば、それは違うはずです。
白人になろうとするために葛藤が生じるわけで、それを生じさせないためには、黒人であって悪いことは無いはずだ、といった黒人自身の正しい認識が必要になります。

このように考えてくると、「常識というものがずれている」かどうかは、別に大した問題ではないことがおわかりになるでしょう。
それを問題にするのは、先ほど申し上げたように精神的に未熟な人たちです。
そうではない人々が案外多いことにも、おそらくお気づきでしょう。
そうした現実と、縷々申し上げたような、論理的な思考によって、ぜひ自信を自らに植え付けていただきたい。
このように思います。

また、常識のもろさ、曖昧さという点にも是非目を向けてください。
昨日の常識は今日の非常識、今日の常識は明日の非常識です。
そもそも、常識によって人間が幸福になることはありません。
他の大多数と同じ考えであれば、とりあえず安泰かも・・・、といった、極めて軽薄で、情け無いアイデンティティを維持する根拠として、常識というものは存在しているだけです。
極端に無視すると別の問題が生じてしまいますが、無闇に信奉する必要も、怖れる必要も全くありません。

「常識というものがずれている」としても、人間を絶対的に正しく導く常識というものは存在していません。
もし存在するなら、常識人を標榜する人々は全員幸福な生活をしているはずです。
しかし、現実は違いますし、むしろ全く逆でしょう。
常識外の思考からしか、人類は救いを得られないかもしれないのです。
(程度問題はありますが)「常識というものがずれている」ことによって、むしろ人類にとって正しい道を見つけ出せる可能性が高い、という側面も真実としてあると思います。
  

回答者のみなさん、いいことをおっしゃいますね。
こういったことは視点が多様なほど、質問者さんに資することになると思うので私も参加させていただきます。

「常識というものがずれている」と、異質という印象を他人に与えます。
異質なものに対して人は無意識に怖れを感じるため、排斥したり、無視したりしようとする傾向があります。
これはむしろ本能的なものですから、「常識というものがずれている」という認識がおありでしたら、まず、異質と見られることは止むを得ない、とお考えになってください。
た...続きを読む

Q時代は変わったね(ずいぶん前からだけど)

少し前にテレビで若い女の子が、王貞治の言葉(確か努力についてのことだった)を
あっさりと否定していたことがあり、少し驚いたことがありました。

最近の若い人が作る歌を何気なく聞いていると、「夢ばっかり言わないでね」とか
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それが、けしからん、なんてここでは言いませんが、「夢」「希望」「努力」「忍耐」
などの、かつて日本人が美徳とした価値観を否定(回避?)する思潮は、そのかわりにど
ういう価値観を持っているのだと思いますか?

Aベストアンサー

こんにちは。
世間の10代~20歳前後の子供たち、二極化してるような感じはあります。
表現の世界とか、勝負の世界とか、努力や忍耐で掴みたいものがある子らには孤独な面もあるでしょうね。孤独というか、孤立というか。
いつの時代でもそうならざるをえないものですが、特に今は孤立が際立ちますから。
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Q【人間には自分の中にいるもう1人の自分の存在に気付いている人もいる】自分で自問自答するのは、自分の中

【人間には自分の中にいるもう1人の自分の存在に気付いている人もいる】自分で自問自答するのは、自分の中にもう1人の自分という意識があるからで多重人格者は障害ではなく普通のことである。

多くの人は自分自身にもう1人の意思が存在し、ときどき自分で聞いて葛藤している自分の中にある2つの人格に対話させて答えを導き出す行動を取っている。

このとき対話している副自分は誰ですか?

どこから発生して生まれているか教えてください。

Aベストアンサー

宇宙は1つです。
「自分」が肉体(宇宙の中の一部)を意味するなら、
「自分(肉体に付属した意識)の中のもう1人の自分」
という言明は意味を持つが(存在と相対する意識)、
宇宙とは意識の内にしか根拠を持たない(宇宙=意識)
ならば、多重性は存在しない。
あるいは異なる時点の認識可能性の時系列化(=記憶)
という非本質(多重人格)に基づいて、意識は生じて
いる。

Q自分に負ける、自分に勝つの定義とは

 あけましておめでとうございます。

  こちらのカテゴリーで合っているのか判りませんが、質問させて頂きます。
 自分に勝つというのは、一体どういった事なのでしょうか。。又、自分に負けるというのはどういった具合でしょうか。

 よくスポーツや格闘技で、勝負(試合)に負けても自分に負けるな、との言い分がありますが、この言葉の意味がいま一つ理解し難いのです。 己の目標の事でしょうか、、。

 勝負(試合)に負けても自分に負けるなとは・・・・。どういった事を意味するのでしょうか。。 

Aベストアンサー

心が折れたときが自分に負けたときです。


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