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キリスト教系私立小学校目指して1年子供と切磋琢磨しましたが不合格でした。
その中で教会に導かれ、自分も洗礼を受けようと聖書の教えを学んで
いたのですが不合格になったことによって夫より
「神様にお願いすれば叶うんじゃなかったのか?(嘲笑)」
などと信仰に対して心無い言葉をかけられてそれがきっかけで
教会へ行くことができなくなってしまいました。
今回の不合格によって信仰することを無駄、馬鹿げた事と思われて
しまったようです。
そして私にも確かに神様を信じていても、落ちてしまったことにわだかまりが
出来てしまいました。
今後私が家族の反対や自分の中の不信感に打ち勝ち信仰を持つにはどうすればよいでしょうか・・・。

A 回答 (11件中1~10件)

★補足させていただきます。



私たちが学ぶことは生活のなかにこそあります。

そして、そのときそのときの心の在り方が大きなキーポイントになります。

物事が順調にいっているときよりも、思い通りにならないときの方が学ぶことがたくさんあり、必要な学びを必要なときに与えられるのです。

それを、前向きにとらえて感謝の気持ちに切り替えができるように努力をしていくことで、成長していきます。失敗から学ぶことの方が大きく困難であると思います。ですから、感謝が足りない人は愚痴や不平・不満をすぐに口にして、後悔の念がいつまでも離れません。

この質問を通して今、あなたはその大きなチャンスを与えられているということに、気付いているのではありませんか。

結果がすべてではないという考え方は気休めでも自己満足でもありません。途中の努力や直向きな姿勢、そして何事にも素直に感謝をしようとする心の在り方が、心を成長させるのです。

今までに見えなかった大切なものが見えるようになるまでには、いくつもの困難があるのです。

感謝への切り替えです。
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私自身の事を、信じてすぐに神戸の震災に会い家族がバラバラにされ会社はつぶれ、そして住んでいたアパートも・・・


しかし、その後神は僕にもっと新しい道を備えてくださいました。

主の道と私たちの考える道は異なると・・・・・
人生の中で色々あります。しかし、その中で
、疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、 わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである
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この回答へのお礼

たくさんの回答ありがとうございます
心に留めて、次の主日こそ礼拝へ向かえる様
努力したいと思います。

お礼日時:2007/12/01 12:57

あなたが癒されるために祈りますね。


本当の信仰は求めません。ただ御心のままに・・・
全ての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられ者に、平安な義を結ばせるようになる(ヘブル書12‐11)
あなたの計画ではなく主の計画です。感謝しましょう。

不合格になっても信じてください。ただ信じるだけです。
新約聖書 ヨハネによる福音書15章1~5節を読んでください。
癒し成長させる方は誰でしょうか?
信仰はすべての道でイエスを認めることです。
祈ってます
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
今の状態には聖書の導きが一番重要かとおもいますが

落とされた
落ちた
落ちてしまった

時に読んでいた本のひとつに見えてしまい
今は聖書を見るのも辛いです。
やさしいことばもうわっつらだけの何もならないことに聞こえてしまいます。

お礼日時:2007/11/25 09:07

信仰とは結果的に満足できる人生を歩み、安心して死に向かう事に目的があり、どの学校に行けるかはその一過程に過ぎません。


私は中学の洗礼、結婚式も母校でした。
子供もカトリックの環境でと思いましたが、30年も経って母校は手の届く所になく、別の学校にしました。
友人の紹介もあり、その学校に決めましたが、受験の朝、子供は体調を崩し、失敗しました。
でも、それだからといって信仰に何も影響ありません。他の方が仰るように、現世利益の為の信仰ではないからです。
子供は、結局予定外の学校に行きましたが、その分学業にもゆとりが出来、本来のやりたい事に時間を費やす事が出来ました。
今では幼稚園の前から好きだったコンピュータの仕事に就き、幾つもの大手の会社を引き受けるだけではなく、以前の会社からも相談や手助けを依頼されるほど忙しく働いています。
本人も「あの学校だったから、今の自分がある。もし受験で成功していたら、きっと潰されていただろう。」と満足しています。
人生において、今自分が望んでいるものが、善いものであるのかそうでないかは判るはずもありません。現世利益を望むとしても、入学が自分の人生にとってマイナスであるなら、そして入らなかったことがプラスになるなら、神の恵みとして「入らない」事を与えてくれるのではないでしょうか?
神様は乗り越えられない、そして成長しない試練は与えないと無条件で信頼する事が、信仰の基本だと思います。
宝玉は原石を絹で磨いても輝きはしません。最初は荒い砥石で研磨してこそ真の光を出すのです。信仰も、決して「何事も願うようになる」といった怠惰な人生を与えてくれる訳ではないのです
大きな試練も乗り越えられる試練に替えて頂く、そして、乗り越える勇気を与えて頂く。「大難を小難に、小難を無難に」という考えが、宗教・宗派に関係なく、共通するものだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます
非常に参考になりました。

正直、子供はキリスト教系でなかったとしても
学力もなく態度も「こども」であり受験には全く
向いていないとはわかっていたのですが
信仰があるので神が救ってくれると思い込んでおりました。
私立私立とムキになっていたのは公立のモラルやレベルの
低い子供とまざるとただでさえもアレな子供がさらに朱にまざって
しまうだろうという懸念からでした。
今はそれと信仰は別です。
別なのですがやりきれません。

教会員のお子さんや牧師先生のお子さんが
キリスト教系私立には行っていない
と聞いても

体調も万全。いつもの姿を見せて挑んで、捨てられた。

という事実だけが信仰の光を閉ざしてしまいました。

お礼日時:2007/11/25 09:05

信仰はすばらしいことです。



不合格から何を学びますか?

宗教とはこのようなものだと思います。

物事を善悪や成否で考えると苦が生じるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
不合格からは いくら自分のやり方で信じても
どうにもならない ということしか残りませんでした。
受験せずに教会とつきあっていけばよかったと
後悔しています。
(その教会には不合格になった学校の関係者が多いので。。。)

お礼日時:2007/11/25 09:02

キリスト者です。


日本において宗教は、一般的にはどうも「ご利益を得るもの」という
誤った考えがまかりとおっており、そんな的外れな回答ばかり
寄せられていますが、仏教も神道もキリスト教も、本来は神や仏と人間の
かかわりをとおして、試練を乗り越え、人間性を豊かに強くしていくところに
本質があるはずです。「それなら宗教じゃなくてもいいじゃないか」
という意見もあるとは思いますが、あえて自分の弱さを知り、自分を
「無」にすることで謙虚になり、それを自分の強さに変えていったり、
自分のこころの支えやポリシーになるものを得ることで、
この世の流され変わりやすい価値観に振り回されない
「確固たる自分」を得るには、有効な手段の一つではないかと思います。

聖書を深く読み込むと、神に対する信仰心が強いどんな登場人物も、
人間として悩み、ときには厚い信仰があるにもかかわらず
神様から大きな試練を与えられて苦しみ、迫害されて
亡くなった者もおります。しかし、神様は苦しみを乗り越えて
強くなるよう、あえて試練を与えているんですよね。
迫害された者も神をうらむどころか、人々のために命を惜しまず
亡くなっていきました。私も高校生のときに受け入れてから、
自分の望みが全く叶わないことだらけですよ。むしろ、就職も
失敗した経験もあるし、長期間の療養を必要とする病気にもなりました。
ただ、振り返ってみたときに、自分が望んだ進路が誤りだったり
(適性が合わなかった、業績が悪くてすぐ倒産した、など)
つらい経験がものをいって、それを仕事や学びにいかすなど
自分の肥やしになっているものもあります。

ご主人も「宗教」に偏った見方があるし、あなた自身も
「こころから信じて受け入れる」という部分で、自分の問題に気付かされて
教会に足が運べなくなってしまったんでしょうね。
でも、聖書の本質にどこか共鳴できるところがあるなら
信仰者ではなく「求道者」として学びを続けていただくといいでしょうね。
ご主人には、宗教はご利益を得るのが本質ではない、聖書の知識を
知りたいだけだし、自分のこころを豊かにしたい、と伝えてみては
いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
まだ以前のように教会の門をくぐる気持ちにはなれず
鬱々しています。
ただ皆さんの祈り慰めの言葉ありがたくうけとめたいと
一字一句逃さずに読ませていただき
心は確実に癒されております。
たしかに子供ではなく自分の求道は進めるべきかと
自覚はしています。

今はキリスト教系学校不合格のため、
・周りがキリスト教系のお子さんばかりの教会学校に
不合格の子供を連れて行くのは辛い(あまり物のようで)
・その事で教会員の方々が慰めるのも辛い(うわっつらのようで)
これが重い枷になっています。

お礼日時:2007/11/25 09:00

なぜ信仰を持たねばならないのでしょうか?



実践の後、結果として成り立たなかったのならその話は捨てていいのではないかという考え方があります。

いろんな宗教のいっていることを学び、論理的・道徳的・理性的・実証的であるものを見出さなければ、実生活で役に立たないでしょう。

何の根拠も示ずに「いいから信じろ!」では論理・理性・実証が、下手したら道徳すら成り立たないかもしれません。し、そのように言う人自体その話を深く理解し切れていないのでしょう。

「完璧な信仰」を急がなくていいと思います。

自分で何かを確認するまでは全て「仮定」の話なのですから。

確実に幸せになれる方法を小さいことから着々と確認してみればいいと思います。

怒らないように・あまり欲張らない・いつも笑顔でいるには…いろいろ方法は説かれています。がんばってみてください。

~あなたの悩み苦しみがなくなりますように~
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この回答へのお礼

質問後の日曜になりました。
ご回答参考にさせていただきました。
実に的確な回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/11/25 08:56

不信感など、神を恐れぬことです。

深く反省すべきです。
神様を信じるものだけが救われるのです。

ご利益が無いのはあなたが悪いので、神様のせいじゃありません。
たぶん、合格するにはもっとたくさん寄付や奉仕が必要だったのです。
楽してご利益は得られませんよ。
まして今回は、あなたにペナルティーがつきました。
これを回復させねばなりませんから、全財産を注ぎ込む覚悟で頑張りましょう。



宗教なんてものは、そんなものです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/25 08:54

心がけだと思います。


神様は、一個人の願いなど感知しないということです。
神様へささげる想いは、感謝のみです。
この世へ、生を受けてその生を維持する糧として、空気や水や動植物を頂き、生かさせて頂いています。
それは、自分の身であり、子供の身であり家族の身でもあるということです。
その感謝の想いを捧げ日々、自己の出来る努力を行い、精進して生きていくことが人に与えられた人としての道なのだと思います。
信仰とは、神への祈願や見返りを求めるものではないということですね。

"今日も、生かして頂いて ありがとう御座います”
この言葉が、今一番の神様への感謝の言霊だと感じております。
もし、時間があれば下記のブログを見に行かれて記事やコメントをご覧になられれば、信仰に対する考えや想いに対しての気付きを得ることが出来るかと思いますので、ぜひお勧めです。(´ー`)
http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/s/%A5%AD%A5% …

神様への感謝の想いとともに、ご先祖への感謝も大事だと云う事で、ご自分で出来る先祖供養のカテゴリーもどうぞ。<(_ _)>
http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/c/a46bdd49ab …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/25 08:53

日本人は昔から神道や仏教でした。



異国の神様にお願いするより自分の国の神様・仏様を拝んだ方がずっと功徳が有るような気がします。

私も昔若いときキリスト教にはまり込んだ事があります。
熱に浮かされているのなら、早く目覚めた方が良いですよ。

でも絶対に信仰したいのなら、周りは気にせずに頑張ることですね。

この回答への補足

ハマったきっかけなど教えていただけると参考になります

補足日時:2007/11/21 21:27
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この回答へのお礼

質問後の日曜になりました。
ご回答参考にさせていただきました。
まだ子供については連れて行きにくい気持ちなのが変わらず
自分だけ主日に行けるか行けないかの狭間で葛藤中です。
信仰はあるはずなのに(夫)周りから「信仰している割には落ちた」と
言われて悔しい、苦しいこの思いが抜けないのです。
私自身に問題があると思います。

お礼日時:2007/11/25 08:53

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