![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/pc/qa/question_title.png?5a7ff87)
私の感覚なので、聞き流していただいても結構なのですが、どうも昔から「古典派」作品に対する接し方というのがわかりません。世間ではこれこれの名作があって聴くべきである、という評判の古典派作品が多くあるわけですが、それらから受ける印象は、ことごとく退屈凡庸という印象です。それは、骨董的価値しかないのではないか?現代人の音楽的に肥えた耳にはもう通用しないのではないか?という疑念です。対して、名もない近現代作品がそれに比してなんと色彩豊かで叙情的かつ刺激的音楽的なんだろうと思っています。ただし、機能和声内にとどまっている近現代作品に限るのですが(この辺も私の限界を感じています)たいていの近現代曲はすばらしい哲学と手法に満ちているように聞こえてしまいます。
主に、近代的和性や、楽器の技術的更新によるのだと思います。
この感覚というのを、クラシックを聴く者として特殊と割り切っていいのか、一種の普遍的パターンなのか、それとも是非矯正すべきなのか、どうしたものでしょうか?
No.10
- 回答日時:
再びこんにちは。
連続性,とおっしゃっていますが,例えば,ショパンやブラームスがOKならシューマンにも共通項があって,そこからベートーヴェン⇒ハイドン(&モーツアルト)にそれなりの連続性をもってさかのぼることができます。
他にも,マーラーやワーグナーからはリスト・ウェーバー・ベルリオーズに,レスピーギがいけるならロッシーニも。
ブルックナーの響きがシューベルトの中にあってさらにモーツアルトにたどれたりとか。
ストラヴィンスキーのバレエ「プルチネルラ」はイタリアバロックの作曲家ペルゴレージの作品が元ネタ。
他にも,ラヴェル「クープランの墓」,プーランク「フランス組曲」,レスピーギ「ロッシニアーナ」「風変わりな店」などなど,古典(古典派,という意味ではなく)へのオマージュである近現代の作品は多数あります。彼らはなぜ古典の作品たちに敬意を払っていたのでしょうか。
また,逆方向に見れば,無調はその他前衛的な現代音楽の多くも,古典の音楽原理があちこちに活かされており,これらとて,古典との間に完全な断絶があるわけではありません。
・・・と,くどくどと例示して申し訳ありませんでしたが,西洋芸術音楽という大きな体系の中には,不連続な点は基本的にはどこにもなくて,大きくみればひとつの連続体としてつながっていると思っています。モーツアルトだってセブンスやディミニッシュや不協和音を使うし,近現代音楽も古典派で確立された「お約束」に従う部分があるからこそ質問者さまが共感できているのではないでしょうか。
ここで言葉で聞いても実感はないと思いますが,近現代の調性音楽に共感する感受性があるということは,古典派に(あるいは,無調の現代音楽・前衛音楽にも)共感する素地はある,ということだと思いますよ。
トロが好きっていうことは,脂身と赤身両方のおいしさを知っている,ということですよね。ならば,いつか赤身だけ食べられるよう日が来ても,何ら不思議ではないでしょう。
*もちろん,そういう日が来なくたって,一人の聴き手のあり方としてはまったく構わないと思いますが。「オレはトロしか食べない!」というのに何の遠慮がありましょうや(笑)。
最後に,
> これからもおそらく無理な気がします。
の「おそらく~な気がします」という表現を大切にしていただきたいな,というのを私からのアドバイスとさせていただきたく。
連続性はあることは承知していて、私個人的な雑感というか印象として「どうも断絶している」と思うまでです。もちろんバッハモーツアルトの中に、現代商業音楽ジャズポップスの要素を探すことはいくらでも可能でしょうね。
ただ、あくまで、「感覚的に好きになれんよ」という状態を動考えたらよろしいのか?と思ったしだいです。
ご趣旨はまったくもっともで、どこにも問題はなく納得するしだいです。もっとも古典派へのオマージュ作品は、あくまで「オマージュ」であってそれを現代風に味付けしなおしが多い、というか、それでないと20世紀前半に作られたとしたら、その時代の材料テクニックを使わないと話にならない、というか作曲家の価値がないということになります。これは「古典的様式」の反語的なものがあるのではないでしょうかね。そういう気が、新しいオマージュ作品ではします。
私の場合どうも、古典派の響きへの反感が、かえって近現代の響きへの郷愁や感動に誘う、という感覚がある気がします。つまり、カレーの辛さを引き立てるために、甘みを加えたりするように。
No.9
- 回答日時:
私も古典派作品はつまらないとおもいます。
garcon2000さんがおっしゃるように、古典作品は凡庸退屈なものなのですが、それは使い古された和声や対位法の技法を何度も何度も再利用しているがゆえのことであり、技術的更新に全く寄与していない以上、人類の進歩にとって後退的な意味しか持ち得ません。
こうした骨董的価値(本来はガタクタ的価値というべきかもしれませんが、garcon2000さんは遠慮してこういう表現を使っているのでしょう。)しか持たない作品を御生大事に崇め奉り、絶対的価値を有するものとしてしがみついている大衆や演奏家たちのあり方も問題であり、こうした古典派作品を取り上げること自体が、価値の更新を大きく妨げる要因となっていることも指摘しなければならないでしょう。機能和声と言う古いシステムにいつまでもしがみついている限り、価値観の転換や更新は望めず、そうした価値更新の放棄は人間の進歩性の否定を意味することでしょう。
古典派作品は、現代人にとって賞味期限切れの音楽であり、本来既に廃棄されているはずの作品です。それを歴史性だの聴衆のニーズだのといいながら、未だに捨てられずにいる。古典派作品について「名作であって、聴くべきである」などという紋切り型の文言で守り通そうとする人たちは、哀れであり、滑稽ですらあると思います。
この回答への補足
なお私は、現代作品の無調にはあまり感動を得られないでいます。赤みよりはトロがいいけど、あまりに脂身ばっかりだとこれまたダメといった感じで。つまり、19世紀後半から20世紀前半、そこから抽出され発展させられた現代ポップスというところに一番の感性ピークが圧倒的です。
補足日時:2008/12/08 21:45そうですか!同士がいて助かります。
音楽を時系列的に俯瞰すると、どうしても現代的感覚とあったところ、連続性を感じられるところは、19世紀半ばからです。私が挙げられる卑近な例から言えば、ショパンからです。
古典は、それが学問的に面白く見識豊かに聴ける人にとっては「骨董的」といってもいいかと思います。私にはその素養がないですから、ガタクタ的と言ってはばかりません。
しかし、どうして人々がこの古い形式素朴さに感動できるのだろうか?というのが不思議なのです。その感動っていうのは、私が使う感動とは違う意味なのか?私は、(近代以降の)音楽の深い色合いに出会って、その生き物無用な美しさに圧倒され魂を奪われてしまう、という感じなのです。古典をいいという人は、こういう種類の感動を求めているわけではないからか?
賞味期限切れだと感じてしまうのです。今、商業音楽で最前線を行くには、古典じゃダメなはずですからね。現代の味覚は江戸時代料理とか言ってもはやらないでしょう。
このクラシック界の傾向というものに疑念を持たざるをえないでいます。
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No.8
- 回答日時:
こんにちは。
御質問が出てから、つらつら考えていたのですが、探していた本が出てきたので、ドシロウトの思いを書かせてください。
10年以上前になりますが、グスタフ・レオンハルトが雑誌のインタヴューで
「誰にでも理解され、広く聞かれているポップ・ミュージックは18世紀音楽の再生産だ。そこには19世紀音楽のかけらもない。人間は18世紀音楽を理解する耳を持って生れてくるのだ」
と断言していました。突っ込みどころはありますが、面白い発言だと感じました。
さてその後エドヴィン・フィッシャーの著書を読んだところ、古典派への転換期に言及して
「原音のなかにはその倍音のオクターヴ、五度、三度がすでに存在しているから・・・あらゆる和音はそれぞれ一つの和音を従えている・・・。この三和音、この和声は自然によって与えられたものであり、・・・・音楽的な素人がこのような性質の音楽を、入り組んだ多声音楽よりもよく、また、より容易に受け容れることは明らかだ」
との記述が(「音楽観想」みすず書房)。
う~ん。やっぱり古典派は「(ドレミ文化の中にいれば)誰にでもわかる音楽」なのかも知れません。
だから、もし質問者さまが「誰にでもわかる音楽など、愛せない!」という若々しい自負心をお持ちの方なら、そのあたりに古典派音楽との相性の悪さが存在するのかもしれません。老い(!)が耳と心に柔軟性を与える日まで古典派音楽の楽しみは取っておかれてはいかがですか?
ちなみにフィッシャーはこの後、
「しかし、純粋に和声的な思考と垂直的な聴覚からは、ドミナントとトニカ、緊張と弛緩との一面的な交替が発展し、それらの単純素朴さがついには音楽に対して専制権を振うにいたった・・・・リズムの多様さは、しだいに規則性に、いや四小節楽節の独裁に屈服し後退するようになった」
と(才能のない)多くの作曲家をボロクソに言っています。
同じ形式の中にあっても、こうした「形式の奴隷」になるのか、「形式の主人」となれるのか・・・・言うは易し、行うは大変大変難し、な時代ですね。
これです!このお答えを待っていました!私が知りたいのはこういうことだったんです。
つまり、現代に寄与している、あるいは流行の歌、ベストセラーのようなポップスは「18世紀的である」つまり、「19世紀」でない。私はもちろん、現代のセラー的なわかりやすい曲が苦手で、こちらも価値をわからないでいます。そして、決してベストセラーにならない、マイナーなポップスに非常に曲として凝ったものがあり、こちらの価値のほうを何倍も評価する傾向にあります。
そして、自然倍音の3和音が支配的で、ポピュラーの言い方で言えば、マイナー7、メジャー7、ディミニッシュ、テンション、増5、減5和音、その多様な響きがないところの素朴さになにか非常な抵抗感があります。アレルギーといってもいいくらいなものです。
わかるから嫌いとか言うのでなく、わかろうとわかるまいと、頭が体が受け付けないという感じなのです。この先天的体質?は不変なのではないでしょうか?またどうして私の感性が、わかりやすい素朴さを拒否するのか、精神分析でもやらないとおぼろげにもわかりません。
形式の主人ではあっても、めったにその雇い先には赴かないと思います。
No.7
- 回答日時:
こんにちは。
20年くらい前には質問者さまと同じような感じだった私ですが,今は古典も好きです。
古典がダメ,というのが普遍的なパターンかどうかは存じませんが(少なくとも私はそうでしたが),好みに合う音楽と合わない音楽があるのは,もちろん誰にでもあることだと思います。
私の場合,何か特定のきっかけがあったか,あるいは,何か特別な努力をしたか,と聞かれてもお答えのしようがありません(笑)。
強いて言えば,「良さが分からない音楽は聴く必要なし」と投げ出さなかったくらいでしょうか。
良さが感じられないときに理屈で無理にそれを理解することはできませんし,感覚としてよさが分かったときには(聴く限りにおいては)すでに理屈はどうでもいいともいえるので,今のところは,古典の音楽も自分の感性も否定しないで,適度な距離感でお付き合いしておくくらいがよろしいかと思います。
私はかれこれ30年くらいこの傾向を抜けられないでいます。クラシックを聞く前にどうもとっつきにくいしあまり聞きたくないなーと思っていたのは、どうしてもモーツアルトベートーベンバッハの固い響き構成あるいは澄みすぎる和性への抵抗があったからです。で、もっと新しいクラシックを聞いた時「これは!」と思ったわけです。ロマン派からすんなりと抵抗感がなくなり、近現代で決定的でしたね。これからもおそらく無理な気がします。
No.6
- 回答日時:
クラシック音楽もCDなどの音楽メディアの影響を無視できません。
全てのファンが生の演奏会に足を運べないので、自ずとCD、
昔ならSP、LP、テープ、FM放送などの媒体を通じて音楽に
接するわけです。質問者様が近現代の音楽が琴線に触れるような
ことを書いておられましたが、今はそのような音楽がCDで入手
可能になっています。少量のプレスが可能だから、大メーカーで
なくとも販売できるのです。昔はある程度の量が捌けなければ販売
出来なかったので、有名な、売れそうなアルバムしか製作されません
でした。SP時代は短い曲しか収録できず、長い曲はアレンジも
されました。そのような曲を聴いていたのです。
LPになりステレオになって、オーディオ向きの曲が製作されました。
CDになり長い曲、ダイナミックレンジの大きな曲が人気になりました。
近現代曲も我々の前に現れてきました。質問者様がそれらを素晴らしい
と思い、古典の曲に感動しないのも、音楽の聴き方の違いだと
思いますので、これからもその方向で進んでいけば良いのでは
ないでしょうか?どのへんまでの曲を聴いているのでしょうか、
私も興味があります。
メディアと不可分の関係にありますよね。なので、時代次代によって好まれる曲も違ってくるし、発信側からもいろいろな条件があって、その組み合わせで人の感性も多少左右されることでしょう。
私は、古典古典した硬い和性と現代の無調の間にある、ちょうど油の乗ったところしか音楽のすばらしさを感知できないという感性を克服できないでいます。あとは、その辺から抽出された、現代アレンジ商業音楽でしょうかね。
No.5
- 回答日時:
アマチュアのチェロプレーヤーです。
僕にとって音楽は聴くものである以上に、自分自身で演奏し、表現にチャレンジするものです。
そういうスタンスで音楽に関わっている人間にとって、古典派の楽曲というのは、レパートリーから外せないものですし、そういう「耳」で聴くことになります。
大学オーケストラで、シンフォニーの構造を身をもって理解するために、現在ではほとんど演奏されないハイドンのシンフォニー(まあ、ザロモン・セットですが)を弾くことで、「あ~~音楽ってこういう構造から組上げられたんだ…」という感覚を得る。
ベートーベンのシンフォニー1番を演奏してみると、3番、5番、7番、9番の違った「音」が聴くことができる。
その上で、ブラームスの1番を聴けば、違った感慨が生まれる。
音楽って、それを聴く人間の「聴く能力と技術」によって、全く違った曲を聴いているのだと思います。
ですから、ハイドン、モーツアルト、ベートーベンを聴いて何も感じないと言うことは、彼等の音楽をきちんと聴く事が出来る「能力」と「技術」を身につけていないだけなのだと僕は思います。
僕が今現在一番関心があり好きな作曲家はショスタコーヴィッチですが、彼のピアノ五重奏曲が天上の音楽に聞こえる能力と技術を身につけるまでには、随分と長い年月が必要でした。
古伊万里をわかるには、審美眼を磨く修行が必要です。
クラシック音楽の狭義の対象である古典派音楽もまた、同じなんじゃないですかねぇ。
能力と技術を身につけた物にしかわからないから、価値がある。
当たり前でしょ?
サッカーのプロは、アマチュアの僕達とは、全く違うサッカーが見えてしまっているはず。
音楽だって同じです。
おっしゃることはよくわかります。勉強のためにはどうしても古典が必要だし有意義です。その伝統の上に現代があるわけですから。しかし、どうしても感動に行き着けないですね。古典にはどうしても限界があると感じられてしまう。それはどういう学問でも一緒ですよね。芸術も冷害ではないのではないかと。もちろん古代建築などのすばらしさというのはありますが、やはり、使い物になるかというと疑問なわけです。
回答者さんのような、自在に変動できる感性というものを持ちたいと思うしだいです。
No.4
- 回答日時:
うーむ。
ご自分の感覚に合わない音楽をわざわざ聴く必要はないのではないでしょうか。
もちろん、幅広く聴けた方が楽しみは増えるのですが、
無理に好きになろうとするのは本末転倒な感じもします。
ただ、「なぜ古典派の作品が好きでないか」を考えること自体は有意義なことだと思います。
(質問者さまは古典派作品の魅力も知ってみたいと思っていらっしゃるように見えますので)
>骨董的価値しかないのではないか
これは各個人ごとに感じ方が違うでしょうから、なんとも言えないですね。
僕なんかは古典派の音楽は大好きですし、古びていると感じることも無いですよ。
ベタですが、ブリュッヘン/18世紀オケのモーツァルトやハイドンやベートーヴェンにはいつも
興奮させられますし、その音楽の精緻さにも惚れ惚れしてしまいます。
>現代人の音楽的に肥えた耳にはもう通用しないのではないか
これも一概には言えないと思います。
有名無名を問わず、いつの時代にも優れた音楽家は存在していましたから、
質問者さまのおっしゃる「名もない近現代作品」も実際に素晴らしい作品なのかもしれません。
しかし、
はたして現代人は過去の人間に比して「耳が肥えている」と言えるのか?
もしかしたら効果や刺激に慣らされているだけなのではないか?
…ということを考えてみるのもいいかもしれませんね。
古典派の作曲家はだいたい19世紀の間に忘れられ、20世紀になって復活してきたケースがほとんどです。
ですから、決して権威主義的な名声だけで「素晴らしい」と言われているワケではない、
ということは知っておいてもらいたいと思います。
駄文失礼しました。
参考になれば幸いです。
なぜ好きでないのか、大体理由はわかっていて、和性が素朴すぎる、大体先読みができてしまう、というところでしょうかね。つまり、「わかりやすい」?それが過度です。で、現代作品になると、これが行き過ぎてしまう。つまり、ちょうど赤みでありトロであるところしか食べられないという守備範囲に問題があるような気がします。
不思議なのは、古典的な素朴な和性も好きで、現代的な複雑みのあるものも好きだという方の感性です。どうして、これほど音楽的手法理論が発展した現代、その最先端の曲は商業音楽であり、ロックポピュラーフュージョンといったところだと思いますが、それらを差し置いて、古典の価値観が普遍的なのかですね。
No.3
- 回答日時:
ただただ、長年、理屈無しに、クラシックを聴き続けるしか能の無い爺です。
貴兄の先輩回答者様へのお礼のスタンスに、若しかしたら、私の様な者が、稚拙の語る事にも耳(目)?を傾けて頂けるのではないかと感じ、書かせて頂く事にしました。
難しい理屈は抜きにして、私個人の50年以上に亘る、クラシック鑑賞に対する心理的変遷を見詰てみました。
それが、この質問と何の関係がある?と、訝られると思いますが、還暦になった、鑑賞のスタンスが、ゆっくりではあっても変化が確かに有るのです。
特別な感性を有していた訳ではなく、ラジオドラマ「赤胴鈴之助」やTVドラマ「月光仮面」のテーマソングのSPレコードを喜んでいた
何所にでも居る普通の子供だった私の環境に、偶々ですが、父が帰宅後に浴びる様に聴く、ラジオやSPレコードのクラシック音楽に慣らされて、敷居が低かった(無かった)事は大きかったと思います。
その中で、お好みの曲と言えば、米TV西部劇番組「ローン・レンジャー」のテーマソング『ウィリアムテル序曲(第4曲・スイス独立軍の行進)』のレコードを買って貰った事が、クラシックへの入り口だったと思っております。
そして、次に、ねだったレコードが、カルメン組曲でした。今から思えば、このへんまでは、クラシックとは言っても、好んで聴く曲へのスタンスは、「赤胴鈴之助」や「月光仮面」と大差は無いのです。
それからも「ボレロ」やワーグナーの「序曲・間奏曲」集など、男の子が、男の子らしい思考回路から傾倒した曲に拡がりました。そんな中で25cmφSTEROレコードのリスト「レ・プレリュード(前奏曲)」を、クリュイタンス指揮:パリ音楽院管弦楽団で聴いていた私の耳は、この曲に特別な感情を持つ事はありませんでした。
しかし、後日、MONO30cmφレコードの同曲をフルトヴェングラー指揮:ベルリン・フィルで聴き、幼い私でも、心を揺さぶられ手に汗をかき虜になりました。同じ曲が、演奏の違いで、こんなにも違う。
この時から、クラシックが手放せない存在になりました。
その様な、稚拙な入り口から入った私も
、バッカリ食いならぬバッカリ聴きの時期が長く、5~6年位?は、凄く偏った好みだけに終始していました。
ですが、今思うと、そんな期間にも、オーケストレーションの妙味や作曲法の原点の何かに興味を持つ様になっていた様でして、それまで、退屈にしか感じなかった、古典に対して、退屈しなくなっていました。専門家でもなく勉強熱心でもありませんので、専門用語を使ってのお話は出来ませんが、古典の中に、今まで聞いていた曲に拡張する原点の様なもの感じた様に思います。
それからは、更に、古典の中に原点回帰の意味合だけではない、作曲された当時の人の営み(生活風景)がオーバーラップしたり、楽器の発達に作曲の可能性の拡張を楽しむ心情などに想いを馳せると、その時々の、作曲家達の在り様を想像して、とても楽しく聴ける様になった気がします。
そして、気が付くと、クラシックレコードは多分3000枚以上、CDは多分2000枚以上になってしまいました。(無意味に場所塞ぎになってしまっただけですが・・・・)
理屈で言うとソナタ形式やカノン・フーガ等までを語らなければならないのでしょうが、質問者様が私と同じ立場と仮定すると、それを生業とするプロではないわけですから、楽しませて貰う視聴者の立場で、この音楽学的問題に対して、無責任で良い訳です。
さて、では、還暦の今の私が、全ての曲想を楽しめるかと言えば、そんな事はありません。無理です!今でも、どうにも付き合えないクラシックも有ります。決定的な曲想では、ヴァーレンズ作曲「アルカナ」や「積分/インテグラル」「電離/イオニゼーション」等の類は、どうにも克服出来ていません。ストラヴィンスキーの代表作は楽しめるのに・・・・・。更には、コンスタンやシュトックハウゼン等のパーカッションの様な前衛音楽にも私は付き合えません(質問者様のお好みかも知れませんね)。
これは、視聴者が育ってきた環境や日常的哲学で醸成された感性に因るのでしょう。或は、もっと単純には、普段の付き合いの頻度にも因るのでしょうが、親しくなるまで我慢して付き合えないのです(苦笑)!今後、残りの人生の中で、親しくなれるのかも知れませんが????私にとっては、ある意味、浪花節以上に遠いい存在に感じます。
これが、私の今までのクラシックに関する大まかな情況です。
>骨董的価値しかないのではないか?現代人の音楽的に肥えた耳にはもう通用しないのではないか?という疑念です。対して、名もない近現代作品がそれに比してなんと色彩豊かで叙情的かつ刺激的音楽的なんだろうと思っています。ただし、機能和声内にとどまっている近現代作品に限るのですが(この辺も私の限界を感じています)たいていの近現代曲はすばらしい哲学と手法に満ちているように聞こえてしまいます。
主に、近代的和性や、楽器の技術的更新によるのだと思います。
私は、質問者様の様な言葉に置き換えての価値付けを行った事が有りませんので、ここまで、かいてきた事が、質問者様への答えにはなっていないと思いますが、人が音楽を聴く時に、自分の心の琴線に触れるものが何なのかに因って、同じ曲の齎す作用は様々です。
質問者様の様に、先端的でなければ無意味な方も居れば、私の様な凡庸でお気楽な道を行くものも居る。それは、音楽と言う二文字の言葉が包含する世界が人に及ぼす作用が、多岐である為、楽しみ方が様々な訳です。
>幅広く楽しめるといいですね。骨董には骨董の、現代品に励んだ遺品のそれぞれの感動がある、という感覚になりたいものですが、どうも難しいです。
>そのように自己肯定的になれないものです。あ、古典派が楽しめない→自分の感性に欠落があるのではないか→鍛えなきゃという脅迫感がどうしても起きますね。あ、古典派が楽しめない→それでいいじゃないか!おれは現代的感性の権化だ!という納得ができない。
そんなに自己否定的に思わなくても良いじゃ有りませんか!今の質問者様の有様が素直に作用しているのでしょうから・・・そして、ほんの僅かでも、先輩回答者様へのお礼に述べられた気持ちを持って居られたら、他人の思考を全否定は為さらない方でしょうし、若しかすると、時の流れと自己の変化で、受け入れられる日が来るかも知れませんよ。
殊更に言葉で理由付けをしようとすると、時として、想いとは違う狭い世界に自ら押し込んでしまってその事に自分が気付いていない事も有りますから・・・・・
原点回帰を押し付ける気は有りませんが、原点が有ってこその今!も、面白いですよ!
答えになっていない答えで、お詫びします。
長文のご回答ありがとうございます。
やはり、さまざまな方がいらっしゃるのだと改めて感じます。
とても音楽に対する関心情熱がおありです。私などまったく及びません。感服するしだいです。
私は、現代音楽まで守備範囲をもてませんし、鑑賞できる感性もないのは同じです。そして、古典のほうもない。間の部分ですかね。いわば、赤み過ぎずトロ過ぎずというか。
No.2
- 回答日時:
すみませんが おっしゃっる意味が理解できません。
なぜ感覚に合わない古典を 無理に聴かなければ…と思うのですか?ご自分の感覚に合う音楽を楽しめばよろしいのでは?矯正する必要は全くないと思います。音楽は楽しむもので 理屈ではないです。純粋なものです。難しく考えないでお好きな音楽を 思い切り楽しんで頂きたいと私は思います。どうも、そのように自己肯定的になれないものです。あ、古典派が楽しめない→自分の感性に欠落があるのではないか→鍛えなきゃという脅迫感がどうしても起きますね。あ、古典派が楽しめない→それでいいじゃないか!おれは現代的感性の権化だ!という納得ができない。精神分析の問題になりますかね。
No.1
- 回答日時:
音楽など個人の好みで思うように聴けば宜しいので、別に矯正などする必要はありません。
ただ、私個人で言えば、20世紀前半のロシア・フランス、それにチェコなどの音楽は特に好きですし、現代日本の音楽も相当に好きで録音・生演奏共に結構良く聴いています。
しかし一方で古典派の作品も日常的に良く聴いています。特にモーツァルトはお気に入りなので、主立った作品はほとんど聴いていますし、勿論繰り返し様々に聴き続けています。
一般的に見ましても、クラシックのコンサートやCDなどで古典も近現代作品も分け隔てなく演奏され、それが人気を博しているところから見ても、御質問者のような方はあまり一般的ではないと思います。
さらに言えば昨今ではバロック・古典派は勿論ロマン派の作品までいわゆる「古楽器」での演奏が当たり前のように行なわれています。
これは「楽器の技術的更新」とはまるで逆のことです。
このように、少なくとも普遍的パターンとしては古典派の作品に骨董的価値しか認めていない人はそう多いとは思えませんし、現代人にも充分に通用しています。
古典派の様々な作品で今でも非常にスリリングな興奮や感動を与えられ続けている、というのが正直なところです。例えばベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番、これをアルバン・ベルクSQのライブで聴いたあの至福の時間は他の何もにも代え難いものでした。別にそれに限ることなどとても出来ませんけれど。
それに、質問に書かれている理論を推し進めれば現代作られている作品こそ、最も進んだ理論と技術によるものであり、それを認められて当然、ということになってしまうように思われますけれど。
確かに新見徳英の「風神・雷神」などをライブで聴いた際には、現代において音楽を創ることの意味を改めて実感させてくれ、翌日電車の中で思い出し思わず涙ぐむほどの感動を与えられたりもしました。CDではこの曲の良さはあまり伝わりませんけれど。
冒頭にも書きましたように好き好きですから別に好きでもないものを無理に聴く必要はありませんけれど、あまり自分の枠を作らない方がより多くの感動や喜びに出会えることになりますから、可能であれば色々聴けた方が良いかもしれませんね。
やはり、幅広く楽しめるといいですね。骨董には骨董の、現代品に励んだ遺品のそれぞれの感動がある、という感覚になりたいものですが、どうも難しいです。ご回答者様のような方は本当に現代のクラシック産業向きといえるのかもしれません。つまりは、私の守備範囲の狭さから来ている問題です。特色は人によっていろいろありますけども、そのタイプを変えることができないものかと感じます。
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