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「パッション (2004)」 についての質問
というか、イエス・キリスト関連の質問なのですが、

(1)通りがかりにイエスの十字架を無理やり
背負わされるクレネ人のシモンとは、
12使徒の一人のシモンと同一人物なの
でしょうか?

(2)また、12使徒の一人にユダという人が
いるのですが、裏切り者として描かれている
イスカリオテのユダと同一人物なのでしょうか?
(その関連で「イスカリオテ」というのは何の意味?)

(3)また、のち313年に「ミラノ勅令」という
キリスト教会を公認することをローマ皇帝・
コンスタンティヌス1世が約束したのですが、
2世紀近くもキリスト教徒を迫害してきたのに
急に風向きが変わったのは何ゆえでしょうか?

(4)12使徒の多くが殉教したと小耳にはさんだ
のですが、やはりキリストと同じように
拷問を受け十字架にかけられたのでしょうか?
12使徒のうち、誰が生き残り天寿を全う
したのかも教えて頂けましたら幸いです。


以上、ご面倒おかけして申し訳ございませんが、
素人の私にもわかるように教えて頂けましたら
幸いです。宜しくお願い致します。

A 回答 (1件)

(1)別人


キレネ(北アフリカ)の出身でエルサレムに巡礼中にヨシュア=イエスと遭遇、後に教会の一員に?
12使徒のシモンは「熱心党のシモン」と「シモン・ペトロ」がいる。
(2)聖タダイのことで別人
イスカリオテのユダは弟子団の財務担当
イスカリオテ=カリオテ出身の人?

(3)ミルヴィオ橋での戦い(312年)でコンスタンティヌス帝をキリスト教会が支援した見返り
 ミトラ教が国教になったのは、マルクス=アウレリウス帝の頃(161~180年)からで、ヴァレリアヌス帝とディオクレティアヌス帝の頃(西暦253年~305年)に最高潮に達した。コンスタンティヌス帝*がミラノ勅令*(313年)を出して、キリスト教を公認してからも、ミトラ教の拡大は続き、西暦392年、テオドシウス一世*が異教禁止令*を出すまで、約210年間国教の座にあった。

*コンスタンティヌス帝 Constantinus, 在位306-337年。首都をローマからコンスタンティノープルに移した。コンスタンティヌス帝は、キリスト教信仰を容認したが、帝自身は死の直前まで信者にならなかった。洗礼を受けた際も、カトリックではなく、異端とされたアリウス派の洗礼を受けて没した⇒木下他『詳説世界史』p54。コンスタンティヌス帝は、帝位継承をめぐる内戦のさなか、ローマ近郊のミルヴィオ橋での戦い(312年)で、突如、天に浮かぶ十字架と「これによって征服せよ」という文字を見た。この啓示に従い、軍旗に十字架をつけて戦ったところ、宿敵マクセンティウスを打ち破ることができた⇒エウセビウス**。エウセビウスは、皇帝が幻を見た日の夜、夢の中にキリストが現れ、幻の意味を解説し、軍旗に十字架をつけよと命じたと記しているが、実際はちがう。これは司教エウセビウスがキリスト教的な観点から記した個人的な見解である。実際は太陽神のお告げであったらしい⇒ヴァイス『コンスタンティヌスの幻視』。コンスタンティヌス帝は、このお告げによりキリスト教に改心したわけではない。ローマ史・キリスト教史を読むときには注意を要する。

**エウセビウス Eusebius, ca AD 260-340。カエサリアの司教。コンスタンティヌス帝の伝記を記した。ミルヴィオ橋のエピソードは、エウセビウスの記録をもとにしている。
*ミラノ勅令 キリスト教寛容令のこと。キリスト教信仰を容認する勅令である。この勅令が出されるまで、キリスト教は弾圧されていた。
*テオドシウス一世 Theodosius I, 在位379-395年。西の帝位をめぐる内戦を制して皇帝になった。
19.聖なる洞窟の封印
ササン朝との対立が激化するなかで、西の帝位継承問題がもつれ、争いが生じた。これにキリスト教と西方ミトラ教が巻き込まれた*。ササン朝的なものすべてを捨てて、皇帝に忠誠を尽くすと宣言したキリスト教徒の一派*がテオドシウス一世と結び付き、勝利を収めた。この一派の勧めで、西暦392年、テオドシウス一世は、異教禁止令*を出した。これにより、キリスト教以外の全宗教がローマ帝国領内で禁止された。オリンピック競技も禁止された。ギリシア多神教、イシス教、大女神キュベレーの秘儀、ディオニューソス教など、ローマ領外に拠点を持たない宗教はすべて、消滅した。

西方ミトラ教も甚大な被害をこうむった。ミトラのマギたちは、ローマ帝国領内の各地にあった聖なる洞窟を壁でふさいで封印した*。一部のマギと信徒は、クルドの地へ移住した。シルクロード草原ルートを通って新羅に到達した集団や、海路脱出し、中国南部に到達した集団もいる。
ユリアヌス帝*の時代に一時的に復活したが、長くは続かなかった。皇帝が夭折したからである。

(4)
シモン・ペトロ:64~68年頃没
ローマで十字架刑にされるときに、「主キリストと同じ死など恐れ多い」と言って、頭を下にして磔(はりつけ)にされた(してもらった)らしい?
アンデレ:伝道と医療行為にあたったが、ローマ総督の妻を治療し、改宗させた罪で十字架に架けられる。
ゼベダイの子ヤコブ:AD44年没
使徒行伝によれば12使徒中最初の殉教
ゼベダイの子ヨハネ:AD42年没
フィリポ:不明、小アジアのヒエラポリスで没したとされるが使徒言行録での伝道者フィリポは別人
バルトロマイ:インドに伝道、アルメニアで没という謎の人
マタイ:マタイ福音書の著者(?)なら長命かも
トマス:イランに伝道、「トマス行伝」ではインド伝道中殉教
アルファイの子ヤコブ:初期エルサレム教会の指導者で「主の兄弟」と呼ばれたヤコブと同一人物ならAD62年殉教。
タダイ:64~68年頃没、シモンとともに殉教とある
熱心党のシモン:熱心党ならAD74年にマサダ=砦で集団自決?
http://www.pcs.ne.jp/~yu/ticket/supper/apostles. …
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraism_H …

参考URL:http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/393 …
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この回答へのお礼

貴重なお時間を割いて頂き
御丁寧且つ詳細な記述、大変恐縮致しております。

 全て読ませて頂きましたが、非常に納得でき
且つあらためて深く勉強させて頂きました。

 本当にありがとうございました。

 

お礼日時:2006/04/07 17:25

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