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新約聖書と旧約聖書の整合性及び聖書は全ては神の霊感により書かれた時代を超えた普遍的真理の書物なのか?
教えて下さい。

私は中年の男です。20代後半で
洗礼を受けました。
その後人間関係に悩み、牧師に
相談をしたのですが、牧師の尊大な態度に失望し、教会へは行かなくなりました。


洗礼を受ける前は三浦綾子氏や遠藤周作氏の著作を
読んでいて、今にして思えば福音派とリベラル派の違う考えの本を同時に読んでいて、自分の中でも整理がついていませんでした。

しかし、ある日カール.ヒルティの幸福論を呼んで、福音派よりのリベラル的要素を持った著作にふれ、洗礼を
受けたのですが、上記説明のように牧師につまずき挫折。

最近も福音派の教会に2ヶ月程通いましたが、やはり
牧師に躓きました。私が最初に通っていた教会はリベラルな教会でした。福音派牧師の痛烈なリベラル派批判。カトリックは異端だと裁き、リベラル派はクリスチャンでないかのような発言。本当に参りました。


福音派の方で、神社.仏閣に悪霊がいる等。極端な
考えをお持ちの方も存在いたします。

福音派の中で聖書信仰と言うのがありますが、個人的に旧約の神とイエスが同一とはどうしても考えられないのです。聖書にも矛盾を感じるんです。

箴言
13:24 むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。
22:15 愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。
23:13 子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。
23:14 あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。
29:15 むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。

箴言を一部抜粋しましたが、これが神の言葉だと心から
思えません。

恐らく、理性的な日本人にこれを読んで頂きこれが
神の言葉だと思うかと問えば、恐らく殆どの方が「思わない」と回答するでしょう。

福音書のイエスの言葉には威厳があり、やはり非常に
高いタイプの何かを感じる事は出来るのですが旧約と
パウロ書簡は懐疑的に考えてしまいます。

例を出すと1コリント11:5「女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります」この訳は新共同訳です。

聖書を時代背景も考えず、文字通りの真理だと考えるなら礼拝やまた個人の祈りの中で祈る時は女性は頭にかぶりものをしなければなりません。

私は神を信じない生き方は虚しいと思いますが、聖書に
矛盾、新約と旧約に整合性を感じられず、苦悩して
います。信仰は捨てたくないのですが。今は正直どうしたら良いのか解りません。
リベラルな教会も考えてはいるのですが、それでも、聖書に確信が持てなくて
困っています。

乱文で申し訳ないのですが、よろしくお願い致します。

A 回答 (3件)

>箴言


>13:24 むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。 ・・・・・・中略・・・・・・
>29:15 むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。

 引用聖書は新改訳聖書のようですね。
箴言13:24を例に取りますが、新共同訳では、懲らしめる⇒諭しを与える と成っています。英語のTEV訳では“・・・ correct them.”で、欠点を直すなどの意味に解釈出来そうです。kadonouraさんはどう思われますか? 以下は同様に複数の解釈が出きると思います。

>新約聖書と旧約聖書の整合性及び聖書は全ては神の霊感により書かれた時代を超えた普遍的真理の書物なのか?

 箴言13:24の訳や解釈で違って来ます。それと、箴言はソロモンの箴言と言われますが、学説的には全て著者をソロモンとは見てないようです。ソロモンのような知恵者の書としての代表がソロモンだからです。又、神様がソロモンに霊感を与えて書かせた事は、今の所証明できませんが、神を信じるソロモンが応えて下さった。そこでこの神の霊感をどう理解するかです。当然ながら牧師や教派に依って違った解釈や見方が生じるのでは?

 新約聖書(新改訳) IIテモテ3:16 には、“聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。”と書いてあります。ここで言ってる聖書とは、旧約聖書です。当時のテモテ記者の時代には新約聖書が確定していませんでした。敢えて言えば弟子たちの記録といえるでしょうか。恐らく、正典以外の記述も沢山あっただろうと思います。そして、キリスト教の聖典や正典の確立した年代は300年代後半だったと記憶してます。

 では聖書が神の霊感に拠らないのか?たとえ1人の信仰者が霊的に書いた記述でも、万人から認められる記述でなければ、正典とは成らないでしょう。福音書のように同じような記述でもその背景が違います。その意味で単なる記述では無いのです。マタイとヨハネでも大分違います。例えば、2~3人で聖徳太子の伝記を書いたとしますが、全く同じだったら聖徳太子の正面しか見てない・・・後ろや横からの記述が無いと言えるでしょう。キリストの記述も複数の福音であることは大事な事と見るべきです。又、霊感を受ける事と、現代医学の心疾患を区別する必要を強く感じます。聖書で言う悪霊も峻別する必要があると思います。霊的な部分と理性的な両面を混同しては大きな間違いを起こすと思います。

 整合性を必要とするのはキリスト教で、整合性があったからキリスト教が生まれた。整合性を否定したからユダヤ教が存在している。両方言える訳です。こじつけの整合性は邪教でしょうが、それでも独自の学説や解釈があるからでしょう。プロテスタントのファンダメンタルと言われる解釈や、聖霊派、教派や教理・教義を重んじる派や聖書解釈を重視するなどの諸説あると思います。

 イザヤ書 2:22 新改訳 “ 鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。”とあります。信仰の基本を神としながら、同じくように人との係わりも大事だとイエスもモーセも言ってます。(聖句は省略します)

 信仰の一致、預言の一致、歴史的な記述の一致などの整合性が考えられます。詩歌のヨブ記・ヨナ書・詩編など。  又、創世記を100%史実と受取るのは非現実的ですが、信仰の書としての整合性はあると思います。考古学的な史実として確かめるのは不可能に近いし、その労に対してそれ程意味が有るとも感じません。信仰を以って語る時に初めて真実に変えられると思います。信仰によって絶望が希望へと変えられる時に真実であり、整合性が生まれるのでは無いでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答、誠に有り難う御座います。

>仰の一致、預言の一致、歴史的な記述の一致などの整合性が考えられます。詩歌のヨブ記・ヨナ書・詩編など。  又、創世記を100%史実と受取るのは非現実的ですが、信仰の書としての整合性はあると思います。考古学的な史実として確かめるのは不可能に近いし、その労に対してそれ程意味が有るとも感じません。信仰を以って語る時に初めて真実に変えられると思います。信仰によって絶望が希望へと変えられる時に真実であり、整合性が生まれるのでは無いでしょうか。

非常に理性的でなおかつ、信仰的な回答と感じます。

>信仰によって絶望が希望へと変えられる時に真実であり、整合性が生まれるのでは無いでしょうか。

特に上記が納得できました。

お礼日時:2010/01/05 19:43

洗礼は受けていませんが、まあ心はクリスチャンな者です。

私は洗礼を受ける気でプロテスタントの教会にしばらく通っていましたが、日本人のクリスチャンの方々は牧師さんも含めてクリスチャンではないが教会に助けを求めている者に対して非常に冷たいことを痛感して、以来ひとり静かにお祈りすることにしています。新約のどっかに「あなたが祈る場所がすなわち教会である」とか書かれていましたよね。だから、自宅も教会だよな、と。

聖書に矛盾があるだなんて、そりゃ当然の事です。ドライに歴史的視点に立てば元々イエスの思想というのはあくまでユダヤ教イエス派の範囲を超えるものではありませんでした。それをキリスト教という新しい宗教への方向性を位置づけたのはパウロで、パウロ自身はイエスと会ったことがありません。

そもそも唯一絶対神というお方は、我々には理解できないお方です。イブラヒムには俺を信じるなら息子を殺せと迫り(間際で助けたということになっていますが、その後の旧約聖書の描写を見るとイブラヒムがひとりで下山しているようにも読み取れます)、世界が気に食わないといっては世界中を洪水にし、人間が気に食わないといってはソドムとゴモラを死海の底に沈め(そもそも自分に似せて人間を作ったのでは?)、ちんちんの皮を切れと命じました。だから、そんなんは神様じゃない、といっても、それは大好きなアイドルに対してそんなのは僕の好きなアイドルのやることじゃないというようなものです。

私はその信仰に影響を与えたのが遠藤周作氏の著作とスコセッシ監督の「最後の誘惑」ですから、非常に間違ったイエス像を持っていると思います。遠藤氏自身、イエスに関わる著作について「日本人には合わない洋服であるイエス・キリストを和服に仕立て直す作業であった」と述べていますし、そのイエス像に対しては主にクリスチャンの間ではずいぶん批判されました。
生まれついてのクリスチャンの方にとってはイエスが三日後に復活したのは何の疑問もなく事実であり、だからこそイエスはキリストなのですが、私のような間違った人間からすると、別に三日後に復活する必要はないんです(でもそうだとそもそもイエスがキリストではなくなってしまうんですが)。私にとっては、ナザレで生まれた男が人々の心に革命を起こそうとして、結局は磔にされた。彼は憐みを持って人々の同伴者になろうとして愛こそが全てと人々に訴えた。それだけでいいんです。

私のイエス像は根っからのクリスチャンの方々にとってはきっと受け入れがたい間違ったイエスでしょう。でも、今の世の中イエスと会った人は(おそらく)誰もおらず、大なり小なり、バチカンの法王だってイエスに対して誤解しているのだろうから、あくまで信じるのは自分の心なので多少自分に都合の良い姿であってもイエス様のことだからきっと許してくれるだろうと都合良く解釈しています。
イエスもいってるじゃないですか、「見なけりゃ信じないっつうのは貧しいなあ。見なくても信じるてのが本来の信仰じゃねえか」。聖書には、人生に必要な全てが書かれていますよ。だから永遠のベストセラーなんです。
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この回答へのお礼

ご回答、誠に有り難うございます。

>聖書には、人生に必要な全てが書かれていますよ。だから永遠のベストセラーなんです。

確かに、真理が書かれていると私も思います。しかし、聖書の全てが時代を超えた普遍的真理
だと感じられない所に私の苦悩が有るのです。

人生に必要な全てとは、隣人愛の事でしょうか?それとも、聖書全体の中にあるものでしょうか?
全てと言われると正直良く解りません。

申し訳ございません。

お礼日時:2010/01/04 16:28

神父さんや牧師さんも、修行中の凡人ですから、



他の人に頼ってはいけない。
教えによっていくことが大事ではないでしょうか。

自身の苦しみを相手の方に解消してもらうことはむつかしいでしょうし、
私の信仰している人のイメージは、
それぞれ自分の生活を営みながら、少しでも周囲に温かい心を運んでいこうと努力しているって感じです。

心のなかって、どんなに親しくっても、その人と接してみなければ分からないですよね。

聖書のことは詳しくは分からないですが、原文での表記でなければ本物ではないという方がいるとも聞きましたし、
時代に沿っていない事柄もありそうですね。

でも一番大事なのは自分もみんなも心がすくわれること。
信仰は真心で身近なところから幸せの輪を広げていくことだと思います。

全力を出していったことの無い人には、信仰の本当の求め方は分からない、という方もあります。

心からこれこそ救いだ、と思われた何かをつかめるまで、
いろんな人・物に目を向けて捜し求めていかれることも大切ですね。

自分の欲求を解消したい、悩みや苦しさから逃れたい気持ちでいっぱいになったときこそ、
思い切って誰かのために暖かい心を運んでいってください。

きっと、心は晴れやかになりますし、
あたたかな存在に包まれているような感じがしますよ。
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この回答へのお礼

  ご回答、誠に有り難うございます。そうですね。確かに牧師にしろ神父にしろ修行中の凡人ですね


>でも一番大事なのは自分もみんなも心がすくわれること。
信仰は真心で身近なところから幸せの輪を広げていくことだと思います。

救いと言うのは、日本人が考える救いとキリスト教で言う救いは違うように思われます。
人間には原罪があり、それをイエスが自らの命を十字架で贖った。
イエスを救い主だと信じれば、原罪から救われる。キリスト教の救いはこんな感じで

原罪だとか贖いだとか、日本人の宗教観には無い、異国の宗教ですから解りずらいです。

お礼日時:2010/01/04 16:44

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