「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

 江上波夫によれば
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 騎馬民族の社会〔は〕民主主義的 主知主義的 機能主義的 国際主義的といったような 共通な特徴をもち 優れて人間中心で すべての民族に解放的な 自由な性格の 実力優先の社会であった・・・。
(『江上波夫の日本古代史――騎馬民族説四十五年』1992 p.347)

 征服王朝が征服している場合は武力による場合ももちろんありますが むしろ軍事力によってではなく 文化的に同化したり 政治・経済的に合作したり 結婚や買収や 盟約や談合や 外交手段などで 戦争による場合と同様な成果をあげて 相手を服属させたり 仲間に入れたりする無血征服の場合が多い・・・。(同上 p.289)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここで 《買収》に注目します。しかも 現代の企業買収の場合です。
 【Q.1】 ある日とつぜん おれの持ち物になったと言って 会社を乗っ取って 顔を表わすことは 民主主義的ですか?

 【Q.2】 このようなM&Aに逆らうほうが 民主主義的ですか? 言いかえると その昔 無血征服説によれば 先住民(つまり 大方のわれわれです)は――企業ではないかも知れませんが―― おそらく 《国譲り》をしました。《和を以って貴しと為す》については あたらしく指導的地位に立った人びと(=天つ神)が 先住民(=国つ神)に《同化》した結果 そういうふうなならわしが 出来あがったのだとすれば もしそうだとすれば 天つ神(=そういう新来者たち)も 国つ神(=先住民)も ともに 民主主義的であったことになります。広くM&Aは 民主主義的ですか? 民主主義のために そうしたと言えるでしょうか? 国家のその形態として 二階建ては 民主主義に抵触しますか?

 ・ ちなみに アマテラスとスサノヲとは 姉と弟であると古事記等は 記しています。
 ・ また 現在あるわたしたちは みな それぞれ 万世一系として――記憶も記録も さかのぼれば 定かではなくなりますが それにはまったく関係なく―― 生まれて来ています。側室による出生は少なく 養子縁組による家の継承は多くても 生物学的には 万世一系です。例外はありません。
 ・ 唐突に言えば 
 【Q.3】 従業員民主制というような制度もしくは ならわしは 将来に向けて 実現可能ですか?

A 回答 (17件中11~17件)

 知ったかぶりの中途半端な回答にご真剣にご対応賜り、尊敬と感謝を申し上げます。


 鍋島の常朝武士道はどこまでも深く、老子、孔子は無論、ヒンドゥのはしごをかけて勉強してまいりましたが、深い日本性の中で、いまさらながらその普遍の響き気づいてきております。外国にいく必要はなかったかのようにも思えております。
 日本の仏教も儒教ですが、そういうものも、禅も、中国やインドにありましょうか。日本の禅と仏教、儒教、老荘はどこにもないのです。
 これらは日本の思想・哲学なのですね。えらい方がわたってきました。その影響がないとはいえませんが、みな日本の中に飲み込んできました。
 400数十のフォルダに各50ずつのファイルやアドレスを整理しておりますが、フォルダの一つに重層・シンクレティズム・syncretism・習合というのを創っております。
 私たち日本人の淵源と歩みに関心の重心をすえていますが、bragelone様の年齢のときの私は、まことに何もわからない粗野な野心家に過ぎませんでした。今も、気持ちはどもかく、現実は同じなのですが。
 死ぬることは大事でして、私も今頃になって日々死ぬことを重ねておりますが、bragelone様、どうか心身、環境の調整と養生に心して、ご長命でお過ごしになられることをお祈りしております。自分とはつまり、状況であり、それが環境になっておりますね。つまり一朝一夕では調ってこないのが自分という環境、事実ですね。カルマとか業とか、世界とか運命というのは、つまり偽れない自分の中身なのでしょうか。
 自分のことですが、こういうちょいとみると、外見は何かすごいようにみえるらしくて、それにだまされた、たくさんの方の知遇を得ました。40数年の場所も一応その道では名のある大学でして。
 中にはたいへんな方も大勢おられますが、佳人短命は女性ばかりではなく、才長けた多くのかたが逝きました。
 このあほみたいな私は、こうして永らえ、ようやく少しは何か、分かってきたかのようです。要するにともかく長生きは、凡人にはどうしても必要と悟りました。
 bragelone様はすばらしい方ですが、どうぞ長生きがなによりです。
 時間は所詮ものをいい、このあほな私も、短命の彼らに同じ視線で付き合うこともできております。
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この回答へのお礼

 ★ 自分とはつまり、状況であり、それが環境になっておりますね。つまり一朝一夕では調ってこないのが自分という環境、事実ですね。
 ☆ ここに 注目しました。あとの文章に 《カルマ / 運命》という言葉が出て来ますが これは 表現の問題だとして 上に引用したご所見に刮目します。
 別の表現では 《時の充満》ということ 《時が満ちて来ないと 何事も為し得ない》ということのように受け取ります。

 あとは ご研究が進みますように お祈りしております。とお伝えすれば わたしのことをご心配してくださっているご文章で それには 痛み入ります。と感謝の言葉を申し述べつつも わたしは自分が 何も考えていないので それでは どのように お返しのごあいさつをすればいいのか 見当がつかないほど 我れながら 不憫な状態です。

 * 武士道については いづれ こんな感覚のわたしにも 勉強する機会があるかも知れません。単純に言って 内に秘めた思いというもの これが わたしにも そして 誰であっても ないわけではないでしょうが それを持続するというのが わたしには むつかしいことのようです。将来への展望であるとか ただ今のひらめきであるとかの場合 これらを 密かに 内に抱き 抱きつづけるというのではなく そうではなく その現在に すでに 公表してしまいますし その現在は 過程的であり動態として続けて行くという意味では 永遠の現在なのだと思っております。
 単純なふるまいが 説明するとなると こんなに ややこしいことになるようです。

 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2008/08/11 23:18

 cyototuさんへのbrageloneさんのお書き込みは、当然ながら非常に男子系統的、理論的、且つ、法規理論的にして支配者がもつ意識のことば化からのご論説として拝読しました。

下部構造で上に乗られて日常を生きてきて、本音でしか意識とことばの届かない者側としては、いつもこういうことを蹴飛ばし、無視してきました。
 理論ではなく事実、生活として。いつも本音と事実で生き、討論し、相克し、戦い、がんばってきたという事実の側の女性的側の身のおき方でした。
 生活だ、要求の感情だ、許せない。ジャスティファイや理論化の役目をその後に続け。で引っ張ってきたのです。
 一度太刀を抜いたら、もう、労組、生活の、呼吸、衣食住は理論ではない。要求だ、事実だ。許せない。認めろ、譲れない。こういうやり方でした。
 でも管理というのはちがうでしょうね。それは、ことば、概念、一定の体系の中の方式でしょうね。

 昔、読んだ話を思い出して書いておりますが、大和の朝廷時代以来、支配は男子系的やり方ですよね。
 文書、方式、システム。これは近代統治方式に通じていますね。
 文書の読み書きと対応ができなければ何も通らない。
 それにより全てを通おす。支配する。これは上部に通じてないとできないのですよ。天下りしかできない。法律用語やシステムの勉強では追いつけないのです。拠ってたつ立場が違うし、目標や観点も違う。
 生え抜きには無理です。どこかで自分を大転換するか、立場と観念を入れ替えるかしないと、育ちを変えないと。経歴自体を変えないと。
 ことばとシステムに通暁しているだけではなくね。中央や都からきた方式たちの世界でやっていかないと、何も通らない。
 通らなければ、やられるままです。それに対しては、法の実力も理論もないものの、生活的、現場的の抵抗しかない。都の理論もお作法方式も聞いていられない、現場の声と要求での抵抗活動です。
 そういう相克と活動の中で、一定のことが認められ、そしてまた都の支配に服する、日常に戻る。
 これに忍従しないでは、現場や地方の生活は成り立たない。
 大和朝廷以来、文書とシステム支配は私たち、日本の一方の系統である男子系統ですね。
 そして現場の、生活、事実での生活系統というのが同じ日本の一方の女子系統でしょうね。
 私たちの社会や生活というのは、今までずうっと、そしていろんな場面とレベル、位相で、両者がぶつかることもありますし、日常の平和であることもあるし、協力し合っていることもあるし。どちらかが優勢になっていることもあってきているのではありませせんでしょうか。
 どのレベルをとっても、そういうことはいえるのではありませんでしょうか。
 今回のお書き込みへの印象として、理論の精緻と強力性、そしてそのご主張、そして優位をご主張のbrageloneさんに父系性を感じております。
 私的にも弱者の立場の老人になってきた私は、この父系性から、身を引く傾向にあり、brageloneさんからのご評価は期待できないし、また、私には別世界の、お書き込みを頂くかなと、びくびく危惧しております。

この回答への補足

 訂正があります。

 お礼欄の 後段の第二文の中で 次のようです。
 
 正: 女子系統的で母性ないし母系性
 誤: 女子系統的で母性ない母系性

補足日時:2008/08/11 09:11
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この回答へのお礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 こんなにつぶさに書き込んでいただいて それなのに 今回のご回答へのお応えは 短いものになります。
 歴史および現代の情況の 把握や認識や分析や あるいは ひょっとして その方向性の展望や われわれの志向するところや 胸の内 腹の坐り方 これらは お互いに 相い通じるところがあるのではないでしょうか。まだまだ 食い違いがあれば どんどん わたしは 説得にかかります。柔軟な思考をしていらっしゃるからです。(そうでない場合にも 説得を欠かしませんが。ただし 要らないとか 筋がちがうとか 言われれば 放っておきます)。

 対処の仕方が 二つに分かれただけであるようです。男子系統的で父系性なる社会行為に対して 女子系統的で母性ない母系性(これは 書かれていませんが)なる行為形式で 対処するか。それとも 同じ男子系統の・つまりは 支配者側と同じ理論的かつ法規理論的な行為形式で 振る舞い 対処するか。
 どこの馬の骨とも知れないひとりの人間であるゆえにかも知れません こういう振る舞いが出来るのです。何のしがらみもありません。
 この今わたしが提出している日本人の古代からの民主主義なる仮説 存在無差別なる平等かつ自由にもとづく話し合い主義が基礎であるのではないかという物言い。これを読み取ってくれと言わんばかりに 古事記は 書かれていると思います。そのように書き遺してくれたと思うと その作者に対して もし今のこういう探究を止めてしまえば 顔向けが出来なくなります。という思いで歩んでいます。今後とも よろしくお願いします。

お礼日時:2008/08/10 22:13

 ○ 社会の第二階の執行部は あたかも この騎馬民族的発想を持っている。

●krya1998━そうと存じます。はい伝統も。
 ○ 冒頭の事例の 1 2は 法律による執行管理でなければ~~ ●法規の専門家たちの集団がやっておりましてね、でも 2 の方は、下りてくる人を受けないと、自然の形で受注がなくなる。下りてきた方の人件費分は受注ができるということのようでしてね。
 
 ◎あらためて 確認事項ですが ●その通りに了解します。
 ◎平等思想や価値観が 第一階と第二階とで 異なっているのではないか。●そういう事態も当然あるでしょうけれども、われわれ下階のものは、日常・実務、そして生活、経緯からの闘争になります。

 ◎第二階は 浮き上がっていませんか?という問いです。
 ●浮き上がった状態では存続できないのではないかと存じます。
  一定のところでは、そういうこともありながら、相克しもあるのではないでしょうか。それはいつの時代でも。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。話が通じていると思うと ありがたいことです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ◎第二階は 浮き上がっていませんか?という問いです。
 ●浮き上がった状態では存続できないのではないかと存じます。
  一定のところでは、そういうこともありながら、相克もあるのではないでしょうか。それはいつの時代でも。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ お話が たとえば 夫婦のことであるなら――と言っても わたしは 実際には知りませんが―― おっしゃることは 納得がいきます。平屋建てを 多少なりとも無理に 二階建てにして 上と下との関係を 平和のうちに 秩序立てて お互いやっていこうと言うのは 突然転がり込んで来た居候が 家のいっさいを仕切ってやるから おれに任せろというようなものです。
 それでも 譲歩しましたし 譲歩しつづけましたし 今では 時として 一緒になって 甘い汁を吸いたいという人びとも出て来ているのではないでしょうか。大方の人びとは いまも おとなしく 愛をもって 二階の連中が 自分たちの素朴な和の精神を頭と体とで覚えるようになるまで 我慢しています。
 ここからしも 《第二階は 浮き上がっていませんか?という問い》が出て来ます。のではないでしょうか? 
 次にも ご回答をいただいています。

お礼日時:2008/08/10 21:50

 cyototuさんのご回答は私にとても勉強になりました。

つまり正鵠を射ているものと存じます。
 ご質問であげている、M&Aの事例の一つとなるのでしょうか。
 1. 国の不動産と予算の私的法人への天下り とか
 2. 国の事業を請け負った会社への重要人事の配置(暗黙の双務契約)とか
 3. 先の敗戦による敗戦処理と戦後処理での、国体維持という天皇制の存続による進駐軍という戦勝国の超法規的占領支配。

 ○ 私たち、事務分野の専門職(大学図書館)としてのものは、教授会選出で、理事長・学長任命の館長や、学長、大学全体の事務局長も、その他の上部構造を受け入れさせられてきました。
   私たちの世界(専門分野であり、継続の重要なぶんやですから)である、下部構造がそれで大きく変化することは、ありませんでした。無論上部構造の権能としては、法的にはそういうこともできるのですが。

 ○ 【Q.2】で敷衍されていることは、国つ神が国譲りをして上部の段階での同化をし、天つ神がわも上部同士の次元での同化をしていったという、お話なのですね。この同化構造は今もどうしても必要です。
   進駐軍による支配が、天皇と(その国民の)政府を介在して為されてきたように。だから上部次元での国譲りと相互の同化作業が、速やかになされたのですね。いわゆる敗戦処理と、戦後処理、戦後から今日の支配までが。

 【Q.1】経緯の説明と挨拶、そして約束と施政方針はきちんとしてもらわないと困りますよ。無論下部の長の私たちや、その上の長という流れ系統を年中無視されては困りますが。そんなことは上部構造はできませんし、こちらは必要ないように、支障なくやっていきます。
 もしそんなことをしなければならないことになれば、その前に、いろんなことがぎくしゃくとでております。

 【Q.2】逆らう必要が日常はありません。何か主義主張で、原理と構造の受け入れを潔しとしない場合は、それはもう国家構造の問題ですからね。そうするのが本当の民主主義だというなら、そうかも知れません。それは絵の中のお話の世界ですね。
  天つ神も当然逆らうことに、反対や抑圧する態度もとっていないし、逆らえますけれどもね。譲ったり、改善することはいつでもかのうでしたよ。独立もいいけれど、それでどうやっていくかの先迄を考えては、あるべき論を展開はしていませんでした。そうなればそうできますけれども。独立ができないわけではありませんが。つまり逆らうことができないわけではありませんが。

 【Q.3】上部が仕切っているのは、実をいうと世界がちがいますから。つまり私たちの日常やその他のところは実はもう従業員民主制でしたが。まかされてきておりましたが。
 こちらにきた天つ神もこちらの、普段はこちらの人でしたね。
 私はもう定年退職者ですが、基本的にはおなじでしょう。
 でも労組次元においても、ダラ幹ではないですよ。きちんと筋は守ってはいましたが、今はどうか存じません。
 つまり従業員民主制が実現可能かどうかは、可能ですよ。
 上部はそうするより仕方ないですよ。まかすより。お世話なんかできないし、こちらもかけられないですよ。
 友人のところは○○科学技術○○で、QC(品質管理ということでしょうか?)やっていましたが、私たちは従業員民主制で自ら品質やらなにやろも管理し、責任もはたしてきております。
 どうも日本ってそういうところなのでしょうかね。

 ○そうすると上部って、江上波夫大親分とご質問者がいう騎馬民族で、私たちは農耕、漁労、木挽や商人の国つ神の世界の人たちなのですかね。

この回答への補足

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 前提事項として 明確にすべきものを明確にします。
 ○ 騎馬民族が征服したとは言っていません。
 ○ 騎馬民族が来たとも言っていません。
 ○ 遊牧民⇒騎馬民族の思想形態(つまり 身分無視で実力重視のもとに あらゆる人びとの能力を募り これらを束ねて用い 他の村や国に対してであっても その統治を志し その実行に長ける。現地に同化する等々)が 日本にも 世界にも 現代の政治や経済活動にも 見られるのではないか。
 ○ 社会の第二階の執行部は あたかも この騎馬民族的発想を持っている。
 
 ちなみに 遊牧騎馬民族の特徴の一つとして 家系を男性の一系として記憶し記録するという事例が挙げられます。次の二例をくらべてみてください。
 A. ヲワケの臣の上(かみ)つ祖(おや) オホヒコ。其の児タカリのスクネ。其の児の名テイカリワケ。其の児の名・・・(埼玉古墳群で出土した《稲荷山鉄剣銘文》)
 B.アブラハムとダビデの子孫であるイエス・キリストの系図。 / アブラハムはイサクをもうけ イサクはヤコブを ヤコブはユダとその兄弟たちを ユダはタマルによってぺレツとゼラを・・・もうけた。(マタイによる福音書 冒頭)
 ☆ ただし これは あくまで 思想形態の問題です。特には 単純に生活態度として 世界史的に 共通の内容があるなら 遊牧民と農耕民との対照という構図も ある程度は 有益な思索をもたらすのではないか こういう趣旨です。
   *   *   *
 さて 冒頭の事例の 1 2は 法律による執行管理でなければ 単なる私物化です。3は 無条件降伏が 国軍のそれであって 国家そのものの降伏ではないとしても 一般に 法規的処置によったと考えます。《国体護持》については そのままの継承ではなく 天皇制の存続と主権在民とを分けて と言いますか 後者が基本的な大前提であることを合わせて 考えるべきだと思います。

 あらためて 確認事項ですが
 ○ 現行憲法に照らして もろもろの法律制度の規定が 有効であるかどうかの問題を問うているわけではありません。
 ○ と言いますか そういうよりも 現行憲法じたいが 致命的に 無効である要素を持っているのではないかの問題 ここまでを いま この質問では 問うていません。
 ☆ ですから 
 ○ 一般に 上下関係におけるコミュニケーションの食い違いであるとか 権限の乱用であるとか そういう問題は扱っていません。
 ○ 企業にしても国家にしても 外から上から 或る日 見たこともない人間がやってきて 経済的にしろ政治的にしろ 民主主義の統治・経営をおこなうと言ったとき それは どういう民主主義なのか この問題です。
 ○ その結果は 二階建て構造の問題であるのではないか。
 ○ その意味は 平等思想や価値観が 第一階と第二階とで 異なっているのではないか。どちらがよいか。

 ☆ 総じて言って 現状の秩序も大事だ / 将来は 変わるかも知れない こうおっしゃっていると理解しましたが
 ★ 〔第一階の第二階からの〕独立もいい・・・そうなればそうできますけれども。独立ができないわけではありませんが。つまり逆らうことができないわけではありませんが。
 ☆ というふうには わたしは見ていません。第一階は 第二階の存在を みづからの責任であると考えます。《国譲り》のときの不明によって それを ゆるしてしまったと思っています。あるいは へんてこな能力主義なる平等思想を持てあまして その思想の持ち主たちに対して 好きなようにさせたのです。みづからの責任です。これを放棄しません。《和を以って貴しと為す》というのは 第一階の庶民の専売特許です。人びとを  対話・話し合いをつうじて やわらがしめていくでしょう。社会としての従業員みなによる民主制ですから。
 第二階は 浮き上がっていませんか?という問いです。

補足日時:2008/08/10 11:35
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#2に誤植がありました。



四段落目の文の中、

永々と気付き上げられて来た => 営々と築き上げられて来た

と読んで下さい。他にもあるかもしれませんが、上の誤植が一番ひどいと思いました。

もう一つ、補足を書いておきます。
日本人の私有財産権の発見としては、鎌倉時代の貞永式目の中の、本領安堵という概念の発見です。どの国でも私有財産権が重要であると気付くと、必ずその国の憲法に成文化するものです。私の知っている限りでは、この私有財産権を人類で最初に成文化したのは、この貞永式目です。西欧での成文化は貞永式目より数百年後になってからです。もし、もっと前に成文化した国が在ったら教えて下さい。参考になりますから。
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この回答へのお礼

 No.2へのお応えをから 次の二点を 重ねて述べます。

 ★ 憲法に成文化
 ☆ の問題は その秩序のあり方として 重要ですが これを超えて 民主主義ないし所有権の問題を問うています。憲法がこれこれとうたったから 民主主義であるとは言えない / 言えるとしても その視点を超えていきたい。こういう方向と志向です。やはり前提がちがいますか?

 ★ どの国でも私有財産権が重要であると気付くと、必ずその国の憲法に成文化するものです。
 ☆ というふうに思考をおよぼして行かれるのでしたら やはり このように規範一般にもとづき 《運》をも伴なった《能力・実力》を形成し発揮し 社会を生きるという思想 そういうかたちでの自由かつ平等の思想 これをおっしゃっているようにお見受けしますが?
 そうではなく 《所有》について 別様の思想形態もあるはづです。所有は 一般に 《私的所有》を基礎としますが 確かに しますが 全くそうだとしましても それと同時に 社会に位置する《わたし》の関係性の側面 つまりは 架空のものとしてでも 《関係的所有》という側面も 存在のあり方として・共生の課題として 重要であり基礎であると考えるものです。将来に向けて これを 一緒に考えてみませんかと問うています。
 関係性としてのわが存在 ここに 《本領安堵》をおぼえるのも 人間ではないでしょうか? 根拠はありません。しかも 私有財産が 半分の側面としては 人びとみんなのものだという思想 これに《安堵》はしないでしょうが われわれ皆の相互の《安堵しない所有形態》において 安堵するという生活態度です。吟味していただくに値しないでしょうか。 

お礼日時:2008/08/10 10:34

#1です。


私はこの問題の専門家ではありませんので、深い思索に基づくと言うよりも、思い浮かぶ物をそのまま成り行きで表現していますので、そのつもりで読んで下さい。

私は江上波夫の問題の把握の仕方を納得しておりません。日本の民主主義や資本主義を考えるきに、もっと重要なキーワードは、鎌倉以降日本がどの国の制度をコピーするでもなく自前て作り上げて来た、幕府制度と呼ばれる「封建制度」にあると考えております。

封建制度とは、国民が直接国王に属するわけではなく、地方の王(豪族)に属し、その王達をまとめる役としての王の王(日本では将軍)がいる制度です。したがって、この制度は、国民が直接王に属している中央集権制度とは対極にある制度です。私の知る限り、この封建制度を国の安定期に存続させたのはこの2000年以内の歴史では、日本と西欧だけだと思います。そして、この二つの地域でのみ、民主主義と資本主義が健全に根付いたのは偶然ではないと考えています。例えば、少なくとも豪族には、王の王の物ではなくて、自分の物があると主張出来ますので、国家権力が介入出来ない私有財産権という、民主主義にとって最も基本的な概念は封建制度からな出て来ますが、中央集権制度から出ては来ません。

日本人の平等意識は、将軍と言えども神格化された天皇の前では一介の公民であるという発想に象徴されていると考えます。鎌倉以降、永々と気付き上げられて来たこの平等意識がなかったら、幕末の大政奉還による権力の移行など考えることも出来ません。他の国民だったら、血を血で洗う内乱が起こっていたと思います。中央集権国家を造り上げて唯一この平等意識を壊しかねなかったのは信長だと思いますが、幸運にも信長は夢半ばで暗殺されてしまいました。

一方、騎馬民族で中央集権制度を採用した国は幾らでもありますが、彼等に民主主義と資本主義が健全に根付いた国は私の少ない知識ではその例を知りません。ですから、この私の浅はかな経験によると、騎馬民族と民主主義は関係がないと考えているのです。もし、質問者さんがその例をご存知なら、教えて下さい。今後の思索の参考にするつもりです。

次に、能力主義に基づいた平等と言う概念も、この概念をよほど慎重に、かつ実証的に分析した後でないと、誤解を招きかねない概念です。能力主義と言いますが、能力がある人と判断されるのは、圧倒的にほとんどの場合、運が良かった人だと思います。例えば、たまたま人生の賭けに当たったとか、裕福な家に生まれたとか、正当な意味で教育熱心な家に生まれたとか、肝心な時に病気をしなかったとか、そう言った、極端に幸運なことが重なった方が成功者になり、能力がある人とみなされるようになっています。

実は、その陰に、その成功者よりも能力的には幾らでも優れている潜在力を持ちながら、運が向かなくて成功者になれなかった方が、何百何千何万倍も居たはずです。ですから、私にとっては、能力主義は不平等と馴染む概念でこそあれ、平等と結びつけることができません。

したがって、質問者さんの前提とは全然異なった所にいる私には、質問者さんと同じ土俵の上で問題を論じることが出来ません。

最後の質問に付いて:
非民主的な社会なら「頼まれたらやりたくないが、命令されたんならしょうがない」と言うでしょう。

この回答への補足

 ★ したがって、質問者さんの前提とは全然異なった所にいる私には、質問者さんと同じ土俵の上で問題を論じることが出来ません。
 ☆ ということのようですが ひととおりのご返答をつづっておきます。
 ご回答をありがとうございます。
 
 ▼ 広く会議を興し、万機公論に決すべし。上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。(現代表記)
 ☆ 『五箇条の御誓文』の内の一箇条です。《1946年 衆議院における日本国憲法案の審議の初め、吉田茂首相は御誓文に言及して、
 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「日本の憲法は御承知のごとく五箇条の御誓文から出発したものと云ってもよいのでありますが、いわゆる五箇条の御誓文なるものは、日本の歴史、日本の国情をただ文字に現わしただけの話でありまして、御誓文の精神、それが日本国の国体であります。日本国そのものであったのであります。
 この御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります」 (《wikipedia:五箇条の御誓文= http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87% … 》=資料A) 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と説明しています。いまは こういう問題を扱っています。明治維新からの改革において 
 ▲ 版籍奉還がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。・・・各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。(《wikipedia:大日本帝国憲法=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5% … 》=資料B)
 ☆ というような経緯も 重要であるでしょう。封建制の揚棄(だから 良いところは 高い段階で保たれると言ってもいいのですが) 明治憲法の揚棄といった変革を無視するわけには行かないでしょう。

 ▲ 日本臣民は、法律の範囲内において、言論、著作、印行、集会及び結社の自由を有する。(明治憲法 第二十九条)
 ☆ について
 ▲ これらの権利は、天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」とされた。〔現行〕日本国憲法では、これらの権利を永久不可侵の「基本的人権」と構成する。(資料B)
 ☆ ちなみに 同じ資料Bでは 明治憲法について
 ▲ 1876年に公布されたトルコのオスマン帝国憲法に次いで、アジアでは2番目の近代憲法である。
 ☆ と明らかにしています。遊牧民⇒騎馬民族にかかわる一点です。

 以上の前提を――わたしだけかも知れませんが――踏まえて 《所有権 / 私有財産制》について 簡単に触れます。
 すでに日本は 古代国家において 《公地公民制》を敷きました。問題は これを 社会の第二階指導部から 《御言告り=詔》したから そのように 或る種の仕方で 平等という意味で民主的な社会生活になるというものではありません。逆です。あるいは 執行部が《万機公論に決すべし》とのたまわったから まともな議論をつのるというものではありません。逆です。
 一般に広く《表現》の自由は 《天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」》とは認識しません。そうではなく 現行憲法は 《永久不可侵の「基本的人権」と構成する》とうたいます。けれども この宣言も まだ 不十分です。基本的人権という概念があり それを宣揚するから 自由であるのではありません。人と生まれた者のすべて これらの存在の無差別の自由かつ平等が 素朴に・むしろ無根拠という根拠において 信じられている。天つ神の思考形態も 平等思想ですが それとは おそらく別様の平等思想に立って 国つ神たちは 生活していたという仮想です。
 このとき 所有という一種の表現行為 つまりは 所有という側面における自己表現 これも 当然のごとく 存在無差別の自由=平等に基づきます。私的・個人的な所有という概念ではなく――さりとて 国有ではなく 社会的所有でもなく そうではなく 誰かが 《個体的所有》ということを提唱していたこともありましたが―― 要は 答責性のある個人の独立主観のもとに所有しつつ 同時に 答責性の相互の支え合いにもとづく関係性としての所有という側面を大事にする。こういう答案が 《昔から民主主義を〈国体〉としてきたわが国》においては 出てくるはづです。どうお考えになりますか? 土俵は やはり 違いますか? ここは 哲学の場ですから 現実から 思いっきり飛躍して 考えてみましょう。

補足日時:2008/08/10 10:02
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この回答へのお礼

 ★ 非民主的な社会なら「頼まれたらやりたくないが、命令されたんならしょうがない」と言うでしょう。
 ★★ 「命令されたらやりたくないが、頼まれてしまったからしょうがない」という日本人には誰でも分かること〔=これが すなわち 民主的なあり方である〕。
 ☆ 《頼む・頼まれる》の関係と 《命令する・される》の関係とが 次元を異にする場合があるということ ここに留意しなければならないでしょう。

 いえ もっと げんみつに述べるべきです。二点の検証すべきことがあります。権限は すでに 命令に関係します。《頼みごと》の問題では ありません。言葉をかけるときに 頼むという言い方をするかどうか 別問題であるのではないでしょうか。まして 権力になれば 違っているでしょう。(調停作業あるいは仲介者を立てることによる調停作業 これに 秀でているという見方はありますが)。

 命令に関連する主題として 権限を持つということは 民主主義にあっては すべての無差別に平等の存在から 委託されているのだという前提があると考えられます。これが 一点です。もう一点は 平等思想の内容を 人びとすべてにわたって 共通のものにしているか / 要するに価値観ですね これを 皆が共有しているか / しなくてもよいか。こういう前提問題です。ここでは 後者の問題を 問うています。

★ 私にとっては、能力主義は不平等と馴染む概念でこそあれ、平等と結びつけることができません。
☆ とおっしゃることは 上に述べましたわたしの質問趣旨に照らして どういうさらに具体的な中身であるでしょう? 同じでしょうか。やはり土俵とグラウンドとの違いがあるでしょうか? 是非とも お聞きしたいところですが。

お礼日時:2008/08/10 10:16

貴方の注目点に基づいた問題の設定が間違っていると思います。



《買収》とは政治を行うための説得の手段であり、軍事力、文化的に同化、政治制度の移入、経済、結婚、盟約、談合、外交手段、宗教などと同様な説得手段の一つです。民主制、愚民制、独裁制、賢人政治、帝政、封建制、共和制に限らず、どの制度でも、相手国や自分の国民を説得出来れば、上のどれか一つあるはその組み合わせの手段を、どの為政者でも試みてきました。

ですから、江上波夫の、騎馬民族の社会云々の文章が前に書いてあったから、買収が民主制の実現の要件であるとの論理を展開するのは短絡的だと思います。

買収で民主制がうまく行くこともあり、失敗することもある、そして、買収で独裁制がうまく行くこともあり、失敗することもある、と言うことでしょう。

また、Q.3に関しても、企業は利益を上げるのが至上目的ですから、その企業のあり方が民主的であるかどうかは本末転倒です。

利益を挙げるためには、短期的あるいは長期的、それぞれ違った条件で、欧米式の、上意下達方式(上から下方式)か、かつての日本式の、現場の意を上司が承認する方式(下から上方式)か、あるいは、みんな対等な所謂「民主的」な方式(上下なし方式)のどれが、一番良いかを論じるべきだと思います。

私は個人的には、米国のように貧富の差が大きく、はじめから不平等で、命令に従うことに慣れている国民性を持った国では上意下達方式が効率が良く、国民全員ドングリの背比べで平等意識が徹底している日本では、現場の意を上司が承認する方式が効率が良いと思っております。

また、豊かで安定した社会を持続するためには、企業間の競争による緊張が必要条件ですから、従業員民主制をそんな安定した社会で持続するのは無理でしょう。また、競争原理を排除したら、恐ろしい社会が出来てしまうと思います。「必要は発明の母」と言う言葉をご存知でしょう。競争がなく、したがって工夫をする必要がない社会は滅んでしまいます。

民主主義は企業内という狭いところで実現するのではなく、国民の総体的な文化の中で実現するものだと思います。

蛇足:オーストラリアの労働組合の会長がトヨタや日産の幹部と食事をした時の逸話を紹介します。その日本人の幹部のお抱えの運転手が、西洋人では考えられないほどの丁重な態度で自分の上司に深々とお辞儀をしていたのですが、その運転手が他の会社の幹部とはほとんど対等で会話をしていた場面を見て、そのオーストラリア人の幹部は日本の平等社会に感心させられたと言う話を大分前に読んだことがあります。欧米では会社の上下関係がそのまま、人格の優劣に基づいていると考える人が多いのですが、日本の企業内では上下関係とは人格に属するものでなく、機能に属していることに、この会長さんは気が付いたのです。一旦機能に無関係な所に置かれると、日本人は一気に平等を取り戻しているようです。

貴方も、「命令されたらやりたくないが、頼まれてしまったからしょうがない」という日本人には誰でも分かることなのに、そのくせ西洋人には理解出来ない感覚をもっているのではありませんか。

この回答への補足

 cyototuさん ご回答をありがとうございます。

 少し背景を説明します。
 次のような江上の説に短絡的に――事実かどうかを別にして 思弁的に――乗ってみたのです。結論だけになりますが
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 近代を特徴づける民主主義・個人主義・植民地活動・実用的な学問・実験の発達は 本来 遊牧騎馬民族の間にあったものだと思うんです。・・・
 核家族制 契約制 土地よりも人間を問題にする人間主義 能力主義 平等主義 恋愛の謳歌 開拓・植民 知識・情報の愛好などは 早くから騎馬民族を特徴づけたものです。・・・
 動かざる 農耕的な 古代的文明をつくったものと それから 動く 一つ一つは滅びて消えていったけれども それぞれが常にその時代におうじた 騎馬民族的な役割を持ったものと その両者によって世界ができているんだと私は思うわけです。
 (江上波夫vs佐原真:『騎馬民族は来た!?来ない?!』1990 p.115f.)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 日本の民主主義をあつかう場合 どうしても 庶民ともっぱらの公民との二つの世界を問題にしなければならないと 常々考えていますので 思想的な形態として・つまりは生活態度としての類型的なあり方を問うものとして 強引に借りて来たものです。
 そのような乱暴に設定した仮構にわが身をおくとした限りでは たとえば買収にかんして 国家のそれと企業のそれとは それほど 質を異にするとも思えない。その【質問1】では 能力主義にもとづく平等という思想が 買収を 進めると考えられるのに対して 農耕民族としては 企業の歴史にかかわってきた人びとが まづは優先的に 大きな舵取りを決めてしかるべきだと考えるでしょう。能力に応じた平等ではなく あるいは 法律制度優先としての機会均等でもなく 存在無差別の思想に立つでしょう。それでこそ 民主主義だというものです。外からやってくる者は まづは 信頼関係を築くことが 第一だというわけです。
 これらのどちらを 民主主義という主題をめぐって どういう理由で 支持するか これを尋ねています。 

 【質問2】は これを 国家という範囲と内容にまで拡大した場合を尋ねるものです。極論の例をあげれば 例の国譲りについて 現代では 譲り返せという要求が 正当なものであるかどうか などです。

 【質問3】は 両質問を踏まえて 将来のことを尋ねます。焦点は 会社ではたらく人びとの仕事ぶりや協働の関係が それぞれの生活態度にもとづく内容を実現することができるか これです。現在 どうであるかは――それが 考えうる範囲の未来にまで 変わらないという見方の場合を別として―― 無視してしまって 思弁的に夢想的に 考えたなら どうだろうか これです。

 * いくつか例をあげて 現状の実例や分析やまた市場主義経済の原理などなど 詳論してもらっていますが だいたい上のわたしの説明をもって ご返答に代えることができるかと思うのですが いかがでしょう?
 最後の
 ★ 貴方も、「命令されたらやりたくないが、頼まれてしまったからしょうがない」という日本人には誰でも分かることなのに、そのくせ西洋人には理解出来ない感覚をもっているのではありませんか。
 ☆ については おっしゃっている意味がよく飲み込めなかったです。つまり 民主主義と どういう関係にあるかです。

補足日時:2008/08/10 00:30
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