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私の感覚なので、聞き流していただいても結構なのですが、どうも昔から「古典派」作品に対する接し方というのがわかりません。世間ではこれこれの名作があって聴くべきである、という評判の古典派作品が多くあるわけですが、それらから受ける印象は、ことごとく退屈凡庸という印象です。それは、骨董的価値しかないのではないか?現代人の音楽的に肥えた耳にはもう通用しないのではないか?という疑念です。対して、名もない近現代作品がそれに比してなんと色彩豊かで叙情的かつ刺激的音楽的なんだろうと思っています。ただし、機能和声内にとどまっている近現代作品に限るのですが(この辺も私の限界を感じています)たいていの近現代曲はすばらしい哲学と手法に満ちているように聞こえてしまいます。
主に、近代的和性や、楽器の技術的更新によるのだと思います。

この感覚というのを、クラシックを聴く者として特殊と割り切っていいのか、一種の普遍的パターンなのか、それとも是非矯正すべきなのか、どうしたものでしょうか?

A 回答 (20件中1~10件)

またまたこんにちは。


蛇足な回答かもしれませんが。


私がしつこく回答しているのは,質問者さまがおっしゃっている『価値』とは,単に自分の好き嫌いの話なのか,あるいは,客観的・普遍的なことに言及しようとしているのかがよく分かっていないからです。

で,結局まだよく分からないのですが(汗),もしも価値とは好き嫌いのことなのでしたら,こういうことでしょうか。


「私は感動しないものは好きではない」
「私は古典に感動しない」
「したがって,私は古典は好きではない」


ややこしいこと抜きに,自分はあっさりした古典よりももう少し味付けが濃くて複雑なロマン派や近現代ものが好み,でも現代音楽までいくといや,ということならば,比較的よくあるクラシック愛好家の好みの傾向だと思いますし(私もこれに近い),人の好みなんて,たとえ30年変わらなくても明日いきなり変わるかもしれないものですよ・・・というのが,今までの私の回答の要旨です。

逆に,近現代音楽は色彩豊かで叙情的かつ刺激的だから,装飾過剰で感情過多で落ち着かないように感じて感動できない・好きになれない,という方もいらっしゃるでしょうし,クラシック音楽自体に興味がない人も然り。


一方で,もしももう少し客観的・普遍的な意味で価値というモノを考えてみようと思っていらっしゃるのでしたら,自分の主観的な好き嫌いは切り離して考えた方が良いのでは,とも思います。(非常に難しいことですが)
「古典に客観的な価値があるとは思えない。なぜならば,私の主観によれば感覚的に好きになれんから。」というのでは,いかんともしがたく(笑)

私がここでない知恵を絞って書かずとも(書けないから逃げてます,笑),バッハやモーツアルト(もちろんクープランやスカルラッティやシャルパンティエも)の偉大さはあまねく知られているものと思います。(オマージュ作品の数々は,多くの近現代の作曲家もまた古典に価値を見出していたという例として挙げました。オマージュ作品が聴けるなら古典も聴けるでしょ?という意味ではなく)


価値判断の基準は自分の好き嫌いである,と考えますか?
自分が好きではなくても価値があるものが存在するかもしれない,と考えますか?


・・・というのはいささか極端な問いかけではありますが。


---
なお,まったくの余談ながら,#8さま(勝手に引用して申し訳ありません)が挙げたレオンハルト氏やフィッシャー氏は,「古典的な」演奏家だったことをご存知でしょうか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%82%B9% …
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89% …
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この回答へのお礼

はっきり言って、クラシックのカテで質問する問題じゃなかったかもしれません。むしろ心理学かという気もします。確か以前心理学でも似たようなことを質問したことがあるのですが、ちょっと真理の扉が隙間程度開いたくらいで、ほとんど無為に終わりました(回答者さんたちには感謝しますが)

ですが、ここまで来て、いろいろと感性に関しての考察もさせてもらえるような回答も得られたのでかなり満足しております。

古典の普遍的価値観と「私」自身の価値観感性はどう折り合ったら言いのだろうか?という疑問に対して、「普遍的社会認知的」な「古典作品の価値」というものをかいま知って、あるいはその感性はこう考えたらよろしいのではないかという示唆をちょうだいして、あわせて考えれば何かわかってこないだろうかという意図で質問したところが、かなり有用な回答から知識をえせてもらいました。

>自分はあっさりした古典よりももう少し味付けが濃くて複雑なロマン派や近現代ものが好み,でも現代音楽までいくといや,ということならば,比較的よくあるクラシック愛好家の好みの傾向
>近現代音楽は色彩豊かで叙情的かつ刺激的だから,装飾過剰で感情過多で落ち着かないように感じて感動できない・好きになれない

これらの傾向が同居している市場なのだと思いました。この文章はとても納得できました。

お礼日時:2008/12/10 11:00

そもそも「通用する」というのが、どういう状態を指していっているのかがわからない。


また、近現代音楽の哲学と手法と言うのは具体的にどういうことなのだろうか?
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この回答へのお礼

近現代曲にあるような、楽器性能をフルに生かした、音形や技法を盛り込んだ作品←現代的な鑑賞耳に堪えるもの、と言う図式が客観的に成り立つのではないかと感じました。

お礼日時:2008/12/14 10:46

No.18です。


レス拝読。ありがとうございました。
ここで一つ気がかりが生じました。
こちらが取り違えているだけかもしれませんので、そのときは無視してください。
できるだけ要点のみ書きます。

ロマン派の音楽は一言でいって感情移入の音楽です。
作曲家が表出しようとし、演奏家が訴えかけてこようとする音の世界、
これがすなわちロマンティシズム(下欄※〔1〕」を)の発露なんですが、
聴衆はそこを汲み取り、聴きどころとして、感情を共有し、時として圧倒的共感を覚える。

ところがこの鑑賞法を古典派にあてはめようとすると、しばしばうまくいきません。
古典派の音楽は、何らかの思想の表明でもなく、私的感情の表出でもないからです。

ハイドンの音楽がよい例で、そこには世間的葛藤もなければ個人的屈託もありません。
あるとすれば音楽理論、楽曲処理上の葛藤や屈託、そしてそれをどう解決したかでしょう。
音楽に何らかの「私情」を持ちこむことはハイドンには考えられない「事態」だったのではないか。

これはモーツァルトにおいても原則そうだったと思います。
特定の感情の表出ではなく、もっと一般的な、人間としての感情の表出です。
(いま、声楽のことはひとまず措いてください。純粋器楽曲を思い浮かべてください)
このため、ロマン派の音楽を聴きこんだ耳からすると、つるんとして、ありきたりで、とっかかりがないよう聴こえる。

性質の異なるものに、一つの尺度を当てはめようとしても、うまくいかない場合がある、と思います。

私は武満徹の音楽を比較的よく聴きます。
それは一種の標題音楽で、『鳥は星型の庭に降りる』とか『海へ』とか『雨の樹』とか、いわくありげな題名がならんでいます。
作曲者はこれらの言葉を、その曲のいちばん大枠を示しているだけだと説明しています。

私はその題名がもたらす気分をほんの少しだけ気にかけ、あとはその曲に向かいます。
音によって触発されるさまざまなイメージを味わったり(しばしば言葉にならないイメージ、視覚にならないイメージ。漠然としたものです)、音そのものの面白さに気づかされたり。
これらの総体が「武満徹」の音楽なのだろうと。そして時として大きな感銘を覚えることがあります。
ある意味、すこぶる東洋的な体験です。

能楽というものをほとんど何も知ってはいないとあらかじめお断りした上で、
謡のところを今はずして考えると、
それは鼓の音であったり、音程の定まらない能笛のするどい叫びであったり、裂帛のかけ声であったり、演者の踏み鳴らす床板の響きであったりします。そしてそれらさまざまな音の総体は、聴くものをある一定の方向へむかわせようとしており、これはこれで立派な音楽である、と私には思えるのです。西洋の音楽の尺度からはかけ離れた「音楽」ですが。

心臓は、安定した一定のリズムを刻み、意志的に自由には変えられません。
呼吸のリズムはかなり自由に調節でき、間(ま)が生まれ、恣意的です。
どちらのリズムが優れどちらのリズムがより本質的でないか、にわかにはいえないことです。
両方の顔を同時に立てられない以上、とりあえず、それぞれに応じて耳を代えて聴いてみるしかない。
良い悪い、合う合わない、好き嫌いの判断はそのあとのことではないか。

と、以上のようなことを思い浮かべました。
はずれたことを言っているようなら、今回もごめんなさい、です。


 ※〔1〕
では、ロマンティシズムとは何であるかという少々解りにくくて厄介な問題があります。
ここではとりあえず、それは十九世紀西欧であらわになりはじめたさまざまな矛盾・対立や、そこに起因する感情を自己表出しようとする思想運動、またその立場。と、暫定的に定義しておきます。
そしてそれは十九世のみにとどまらない理念として発動してきた、と言えると思います。
「古典派」という呼称そのものが、もともと、ロマン主義の芸術家たちが、自分たちとは異なる古くさいものとして束ね、一括して区別した蔑称です。
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この回答へのお礼

感情移入過多のロマン派というのもひとつの偏向性だと思っています。
今回の、ロマンチシズムと東洋風思想の音楽(武光は何曲か聞いたのですがまったく印象に残らない!というのが私の音楽に求めるスタイルを示してると思いました)についての考察、その通りだと思います。

今回質問したのは、音楽の内容と言うよりも、技法的な方面を多く考えました。そのいわば歴史的に未発達ともいえる(まだ引き出しがそろっていない)時代の古典派の技法による音楽が、現代に耐えうるのか?あるいは普遍的価値を持つのか、と言う疑問でした。

人の音楽に対するスタイル偏向性はそれぞれですが、なにか客観的基準や評価と言うものがもしかして存在するのではないか。とくに西洋伝統音楽(今で言うクラシック)には、これこれこういうもの(技法、精神性など)が満たされていると、至極現代的であり、最も充実したものだというような解釈があってもおかしくないだろうと思ったわけです。

お礼日時:2008/12/14 10:45

ほかの回答者の方々の書きこみは拾い読みした程度で、重複なり齟齬なりがあるかもしれません。


他意はないということをちょこっと最初にお断りしておいて、いま一度ご質問文を読んでみますと、

古典派(ウィーン古典派のことだと思います。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンあたり)
と、
ロマン派、特に後期ロマン派(ブラームス、ワーグナー、ブルックナーあたり)及び
その後継者・同時代者(マーラー、R.シュトラウス、各国の国民学派の音楽家たち)
また、そこを淵源とする一連の現代のいわゆるポピュラー音楽
との二つを較べると、
古典派の音楽は単純でつまらない。骨董品のように聴こえる。
この感性はおかしいのだろうか、と問いかけてらっしゃるのですね。わかりにくいですが。

これはなんともいえないと思います。


たとえばベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲群は前人未到の音楽的境地を切りひらいた、と高く称揚する人があります。
ところがその技術的な面、楽譜に書かれていることや実際に演奏を聴いても、新しいことは何も起きていない。
なぜならベートーヴェンのもたらした音楽的な富はのちの作曲家たちによって、くまなく吸収されてしまったから。
けれども、すぐれた演奏家(彼らも音楽の創造者です)によって弾かれた彼の音楽は、まさに彼の音楽としか言いようがない。まさにそれは前人未到であり、おそらく空前絶後の音楽なんでしょう。(わたしがそこまで聞き分ける耳を持っていないのが残念です)

モーツァルトになると、このことがもっとはっきりするように思われます。
彼は音楽的には新しいものは何も「発明」しなかった。当時最新のものは貪欲なまでに自身の音楽に取り入れたが、彼自身は何も新しいものは生み出さなかった、と言われています。

けれども、どんな小品、一分で終わるような短いものでも、ごく子供のときにつくったピアノ曲であろうと、モーツァルトらしさに溢れている。
そこには新しいものなど何もないのに、まさにモーツァルトの音楽としか言いようがない。
しかもそこのところをまねようにも、まねのしようすらない云々。
これはちょっと信じがたいことです。

モーツァルトの音楽が好きで好きでたまらない、死ぬほど好きだという人たちのあいだで、あるまことしやかな噂があって、実は彼は悪魔から派遣されてきたのだというのです。
悪魔が人間を破滅させるために彼をこの世へ送ってきた。そしてその目的どおり、今でも多くの人が魂を奪われている、と。
たしかに彼の音楽にはそれほどの力があり、こんな甘美なものと引き換えなら自分の薄汚れた魂など悪魔にくれてやる、と叫ぶ犠牲者があとを絶たないとか。(笑)

一度このように胸の鍵を開けられてしまった人にとっては、それは古典派であろうとロマン派であろうと、あるいはクラシックであろうとなかろうと、そうしたジャンル分けはどうでもいいことになります。
その音楽はそれ全体が、そしてそれ全体のみが絶対的価値を持つことになります。


ところで一方、音楽はそうしたもののみでできているわけでもありません。
まさに現代に到って、現代だけが聴ける、いま生きているわれわれの耳にいちばんぴったりだと思われる音楽こそ現代の音楽である、それに魅了される。という立場があって当然いいわけです。

どちらの足にシフトを置くか、ではないでしょうか。
どちらがどうともいえない。特に趣味として音楽を弾き、音楽を聴くものにとっては。

構造主義以降のことなのか、ポスト・モダンが行き渡ったためなのか、わたしにはそんな区別もつきませんが、
現代は、絶対的価値観が信じられない時代です。
かつては唯一至高の価値とはこうである、と傲然と言い放って背筋を伸ばしておけばよかったことが誰にも信じられなくなってきた。価値はすべて相対化される。

「その人にとって面白いもの」「ひとそれぞれである」以上の価値を主張できず、また見出すことができない。
この個人的価値観の設定そのものが、新たな価値観の押しつけ、傲慢さの端緒であることに気づきながら。
そうして今もって誰かによって絶対的なものを指し示してもらえればと、皆でひそかに期待しあいながら。
そんな時代なのではないでしょうか。

(初からご質問の趣旨をはずしている可能性があります。そのときはごめんなさい。)

 ※

本文中で触れられなかったフランスの音楽、フォーレやドビュッシーやラヴェルの音楽は、
十九世紀末に圧倒的優位になったドイツ音楽、特にワーグナー、なかんずく『トリスタンとイゾルデ』によってフランス中が席巻され自国の音楽が聞こえなくなったとき、その危機感のなかから生まれてきたという側面があると個人的にですが認識しています(特に調べて確認しているわけではありません)。
これはこれで大きな果実が実ったというべきでしょうね。
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この回答へのお礼

ご丁寧なご回答ありがとうございます。
もっともだと思いました。

ベートーヴェンやモーツアルトの例で、特にベートーヴェンは「当時としては」斬新で未踏の音楽的境地を切り開いた、しかし、「現在」はそのことは歴史的価値にとどまっている。その「当時」のすごさを現在に感じることができる、いわば「古典化」された感性を持つ人がいる(もちろん、同時に近現代作品には「近代化」された感性をも働かせる人もいるのかもしれない)モーツアルトについては、私はなぜあれが「悪魔の」などという挿話が生まれるのかわからないし、ちっとも彼の音楽が魅惑に満ちているとは感じません。なんというか、あまりに濁りがなさ過ぎる、これでは芸術ではないのではないか?と言う印象でしょうか。
言葉は悪いですが、モーツアルト以外の作品を聴けるならば悪魔に魂を売ってやることもあるかもしれません。で、このモーツアルトに魅せられる人はやはり「古典的」感性を現代からシフトさせて働かせることができる人なのかもしれない。

私は、こういう芸当はできないようです。すでに私の感性が「現代的」に侵されているからでしょう。

そして、世の中は相対価値的であり、悪い意味でいい意味でか、民主主義の跋扈です。でも、この民主論的議論の中にはどうも空疎なところがあって、それは
「はたして、いま「音楽の感動」と言うようなことについて、各々主体的個人が語っているのだが、それは各人が比較可能な同じものを概念化しているのだろうか?それとも「感動」という言葉は、各人の中で好きなように変容されてしまっているのだろうか?」
という尽きない疑問、個人は個人でしか生きられないと言う制約の中の相対論と言うことになります。
これが、一言「感動」とは言うけれども、さっぱり埒が明かないものになってしまっている。そういう空虚さがあると思います。
もちろん、絶対制がよりベターと言うことはないでしょうが、それぞれ長短はあるものでしょう。

なお、フランス近代音楽については、音楽を最も洗練させた作用があったのではと思っています。

お礼日時:2008/12/12 00:08

No4です。



>和声が素朴すぎる、大体先読みができてしまう

生憎、僕にとっては「和声が凝っているかどうか」は音楽を聴く上で
そんなに重要なことでは無いのでなんとも言えないです。
「和声が素朴すぎて先が予想できてしまう」
のなら、わざわざ和声にこだわって聴くよりも、例えば
「各声部がどう動いているか」
に耳を向けてみるのもいいのではないでしょうか。
そうしてみると、過度に分かりやすい作品ばかり、という印象が
なくなる可能性もあるのでは。
古典派って和声よりもアンサンブルを重視して聴いた方が楽しめると思いますよ。

>不思議なのは、古典的な素朴な和性も好きで、現代的な複雑みのあるものも好きだという方の感性

多分、僕はその範疇に入るかもしれません。
(とはいえ、「12音音楽」や「実験音楽」は好きではないですが。)
前述のとおり、僕は和声よりは声部進行の方に耳が反応するタイプの人間なので、
時代別の好き嫌いというのはあまりありません。
それに、音楽的手法や理論なんてのは時代の流れの中で
流行ったり廃れたりするものですから、
一方的な進歩史観だけでは説明できないんじゃないでしょうか?

>それら(ロックポピュラーフュージョン)を差し置いて、古典の価値観が普遍的なのかですね。

古典の価値観が普遍的なのではなくて、
古典の中にも普遍的な価値を持つ作品が存在し得るにすぎない
のだと思いますよ。
普遍的に言えることなんて
「才能豊かな人物はどの時代にもいた」
ってことくらいではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
もしかすると、「和声重視」派と「声部進行(旋律?)視」派とがいるのかもしれないですね。聞こえ方は百人百様だと思うので。そうすると、当然近代も古典もあまり差がないのかもしれないですね。私は劇差を感じます。それから、気づく大きな違いとしては、「持続音の美観」のようなものがあるかどうかもあります。近現代は楽器の音色そのものを前面に出すということを当然やってきます。
理論はやはり新しいものが包括されているんじゃないのでしょうか。その中でどういう手法が支配的なのかという流行廃りのようなものがあるのでしょう。もしかするとまたシンプリシティーに移行するかもしれません。

お礼日時:2008/12/11 20:39

貴方のクラシックに対する情熱は素晴らしいと思います。

知識も豊富ですし 頭の良い方なのだと感じます。
私は頭も良くないし 知識も豊富ではありません。又感性に合わない事を そこまで深く掘り下げて考える能力もありません。単純・単細胞体質なので 古典と相性が良いのでしょう(笑)
お返事を拝見して 古典のシンプルさに感動できない事に 本当に拘っていらっしゃるのだな…と感じました。そのお気持ちは純粋なものなのに 一方では古典を『骨董・ガラクタ』と称される。残念です。余談ですが(クラシックとは縁のない話しで申し訳ない)私の母は いわゆる浪花節が好きです。私には理解の範疇を越えた世界で 良さが全くわかりません。ですが 浪花節を『骨董・ガラクタ』とは少しも感じません。
今存在する全てのものには それぞれ存在価値があるのでは? 少なくとも何かに対して 一人でも存在価値を感じるのであれば 尊重すべきだと思うのですが。
お説教臭くなり申し訳ありません。私は貴方のクラシックに対する情熱が羨ましいです。是非とも屈折する事なく 純粋に音楽を愛し続けて頂きたい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。大変納得できます。
「骨董的」というのは、希少価値があり歴史的重みがあり、鑑賞するにはもってこいのものだという意味合いで使ったのですが、言い換えればそれは、もはや現代のニーズに対応できない、ということでもあります。だから、両方感動できる人っていうのが、クラシック通としてすばらしいわけです。その片鱗も私にはないのが悔しいところであり、またできればそのメカニズムを納得したいと思ったのですけど。
浪花節はまた貴重な文化遺産ですよね。しかしやはり実用の道具から退いてしまっているんですよね。

お礼日時:2008/12/11 20:30

モーツァルトやベートーヴェンのような音楽を聴いても、私も感動するどころか退屈してしまいます。

そんな退屈する音楽を世間的に名作とされているものだから崇めろといわれても、私は到底そういう気にはなれません。(むしろ殺意すら覚えます。)
古典派作品は、どれもワンパターンで、ルーティンな量産品の音楽という感じが抜けませんし、ベートーヴェンの曲にいたっては、説教じみていて不快であり、二度と聞きたいと思えません。
そして、こういう音楽を聴く人たちも、頭が硬く、融通がきかないという特性を持っており、自分の価値観が正しいと思い込んでいるように思います。
クラシック音楽というジャンル自体も、死んでしまった作曲家の作品を繰り返し演奏することで金儲けをしており、何の創造性もないジャンルですね。
私たちは、こんなクラシック音楽というものにいつ決別するのでしょうか。

私は、このような進歩のないジャンルから距離をとることをお勧めします。
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この回答へのお礼

そうですか。私もそんな感じですね。ただ、ああいい曲はそれなりにいいじゃないか、と思えることもあります。
ふと、ここまで来て気づいたしいい足りなかったと思ったのは、「ドイツ的感性」というものに対してあまり親和性がなかった、と思われます。それと、古典というものの概念がかなりダブっている。古典でも、イタリア中心のラテン的感性に関しては、かなり違った印象があります。それはもっと親和的になれるのです。つまり、「古典」「ゲルマン的」というものが結びついてしまっている気がします。

この2つが結びついたものは、やはり、ルーティーン的で説教的であるという感じオーバーラップしてしまう。そこで拒否感が起こるのですね。もっとも、それから外れたドイツ的なものも多く存在すると思っています。すべては融合物ですからね、何が支配的であるかという割合の問題です。ドイツ音楽に影響を受けないフランス音楽はあまりないでしょう。

で、私自身も頭固く意固地だと自認しているのですが。違いますかねw
クラシック市場はまさに「死んだ作曲家の作品を繰り返し再現することで金儲け」するところです。何の発展性があるんでしょうね?

でも、決別するのは惜しい。もう今はなしえなくなってしまった秘宝もいっぱい詰まっているからです。それはまばゆいばかりの極上の世界です。

お礼日時:2008/12/10 10:52

質問者さんの感覚には、とても共感いたします。


バッハに端を発するバロック・古典音楽が全ての基本であり、これが分からないものはクラシックを理解できないとする風潮は、全て日本の音楽教育の功罪だと思っています。
バッハ以前は未完成の時代であり、バッハからベートーヴェンあたりまでを全ての音楽の基本とする姿勢は、音楽教育上、解説をやりやすくするために便宜的に作り上げた解釈に過ぎません。

フランス音楽を注意深く研究すれば分かることですが、とくにラヴェル・フォーレなんかは、バッハ流のスタイルから離れフランス流のスタイルを確立させるために、バッハ以前の、マショーやデュファイら中世フランスのスタイルを研究の上、それらを発展させた音楽を構築しています。
ご存知かもしれませんが、バッハ以前の音楽を聴けば、フランス印象派や近・現代音楽にも通じる響きや構成が数多く発見され、驚いてしまいます。
もし、このような音楽を教科書に取り入れてしまうと、まるでオーパーツのようで解説が非常にむずかしくなってしまうのは明白です。
よって分かりやすくするため、バッハ以前は未完成の音楽だとして、音楽史、というくくりに入れる必要があるわけですね。
多くの人はその教育を、気づかないまま常識のようにとらえてしまうため、現代の日本のポップスなんかはどうしてもバッハ以降のドイツ音楽のスタイルが色濃く反映されていますね。

また、日本は、戦前の音楽教育のスタイルがけっこうそのまま残っているため、同盟国(ドイツ・イタリア)の音楽を至上のものとし、当時の敵国(フランス・アメリカなど)の音楽に関してはあまり取り上げない風潮が強いと思います。

海外にいけば、クラシックといえばもっぱらラヴェルやストラヴィンスキーが人気を博しており、バッハやベートーヴェンが好きなどと言えば、マニアかと言われることもあるそうですよ。
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この回答へのお礼

学問的体系のために、フランス中心の考えや中世的音楽が切り捨てられたという粗雑なことが行われていたのですね。さもありなんと思いますよ。そんなことって、学問界にはつきものですからね。他にも考古学や地質学で意固地さが発展を妨げた経緯もありました。
「学問」って言ってもどこまで看板に足るものなんだか。お答えいただいて、ありがたく、その不信感がまた募った感じです。もっと賢くなれました。

それにしても、バッハ以前の中世的なものにフランス音楽は志向していたということは初耳です。中世モード進行っていうのはありますけど、もっと伝統的に違うところに根ざすところがあったというご見解、大変教養を深めさせてもらいました。

ポップスでも、バッハ的ドイツ的な流れが、そんな教育的なところから発してしまっているとしたら、なんとも悲劇的ですね。シャンソンぐらいしか全面的な志向性というのが味わえないのか?となってしまいます。ちょっと思いついたのですが「ノルウェーの森」なんていう曲は多分に中世的でないでしょうかね。

しかし、戦前の敵国がいまだに影響力を与え続けているという事態は異常な気がします。何でこんなに意固地なんでしょうね。

海外、おそらく欧米圏だと思うのですが、やはり、西欧人というのはダイナミックなものを好むんじゃないでしょうか。野性とリズム感を求めるとしたら、当然新しいところに行ってしまうでしょうね。

お礼日時:2008/12/10 10:44

誠に失礼ながら私もNO.11の方と同じような印象を貴方から受けます。

初めの質問文を拝見した時から ??という感じでしたが これまでの質問と回答のやりとりを読ませて頂いて 貴方が本当に古典派音楽を受け入れる感性とはが持てない事を 純粋に悩んでいらっしゃるのではなく ご自分が受け入れられない古典派音楽を 『至極劣ったもの』と位置付け 逆に古典派を 愛好する人々に問題がある事を誇示したいような印象を持ちます。古典派音楽を凡庸退屈と感じられる感性を 私はおかしいと思いませんし 貴方の感性が劣っているとも思いません。感性を理論で ましてこのようなサイト上の文章で議論する事は 非常に難しいと思います。私は旋律的短音階を聴いただけで 涙が出るほど魂が震える感覚になる事があります。…と伝えた所で 理解して頂けますか?感性とは本来そういうもので 理屈 理論ではないと私は思います。
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この回答へのお礼

その印象はあながち間違っていないですね。しかし純粋な疑問もあり、どうしてこういう音楽がいいのだろう?もっと豊かな響きってあるのに?という感覚で、また、私のそのシンプルに心打たれない意固地さに対して自己否定するところがあると書いたのは偽らざる感覚です。つまり、感性と理論はどこで組み合わせられるのだろう?という疑問です。そこまでの曖昧模糊とした感性論になりますと、いつもここのサイトでは紛糾するだけで終わってしまうという繰り返しなのは重々承知していますけども、疑問が深いですね。

旋律的短音階で感動するのはわかります。それが和声的短音階と対比されたものであるということなら、なおわかります。

お礼日時:2008/12/10 10:25

No.5です。


う~~ん。
勿論、好みや好きずきはありますが、貴方の文章で気になるのは、「音楽というものは科学技術と同様に進歩しており、古典は音楽というのは、古くさい劣ったものである」という発想が見え隠れする所なんですよ。
音楽って、変化し、多様性を持ってきていますが、進歩したのでは無いような気が僕はします。

古典派はおろか、バッハを否定する大作曲家って19世紀にも20世紀にもいないですよね。
ある種のジャズの音の動きの背景には、バッハの音が間違いなくあるし、ピアソラのバンドネオンコンチェルトの伴奏部なんてバッハそのもの。

僕の間接的な師匠筋にあたる、青木十良先生の最近(もう90才なんですが…)のバッハの無伴奏チェロ組曲5番6番のCDなんかを聴いても、めちゃくちゃ凄い音楽なわけです。

非常に失礼ながら、聴く能力と技術が劣った人間が、古典派を劣った音楽であるかのように考えるって、不遜としかいいようが無いんじゃないですかねぇ。
まあ、何も知らない若僧って、かわゆいとも思えますが♪(笑)

感動ですか、、、、。
モーツアルトはホルン協奏曲で、聴く人の魂を揺さぶってやろうとは考えなかったはずですし、ハイドンもトランペット協商曲で、聴衆を泣かせてやろうとは思わなかったことは聴けばわかるんじゃないですかねぇ。
心地よい、、、音楽♪

まあ、「わからない」とか「知的に劣っていて進歩しない」っていうのは、こういう事なんだろうなぁ、、、と感じました♪
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この回答へのお礼

私は音楽に「感動」を求めていて、知的慰めとか理屈の悦びとかを期待していないのです。だから、聴くスタンスや音楽とのかかわりが、一般的な人と違うのかもしれませんね。もちろん、バッハモーツアルトが、20世紀の作曲家にとっても大きな影響力や、尊敬を与えていたことはわかります。

あくまで、学問的な話しでなく、叙情的に「古典に感動できない」という私の間隔を動考えるべきだろうか?という疑問を投げかけさせてもらっております。

お礼日時:2008/12/09 17:57

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