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ハイデガーの『ツォリコーン・ゼミナール』のなかで、チューリッヒ中央駅を思い浮かべるときチューリッヒ中央駅それ自身のもとにいる、と書かれてあります。
(1)チューリッヒ中央駅の表象の「もと」ではなく、チューリッヒ中央駅そのもの「・・・のもとにいる」ことだろうと思いますが、「・・・のもとにいる」ということがどういうことなのかわかりません。
(2)また、「わたしがここ(注:ボスの家)にいるということは、再現前の遂行として、駅のそば(もと)にいるということなのです。」と書かれていますが、これも理解できません。
どなたか平易に説明してくださいませんか。超初心者なので、精確な説明よりも、具体例やざっくりしたイメージで説明していただければあり難いです。

A 回答 (2件)

推測ですが、「もと」の原語はNo.1での指摘のようにbeiかも


しれません。哲学的にはunterの可能性もありますが、「ボス
の家」と「チューリッヒ中央駅」とを対比させていることから
すると、おそらくbeiでしょう。フランス語でのchezそのまま
の原義です。
そうするとわかることは、
>チューリッヒ中央駅を思い浮かべるときチューリッヒ中央駅
>それ自身のもとにいる
とは、
チューリッヒ中央駅を思い浮かべるとき、自分はチューリッヒ
中央駅の駅舎の中に自分の存在を見出している(英語のfindの
意味合い)
ということでしょう。
「ボスの家にいる」ということは再現前、すなわち記憶に呼び
起こす前の段階としては「駅の中にいる(自分を見出す=find)」
ということ変わりない、ということでしょう。
この自分を見出すことについてはfindenという単語でショーペ
ンハウアーも言及しています。
以上推測ですが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「自分の存在を見出す」という新しい視点をいただきましたが、どうもうまく消化できないので、もうすこし考えてみます。考えるきっかけをいただきお礼を申し上げます。

お礼日時:2008/02/15 23:40

ものすごく荒く説明しますね。



日本語にしたからよくわからないんだと思うんですよね。
ハイデガーの場合はドイツ語ですから、「~のもとに」という前置詞が原語では使われているんだと思います。
勘で言うとbeiとかそのあたりだと思いますが。

ドイツ語の言い回しを残して日本語に訳したからややこしくなるんですが、それをこなれたように日本語にしてしまうと大事なところがそぎおとされてしまう、そういう痛し痒しなところがあって、「~のもとに」という日本語らしからぬ言い回しになってしまうんだと思います。

「チューリッヒ中央駅を思い浮かべる」の場合の「チューリッヒ中央駅」は、思い浮かべられる前のチューリッヒ中央駅ということでしょう。そしてそれを思い浮かべると、「思い浮かべられたチューリッヒ中央駅(表象)」が生じる。では「思い浮かべられる前のチューリッヒ中央駅」ってなんなのだ、というと、<そのもの>というしかなく、それに【依存して】思い浮かべられている、という風に読むこともできそうですが、まあ実物を読んでないので迂闊なことは言えそうにないですね。
(2)はボスの家なるものが出てくるので余計わかりません。実際のボスの家と駅の距離が関係するのかなんなのか……テキストからだけでは読み解けないことがあるのかもしれません。
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この回答へのお礼

早速のご回答を有難うございます。
なるほど、駅そのものに「依存して」、あるいは駅そのものを「根拠として」思い浮かべると考えるのですね。
「・・・のもとにいる」というのが、現実に客体として駅のそばにいるのではなく、「脱け出て駅のもとにいる」と考えるとわかるような気がします。しかし、今度は「何」が脱け出るのか、「もとにいる」とはどういう事態なのかがわからなくなります。

お礼日時:2008/02/15 12:26

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