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私は根に持つタイプで、簡単に人を許せない性格が欠点です。

先日「ゴハンおごるから許してよ」と言われたのですが、言わんとする事は分かるのですが、「何でもゴハンで解決できるのなら、そんなに楽な事はないね。ゴハンおごればどんな悪事でも許されると思っているわけ?なんて誠意の無いの!」と思って、逆に怒りの感情が沸いてきてしまいます。

キリストの教えでも(私はキリスト教徒ではないですが)、「許し」が大切とされていますよね。どうしてそんなに許すことって大切なのですか?

皆さんは、どんな時に「よし。許そう」と思いますか?

A 回答 (15件中1~10件)

なぜ? 相手を憎み、攻撃し、許そうとしないのか。

相手を許そうとするための努力をしないのか。
それは、自分で自分が嫌いだからです。「自己嫌悪」。
言葉を変えれば、自己蔑視、劣等感、コンプレックス…。

逆に、なぜ? 相手を許そうとする努力をするのか。
それは相手に、自分を受け入れて欲しいからです。

自己嫌悪の強い人は、自分で自分を受け入れてられていません。
もっと言えば、自分で自分が嫌いだから、自分で自分を受け入れたくないのです。
受け入れることが嫌なのです。
だから、人に自分を受け入れて貰うことも嫌なのです。
だから許そうとする努力をしないのです。

ところが実際のところ、そういう人は、人に受け入れられたくて必死になっているのです。
私もかつてそうでした。

ところが何時まで経っても、受け入れて貰えない。
それは「自己嫌悪」に気づいていないからです。

まさしく、エーリッヒ・フロムの云う通りだと思います。
「自分で自分を愛していない者が、どうして人から愛されようか」。

だから、執拗に相手を憎み、攻撃する人を見れば、「この人の心には強い自己嫌悪があるな」と、
すぐに分かってしまうのです。
その憎しみ・攻撃が強ければ強いほど、この人の自己嫌悪は深刻なのだな、と思います。

(逆に、自己嫌悪が強いので、迎合してしまうタイプの人などもいます。
こういう人は、自分を受け入れようにも「自分が無い~ありのままの自分に気づいていない」)

相手が自分のことを「認めてくれた」と思えれば、許すことができます。

お母さんに分かって欲しい子供。お母さんに自分を認めて欲しい子供。
「これなの?」~ちがーう。泣く。拗ねる。怒る。「じゃあこれが欲しいの?」~ちがーう!
「分かった、あーこれか。ごめんごめん」~そう! それが欲しかった。そしたら子供はお母さんを許します。

相手が分かってくれれば、認めてくれれば、相手を許すことができるのです。
自分を分かって貰いたいから、自分を認めて貰いたいから、だから相手を許すために努力をするのです。


許すことは、時には大変なことです。
私は常々から、松本サリン事件の被害者、河野義行さんを大変尊敬しています。
私自身が人を許せないで、憎しみの心を持て余している時、よく河野さんのことを考えます。
「どうしてあの人は、あれだけのことに遭っていながら、あんなに優しくて穏やかなのだろう」と。
河野さんが遭ったことと自分のそれとを比べると、自分が恥かしくなります。

「いや、これは河野さんの場合とは違う」などと思って、憎しみを相手にぶつけることもあります。
しかし結局後で考えれば、あー自分は間違っていた、これは自分の劣等感の裏返しだ、などと反省したりします。

Wikiなどを見ても、河野さんは麻原彰晃を「さん」付けで呼び、
「麻原さんは、自分の教えが間違っていたことを認めて欲しい」と仰っているのです。
麻原彰晃が間違っていた。間違ってたと判断をしているのは、河野さんです。
即ち、自分の考えを認めて欲しい。「自分を認めて欲しい」。

相手を真に許すためには、自分を認めて貰うこと。
自分が認められれば、許せるのです。だから許すための努力を続けてきた。自分が認められるための努力を続けてきた。
否、厳密には、もうすでに許しているのです。それは河野さんは、自分で自分を受け入れているからです。
麻原彰晃によって課せられた過酷な運命を、もう既に河野さんは受け入れています。
今の戦いは、厳密には、麻原彰晃に誤った教えを注がれた人達を救うための戦いという側面も強いと思います。

河野さんは、優しい人です。しかし同時に、とてもとても強い人だと思います。強くて優しい人です。
強いから優しい。優しいから強い。強くて優しいから、人を許せる。
人を許そうと壮絶な努力ができるのは、強いから。そして強い分だけ、優しい。
乗り越えてきたものが大きければ大きいほど、より強くてより優しい人になれます。
河野さんは、とてつもない運命を、誰のせいにも何のせいにもしないで、背負っています。
あの、奥さんを看病している姿などを見れば、つくづくそう思います。

しかし、決してご質問者様を責めているのではありません。
勿論決して、ご質問者様と麻原彰晃を同じだと言っているものでもありません。
失礼お許し下さい。ご質問者様の自己嫌悪は、決して深刻であるはずはありません。
何故ならこうやって、ご自分でここまで気づき、ご質問をされているからです。

そして、ご質問者様を責めない理由は、実はもう一つあります。
恐らくはご質問者様の軽度な自己嫌悪は、親子関係に由来するものだと思うのです。
これはハッキリとは言えませんが、その可能性が高いと思います。

河野さんは、きっと素晴らしい親御さんに育てられた人なのだろう、と想像しています。
親に自立した心を育てて貰った人は、大人になって苦境に遭っても、乗り越えていくことができると云います。
私の親は、不幸にして自己嫌悪の強い人でした。

だから私は、なかなか河野さんのようになれなくても、深刻な自己嫌悪に陥ることはありません。
自分なりに努力を続けていこうと思っています。

先程お母さんを許す子供の心を書きました。
貴方様の幼児期は如何でしたか? どちらかと言えば、あまり親御さんに「認めて貰えなかった」と。
そんな印象がないでしょうか?

もしあるとすれば、つまりは「元々自分のせいではなかった」ということを、しっかりと認識し、
「あー今まで親に甘えられなかった自分を、自分で気づいてやれていなかった」
「ごめんね。今まで寂しかったよね。今まで一人ぼっちでがんばってきたんだよね」と、
ご自分でご自分を癒すこと。許すこと。~そこから始めませんか。
それが自己嫌悪を脱することのきっかけにもなろうかと思います。

そして、もし理想の自分たる存在が強すぎるなら、それを見直しましょう。
それができれば、相手に理想を求めすぎている自分に、気づくことがあるかも知れません。
理想の自分はそれとして、現実のありのままの自分を受け入れることです。愛することです。

「自分で自分を愛していない者が、どうして人から愛されようか」
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この回答へのお礼

河野さんって、あんなにひどい事をされたのに、とことん穏やかですよね。本物の人格者ですね。大変参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/07 21:43

ゴハンとかでごまかそうとする人、いますね。


私も無理です。
なぜ、そんな行動をしたのか。その行動によって私が怒っているという事実を見て、どう思っているのか。どんなにその行動を後悔しているのか。今後どうやって再発を防ぐのか。
それらのことを、説明してもらわないと納得できないです。
うやむやに水に流すことができないんです・・・。
私だって、いろいろやらかして許されてきてるんでしょうけど。
言ってみればお互い様なんでしょうけれどね。

キリスト教の許しについての私なりの解釈は、
「どんな罪であれ、隠したり、うそをついたりするよりは告白した(罪を認めたほうが)まだマシだ」という意味に解釈しています。
宗教は、社会の秩序維持という意味において存在していると考えています。
昔は、科学捜査なんかもなかったし、誰かが何か悪いことをしても、口をつぐんでしまえば誰がその悪いことをしたのか追求することが難しかったんでしょう。
よって、正直に告白したら許されるということにして、自白を促していたんじゃないかと思うんです。
まずは、犯した罪と向き合うこと。
罪を公にしないということは、罪から目を背けているということ。
それよりは、罪を認め、罪に向き合うほうがマシなんだという意味に解釈しています。
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この回答へのお礼

ゴハンで御機嫌をとられてごまかされても嬉しくないですよね。今後どうやって再発を防ぐか説明してもらわないと納得できないですよね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/07 21:56

許すことが大切なのは、人間関係を円滑に進めるためじゃないのかなぁ?誰も一人では生きていけないし。


何でもかんでも許す必要はないけど、あんまりお堅くなりすぎるのも…。まぁ、ほどほどにね。
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この回答へのお礼

1人では生きていけないですよね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/07 21:53

脳の仕組みで言うと、人間も動物ですので、原始的な部分を持ちつつも、人間らしい高度思考が出来る部分で成り立っています。



許せない、つまり怒っている状態というのは非常に原始的部分だけの反応と思います。

哲学や宗教というのはそうした人間の動物たる原始的部分を修正し、
より高度な人間たる思考、行動規範を示す物と思います。

そうした教義や思想を持ち合わせない子供や未発達の大人は、直情的で自分をコントロールすることが難しいことでしょう。


「許す」という行為は、程度の差はあれ、非常に自分を律するエネルギーが必要になるので、それ相応の発想転換や、生き改める作業を人生のどこかで経験しなければ容易に出来ることでは無いと思います。


また、年を重ねれば自然に出来るようになる、ということでもなく、「許せる」ということが、人として、または自分の人生に必要なのだと自ら気づかなければ、ご老人になっても変わることは無いと思います。


質問者さんがどういう内容で、相手を許せないと感じるのかは分かりませんが、大抵のことは許してあげた方がいいと思います。

なぜならば、許すことで自分が解放されるからです。
怒りや執着することは自分のストレスになり、無駄なエネルギーになり得るからです。
エネルギーをどうせ使うならば、建設的で楽しい方向性に存分に使ってあげたいものです。


欲深く、心に余裕の無い状態の人は何でも手に入れたい欲求を抑えられず、大抵全てを手に入れようとするので、争いに巻き込まれ易く、また率先して争いを起こします。
キリスト教でも仏教でもイスラムでも、宗教というものは、そうした混沌とした時代にこそ生まれる物で、平和・安定を築くために必然的に発生したものと私は思います。


本来人間が容易く出来ないことが説かれるから宗教は聖なるものになり得ます。いわば悟りの境地というものです。

そもそも人間は放っておくとどんどん自己利益に突っ走り歯止めが効かなくなるというものですからね。だからこそ神は、「してはいけないこと」を十戒で定めたということになっていますし、「許す」ことの大切さを説いています。とても理にかなったことなのです。過激なカルト宗教を別にすれば、仏教もイスラム教もその他の宗教もそれぞれ同様のことに触れています。それくらい大昔から人類は「人間の性(さが)」に翻弄されてきたと言うことなのでしょう。



許すことは簡単ではありません。が、品格や成熟というのはそうした自分を律せる強い気持ちが伴わないと達せない高い境地なんだと私は思いますし、達せないと80歳になっても、中身は未成熟な子供のまま、一生を終えてしまうのだと思っています。


本当に許してあげられる器量を得たいと思うのでしたら、先人の教えを良く知り、そして自分でさらに深く考え抜くことをお勧めします。気軽に出来ることではないことは既に書いたとおりです。


余談ですが、人間は育った環境経験と脳内ホルモンの分泌により「好き嫌い」で行動するので、こうした本能に逆らうということが悟りの本質なのかもしれません。
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この回答へのお礼

宗教で考えると、平和を築くために許す教えがあるのですね。大抵の事は許したほうが良いのですね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/07 21:51

怨み続けても何も建設的なことはないですよね。


怨むことや怒ることは基本的に何かを破壊したり終わらせたりという、何も新しいものを生み出さずに無くすだけの行為です。
無くすだけの行為に時間と労力をかけるのは無駄としか言いようがない損な行為です。

逆に許すというのは新しい関係を築くことです。
ちゃんと何かを手に入れられる行為です。
自分にとってもお得な行為です。

>先日「ゴハンおごるから許してよ」と言われたのですが、言わんとする事は分かるのですが、「何でもゴハンで解決できるのなら、そんなに楽な事はないね。ゴハンおごればどんな悪事でも許されると思っているわけ?なんて誠意の無いの!」と思って、逆に怒りの感情が沸いてきてしまいます。

ではどうされれば納得できるのでしょうか?
根に持ち怨み続けるために怒りを持続させるのはマイナスにしかなりません。
ご飯をおごるでは許せないのなら、どういうことをしてもらえば許せるかを考え、そのことを言いましょう。
例えば、同じ過ちをしないようにするためにこういうことに気をつけるとかもありますよね。

自分はどうしても許せないときには縁を切ります。
そこまでの怒りや怨みが溜まるということは、それまでの良い関係を築くためのお願いなどをスルーされているということです。
これ以上縁を保とうとしても自分が妥協する一方になります。
なのでこれ以上関わらないようにするために縁を切ります。

逆に言えばそこまでならないように普段から許すためのお願いや、その人間を理解して自分がどうすれば良いのかを考えていますよ。
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この回答へのお礼

許す事は、新しい関係を築く事でお得な行為になりますね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/07 21:46

>どうしてそんなに許すことって大切なのですか?



私個人の考えですが、「許せないこと」って何を許せないかでその人の真価が問われていると思います。

くだらないこととかちっちゃいことまで許せないって、その人の器の大きさを示すことにもなってくるのかなぁ、と。
逆に、「許せないものがない」というのも、自分の譲れないところがないということで、流されてしまうタイプなのかなぁ、とも思います。

キリスト教だって、許しがうんぬんいいつつ、結構譲ってないポイントはたくさんありますよね。

なので、「この人はここは許せない」というのはその人の器とか人柄を表わす大事なことだと思ってます。


>皆さんは、どんな時に「よし。許そう」と思いますか?

私は自分の許せないことは許しません。

それは、「これを許したら自分が自分でなくなってしまう」というポイントだからです。

なので、かなり根に持つタイプです。少しでも許せないことがあったらずっと覚えておくようにしています。それはとても自分にとってとても大事なことだからです。

逆に、自分で忘れてしまうようなことで、誰かを「許せない」と思うことはあんまりありません。

なので、ムカっとすることがあったとき、「今、自分はムカっとしたが、この怒りはどれくらい自分にとって大切なものなのだろう。どういう意味があるのだろう」と常に考えるようにしています。
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この回答へのお礼

許せない内容で、その人の器や人柄(その人が大事とするところ)が表れますね。許せないことは許さなくてもいいんですね。根に持って、許せない事がある事は悪いことではなさそうですね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/07 21:35

よく機嫌取りの目的でそういう事をして自分のやった事をなかった事にしようとする人がいますが、そういう人ってしつこいぐらいに同じ事を繰り返しますよね。


酷い時は何に対して怒っているのかもよくわからないなんて人もいるでしょうし・・
ま、怒っている事が嫌なだけで、単に反省していないのかもしれません。
私もそういう人にはイラっとする時がありますが・・

>どうしてそんなに許すことって大切なのですか?
許さなければ前に進めないっていうのもあるのでは?
何でも許していたのでは、やったもん勝ちになってしまう気もしますけど・・

>どんな時に「よし。許そう」と思いますか?
許すも何も精神上あまりよろしくないので、そういう人とはあまり関わりを持たないようにしますね。
何が悪かったのかを理解して反省していたら、言葉にしなくても同じ事は繰り返さないと思いますし・・
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この回答へのお礼

許さなければ前に進めないのもありますね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/07 21:30

許しというのは結局、許された相手よりも許す人が癒されることになると思います。



腹を立てていると不快感に身を費やされて時間も無駄にするし、怒りで気分は悪くなるし、良いことはひとつもないからだと思うからです。

怒りも不自然に抑えることは良くないですが、一度、怒りは出てもその場限りで終わらせることはとても大切だと思います。

本当に相手のことが深く深く理解出来ればこの世はそう、怒り続る程のことは少ないのではと思えます。人を怒らせるような人にはその人の心の事情というもが必ずあるからだと思えるからです。

そして、完全な人間というのはこの世にはひとりもおらず、許し合ったり認め合ったりしないと立ち行かない程、皆、それぞれが過ちはおかしやすいからだと思います。

(自分だったら、絶対にそういうことはしない)と自信を持っていても時と場合によれば人が許しがたいと思うこともしてしまうこともあるかもしれません。

人の心の本当の弱みや痛みに深いまなざしを注げば簡単に人を裁けないというのが本来の人間の姿ではないかと思えるのです。

私も身体が震えてくるような怒りや悲しみをそれなりに超えてきた人間です。簡単に許せないと思う思いも沢山、してきました。そして結論から言いますと、結局は理解して流してしまうと心が和らぎ安堵感に心が満たされました。

質問者さまのお気持が怒りに囚われず解放されるのは相手のしたことだけに拘りを残し、した相手を許す、つまり(罪を憎んで人を憎まず)の心境に達しられることではないかと思えるのです。
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この回答へのお礼

許し合ったり認め合ったりしないと、確かに人は過ちを犯しやすいですね。理解して流すことですね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/07 21:28

> 「許す」って難しくないですか?


とても難しいと思います
> 私は根に持つタイプで、簡単に人を許せない性格が欠点です。
どの程度かはわかりませんが、許せないのが当たり前、だと思います
「ゴハンおごるから許してよ」も、そうだと思いますが、私たちは
日常生活で、お礼や贈り物を大切にするでしょう
冠婚葬祭も金品を贈りますが、心を金品に託しているのだと思います
損害賠償などのトラブルもお金で命や不自由な身体などは返りませんが
せめてもの人間に出来る誠意、気持ちの現し方なのだと思います
> どうしてそんなに許すことって大切なのですか?
キリスト教を例に出されたので例にしますと、報復の連鎖が止まらない
からだと思います。どこかで許さなければ永久に報復が続くでしょう
> 皆さんは、どんな時に「よし。許そう」と思いますか?
この人とは一生会わないし口もきかない、と思えるなら許さないことも
出来ますが、お付き合いを続けたいのなら、或いは家族など付き合いを
止められないのなら、許す必要があると思います
結婚も、許せなければ離婚しかないでしょう、許せれば結婚は続きます
私のお勧めは自分自身も不完全な人間ですから、うっかりや気付かずに
誰かを傷つけたり、嫌な思いをさせているかもしれませんので、自分も
許して欲しいことが多いので、できるだけたくさん許したいと思います
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この回答へのお礼

そういえば、冠婚葬祭など心を金品に託すことがありますね。どこかで許さないと報復の連鎖が止まらない事もありますね。確かに、自分もどこかで気がつかない間で誰かを傷付けていると思えば許すことはお互い様ですね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/07 21:23

 むずかしいですねぇ。


 たぶん、「許す」というのは「自分の責任として受け止める」か、「運がなかったから仕方がない」と自分を納得させられたとき可能なのでしょうね。「人を恨んでいる時は幸せではない、だから許しなさい」というのが仏教でも他の宗教でもいっていることだと思います。その人との関係が悪くなるから云々という損得勘定で言うなら、表面上は許したことにして心で根に持っていればいいわけで、でもそれでは幸せな気持ちではないですよね。幸福感というのは、『自分はついてる!』『自分は恵まれてる!』という実感のことですから、“幸せに生きるには、どうすればいいか”ということを考えると、やっぱり『許しなさい』ということになるのでしょう。でも、頭では理解できても感情としては許せないのが人間だと思います。そこが難しいところです。
   http://www.h5.dion.ne.jp/~takata/03/5.html 他人に期待することをやめよう
   http://www.h5.dion.ne.jp/~takata/06/6.html 人を信頼するということ
   http://www.h5.dion.ne.jp/~takata/11/7.html 他人を変えようとしてはいけない
 他人じゃなくて親や配偶者だったら…、やっぱり許すって難しいですよね。
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この回答へのお礼

自分を納得させられた時に許せるようになるんですね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/08/07 21:17

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