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セブンスデーアドベンティスト教会(以下SDA)で預言者と謳われているエレン G ホワイト(以下EGW)についてお聞かせ下さい。

現時点で、「各時代の大争闘」「各時代の希望(三分の二ほど)」を読み、SDAの施設で「基礎教義(完了)」、「信仰による義認(完了)」「ダニエル書(完了)」と「黙示録(現在半ばほど)」「イエスの生涯と教え(現在半ばほど)」のクラスを受けていますが、正直、基礎教義や信仰による義認等は良しとして、預言解釈については、なぜこの様な解釈を信じる事ができるのかといった印象を受けています。
もちろん、クラスの中で、多数のEGW著書の引用を聞いています。

私個人的には、EGWの信仰姿勢には好感を持っていますが、預言解釈については、納得できません。

聖書クラスの先生に聞いても納得のいく答えが返ってこず、他の生徒や、施設のスタッフも同じです。

皆、ある程度までの信憑性が見られた時点で納得し、そのまま受け入れ、その更に奥までチェックしようとする姿勢が無いのです。何故なら、彼らにとっては現在彼らが信じている内容が全てだからです。
もちろん、信仰に関する事は奥までチェックしようとし過ぎる行為がかえって無意味な場合もある事は承知していますが、それにしても、あまりにも浅い部分で彼らが納得してしまっているため、私自身が納得いくことのできるレベルまで考えている人が私の周囲に居ないのです。

現在のところ、EGWは熱心で洞察力もそれなりにある良いクリスチャンではあるが、熱心さあまって(或は持病のせいで)少し間違えてしまっている人なのではないのかなという気持ちが強く、預言者として受け入れる事ができません。

EGWを信じている方で、どうしたら彼女の預言者としての信憑性を証明、或は主張できるかを心得ている方、或は自分はこう信じているという一意見でも構いません。
逆に、EGWを預言者ではないと考えている方で、なぜその様に考えるのか、
何でも構いませんので、彼女の預言者としての信憑性に対して、賛否両方のご意見をお聞かせ頂けます様、お願い致します。

A 回答 (16件中1~10件)

ANO 13 です



私の質問にお答えを頂きながらお返事が遅くなって申し訳けありませんでした。

1 SDAの「信仰の大要」はご覧になった事がありますか?
  18.預言の賜物があります。 日本語のサイトでも英語のサイトでも見る事が出来ます。
  その中に 「主の使者としての彼女の著書は、つねに信頼のおける真理のみなもとであって」
  ”As the Lord's messenger, her writings are a continuing and authoritative source of truth ”  とあります。
  即ちエレン・G・ホワイトを“主”の使者と認めているわけです。

2 では彼女の著書は全てエレン・G・ホワイトが書いたものでしょうか?
  これは予測されるより多くの部分が、代作者によって書かれた物であります。
  (アドベンチストライフ誌を読まれましたか質問させて頂いたのはアドベンチストライフ誌上で
   多くのSDAの牧師がこの事を認めて居るからです。)
  “主”の使者=エレン・G・ホワイトであればその著作は“主”の御心に従ったものでなければ
   なりません。
   それが代作者がいるのはエレン・G・ホワイトの著作の信憑性が疑われます。

3 又エレン・G・ホワイトは神の霊感のによって書物を書いたと言われてますが、かなりの書物が
  他の書物からの引用(時にはまったくのコピーもある)という事実です。
  これもアドベンチストライフ誌を15年ぐらい前から読まれるとはっきり判るでしょう。
  各時代の希望は1898年に書かれています。その各時代の希望と全く良く似た本が、それ以前に書かれています。
  カニンガム・ゲイキー著「キリストの生涯と言葉」が1877年 アルフレッド・エデルシャイム作の
  「メシアなるキリストの時代と生涯」が1883年に発行されてます。
  英語のお勉強中との事ですので比べて読まれると参考になるでしょう。

4 英語読む事ができられるとの事ですので 先ず 元SDAの牧師 Walter T. Rea の  http://www.ellenwhiteexposed.com/egw17.htm 
  や同じくSDA元牧師の J. Mark Martin  の http://www.exadventist.com/ をご覧になり
  
 祈りの中で精霊様の導きをお求めになったら如何でしょうか?

その後ご感想をお待ちしてます。

私も同じ疑問を持ち同じ過程を通りましたのでこの後の結論も導き出しているつもりです。
正しいか否かは判っていませんが。。。。。。

参考URL:http://www.ellenwhiteexposed.com/egw17.htm",http …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
お教え頂いたWEBサイトを見ました。
今私が居る施設は、ネットを使用できる時間が少ない事、他にも色々とする事があり、比較的忙しくしている事等から、ほんの一部を読んだ程度に過ぎませんが、あまり回答が遅くなってもこの件を忘れられてしまいますので、この辺りで失礼致します。

代作については、こちらの施設の先生も認めていますが、引用にしろ、代筆にしろ、最終的にEGWの確認が入っているため、彼女の理性、霊性等に合致しているものである。つまりこの意味で彼女の著作と受け取って宜しいという説明でした。

Webサイトをお教え頂いた後、色々と同じ様なサイトを見つけました。
それらに一環して言える事は、EGWを批判しているその根拠そのもの自体が聖書批判にもなっているという事です。

ご存知だと思いますが、聖書それ自体、いくつかの矛盾記事を含んでいます。※少なくとも人間(私)の目にはそう映ります。
EGWを批判しているその材料そのものが根拠として立つ事が出来ない状態になっており、いわば自爆行為に留まる、或は波紋を投げ掛けているだけで留まり、それ以上の”決定的”な根拠に欠けているように見えるのです。
※もちろん、全部読んだわけではないので、現時点での感想ではという意味です。

あるケースがきっかけで、私はとりあえずSDAの施設からは放免される事となったため、もうSDAの教えを押し付けられる事はないでしょう。
聖霊の導きかもしれませんね :-)

結局はSDAを知った直後の感想と今の感想は同じです。
「証拠が無いので何とも断言はしかねるが、私の独断として、学ぶものも実際多いが、預言解釈や幻については恐らく彼女の思い込みかなにかであろうし、他の部分についても彼女の激しい感情移入後の小説に過ぎないとも言えるクオリティである。デボーションとしてならまだしも、聖書と同格に置くのは誤りである」

何故なら、いくつか、或は多くの間違いが含まれていたとしても、たった一つでもそこに真実が書かれているなら、それを無視は出来ないという事です。
例えて言うなら、あらゆる彼女の預言解釈や幻は誤りであったが、たった一つだけ、土曜日礼拝に関してだけは真実だったとしたら、私たちはそれを守らなければなりません。
つまり、”誰が正か否か”ではなく、”何が正か否か”であるという事。

オオカミ少年の童話から私たちは学べますね♪

お礼日時:2008/10/14 20:13

当時の時代、病、神秘思想においてエレン・ホワイトの近辺を研究の専門としながらも、キリスト教に信仰のない者からのアドヴァイスで申し訳ないです。


ご質問に混乱がありませんか。
聖書の解釈を述べて相違を明らかにすればよいのか。。。しかし聖書解釈の世界とは真に歴史のつくりあげた底なし沼ですから、
生涯をバチカンの図書室に捧げて口の重い死人になるのでもなければただの不毛です。
初期のキリスト教は、多神教の世界で異教たる一神教として各地で厳しい足止めをくらったため、
民族・文化の接点の地域で必ず検閲をくぐり、また、曖昧に翻訳されざるを得ないのです。
それに輪をかけて、旧約では風習や生活や生殖に関する原理を塗り替え、新約では契約の仕切り直しが行われるという設定意義自体の荒業を行っていますから、
うわべの物語はいくらでもファンタジーに貶められる性質のものです。つまり一から十まであいまいなのです。

あるいは、あなたは預言者や予言者が本物であるかどうかを判断する手段を求めているのでしょうか?

エレン・ホワイトに信憑性があるからセブンスデーアドベンティストに賛同・参加・献身できるのではなく、
セブンスデーアドベンティストの教義に信仰を置くから、エレン・ホワイトの預言と「出会う」ことができる人々がいるのではないでしょうか。
つまり信条として、期待にこたえるものとして、またアイデンティティの再認、オリジナリティの根拠、存在の理由として、
「約束どおりである」ような「約束」を見出すことを「出会う」と表現するのですが。。。

彼女の預言を評価するもしないも、吟味検討するもしないも、妄信して参照するもしないも、
セブンスデーアドベンティストの外で語られる意味はないでしょう。
ましてや聖書をめぐってカトリックの意向がどうあれ。。。
さしずめ、リンゴはオレンジではありませんし、リンゴの種もオレンジの種ではない、
リンゴの花粉はオレンジの花粉ではない、リンゴの需要と供給において利益を得る人々はオレンジにおける彼らではない、
というわけで、オレンジにとってうまく回っている世界というものがあるのです。
そこに虚偽があっても、思い違いがあっても、種とするものを種とし、花粉とするものを花粉として、うまく回っています。

エレンの預言が正しいかどうかという客観判断については、まあ、アカシックレコードの解読にたよる余地があるかなしか、、、どうでしょう。
審神などという検閲技能も世に言われるものではあるのですが、、、これもどうでしょう。
アカシックレコードにしろ審神にしろ、まさにエレン・ホワイトの同時代に生まれた概念なのです。
神秘思想が爆発的に流行し、霊魂主義が近代に生き残りをかけた時代、それは精神病の増えた時代でもありますが、
預言者や教祖が多発し、神や精霊で商売する者も増え、真剣な信仰であれ悪企みであれ、神秘の検閲の力もまた神秘の力となりました。
だから証明ができないのです。
アカシックレコードや審神に問いかけるとしたなら、一信仰集団にとってたしかに預言者であった者は、預言者であるとだけ答えることでしょう。
セブンスデーアドベンティストの地に足をつけた視点から、なおエレン・ホワイトを預言者か預言者でないかを見つめておられるならば、
あまり、ご期待に添えない回答でしたね。まあ預言者として扱うのが妥当だが、たいして重んじない、という方々もいることでしょう。

この回答への補足

ご回答ありがとうごあいます。

今回の質問は、少しでもアイデアを得たくてさせて頂いたものです。
この分野は数学ではありませんので、1+1=2のようなはっきりした答えを期待するものではありません。
※もちろん、そのようなものがあればそれに超した事はありませんが。。。
ですから、誠実な範囲で自由な発言をお待ちしております。

こうした状態でございますので、質問が混乱している様に見えるかもしれませんが、質問の目的上、ある程度仕方の無い事でございます。
申し訳ございませんが、ご理解のほど、よろしくお願い申し上げます。

私はカトリックですが、個人的に教派を気にはしておりません。
また、現在の私はSDAの外の人間ではなく、一時的とはいえ、中の人間です。
また、EGWが真であるか偽であるかは、教派を超えた問題である事はお分かり頂けるでしょうか。
キリスト信者ではない方にはあまり解らない問題かもしれませんが、彼女が真であるか偽であるかは、そのまま彼女の言葉が真実を告げているものなのか否かという問題でありまして、これは即ち教派間は勿論、全ての人に関係する事柄です。

補足日時:2008/10/02 09:24
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 No.1&2&3&10&12です。



 最後に 二点 確認のためにお訊きします。

 (1) ヰキぺディアの解説記事 すなわち
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 〔セブンスデー・アドベンチスト教会は〕キリストの十字架による贖罪死を信じる信仰によって救われるという立場をとり、十戒を現在も守るべきものと解釈する。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは まちがっているというご見解でいらっしゃるという理解で よろしいのですね?

 (2) (1)がそうであれば かなり 次の質問は 中身が薄まりますが まだ 確認の必要があると考えます。すなわち
 ★ 私の場合は党派争いではなく、単に個人とSDAの教えとのぶつかり合いです。
 ☆ とおっしゃるとき わたしが (a)信仰の履き違え (b)それによる党派分派の動き を指摘したことが どうして 問題にならないか これは 理解しがたいことです。
 ★ 単に個人とSDAの教えとのぶつかり合い
 ☆ において まさか 私闘ではないのでしょうから 上の(a)(b)の問題が どうして なおざりになるのか 分かりません。

 たぶん (1)で ヰキぺディアの記事がまちがっていた場合でも そうなると (2)の(a)は 濡れ衣ですが それでも おそらく(b)は あてはまるのではないでしょうか? 
 パウロに背くということになりますが つまり Apostleさんご自身が 背くことになられると思いますが それで よろしいのでしょうか? EGWを知らないわたしですので 確認としての最後の投稿になります。

この回答への補足

申し訳ありません。
今は時間がないので簡単に。

(1)について私は間違っているとは思っていません。
ただ、”べき”ということと、”ねばならぬ”は違います。

(2)いまいち仰る意味をつかみかねていますが。
私は基本的にあからさまに意見の違う人に対しては深入りしないという姿勢があるのが人つの原因かもしれません。
私は真理の全ての面が見えているわけではないので、自分と違う信仰姿勢を簡単に否定できないのです。
それでも、私のとは違うという事は解るし、自分が劣っていて相手のが勝っているとも思っていません。
相手のが勝っていると思えば自分の信仰を改めるでしょう。
でもSDAに対してはそうは思っていないという状態です。
私は私、SDAはSDAと考えている姿勢があるという事です。

象と3人の盲人のたとえ話しはご存知でしょうか。
三人の盲人が象に触り、足に触った者は象とは大木のようなものだと言い、耳に触った者は象とはふろしきの様なものだと言い、尻尾に触った者は、象とは蛇の様なものだと言う。
ある人は全員を間違いと言いますが、私は三人とも間違いであるが、各々の人生、レベルに置いては正解としても良いのではないかなと考えます。
保育園児が車の事をブーブーと言ってもそれはそれで正解なのです。
正式名称を知る必要は必ずしもあるとは限らないという事です。※勿論、知れるならそれに超した事は無いのは言う間でもありませんが。
とにかく、ブーブーでも、車でも、ベンツでもメルセデスでも何でも良いのです。
人を乗っけて走る乗り物であるという事が解っていれば。。。

以上が簡単ですが、私の答えです。
ご質問の答えになっていますでしょうか?

補足日時:2008/09/30 10:46
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私もApostleさんと同じような疑問を持っています。


自分なりに回答は出していますが、それが正しいか否かは判りません。

私の答がApostleさんに対して明確なものになるよう追加質問をさせて頂いてよろしいでしょうか?

質問1  ご質問に
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「各時代の大争闘」「各時代の希望(三分の二ほど)」を読み、SDAの施設で「基礎教義(完了)」、「信仰による義認(完了)」「ダニエル書(完了)」と「黙示録(現在半ばほど)」「イエスの生涯と教え(現在半ばほど)」のクラスを受けていますが、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  と有りますが、かなりの量の書物ですが、ここまでの勉強されるまで何年ぐらい掛かっておられますか?

質問2 アドベンチストライフ誌は何年ぐらいから継続してお読みですか?

質問3 ご質問に
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
預言解釈については、なぜこの様な解釈を信じる事ができるのかといった印象を受けています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   と有りますが具体的な例を2-3挙げてみてください。

軽薄な回答にならない為ご回答よろしくお願い致します。

この回答への補足

申し訳ありません。
今は時間がないので、ご質問にお答えするだけになってしまいますが。
以下、簡単に。

質問1
私は、1年半ほど前にインターネットでSDA教会の英語部を見つけ、英語の勉強のために通い始めました。
初めからおかしな教えだなとは思っていましたが、皆良い人たちである事と、英語の勉強の為に通い続けました。
半年ほど通いましたが、特に特別な勉強はしておりません。
普通にバイブルを使った英語の授業と土曜日の礼拝、水曜日のミーティング、金曜日のベスパーに参加はしていましたが、特に教義についての勉強はしていませんでした。
そんな時、国名は出せませんが、某国にSDAのトレーニング施設があり、聖書や他の事を勉強できる、しかもその施設は英語での授業なので、英語の勉強にもなるという事で今いる施設にいる次第です。
私の知識のほぼ全ては、今年の1月からのこちらでの勉強によるものです。

質問2
私はカトリックの信者なので、アドベンチストライフ誌というのは存じ上げませんでした。
従って、読んだ事がありませんというのが答えになります。

質問3
申し訳ありません。
この施設は、インターネットを使用できる時間が限られており、ゆっくりと良い例を調べる事が出来ません。
従いまして、簡単にいくつか箇条書きにさせて頂きます。
疑問に思われましたら、それぞれについて改めてご質問頂ければ”何故信じられないのか”をお答え致します。
◯黙示録の”二人の証人”は旧、新約聖書だということ
◯エゼキエル書20章をもって土曜日が神の刻印であり、日曜礼拝(日曜休業令)は獣の刻印だとすること
◯ガリラヤのカナの婚礼でイエスが作ったのはワインではなくぶどうジュースだということ
◯週末の印で、太陽と月のしるしが1780年5月19日にアメリカで起こったということ。また、星が落ちるというのが、1833年11月13日の獅子座流星群であるという事
◯1844年にイエス様が至聖所に入ったと言うこと
●聖書の一カ所にでも例えば「1日=1年」と書いてあれば、全テキストにそれを適用しようとする姿勢

以上が簡単なリストですが、私は彼女の著書を読み、「読者側の意見や主張が先にあり、聖書が歪められたという感想を抱いています。」

補足日時:2008/09/30 10:43
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 No.1&2&3&10です。



 まづ これまでの事情とその経過です。
 わたしは EGWについて 知りませんで No.1&2の指摘にて 降りるつもりでしたが ヰキぺディアの情報に基づいて No.3を投稿しました。
 その後の中間の経過を端折って述べますと その後 No.3へのご返答は わたしの回答を厄介払いするものではなさそうだと分かり ひとこと ANo.10として ごあいさつを行なったというところです。

 そのNo.10に対して お応えいただいた限りで わたしのほうから 応答すべき点は 次の二点になると思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 、(ほぼ)明らかに読者側の主張が聖書よりも先にあり、聖書の記事をそれにあわせて歪めたような解釈を、しかも預言者として語られると、厳密に吟味されなければなりません。
 その場合、私のさまざまな観点からの吟味の結果は強引であるという意味です。”あまりに”という部分が肝心です:-)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このとき いちばん大事なのは――話を早くするために 極論を用いますが―― たとえ解釈をどれだけ歪めたとしても その内容が 一応妥当であるのならば あとは 判断基準は おのづと決まってくると考えます。すなわち お言葉を返しますが 
 ★ 解釈の強引さ あるいは そのあまりにもという程度問題
 ☆ にはないと存じます。最初からのわたしの回答内容としての パウロ派だったりアポロ派だったりするのではなく あくまで キリスト派であり続けているか ではないでしょうか? 一つのかしらのもとに 信仰があり 解釈があるかどうか これではないでしょうか。

 趣旨は同じですが 二つ目の項目として こうです。No.3に引用しましたヰキぺディアの解説記事 すなわち
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 〔セブンスデー・アドベンチスト教会は〕キリストの十字架による贖罪死を信じる信仰によって救われるという立場をとり、十戒を現在も守るべきものと解釈する。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは まちがっているのでしょうか? もし間違っていないのでしたら これを材料として 判断したわたしの回答No.3は いまでも 有効だと思っております。

 ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。
 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
 (ローマ書10:5~7)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どんな解釈をしようと――ちなみに この《解釈》が イエス以後は 《預言》だと考えますが―― 同じ一つのかしらの下における信仰 すなわち言わばキリスト派の信仰 これに立っているのでなければ 何にもならないと言おうとしているのですが? つまり やはり 党派の問題です。
 自分たちの教派は 天国にいけるが そのほかは 地底行きだと言っているとすれば それは まちがっています。
 そして その前にも 解釈じたいの内容として 吟味しなければなりません。
 信仰の内容として・もしくはその対象として 《死》といった経験事実や 《贖罪》であるといった・経験事実についての解釈としての思念やを持ち出すというのは ただの経験思考であって 信仰ではないという疑いのことです。そこに 党派・分派活動の原因があるのではないでしょうか? 
 経験事実を 信仰という原点の中に取り入れてしまうと 党派を分けることになるという意味です。経験事実は あるかないか あるいは AかBかCかなどとして とうぜん 眼(ないし心の眼)に見えるかたちで 分けられてしまうものであるからです。
 単純なことなんですけれど。・・・

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

私はSDAの教え全てを否定している訳ではありません。
EGWの思想は、前にも書きました通り、非常に良い部分も沢山あります。
しかしながら、お読み頂ければ解ると思うのですが、少々カトリック嫌いが激しすぎる(時代背景もあるのかもしれませんが)あまり、聖書解釈がカトリックへの攻撃的なものがかなりありますし、他にもワインや食べ物に関する件で彼女はかなり自由に発言しているのです。
これを全て預言者の言葉とするには。。。という意味です。

私の場合は党派争いではなく、単に個人とSDAの教えとのぶつかり合いです。
失礼ながら、私のこの質問はEGWの預言者としての信憑性についてですので、彼女をほぼ全く知らない方から有益な情報を得られる可能性はかなり低いと考えます。
お応え頂きながら申し訳ありませんが、この辺りを考慮して頂けます様お願いもうしあげます。

補足日時:2008/09/27 23:02
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{1]God[神様」は一人だけど、gods「神」は多いです。

                                                                                                      だから、神様の御言葉を神の言葉だと言っている貴方は、この点については嘘を吐いているのではありません。貴方の神様は知恵のエッセンスだからです。                                                                                          {2}サラは90歳を超えても美しかったかより、イエスが聖霊によって宿られたことについて質問したほうが貴方にはずっと為になったと思いますが、残念です。                                                                                        {3}マタイ書はイエスがユダヤ人の王としてうまれ「マタイ2:2」、ユダヤ人の王として処刑される「マタイ27:37」王国福音を述べています。                                                                                         イエスの10の弟子は後で処刑されますが、ヨハネだけは処刑されることを神様が許しません「ヨハネ21:22」。ヨハネには生き残って啓示録を書く使命が残っているからです。だから、ヨハネは自分が生きる時代、即ち十字架以後の恩恵福音を述べているのです。                                                                                                         だから、浸礼人ヨハネはイエスキリストを見て「世の中の罪を取り除く神様の子羊だ」と証拠したのであり、イエスキリストは過ぎ越しの子羊として処刑されるのです。前回、これについて述べたのに再び質問するなんて本当に読んでから質問してるのですか?                                                                                                             {4}何故3回も質問されたかと聞いた方が貴方のためになるはずなのに残念です。                                                                                        loveという単語が同じく使われて無いならば、ギリシャ語のどおりに貴方の恋人に質問して見たらどうですか?私なら万が一のことを考えて精神鑑定を進めるかも知れません。                                                                                 {5}太陽の下に新しいものは無い「伝道書1:9~10」。                                                                                                      悪魔がエバを誘惑する時、「本当に神様がそのように言われましたか?」と言いながら誘惑しました。                                                                                                                今も、同じです。「本当に原語の意味がそうなんですか?」                                                                                                        「原文によるとそれは違う意味なんですよ」                                                                                                        「KJVはさすがに有名ですが、今は古いですよ」。                                                                                                          このような人々に神様は「私が貴方達に言いますが、人が言うどんな無駄な言葉でも審判の日にはそれのついて解明するようになります。マタイ12:36」と言われます。

この回答への補足

すみません。。。
大変大きなすれ違いを感じております。。。
既にpuregrapeさまがどのように私の言葉を受け取られているのか解りかねております。

サラが90才以上だったという事は質問ではなく指摘です。聖書を一字一句間違いや矛盾の無い神の言葉としている人たちへの。
磔刑日も同じ意図であり、質問ではありません。

私の言葉がpuregrapeさまに到達した時点でかなり曲解されている感想を受けます。
もう少し”書いてある事のみ”から答えを組み立てて頂けますと、会話がしやすくなると思います。

お願い致します。

補足日時:2008/09/27 11:26
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 No.1&2&3です。


 緊急事態ゆえ 前言をひるがえして 参加します。

 次の二箇所のご発言について どう説明されますか。矛盾していませんか?

 ★ (No.6補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~
 正直、私はE.G ホワイトを預言者だとは思っていません。
 聖書の解釈があまりに強引だからです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ (No.3補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~
 つまり、何かしらの間違いを指摘できたからとて、それをもって彼女を偽預言者だと判断するのは少々早計だと考える訳です。
 著書中に1カ所や2カ所誤りが合ったとしても、それをもって偽預言者と判断するのはどうかと思うのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆  もっとも すでに 質問趣旨において 上のNo.6補足欄の趣旨と同じことが書かれています。
 ★ (質問趣旨)~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私個人的には、EGWの信仰姿勢には好感を持っていますが、預言解釈については、納得できません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうしますと わたしの回答に対して返された上のNo.3補足欄の文章は やけくそで書かれたとでも 解釈すべきものでしょうか?
 この点について ひとこと 指摘して去るのが 礼儀だと考え直した結果の投稿です。いかがでしょうか?

 * なお――横からになりますが そうではなく 全体のご議論としても―― 《文字は殺し 霊は生かす》は 明らかなこととして お話を進めていかれるべきです。

この回答への補足

No.6に対しては、確かに言葉が足りませんね。申し訳ありません。
私は、聖書を文字通り一字一句矛盾の無いものとして信じている、所謂聖書信仰の様なものは持っていませんが、それでも依然として聖書は神のインスピレーションの宿る、最高の書物であるという思いに変わりはありません。
そうした中、(ほぼ)明らかに読者側の主張が聖書よりも先にあり、聖書の記事をそれにあわせて歪めたような解釈を、しかも預言者として語られると、厳密に吟味されなければなりません。
その場合、私のさまざまな観点からの吟味の結果は強引であるという意味です。”あまりに”という部分が肝心です:-)
従って、No.6は私の思想の中では矛盾していません。答えになっていますでしょうか?
※これは、聖書を一度でも全て読んだ事のある人が彼女の著書を読めば、私の言っている意味を理解して頂けると思います。
※当然、SDAの信徒さんで聖書を全て読んだ事のある方も多いでしょう。しかし、私が出会った方々は、EGWの著書と平行して読み進めて行ったタイプなのです。
つまり、初めに聖書を読み、自分なりの解釈が無い状態で半ば先入観(と言って良いのかわかりませんが)を横から注ぎ込まれる形で読んでいる場合が多いのです。

No.3につきましては、書いてある通りで、説明の余地がない様に私には思えます。
因に私はカトリックですので、EGWが偽であれ真であれ、社会的な問題は全くありません。

最近は、文字は殺し、霊は生かすという聖句が拡大解釈されている傾向があるようです。仰る事には同意致しますが、この点もお忘れの無い様お願い致します。

ご指摘の意図がいまいち読み切れませんでしたので、この様な内容になっていますが、答えになっていますでしょうか。

※最後に、申し訳ありません。
私は元々表現力には貧しい者ですが、さらに今は少々忙しく、十分な文章を書く事が出来ません。どうかご寛容をもってお応え頂きます様、何卒、よろしくお願い申し上げます。

補足日時:2008/09/27 10:55
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私がいつも見る聖書は1611年出版されたKJV「King James Version]です。

権威訳、あるいは伝統願文とも呼ばれます。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。
puregrapeさまがどのような信仰をお持ち(聖書は一字一句間違いの無い神の言葉であるとするタイプなのか、そうではなく、知恵のエッセンスとして見るタイプなのか。因に私は後者です。)なのか、いまいち計りかねておりますが、例えば、こんな事はご存知でしょうか。

アブラハムがサラがあまりにも美しいので、自分の妹だと偽った時、サラは既に90才を超えているという事。
また、
イエス磔刑日ですが、共観福音書は過越の食事が最後の晩餐ですが、ヨハネの福音書は、磔刑日そのものが過ぎ越の食事の前です。

聖書には、こうした”一筋縄では行かない”箇所が所々に存在します。
この意味で、聖書の引用は時としてあまり意味が無い場合があるのです。

さらに、KJVをお使いとの事ですが、Strong'sの辞書はお使いですか?
これで原語を調べれば、KJVといえどもやはり外国語に翻訳した本であると思わざるを得ない箇所が所々にあります。
例えば、今は時間がないので確認できませんが、私の記憶が正しければ、イエスがペトロに「私を愛するか」と3回尋ねた時のことですが英語では3回ともLoveですが、ギリシャ語では3回目のみ違う単語が使用されていたと思います。アガペ、アガペ、フィリアでしたでしょうか。。。

さらに、Strong's辞書を使っても行き届かない箇所もある事はご存知でしょうか。
例えば、聖所に関する単語で、英語ではDaily [sacrifice(イタリックなので原文には無い単語)]と訳されている原語での「日々の」という単語。
これは、聖所に関して用いられる場合は、暗黙の内に「日々の捧げもの」という意を含むのが一般的という事です。
KJVには無いアポクリファの中に「原文を他の言語に翻訳すると、どうしても違う意味になってしまうものがあるが、最善を尽くして翻訳した」と書かれている本もあります。

また、新約聖書中に、明らかにアポクリファからの引用と見られる使徒の引用もあります。

これらの事から、私の聖書に対する姿勢は「一字一句文字通り信じる形式」ではありません。
聖書、自分の信仰、自然な思想など、全てを統合して結論、或は判断を下します。

我がままを言い、恐縮ですが、よろしくお願い申し上げます。

補足日時:2008/09/25 23:53
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{1}「聖書の解釈があまりに強引だからEGWを預言者だとは思わない。

」                                                                                                世の中の支配者は悪魔です。だから、悪魔が世の中を見せながら「貴方がもし私に平伏して拝むなら、私がこの全てのものを貴方に与える」とイエスを誘惑してもそれについてイエスは何も言わなかったのです「マタイ4:9」。                                                                                                  ローマの植民地下にいたイスラエルの人々は、神様を信じながら彼らの救援者であるイエスキリストを待ちに待ちました。しかし、イエスは彼らに「貴方達、蛇たちよ、毒蛇達の世代よ、どうして貴方達が地獄の呪いから逃れる事が出来ましょうか?マタイ23:33」と強引に言われました。蛇は悪魔を意味します。毒蛇に噛まれたら死ぬように、偽りの教えに噛まれるとともに地獄に落ちて行きます「マタイ15:14」。                                                                                                神様をあまりにも愛する現代の宗教家達は、神様のために強引な表現である地獄をゲヘナ、陰府などと書いて神様を庇おうとします。しかし、神様はこのような人々は地獄に行くと言われます「啓示録22:19」。                                                                                             ですから、解釈が強引だから非難される問題ではありません。かえって、まるで天使のように満面に笑みを浮かべながら神様は愛のみのように教える偽者がもっと非難されるべきです。                                                                                                          {2}「SDAおよび私の真偽について」                                                                                                              貴方およびSDAは神様を愛すると言っています。イエスキリストが来られた時、イスラエルの人々もそうでした。しかし、神様からは毒蛇とまで呼ばれました。                                                                                                                        真に真に貴方に言いますが、もし貴方が神様を愛するならば、私が誰について言っているかを分かるはずです。貴方はいつも私はこう思う、私はこの場合はこう思うと言っていますが、それは神様について言っているのではなく、貴方自身について言っているのです。                                                                                                        私は自分のことについて言っているのではなく、一々聖書から証拠を明かしながら言っています。もし、貴方が神様の人であるならば、これは聖書の何処に書かれてるよと言って無かった部分さえも聖書にある事を分かるはずです。数多くの人々が聖書の一節を読んでから自分なりの考えを述べています。彼らの父は神様では無く、この世の支配者なのです。                                                                                            {3}「女預言者について」                                                                                                                     デモテ前書2:12~14は「私は女が教えたり男に権威を行使することを許しませんので~また、アダムが騙されたのではなく、エバが騙されて罪を犯したからです」といって女の教会での権威行使を禁じています。これは、女を差別するのではなく、秩序のためだと言われています。だから、女が教会で教えることは神様の秩序に反する行為です。EGWは悪魔に騙されたのです。                                                                                                  女が子供を教えることは権威行為になりません。子供には男の子も居ますが、彼らは男ではなく、子供だからです。賛美歌を歌ったり、人々に救いの福音を述べたり、女がすることはいっぱいあります。教会は建物では無く、救われた人々の集まりです。いくら大勢の人が集まっても救われてない人は教会ではありません。                                                                                                           士師て何の意味ですか?私には分かりません。JUDGES「裁判官記4:4」のデボラは裁判官として悪を起こしたイスラエルの人々を裁いています。                                                                                             彼女が雄弁したと言う貴方の表現は大げさな感じがします。                                                                                                    列王記22:14も神様の裁きを預言しています。                                                                                                           しかし、ここにはもっと大きな意味があります。聖書には後になって神様が行われる予表があります。裁きの日が来ると救われた人々が救われて無い人々を裁くようになります。勿論、救われた人々の中には救われた女達も含まれます「コリント前6:2」。だから、裁判官記4:4はコリント前6:2の予表なのです。                                                                                                          {4}「反対聖句について」                                                                                       アダムの堕落から出エジプト記18章までは、ただ神様を信じるだけで救われる時代でした「創世記15:6」。                                                                                                            出19章からヨハネまでは律法時代です。律法を完璧に守れば救われるという約束でした。                                                                                                                      律法は厳しいです。自分が犯した罪の分だけの代価が支払われるからです。言わば、目には目、歯には歯です。律法を守って救われる人は一人もいません。これを分かる神様は、罪を犯した時には子羊や牛を犯した罪人の身代わりとして捧げるようにして、罪を許したのです。                                                                                                    イエスキリストの初臨から十字架まではイスラエルの王様になるイエスを王として迎えることで救われました。                                                                                                             天国という言葉はマタイ福音にしか無い言葉で王国の意味で使われています。この天国を暴力によって奪い、彼らはイエスを十字架で処刑しました「マタイ11:12」。だから、イエスを王様として迎えると成立したはずの王国が延期されたのです。千年王国です。                                                                                                          目には目、歯には歯の律法は王国では、マタイ5:38~42のように替わります。                                                                                           イスラエルに与えられた神様の民としてのしるしの一つは割礼でした。異邦人は神様から割礼をもらったことも無く、律法をもらったこともありません。                                                                                                                         しかし、彼らがイエスを十字架に掛けることによって新しい時代をもたらしたのです。即ち、恩恵福音の時代です。                                                                                                          今は誰でも十字架の上で流されたイエスの尊い血が自分の罪を購ってくれたことを心から信じる人は救われます。                                                                                                                 イスラエル人も同じです。だから割礼は意味が無いのです。だから、「律法によって義があるようになった貴方達は誰でもキリストが無用になり、恩恵からは離れて行ったのです。ガラテヤ5:4」と言っているのです。即ち、律法を守って救われようと頑張る人は、十字架のキリストが無用になり、その恵みを受けることが出来ないとの意味です。                                                                                              旧約の人々の罪の身代わりになって予表として殺された子羊が、実際に子羊として来られ、私達の罪の身代わりとなって処刑されたのです。だから、ヨハネはイエスを見て「御覧なさい、世の中の罪を取り除く神様の子羊です。ヨハネ福音1:29」と言ったのです。                                                                                                          デモテ後2:15「貴方は真理の御言葉を正しく分けて自身が神様の御前で恥じることの無い働き者として認められるように勉強しなさい」。神様は自分の子供達「神様の霊が内にいらっしゃる人々」に御言葉を正しく分けて勉強するように言われます。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

ところで、「士師記」というのは日本語の主流聖書では共通した名前だと思っていましたが違うのでしょうか。
裁判官記というのは初めて聞きました。
何と言う訳をお使いでしょうか?

補足日時:2008/09/25 18:34
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「女預言者は旧約にも居ますし、彼女らは雄弁に語っています。

聖句はその多くに反対聖句もあることを考慮して、」書いてほしいと言ってますが、                                                                                                {1}彼女らが何を雄弁しましたか?                                                                                                                          {2}多くの反対聖句はなんですか?                                                                                             詳しく書いてくれないと分かりませんので、それを探して書いてくれませんか?

この回答への補足

先ず、女預言者です。
士師記4:4~
列王記下22:14~
等はどうでしょう。

反対聖句です。
旧約と新約をまたげば沢山出てきます。
例えば、出エジプト記や、レビ記で、目には目を、歯には歯をと神ご自身が語られていますが、新約でイエス様はきっぱりと変更しています。
また、創世記17章で神は割礼を命じていますが、新約の至る所でパウロは割礼は意味の無い行為だと言っています。

ざっと今現在すぐに思い出せるのはこの位ですが、他にも沢山あります。

不十分でしょうか。

補足日時:2008/09/23 19:58
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