
なぜでしょう?
*
参考:普遍神のスペックです。
1. どの民族のどの言語でも 日本語で《かみ》と呼ぶ言葉があると考えられます。それは どういう意味か? そしてそもそもなぜそういう言葉があるのか?
2. みなで共通の理解を得ようとして持ったのは 次の内容だと思われます。
① 人知を超えている
② 超自然かつ超経験(まとめて非経験の場ないしチカラ)
3. ここから 多少とも学問的な定義を持とうとします。
③ 概念として 絶対性ないし無限を言う。
・ 絶対性とは 相対的で有限な経験事象を超えた場
ないしチカラのこと
・ それは 経験事象としての性格である《有るか無
いか》の問いを超えており また 同じく因果
関係から自由だということ
・ 無限とは 二で割っても三で割っても 商はもと
の無限のままであるもの
④ 認識じょうの位置づけとしては 《非知》である:
・ 経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)
可知(認識しうるものごと)
既知(間違いだったと分かることもあるが知ったとする)
未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)
不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証
明も間違い得る)
・ 非経験の場(絶対性)
非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ
incomprehensible incomprehensibility )
3-1. 言いかえると このように概念整理した何らかのもの――それは ともかくナゾである――について 一定の言葉をあてようとした結果が 《かみ》なのだと思われる。
4. このように基礎がきづかれたなら 人びとはあとは大胆にその神について忖度したり 神を人間の視点からに過ぎないが説明しようとしたりする。
⑤ 神についての属性を思い考えてみる。:
〔つねに真か偽の次元にある人間の主観真実を超えた〕真理
〔善悪を超えた善悪の彼岸としての〕至高の善(スムム・ボヌム)
〔相対的な美醜を超えた〕美
〔愛憎を超えた〕愛(アガペー)
〔真理がすべてにおいてすべてであることを実現させる〕全知全能
⑥ 絶対性からそれを擬人化して:絶対者
⑦ 全知全能なる絶対者を物語化して:創造主
(非経験と経験世界とは絶対のへだたりがあることを言っている)
⓼ 創造主のチカラのおよぶところとして:摂理
(因果律を超えているチカラによる人間への因果応報なる説)
5. このような神と人間とは――人間はそれぞれ個人たるわれとして――カカハリが生じる。これを信仰と言う。
5-1. 信仰は その相手が《非知なる非経験の場ないしチカラ》であるからには 《考えるや感じる》では埒があかないゆえ 《信じる》とよぶ人間の意志行為である。
5ー2. すなわち 次の如く図示される。
【非知の謎】:信じる:非思考の庭:クレド (ヒラメキ/良心)
-----------------------------
【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (直観/呵責・恥ぢ)
【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(直感/
ヤマシサ反応)
6. なお 宗教は 信仰とは別である。
6-1. 宗教は ⑤から⓼までの人間の思考の結果――これは 神観ないしその体系化として神学と言う――にもとづき 倫理規範や宇宙観を打ち建てるときのオシへである。
6-2. もしこのオシへを――①から④までに説明する神の代わりに――あたかも神として信じなさいと説くなら その宗教は 人間性にかんする自然本性に悖る。人間性は 《信じる》と《考える・感じる》とを峻別するからです。
7. なお《信じる》とは 《非知なるナゾを――すなわち神を――無条件で無根拠にてわが心に受け容れること》を言う。
8. 具体的には 神は 《有るか無いか》が定まらないのであるゆえ いづれか一方を人間がえらんで信じられる。信仰は 《有る神》派と《無い神》派とに分かれる。互いに同等・対等である。
9. また《有る神》派の中では その名を自由にえらぶことが出来るわけゆえ さまざまに分かれる。アルケー神でも イワシノアタマ神でも 自由なり。(宗教にはならない)。
A 回答 (5件)
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No.4
- 回答日時:
聖書は誰が書いたのか?
人間が書いたのではないのか?
であれば聖書の神は人間が考えたモノではないのか?
もちろん神の子イエスキリストも人間が考えたモノではないのか?
人間が考えたものが絶対とか普遍とか主張して何の意味がある?
聖書だけ特別って考えは許されるものではない。
いい加減バカな芝居は止めたほーがいい。
★ 聖書は誰が書いたのか?
☆ 旧約聖書は 二つないし三つの聖書記者グループが書いています。自分たちの歴史を遺しておこうとして。
新約聖書は これも同じで特にキリストと呼ばれるようになったイエスの足跡を――じつは 旧約聖書の内容を継ぐかたちであるとして――追っている。
もっとも パウロの諸書簡は パウロが各地の信徒たちにイエスキリストについての説明を書き送ったものです。
★ 人間が書いたのではないのか?
☆ 預言者などのばあい 神による啓示にもとづき書いたと言いますが むろん人間である聖書記者たちが書きました。
★ であれば聖書の神は人間が考えたモノではないのか?
☆ 書くにあたってそれぞれ考えて書いています。そして 人間の言葉で表現されたものは 経験思想です。
★ もちろん神の子イエスキリストも人間が考えたモノではないのか?
☆ 信仰を持つ人間の思考をとおして すべて書かれています。
★ 人間が考えたものが絶対とか普遍とか主張して何の意味がある?
☆ そんなことは――組織宗教であるまいに――言うわけがありません。
イエスが示した神が 絶対性として見立てられる普遍神であるという思想です。
聖書が 絶対だとか神なのだというのは そういう思い込みの宗教者です。
★ 聖書だけ特別って考えは許されるものではない。
☆ この世界のすべてのことが 普遍神を――そしてそれは人間に起きるヒラメキをとおして――指し示しているという見方です。
もしほかの名の神を信仰する場合の聖典では 普遍神のことを語っていないとすれば 聖書だけが 普遍神を語るという意味では 特別なのかも知れません。
でもたとえば親鸞は 普遍神を示唆していると見ます。〔ので 聖書だけが 特別だとは言っていません〕。

No.3
- 回答日時:
>9. また《有る神》派の中では その名を自由にえらぶことが出来るわけゆえ さまざまに分かれる。
アルケー神でも イワシノアタマ神でも 自由なり。(宗教にはならない)。宗教になる、ならないは重要ではない。
初めから普遍神は宗教的なものと決めつけている。
聖書は人間の願望で作られたモノに過ぎない。
聖書の中の神も人間の願望で作られたモノに過ぎない。
イエス・キリストも人間の願望で作られたモノに過ぎない。
これらは普遍ではなく人間の願望そのものである。
ご回答をありがとうございます。
★ 宗教になる、ならないは重要ではない。
☆ 《あやまって 成り得る》可能性があります。基本は 成らない。
《神の名が 人によって自由に決めることが出来る》とするとき それは オシへの問題ではない。オシへが出て来るのは まったく別の段階だということが言いたかった。
★ 初めから普遍神は宗教的なものと決めつけている。
聖書は人間の願望で作られたモノに過ぎない。
聖書の中の神も人間の願望で作られたモノに過ぎない。
イエス・キリストも人間の願望で作られたモノに過ぎない。
これらは普遍ではなく人間の願望そのものである。
☆ 仮りにもしそうだとして それでは 人間の言葉はどの言語でも 《かみ》という語を持っている。使っている。そのことは:
★ 人間の願望
☆ ですか? そうではないですか?
そうだとすれば 神という神はみな 人間の願望に過ぎず 普遍な神は有り得ないとなる。
にんげんの願望ではないとすれば 普遍神も聖書の神も そうなり得る。
No.2
- 回答日時:
物質界においては、普遍的絶対神と言われるとやはりロゴスを想起させられます。
無意識界を考えると、何もない心に愛憎を与える超感性的何かもやはり普遍的な何かだと思います。キリスト衝動とか言うらしいですけど。多分悟りと事でしょうか。
ご回答をありがとうございます。
★ 物質界においては、普遍的絶対神と言われるとやはりロゴスを想起させられます。
☆ でしょうが:
① まづ《物質界においては》という条件づけは要らないかと思います。
② そして 《ロゴス》は 普遍神ないし絶対性といった概念認識のあとに それを示唆する言葉として取り上げられるものではないかとは思います。
③ プラトンに拠るにせよ関わらせないにせよ ロゴスといった言葉は用い得るかと確かに考えられます。聖書のヨハネ福音(その冒頭)にも用いられています。
★ 無意識界を考えると、何もない心に愛憎を与える超感性的何かもやはり普遍的な何かだと思います。
☆ うむ。
④ 《無意識》を持ち出す意味が 分かりづらいです。
⑤ なぜなら 《超感性的何か》を持ち出すなら すでに それは同じく超思考的であり 要するに《超自然および超経験なる場ないしチカラ》なのだと見ます。
⑥ したがって わざわざ《意識しないとしても経験事象であるものごと》としての無意識界を持ち出す必要はない・・・とは思います。
⑦ 普遍神としての生命性ないし霊性は たしかに相対存在であるわれわれ人間に対して 何らかのハタラキカケを成すと見る場合があります。ありますが おそらく 好き嫌いや愛憎はむしろ人間の側から出て来る感情や思いであって 普遍神のあたえるものは愛憎を超えた愛もしくはみづみづしいチカラではないかと。
★ キリスト衝動とか言うらしいですけど。多分悟りと事でしょうか。
☆
⓼ 泉のごとく尽きることなく湧き出る水をあたえる あるいは 心の燈心に火をともす といっためぐみがあたえられる。
☆ 《キリスト衝動》という言葉じたいは 初めてうかがいました。
★ さとり
☆ の智慧に大いにつながっているとも思います。
No.1
- 回答日時:
逆の考え方を してるから 何時までも分からないだけですよ・・
親が先・・
なので 神が先・・
何故 哲学って 未熟にカジってる人は 屁理屈ばかりに なるのだろーね・・
ご回答をありがとうございます。
ですが 結論の理由は:
★ ~~~
親が先・・
なので 神が先・・
~~~
☆ なのに:
★ 逆の考え方を してるから
☆ ということですか。ということは:
☆☆ 1. どの民族のどの言語でも 日本語で《かみ》と呼ぶ言葉がある
☆ という事態から 神の定義にすすむというその順序が よくない・・・ってことですかね。
☆ 哲学ですからね。定義と推論の問題ですよね。
この場合は 仮説演繹法(アブダクション)によっているのですが だとすれば その順序で考えをすすめています。
ご見解の内容ないし意味が 分かりづらいですね。
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