3分あったら何をしますか?

 1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?

 2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。

 3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。

 4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。

 5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。

 6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。

 7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。

 8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。

 9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。

 10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。

 11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。

 12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。
 (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。

 13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。

 14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。




 これを問います。ご教授ください。

A 回答 (24件中1~10件)

> 《非経験の場》は けっきょく 経験存在であるわたしたちが


 それ自体を・つまり《非経験の場》の想定として規定される《神》そのものを
 何とかして経験世界の言葉で差し示そうとする
 そのための《補助線》である。

 さきほど読みまして・・・(^^;)。遅くなりました。


 また違うと言われそうですが、あなたも認識論として捉えていたのだな、と解釈します。そして了解できます。

 バーガーは補助線を大仰に「聖なる天蓋」と呼んだ。浅田彰は「突出構造」と呼んだ(← バーガーのパクリっぽい(^^;))。

 ウェーバーは、世界各地の補助線のありようと求めて、宗教社会学を始めた。そんな風に感じます。


> 12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。
 (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。

 まったくその通りだと思います。ところが無神論者は、無神論も信仰だと自覚しつつ、《神は無い》という証明も不可能だと知りながら、時にムキになる。たぶん、普段の行いからです。例えば、

  「神は妄想である,リチャード・ドーキンス」

などです。ずいぶん過激なタイトルですが、その内容は、

> 13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。

に近いパッションを感じます。

この回答への補足

 No.14の補足欄およびお礼欄を承けて ここにお応えを継ぎます。


 ★ バーガー
 ☆ を読んでみなくてはいけなくなったみたいです。


      *


 ★ とにかく彼は、世界各地で神々がそのように別々に理解される根拠(エートス)を知りたかった。そのフィールドワーク
 ☆ この点 了解しました。《補助線》の仮説を組み立てるまでには行っていない段階であった。《世界各地のナラワシ》にそれぞれ即してまづは実態を捉えようと苦闘した。といったところでしょうか。

 儒教なりブラフマニズムなりについて 何だかどこか相手を立てるような――媚を売るとは言いませんが 最初は好意的に扱うのが礼儀であるとでも言いたげに――やさしくおとなしい議論になっていると思います。
 たとえば 因果応報説をともなった輪廻転生の理論 これをけっきょく 理屈抜きに持ち上げていますよね。合理的な弁神論であると。

 その意味では 補助線を引くという仮説に到る前の段階であったかも分かりません。


        *


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神を信じていない限り、もしくは神を科学によって評価できると思わない限り、神の問題は、それに対してどういう作業仮説を立てるかの問題になり、神をどう概念化するかの問題にはなりません。それは副産物です。なので自分は、常にあなたの意図が時々わからなくなる訳です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (あ) わたしは 聖書につたえられたキリスト・イエスの指し示す神を信じています。水による洗礼を受けたわけではありません。

 (い) その神は ほかの宗教における別の名のそれぞれの神をつつみ容れており あるいはまた無神論の《無い神》をも含みます。(というふうにイエスが指し示したと受け取っています。と同時に キリストのキの字もすでに出さないようになる方向をあゆみます)。

 (う) この神〔の信仰〕が 現実であるという思いを伝えようとする。その現実というのは 歴史事実および人間の――虚構をも容れた――真実とから成る時空間の世界です。

 (え) 神の《概念化》は そう大したものではありません。全知全能だとか至高善だとかこの上なき愛であったり創造主だったりは 派生物です。《非思考の庭》からすでに《思考の緑野》に降りて来て想像したものです。

 (お) ただし 神〔への信仰〕が現実だということを説明するために いろんな概念やその装置を活用するのは 一般にふつうにおこなってもよいと考えています。つまり 用います。

 そんな感じでしょうか。

         *

 ○ 補助線なる仮説
 ☆ では 一応わたしのオリジナルということで。(一週間か二週間か前に得たアイディアです)。(もっとも みなさんと向き合い そして特に自然科学系の人たちの考えと相い向き合ったところに得られたとすれば やはり《関係性》ははたらいている。のでしょうね)。

         *

 ○ DNA の自己認識
 ☆ は ちょっと待てが出たということは おおきな主題であり問題であるということでしょうか。

補足日時:2013/09/17 22:53
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この回答へのお礼

 なるほど。無神論者も 《パッション》を持つのですね。しかも 
 ★ 無神論も信仰だと自覚しつつ、《神は無い》という証明も不可能だと知りながら、時にムキになる。


 ddtddtddt さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうしますと どうなりますか。
 ★ また違うと言われそうですが、あなたも認識論として捉えていたのだな、と解釈します。そして了解できます。
 ☆ まぁ げんみつに言うなら ひととの交わりとしての自己表現は 経験合理性にもとづかねばならない。という意味で 《認識論》としての議論になるかと思うわけです。じっさいそうしています。


 ★ ウェーバーは、世界各地の補助線のありようと求めて、宗教社会学を始めた。そんな風に感じます。
 ☆ そうなんでしょうが そのとおりなのでしょうけれど ひとつしっくり来ないところをお伝えすれば それは 聖人や聖者の名をつらねて その存在に何か――《補助線》としてなのかどうなのか いささかうたがいたくなるようなかたちで――特別の意味をあたえている。それは 学問の目指すそのあり方としての意味をふくむような・要するに《理想》ということだと思うのですが これを《星》として名づけとらえている。

 これは おそらく――かんたんに処理してしまいますが――貴族趣味のようなものだと見ます。同等・平等な人間たちの中に或る種の《貴種》をわざわざ聖別するという仕儀のことです。いただけません。


 ★ バーガーは補助線を大仰に「聖なる天蓋」と呼んだ。浅田彰は「突出構造」と呼んだ(← バーガーのパクリっぽい(^^;))。
 ☆ 聖なる天蓋について どなたかに――この質疑応答の場で――おそわった記憶があるのですが バーガーは覚えていませんでした。

 ○ The Sacred Canopy: Elements of a Sociological Theory of Religion, (Doubleday, 1967).
  薗田稔訳『聖なる天蓋――神聖世界の社会学』(新曜社, 1979年)

 ですか。問題は 《聖なる》という用語が どれだけ経験合理性の言葉で説明しうるかにかかっていると思います。
 そして 《天蓋》は 何とも適宜性にとぼしいのではないかとも考えます。それだと 神すなわち非経験の場と そして人間とのあいだに 先ほどのヱーバーの《星》を置いてみるかたちであったり あるいは むしろあたまの中に《神》なら神という観念を据えてその観念をめぐってああだこうだと――非思考であるはずのところを――思考にて追い求めるというようなわるいクセをみちびき勝ちではないか。こうも思います。
 (読んでいませんので 憶測による物言いです)。

 浅田の《突出構造》。覚えていませんでした。浅田は 或る種の保留を条件として持った無神論ではないかと思っています。保留というのは 言い切れないという意味です。そういう但し書きを条件とするという意味だと思います。


 ところで これらの場合 《補助線》という言葉を使っていますか?
 わたしは この場合は――ほとんどいつも アウグスティヌスからの請け売りのあとに得たヒラメキによるのですが この場合は――みづからのオリジナルかと思ったのですが 補助線説はすでにありましたか。あったなら 仕方ありません。



 おおきな賛同をありがとうございます。


 ところで・ちなみに 遺伝子は 《認識――DNA なる自己の読み取り――》のハタラキが主要なものなのですか? つまり《認識が存在に先行する》ほどなのですか? もしくは 認識と存在とが同時発生的なのでしょうか?
 【Q:認識が存在に先行するか?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8254466.html

 その回答No.10および11での ok9608 さんのご議論です。よろしかったら ご見解をおしえてください。

お礼日時:2013/09/16 13:56

 #23です。

#23を書いた後、答責性について、じつは似たような事を考えていました・・・。

>これを言わなくなったなら 人間は人間ではなくなる。かも知れない。

 では、映画で娘を見殺しにしたロボットは、その事に関して何の痛痒も感じないのだろうか?。映画は映画でエンタテイメントなので、その点までには踏み込みませんが、これは自主判断/自己認識できる機械に関する、重要な点だと思います。

 主人公を見殺しにするのと、娘を見殺しにするのと、どっちがより妥当か(正しいとは言いません)は、恐らく論理では決着の着かない問題だと思います。

 というよりも、「見殺しにした!」という感覚や感情を持てるか?、という問題だと思います・・・とりあえずは。

 自主判断できる機械なら感情を持つと理論的になれば、とりあえず、OKなんですけどね(^^;)。


>○ これが《非思考の庭》としての《無い神》の立ち場なのだな、と感じました

> と。思えばここまで来たもんだと言いますか このあたりが すっきりするかどうか・・・でしょうか。

 過去の応答も読んでみますが、前から同じ事を言ってるんでないの(傾向は違うが)?、と思う事は時々ありました。ここではお応えできませんが、いずれどこかで・・・(^^;)。
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この回答へのお礼

 ddtddtddt さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 というよりも、「見殺しにした!」という感覚や感情を持てるか?、という問題だと思います・・・とりあえずは。

 自主判断できる機械なら感情を持つと理論的になれば、とりあえず、OKなんですけどね(^^;)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええ。ここまで《機械》が成ったなら 恐れ入りますと白旗を揚げる用意をしなければならないでしょうね。




 分かりました。それでは 一たんお開きとしましょう。
 お疲れさまでした。それでは また。

お礼日時:2013/09/29 21:44

 #22です。




>☆ 犬や鳥と人間との違いは程度問題だということの意味が やっと何となく分かったように思います じつは。

 じつは「ヒトよりほかの動物には 《歴史》がない」の意味が、なんとなくわかった気がします。ポイントはここでした。

>[あなた] ⇒ 《認識機能を持ち思考できるものが そのみづからが認識し思考していることをも知っているという存在であるかどうかの境界線》

と自分よりの言葉で表現してもらったので、上記と、

>[私] ⇒ 人間を除く動物のほとんどの行動は、遺伝子のプログラム(本能?)に沿ってオートマタのように動作してるだけだ・・・

>[あなた] ⇒ 《ことば》がないということですが・・・

を並置して眺めると、

>[あなた] ⇒ ・・・考えたことや生きたということの積み重ねとしての歴史を持つかどうかで 違いが出ている。

を了解できます。

 自分自身や自分の過去(歴史)を、概念化して捉えているかどうか・・・と考えたとき、確かに犬にはほとんど出来ていないと思える。境界線の外にいる。

 もう一つ言えば、

>《おのれが思考しているということが分かる存在である》ということは その思考の能力やじっさいの活動が やはり存在の一部であることにほかならないと思われます。

から思う事は、これが「非思考の場としての神」などの立場なのだな、と感じました。誤解かも知れませんが。



 以下、お気軽に余談に移行します(^^)。

>ロボットは そのような歴史データの自由な活用について あらゆる人間のあらゆる活用の仕方をインプットしなければ人間に近づけない。のではないでしょうか。未来永劫まであたらしく生まれてくる人の選択肢を次から次へとインプットして行かなければならない。

 未来永劫までは無理でしょうが、上記は、現行のエキスパートシステムの作り方そのものです。知識の活用を、あらかじめ方向付けて特定分野に特化させる。それによって、現行のコンピューターでなんとか処理できそうな問題規模に抑える。これが現状です。

>もしそうではなく 選択肢の選択はロボットにまかせるとしたら どうか。それとして 人間の行動を模倣する動態的存在になれるか。

 ペンローズさんに期待しましょう(^^;)。

>答責性を持つことをも その機能としてそなえさせたら どうか。――どうなんでしょう。?????

 自主判断できるロボットが前提で、ご存知かも知れませんが、その筋(SFの世界)では超有名な次のロボット三原則があります。SF作家アイザック・アシモフさんです。

  1)ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
  2)ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、1)に反する場合は、この限りでない。
  3)ロボットは、前掲1)および2)に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

   ※2058年「ロボット工学ハンドブック」第56版 , 『われはロボット』より(by アシモフ)(^^;)

 妥当な線だと思うのですが、「言うは易し、しかし実行は・・・」ですよね?。ロボット三原則を巡って、アシモフは様々な状況を扱った数々の名作を(迷作も)考えだし、特に2)があるために、考えさせたり笑わせたりしてくれます。

 ちなみにホンダのアシモ君はアシモフのもじりで、その最大の売りは、2足歩行で歩いたり(これだけで凄い)、走ったり踊ったりできる事。言葉の応答も可能ですが、それはちっちゃいエキスパートシステムです。名づけの親はアシモフさんですが、その実態は、昔存在した「リカちゃん電話」とそんなに変わらない、という事にもなります(^^;)。


 原作とは全然別ですが、映画 『われはロボット』では、事故で車ごと河に落ちた主人公とその娘を、潜って泳いでロボットが救助に来ます。

  ※いったい、どんな技術だ?。動力は何だ?、ボディーの素材は何だ!(^^;)

 「娘を助けろ」という主人公の命令を聞かずロボットは、主人公の方が生存確率が高いと判断して娘を見殺しにし、それで主人公はロボット嫌いになります。なぜ未来のある者を助けないのかと。血も涙もない機械だと。

 でもこれは医療の緊急現場で、実際に起きている事ですよね。そこでは年齢などは関係なく、助かりそうな者から助ける、が原則です。実例は知りませんが、自分だけが助かって納得できない親は、きっといるはずです。

 答責性の問題は、まず人間が解決できていない。ロボットは人間が造るものである以上、人間以上の物(者?)にはならない。それは現在のコンピューターで作業していても、よく感じます。
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この回答へのお礼

 ddtddtddt さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >《おのれが思考しているということが分かる存在である》ということは その思考の能力やじっさいの活動が やはり存在の一部であることにほかならないと思われます。

 から思う事は、これが「非思考の場としての神」などの立場なのだな、と感じました。誤解かも知れませんが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですか。《感じ》は大事でしょうね。

 意味するその中身としては 

  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  思考は みづからが思考していると知るとは限らない。

  意識は そのみづからとしての意識を意識することはあるかも知れない。

  ただし意識については その自己意識が 果たして何であるのかは分かっていない。
  その自己意識が 果たしてそれで全体であるのかどうかは 知り得ない。

  存在という思考および意識 としての自己認識は 自己到来として捉え得る。
  自己が 自己の全体を捉えていると感じられる。

  《わたしはわたしである》。
  《〈わたしはわたしである〉わたしである》。・・・
   つまり
   1 = 1
    ( 1 = 1 ) x 1 = 1 ・・・
    1 ^ n = 1

  そこから 思考は 存在に所属していると捉えられる。
  存在は 思考や認識の機能をみづからにそなえていると自覚する。


  《そこ》は わが心なるむしろ《非思考の庭》であるかも知れない。
  非思考というのなら そこに神が霊(ナゾ)としてやどるのかも知れない。
  あるいは 無い神が やはり霊としてやどる。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~






 ★ 答責性の問題は、まず人間が解決できていない。ロボットは人間が造るものである以上、人間以上の物(者?)にはならない。それは現在のコンピューターで作業していても、よく感じます。
 ☆ そうなんですか。じっさいの情況・状態なのですね。

 答責性について げんみつには 次があります。
 
  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  答責性は 人間が持つのだけれど 人間はそれを守っているとは限らない。解決出来ていない。

  しかも 人間は そのように解決が出来ていないと知っている存在である。やはり 答責性をそなえている。

  これを言わなくなったなら 人間は人間ではなくなる。かも知れない。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ロボット三原則を巡って、アシモフは様々な状況を扱った数々の名作を(迷作も)考えだし、特に2)があるために、考えさせたり笑わせたりしてくれます。

  2) ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、1)に反する場合は、この限りでない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは どうしたことでしょう。やはり《自由》だといいのですが。と思います。





 それぞれのくだりについて触れませんでしたが おもしろかったです。

 ★ これが「非思考の場としての神」などの立場なのだな、と感じました
 ☆ これについて 次のように言いかえても だいじょうぶ 同じことだとなれば 万々歳なのですが。

  ○ これが《非思考の庭》としての《無い神》の立ち場なのだな、と感じました

 と。思えばここまで来たもんだと言いますか このあたりが すっきりするかどうか・・・でしょうか。

お礼日時:2013/09/28 17:49

 #21です。



>ひとの脳のようなひと塊りの DNA があって これは 自己認識していると同時に それとしてすでに存在している。・・・存在が成っていると同時に認識がおこなわれている。・・・

>☆ と帰結される。のだ!! でしょうか?

 個人的には、そう考える人も出てくるだろうなぁ~、くらいの程度です。それには認識の意味を拡張定義する必要がある事と、次に関連します。

>・・・認識機能は 存在のことを認識しうるか? と問いたい気持ちです。・・・

 認識の意味を拡張した後では、たぶんそこは不問に付されます。ただ、「ひとの脳のようなひと塊りの DNA」なんていう奇跡に近いものをもし見れた瞬間には、感覚として「認識機能=存在」と感じる人はいるかも知れませんが、自分は無理です。認識機能は、脳ハ-ド上での機能(存在が行う行動)に過ぎないと思っているからです。

 切り口として適切と思えるのは、今風の考えをひねくれて言ってしまえば、「生命を持ってしまった無機物」「思考できてしまった無生物」が、「生物」と「人間」だという事になります。「無機物が生命を持つかもたないかの境界線」「無生物が思考できるかどうかの境界線」はきっと、内的にどこかで(物理的機構として)関連してるのだろうな、とは漠然と思うからです。


>☆ 一点です。ヒトよりほかの生物は この《ゆづる》ということをみづからが知っているでしょうか?
>鳥なら鳥の DNA はよく自己認識している。というお答えでしょうか?

 いや、知らないでしょう。またさっきの伝で行けば、DNAに意識なんかなく、よく自己認識する訳がない。人間を除く動物のほとんどの行動は、遺伝子のプログラム(本能?)に沿ってオートマタのように動作してるだけだ、というのが自分の意見です。

 でも遺伝子複写の過程が(分子的)自己認識と、大げさに言われる事はある。単なる物理化学的反応にしか過ぎないのに・・・。でも気持ちはわかりますよ。細胞が自分の分身を自ら造るのですから。例えオートマタだったとしても、奇跡に近い出色の出来には違いない。だから混乱する・・・。


>DNA の情報ないし認識としての筋からは 人間の意志は つねにどこかへ逸れて その方向へ片寄って行くのではないかと・・・

 これはペンローズが、暗に問題にしていた事ですよね。チューリングテストを突破するような完璧なコンピューターは、単にオートマタとして人間を機械として真似てるだけなのか、それとも意識を(理解力を)持つのか?。

 実際問題として、現行のコンピューターの後継機を前提に、介護ロボットに搭載しても良さそうなエキスパートシステムは、あと少しで作れそうなところまで来ている。並行して必要なのは人間型ロボット(アンドロイド)の開発だが、既にアシモ君なんかがいる。

 そのようなものが出来たとして、その介護ロボットは自分の行動の意味を意識してるのだろうか?、理解してるのだろうか?。ペンローズによれば、原理として現行のコンピューターを前提にする限り、そんな事はありえない。


 人間は生物としてのどこかで、自己認識により、DNAプログラムのオートマタである事から自由になった。それはそう思えます。それがペンローズの奇説によるような、生物の脳の秘密だとしたら・・・。

 だったら犬や鳥でも同じではないか?。人間に出来るんだったら、全く同じ物理機構を持つ犬や鳥の脳味噌でもできる・・・。少なくとも自分には、犬には感情があり自我があり、という事は自己認識をしているように見える。要は程度問題ではないのか?。


 たぶんこの辺りが、一番穏当な答えだと思います(^^;)。
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この回答へのお礼

 ddtddtddt さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 これまで推測としてでも ここまでは言えるのではないかという見方を自然科学のことがらをめぐって応答として述べて来ましたが その行方はわたし自身に はっきりしていなかったのです。一般的に言ってです。今回少し その反応を分かりやすく明らかにしてもらったかなと感じました。(これからも 勉強して行かなくちゃとは思いました)。



 ★ 認識機能は、脳ハ-ド上での機能(存在が行う行動)に過ぎないと思っているからです。
 ☆ ええ。こうはっきりさせてもらったなら ありがたいかぎりです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 切り口として適切と思えるのは、今風の考えをひねくれて言ってしまえば、「生命を持ってしまった無機物」「思考できてしまった無生物」が、「生物」と「人間」だという事になります。「無機物が生命を持つかもたないかの境界線」「無生物が思考できるかどうかの境界線」はきっと、内的にどこかで(物理的機構として)関連してるのだろうな、とは漠然と思うからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これゆえにこそ むしろ 存在として成った者とそれが持つ認識などの機能とは次元が違う。ように思われて来ます。
 
 言いかえると 《認識機能を持ち思考できるものが そのみづからが認識し思考していることをも知っているという存在であるかどうかの境界線》 これが さらに引かれるのではないかと思うからです。

 《おのれが思考しているということが分かる存在である》ということは その思考の能力やじっさいの活動が やはり存在の一部であることにほかならないと思われます。

 もっとも・それでも 遺伝子のハタラキは 《わたし》が知らないところで稼働しているようですから このような質料の自己運動には 人間のチカラは及ばないところがあります。言ってみれば 神のチカラも及ばないかも知れません。

 そうして 手に負えないと知っていることは それら・つまり DNA たちにまかせる。しかもときには 人間の都合によいように DNA をいじったりするかも知れない。

 まちがった頓珍漢だったらごめんなさいで言いますが 遺伝子は 電磁力であって 人間の存在ないし意志は 重力であるかのごとく。・・・



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 でも遺伝子複写の過程が(分子的)自己認識と、大げさに言われる事はある。単なる物理化学的反応にしか過ぎないのに・・・。でも気持ちはわかりますよ。細胞が自分の分身を自ら造るのですから。例えオートマタだったとしても、奇跡に近い出色の出来には違いない。だから混乱する・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええ。なるほど。ここらあたりが 《認識》派が自説にとっての強みとしたいところでしょうね。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  人間は生物としてのどこかで、自己認識により、DNAプログラムのオートマタである事から自由になった。それはそう思えます。それがペンローズの奇説によるような、生物の脳の秘密だとしたら・・・。

 だったら犬や鳥でも同じではないか?。人間に出来るんだったら、全く同じ物理機構を持つ犬や鳥の脳味噌でもできる・・・。少なくとも自分には、犬には感情があり自我があり、という事は自己認識をしているように見える。要は程度問題ではないのか?。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 犬や鳥と人間との違いは程度問題だということの意味が やっと何となく分かったように思います じつは。
 すなわち そのことはわたしに言わせれば もしそうだとしたら・つまり《犬には感情があり自我があり、という事は自己認識をしている》としたら それでもヒトよりほかの動物には 《歴史》がない。ということではないかと考えます。

 《ことば》がないということですが それでも動物においても何がしかのコミュニケーションを行ない得ているかも知れないと反論されるとき それに対して だが 待てよと言えるのは 考えたことや生きたということの積み重ねとしての歴史を持つかどうかで 違いが出ている。のではないか。です。

 ロボットが さらに同じく歴史をすべて入力することが出来るという場合 それをどう活用するかは ヒトとロボットでは違って来るのではないだろうか。人間は そのデータの活用の仕方について あらかじめ決まったものはないと考えられます。決まったものがあってもよいというほどに 何も決まっていない状態で データに向き合うものと思われます。
 
 ロボットは そのような歴史データの自由な活用について あらゆる人間のあらゆる活用の仕方をインプットしなければ人間に近づけない。のではないでしょうか。未来永劫まであたらしく生まれてくる人の選択肢を次から次へとインプットして行かなければならない。

 もしそうではなく 選択肢の選択はロボットにまかせるとしたら どうか。それとして 人間の行動を模倣する動態的存在になれるか。
 ――たぶん その選択という意志行為について 答責性を持つということは ロボットにはむつかしいかと考えられます。

 答責性を持つことをも その機能としてそなえさせたら どうか。――どうなんでしょう。?????

 お気が向くことがありましたら お気軽にお答えください。

 

お礼日時:2013/09/26 22:35

 #20です。



 ではそれぞれに、それなりに納得できたという事で・・・(少なくとも自分は)(^^;)。


 生命と認識は同時発生なのか?。無生物から生物が どのようにして生まれたのかを科学的に説明する事。ok****さんが仰るように、この2つは、現在の生物学の中で表裏一体のように思えます。ただしここで言う「認識」は、通常の言葉ではありません。分子的認識なども含めた、もっと広いものです。単純な(単純過ぎる)イメージを書くと、次のようになると思います。

  ※生物系の皆様。これから知ったかぶりしますからね(^^;)。

  ・人間の脳に認識を起こさせる、脳内の物理(化学)的機構の素過程は、遺伝子複写の物理(化学)的機構と同じものであった(現実は、きっと違いますけど・・・)。

 もしこのような事が明らかになったら、先の2つへの一つの解答になる、と思われます。現在の生物学は、どうもこういう事態を求めてるのではないか?、と思えるからです。

 ジャック・モノーの「偶然と必然(みすず書房)」という本があります。モノーはこの中で、「物活説・生気説」に始まる生物観が、次第に無機的な物理・化学的機構に置き換えられて行く過程で、無生物の中に生命の兆候を探す研究へ変貌して行く様を、結果として生物観の変遷を現代的視点から描いています。

 本自体は1970年に出たものなので、知見は多少古いです。当時はヒトゲノム計画などは原理的に可能とわかっていましたが、技術的にはまだまだ夢物語の時代でした。それだけに「分子生物学はこれからだ!」という時代でもあり、研究思想も多少重要視されていたと思います。本の中でのモノーの問題意識は、かなり明確です。


>遺伝子にたとえば――《認識》の問題というよりは――《意志》があって ほかの人にゆづるという意志行為をその遺伝子じたいの意志として ヒトにその《ゆづる》行為を行なわせているものであるか? こういう問いに収斂してくるかと考えます。

 そのものずばりではないのですが、モノーの系譜の一つの収斂先が、これです。リチャ-ド・ドーキンスは進化分子生物学者です。最近は、こういうのもあるんですよね(^^;)。ドーキンスは利己的遺伝子を提唱します。個々の細胞は利己的遺伝子のプログラムが有利と判断した環境なり物を認識し、それらを選択する(利己的に)。しかしその結果は、必ずしも個々の細胞の生存に有利とはならない。にも関わらず、群体としては生存に有利に働く(いっせいに行動するから)。そういう訳で利己的遺伝子は蓄積されて行くが、その発現(行動)は、自己犠牲のようにも見えたりする。

 細胞レベルでなくてもローレンツ(生物学者の方)は、鳥類の行動研究で、似たような事を言っています。


 そうすると「生命と認識は同時発生だ」と言ってみたい誘惑には駆られます(禁欲した方が良いが)。でも即物的な自分は、次のような事も気になります。「生命と認識は同時発生だ」の前提は、「遺伝子情報=生命」です。これはもう、100年になろうとする、分子生物学のセントラル・ドグマです。

 当初は遺伝子解析が主流だった分子生物学ですが、最近少し傾向が変わってきた。遺伝子だけでなく、遺伝子の発現機構も重要視されて来た。適切な遺伝子が適切なタイミングで発現しなければ、多細胞生物の組織化は起こらない。その機構まで全部、遺伝子情報に書き込まれている保証は、今のところない。

 ミトコンドリアという細胞器官はご存知と思います。ミトコンドリアに対応するミトコンドリア遺伝子は見つかっているので、ミトコンドリアは遺伝子情報の一部ですが、それは最初、真核生物に寄生したバクテリアかウィルスだったというのが、最近の定説です。

 当初エネルギー生産効率が低くて伸び悩んでいた真核生物に、ミトコンドリアが取り付いてみたところ、たいそう居心地が良かった。真核生物はミトコンドリアの排泄物(エネルギー)のおかげで、大いに潤った。それで、ず~っと共生してる内に、ミトコンドリアは遺伝子情報に取り込まれた、という訳です。

 だとすれば、遺伝子発現機構を司り、遺伝子情報とは独立な未知のウィルスや、もしかすると生命とは言えない低レベルな化学機構などは存在しないのだろうか?。純粋な遺伝子情報から人間などが個体発生できるという実証は、今はない(やっちまったら、問題だが(^^:))。自然な生物界で行われているのは、細胞分裂だけだ。

 個体発生に不可欠な未知のウィルスや化学機構が、細胞分裂を通じて人知れず、何億年もの間受け継がれてきた、というような事はないのだろうか?、と妄想したくなる(^^;)。この時、「遺伝子情報=生命」を前提とした「生命と認識は同時発生」は、どう考えるべきなのか?。


 死の恐怖の一つに、自分が失われる事,自分を感じられなくなる事,自分を認識できなくなる事は、確実に入ると思います。しかし物質(無生物)としての自分は、腐りながらも、分子や原子に還元されても、たぶん宇宙の終わりまで残ります。

 実証と哲学を橋渡しできそうだという意味で、「無生物から生物が どのようにして生まれたか」という問いは、適切な切り口だと思います。

 以上、とっかかりとして、どうでしょうか?(^^;)。
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この回答へのお礼

 ううーん。もうひとつ ううーん。

 ご回答をありがとうございます。


 一向に生物学も わたしの勉強がすすんでいませんので もうお聞きするだけになるのではないかとおそれます。


 ふたつ反応としては持ちました。

 たとえばですね こういうことを考えてみます。
 ひとの脳のようなひと塊りの DNA があって これは 自己認識していると同時に それとしてすでに存在している。と見るのなら 認識と存在とは 同時に発生していて 過程している。――となります。

 あるいは言いかえると そのひと塊りの DNA がすでに生命体だとすれば さらに明らかに 存在が成っていると同時に認識がおこなわれている。――となるかと考えます。


 ということは 取りも直さず
 ★ 実証と哲学を橋渡しできそうだという意味で、「無生物から生物が どのようにして生まれたか」という問いは、適切な切り口だと思います。
 ☆ と帰結される。のだ!! でしょうか?


 このとき 往生際のわるいいつものクセを出すなら こうです。
 つまり 仮りに生命体を存在というとき この存在は 認識機能をそなえていると言えるが 認識機能は 存在のことを認識しうるか? と問いたい気持ちです。そう うたがわれます。 

 人間が クローン人間をつくることができるなら その技術としてのすべなる認識機能とそして存在とは おおよそ同等であり同時に過程しているということなのでしょうか? 
 
 これをつくった科学者は 存在ないし生命を認識しえたと言えるのでしょうか?
 ん? つくってみないと分からない? でしょうか。





 もう一点は 《ゆづる ないし 自己犠牲》の問題です。 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    >遺伝子にたとえば――《認識》の問題というよりは――《意志》があって ほかの人にゆづるという意志行為をその遺伝子じたいの意志として ヒトにその《ゆづる》行為を行なわせているものであるか? こういう問いに収斂してくるかと考えます。

 そのものずばりではないのですが、モノーの系譜の一つの収斂先が、これです。リチャ-ド・ドーキンスは進化分子生物学者です。最近は、こういうのもあるんですよね(^^;)。ドーキンスは利己的遺伝子を提唱します。個々の細胞は利己的遺伝子のプログラムが有利と判断した環境なり物を認識し、それらを選択する(利己的に)。しかしその結果は、必ずしも個々の細胞の生存に有利とはならない。にも関わらず、群体としては生存に有利に働く(いっせいに行動するから)。そういう訳で利己的遺伝子は蓄積されて行くが、その発現(行動)は、自己犠牲のようにも見えたりする。

 細胞レベルでなくてもローレンツ(生物学者の方)は、鳥類の行動研究で、似たような事を言っています
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 一点です。ヒトよりほかの生物は この《ゆづる》ということをみづからが知っているでしょうか?

 鳥なら鳥の DNA はよく自己認識している。というお答えでしょうか?

 あるいはまた
 ★ 群体としては生存に有利に働く(いっせいに行動するから)。
 ☆ のくだりで 人間は《一斉に行動する》わけではないと考えられますが どうでしょうか。

 群体として有利か不利かについても ひとは考える場合もあるし考えない場合もあります。考えて分かると思う場合もあるし 分からない場合もある。分かったと思っても その内容は 間違っていたということもある。――そういう条件のもとでの《ゆづる ないし ゆづりあい》をおこなうことが 人間にはある。おそらく DNA の指示するようなことは お構いなしなのではないか。


 DNA の情報ないし認識としての筋からは 人間の意志は つねにどこかへ逸れて その方向へ片寄って行くのではないかと ただの思弁(憶測)として思われます。つまり それは 生命体としての存在であるゆえではないであろうか。・・・

お礼日時:2013/09/23 15:29

 #19です。

全然別の方向からアプローチしながら、やっぱりけっこう結論は一致するなと思いました。なのでもう一回ウェーバーをやらせて下さい。


>総じて言って もしおっしゃるように歴史感覚として中世の方向を向いていたとしたなら あまりにも古すぎます ヱーバーさんは。

 だから以前、古いって言ったじゃないですか(^^;)。「歴史感覚として中世の方向を向いていた」どころでなく、「中世的精神が彼の出自だ」というのが自分の意見です。彼は当時としては目新しい事も言ったかも知れないが、それらも現在から見れば、当たり前の事に過ぎなかった。そういう当たり前の事を、彼の生きた歴史的文脈の中で言ったからこそ意味があったし、評価もできる。


 ここからは、一致する部分もありますが、評価も分かれます。

> 認識が得させるものは もっと熱い 現実との平和である。
 (ゲオルク・W・F・ヘーゲル:法の哲学 序文 藤野渉・赤沢正敏訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
> ☆ このような気骨をどこかひょっとするとと思わせつつ 学問をすすめているようでいて どうも全体としてその考え方のうえで 時代感覚がふるい。アナクロニズムのように映ります。

 アナクロニズムですよ。ウェーバーは、カントやヘーゲルと同じように、理念が歴史を先導するという伝統の中にいた。だって、第1次世界大戦が終わっても、その伝統は残ったのだから。

 しかしそれを言ったら、カントやヘーゲルの方が、もっとアナクロだ。マルクスはヘーゲルの真逆として然り。

 カントがヘーゲルに包摂され、マルクスがヘーゲルの真逆として等置できると仮定し、ヘーゲルとウェーバーの最大の違いは、

  ・認識の木の実を食べた近代人は、現実との異様な緊張を孕む.

と言った事だと思う。学問(認識)は、現実との平和でなく、対立をもたらすものだと。この点が新しい。しかしこれは、今では当たり前の事だ。

> ☆ このような果てしなくモヤモヤワールドにいつづける《観念の発酵としての夢》をつむぐ《知識人ないし宗教人》たちに対して 挑戦をいどんだようでいて ヱーバーは けっきょく何もできなかったのではないか。

 出来なかった。それは彼の方法論の限界だが、動機は違った。《お為ごかしに女たちの監督に任じている後見人》を作らせないためだった。その最後の防壁が、中世の伝統の中にいたウェーバーにとって、名誉と誇りだったと思う。


>つまり 悪魔と手を結ぶことをエリート政治家に余儀なくさせるような共同自治のあり方を変えようという方向を模索していなければ ウソです。責任倫理を 一握りのエリートがになうといった構図を じんるい社会は卒業しようという方向を模索しなければ 名誉も勇気も ふるくさいものに映ります。

 中世の伝統の中にいたウェーバーは、彼の方法論の限界からそれを、社会構成員全員が「騎士になる」という方向で模索した。それが責任倫理だったと思う。現実には無理だが。

 結論を言えば、ウェーバーは古臭い。しかしそれはカントもヘーゲルも同じで、それ以上だ。ウェーバーは近代的手法と思考様式によって、中世的考えを最もよく形式化・理論化し、それ故にその限界を最もよく体現した人だと思う。


 あなたと私の一番大きな違いは以上のどこでもなく、マルクスやウェーバーに、グローバル化の視点を見るかどうかだと思う。

 絶対的進歩史観を持っていたマルクスとって、グローバル化は論理的な必然だった。、「精神のない専門人、心情のない享楽人。」を予想したウェーバーにとって、資本主義のグローバル化は経験事実だった。

 ただ二人とも、せっかち過ぎた。中世では10年~20年とかかかっていた航海が、10数時間のフライトになったのは、少なくとも1970年代だった。世界の10数億人の人々が同じ情報を共有できるようになったのは、少なくとも1990年代以降の事だ。

 そこからまだ、10年くらいしか経っていない。真のグローバル化はこれからだ。すでに兆候は表れているが、マルクスやウェーバーが予想した世界が、今まさに現れようとしていると感じます。人間は、カントやヘーゲルに代表されるほど、頭良くないですからね(^^;)。
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この回答へのお礼

 おもしろいですね。おもしろくまとめちゃいましたね。

 ddtddtddt さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 もうそれぞれその箇所で解説・弁明・自己表明・・・・になっているようですから 復唱もしません。

 
 そうして
 ★ あなたと私の一番大きな違いは以上のどこでもなく、マルクスやウェーバーに、グローバル化の視点を見るかどうかだと思う。
 ☆ というふうに来ます。

 いやぁ どうですかねぇ。
 マルクスは 労働価値説にもとづくところが 現実性からややズレルのではないでしょうか。

 そうして あとは けっきょく《各人は能力に応じて働き、労働に応じて受け取る》状態やさらには将来の共産主義社会における《各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る》世の中を――単純に捉えるなら――目指した。こういう意味で グローバル化を遠く見ていたのではないでしょうか。

 《はたらきは 持てる能力に応じて》であり 《受け取るのは おのれの必要に応じて》であるというのは 何も未来の社会での実現としてというよりは いま・ここですでにそういう考え方や思いを持つということが ひとつの《永遠の現在》であったのでしょう。その限りで 同じくすでにグローバル化は――理論としてか あるいは観念の像としてか――実現していた。とも見られます。

 どこまで現実であるか? と問われたなら おそらく理論の構築とその説明もさることながら けっきょく いやいや 心配しなさんな 何でも社会のことは ぶっつけ本番なんだよとでも答えるのでしょうね。そういう意味での現実路線だったのではないか。

 たとえば 自民党だって けっきょくそういう路線とあまり違わない。たぶん 気持ちの上で急進的か保守的かの違いだけであって 実現の上では どちらが早くこぎつけるかは 分からない。

 ただし ひとりの市民が 人間としての自治をそれぞれ成し遂げることが出来るかどうか その判定で 違って来るところがあるかと考えます。ふるい人は エリートでなければ・そしてその知性に準じる中産階級でなければ ひとりの人間としての自治能力はないと考えているでしょうね。そういう保守勢力が まだまだ残っています。

 恒産なければ恒心なしで 《無産階級》は おのれ一人の自治能力などはないと ひねくれた保守勢力人は考えているのでしょう。

 その前にまづは差し詰め 有無を言わせない政治としてのオザワイチローがご隠退になることから始まるでしょうか。





 ヱーバーは 社会主義についても議論しているようですが 必ずしもよく分からなかった。もうよくは覚えていません。
 たぶん アリストテレス張りのになるのかどうか やはり本人がどう言っているかにかかわらず ヱーバーの説の落ち着きどころは 《中庸》なのではないか。そういう意味でのグローバル化と言って言えなくないかも知れません。

 ヱーバーは オザワイチロー政治をも 学問の対象としては みとめるんでしょうね。わたしは 無効だというひと言で片づけます。

 ・・・

お礼日時:2013/09/22 22:02

 #18です。



 (何かを生み出した訳では、もちろんないが)あなたと私との間で概ね合意が成立しそうな気配を感じたので、話題を絞ります。なぜ政治を支配/被支配の関係と捉えたかに関する、憶測です。それと学問至上主義についてです。


 次はもろにウェーバーの影響を受けていますが、彼は中世を、こう考えていたと思います。

 その政治的状況は、技術的理由や生産力の不足から、実効支配面積が常に領土より狭いものだった。技術的理由とは、交通手段として馬車しかなかったとか、情報共有手段が皆無に等しかったとかの現実的理由です。生産力の不足とは、余剰生産物がなく、交換経済ではなく自給自足が基本という事です。その結果、地方民話や伝説は1000年経っても変わらず、戦闘は農閑期にしかできない。

  ※何度も言いますが、ステレオタイプです。

 そのような状況下で最も有効に機能したのは、実効権力でなく権威だった。つまり理念が現実を支配していた、と考えた。その最右翼は教会であり、地方領主の理念は血縁に基づく名誉だった。両者は概ね協調し、時たま反目しながら(聖職叙任権闘争など)、1000年以上にわたって、その体制を維持した。その封建制を、伝統的・因習的支配と呼んだ。

 真の理由は経済にあったかもしれないが、理念は中世の地方領主間の小競り合いや、国家間戦争の動機だった。つまり、

  ・多極な価値が、名誉を賭けて争っていた時代.

と、彼は分析する。全面的にではないが、けっこう良い処を衝いてる気がする。
 
 前も書きましたが、ウェーバーの発想の原点は中世的で、とりわけ貴族的なものだったと思います。自分は、伝統的・因習的支配のモデルに、ウェーバーの立ち位置が見える気がします。

 では中世の残照は、彼を捉えていたのだろうか?。第1次世界大戦直後の1920年まで生きていた人だから、上記の考えには、ちょっと自信がなかった。中世の感性が20世紀にまで持ち越される事はないだろうと、漠然と思っていたからです。

 じつはNHKのとある番組を見て、驚きました。少なくとも第1次世界大戦の開戦当初、庶民はけっこうそれを、地方領主の小競り合いくらいのように見ていたらしい。誰もが「2週間くらいで終わるさ」と思って、国の(己の)名誉のために兵役を志願した節がある。言ってしまえば、名誉を賭けたちょっとした冒険だった。機関銃も戦車も塹壕戦も知らず。

 結果、ほとんど徒手空拳で機銃掃射の前面に突撃する事になる。じつは掃射していた側も、余りに火を見るより明らかな結果に突撃してくる人波に、唖然とした。科学技術という意味での近代と、中世的感性の衝撃の出会いだった気もする。

 ウェーバーの生きたヨーロッパは十分に中世だった。とりわけドイツは後進国で、中世的考えの根強い土地だった。そこの良家の出で、秀才の誉れ高く、兵役にも熱心だったウェーバーが、精神における貴族を目指したとしても何の不思議もない。


 何を言いたいかというと、ウェーバーの理想とした社会に、我々の考えるような市民はいない、という事です。多極の価値が、名誉を賭けて争うのが社会の理想なら、全員が騎士の生まれ変わりでなければならない。

 ところが皮肉にも、ドイツに是非必要だと考えていた資本主義(帝国主義)はもはや止めようがなかった。それは、「精神のない専門人、心情のない享楽人。」を生み出そうとする勢いだった。よって、

  ・名誉なき、価値の闘争.

が始まる事になる。

> 《政治》とは もし共同自治の線で捉えないとすれば 誰かが言っていたように《最高の道徳――倫理的実践――》だと思いますよ。

 これをウェーバーは不可能だと信る。道徳/倫理に、学問的根拠などないと考えるから。どうなるか?。彼のモデルでは普通の市民とは、強制される根拠を名誉をもって受け入れた人達です。

>支配の問題だと見るなら けっきょくクーデタばっかりやっている権力闘争の人間たちしかいないと考えられます。(つまり ふつうの市民がいないという意味です)。

 こうなる事を本気で心配した。現在の世界情勢を見る限り、当たらずと言えども遠からず・・・、に思える。


 悪魔と手を結ぶとは、たとえ己の価値を否定する価値にも有効性を認め、己の顔に泥を塗る事だと知りながら、勇気をもって(名誉をもって)、それと共闘できる事が責任倫理だという風にも読める。それは相手を理解する事であって、決して認める事ではない。この点は当時なかなか了解されなかったが、責任倫理も名誉がなければ成り立つものではなかった。

 学問は、価値になんら根拠をもたらすものではないが、相手を理解する手段になる。だから学問的判断に、価値判断を含めてはならぬ。私は学者だ。だから「職業としての学問」を貫く。そして学問をやっているから、「職業としての政治」の態度で政治的発言もする。

 学問至上主義---責任倫理のための、学問的導きの<星>になる。そうは思っていたんでしょうね。


 彼の方法論の限界から、解決策はけっきょく提出できなかったが、でも問題の所在くらいは垣間見せてくれた気はします。

 ところで、「DNA の自己認識」の話に進んで良いでしょうか?。こっちの方が自分に向いてそうだし(^^;)。
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この回答へのお礼

 ★ ところで、「DNA の自己認識」の話に進んで良いでしょうか?。こっちの方が自分に向いてそうだし(^^;)。
 ☆ よろしくお願いします。

 ddtddtddt さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 総じて言って もしおっしゃるように歴史感覚として中世の方向を向いていたとしたなら あまりにも古すぎます ヱーバーさんは。


 ▲ (ヘーゲル:法の哲学) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 熱きにもあらず 冷やかにもあらず それゆえに吐き出されるようなしろものたる 真理にだんだん近づく哲学などでもっては理性は満足しない。

 他方また この現世ではたしかに万事がひどいか せいぜい中くらいの状態だということは認めるが そこではどうせましなものは得られないものとし それゆえただ現実との平和が保たれさえすればいいとするような 冷たい絶望でもっても理性は満足しない。

 認識が得させるものは もっと熱い 現実との平和である。
 (ゲオルク・W・F・ヘーゲル:法の哲学 序文 藤野渉・赤沢正敏訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このような気骨をどこかひょっとするとと思わせつつ 学問をすすめているようでいて どうも全体としてその考え方のうえで 時代感覚がふるい。アナクロニズムのように映ります。


 I.カントが 《啓蒙とは何か》の問いに応えて言ったことは 《敢えて賢かれ》であった。
 ただし 今もヱーバーの頃も啓蒙の時代でないことは 言うまでもありません。
 カントの《敢えて賢かれ Sapere aude (Horatius) 》の内容は あからさまに言ってしまえば 女性に対する批判であり 母性への敬愛の表明であった。

 ▼ (カント) ~~~~~~~~~~~~~~
 大多数の人々(そのなかには全女性が含まれている)は 成年に達しようとする歩みを 煩わしいばかりでなく極めて危険であるとさえ思いなしているが それはお為ごかしにこの人たちの監督に任じている例の後見人たちのしわざである。
 (I.カント:啓蒙とは何か 他四篇 (岩波文庫)) 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから へたをすると ヱーバーは この《お為ごかしに女たちの監督に任じている後見人》の中に入るとさえ考えられて来ます。
 ★ 彼のモデルでは普通の市民とは、強制される根拠を名誉をもって受け入れた人達です。




 ▲(ヘーゲル:精神の現象学) ~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・概念なき実体的な知が自己の我執を実在の中に沈めてしまったと言い 真実で神聖な態度で哲学を研究していると自称するならば そこに隠されているのは 神に身を委ねるかわりに 節度と規定を軽んじて むしろ或るときは自己自身のうちに内容の偶然性を また或るときは内容のうちに自己の恣意を 放任しておくということである。

 そういう人たちは実体のほしいままの醗酵に身を委ねながら 自己意識を包み隠し悟性を捨てることによって 自らを 眠っている間に神から知恵をさずけられる神のいとし子であると想いこんでいるのである。だから その人たちがじっさい そういうふうに眠っている間に受胎し分娩するものも やはり夢である。
 (ヘーゲル:精神の現象学  序論 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このような果てしなくモヤモヤワールドにいつづける《観念の発酵としての夢》をつむぐ《知識人ないし宗教人》たちに対して 挑戦をいどんだようでいて ヱーバーは けっきょく何もできなかったのではないか。

 つまり カントもヘーゲルも何も受け継いでいなかったにひとしい。のではないかとさえ疑われます。







 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 悪魔と手を結ぶとは、たとえ己の価値を否定する価値にも有効性を認め、己の顔に泥を塗る事だと知りながら、勇気をもって(名誉をもって)、それと共闘できる事が責任倫理だという風にも読める。それは相手を理解する事であって、決して認める事ではない。この点は当時なかなか了解されなかったが、責任倫理も名誉がなければ成り立つものではなかった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうなんですが 現状はそうなんですが だから学問は・特に哲学は 社会力学じょう有力にはただちになれない理論であっても 人間と社会とにかんする有効な知恵として あたらしく切り拓くちからを用意するものである。と考えます。

 つまり 悪魔と手を結ぶことをエリート政治家に余儀なくさせるような共同自治のあり方を変えようという方向を模索していなければ ウソです。責任倫理を 一握りのエリートがになうといった構図を じんるい社会は卒業しようという方向を模索しなければ 名誉も勇気も ふるくさいものに映ります。

 ★ 学問至上主義---責任倫理のための、学問的導きの<星>になる。そうは思っていたんでしょうね。
 ☆ この《星にみちびかれ主義》からの卒業を模索していなければ カントやヘーゲルよりも時代がふるいと見られてしまいましょう。

 ▼ 《敢えて賢かれ Sapere aude (Horatius) 》


 ▲ 認識が得させるものは もっと熱い 現実との平和である。
 ☆ というその内容を 《悪魔と手を結ぶにあたっても 勇気と名誉とを毅然としてたもつ気概》を言い 一般的にも《責任倫理》を打ち出したとき めざした。かも知れない。つまり 現状の中で その《いま・ここ》なる生活にとっての人びとの人間的な満足を最大限に持ちこたえさせようとしたかも知れない。
 けれども 現状打破は めざさなかったのだろうか。



 お粗末でしたが こういう物言いです。

お礼日時:2013/09/22 17:18

 #16です。

あなたの論点が、だんだんわかって来ました(^^)。


>☆ ここが 日本人請けするところです。中庸と言いますか。日本人好みなところです。大塚久雄の理論の真骨頂だと思います。

 エッ?、そうだったんですか!。さすがは世界に冠たる無宗教国家だ!(←冗談です)。

 本音で意外です。個人的にウェーバーは全然中庸じゃないと思ってるからです。彼は両極や多極をつきつめて純化し、しかも多極間に論理的和解の可能性はあり得ないと言い切る。どれかを殊更特別視しないという意味でバランスは取れているが、そのバランスは過激だ。根回しや妥協を、これっぽっちも考えない。これは中庸路線ではない。

 もし日本においてウェーバーが中庸だと受け取られ、そのために人気があるとしたら、誤解も甚だしい。そういえば大塚久雄は読んだ気もするのですが、記憶に残っていない。印象が薄いわけだ。もしかすると面白くなくて、途中放棄したのかも知れない。

 時代の制約だと思いますがウェーバーは、上記のような過激なバランスを好んだ。彼の論には、いつも対立項がある。ヘーベルとマルクス,学問と政治,労働者と資本家,資本主義と共産主義,・・・。

 ウェーバーは金の亡者である資本家を嫌っていたが、同時に金ばかりよこせと言って、一向に自立しようとしない労働者階級をも嫌っていた(難儀な人だ(^^;))。貴族趣味と言えば貴族趣味ですが、それらの構図は<資本主義の精神>にも見て取れます。


>つまり初めから 部分的な人格ないし精神の一側面を扱うのだと言っていれば そんなに持ち上げることはないわけです。

 時代に制約されていたウェーバーは、じつは安倍さんも真っ青のナショナリストだったと、自分は思います。
※冗談です。安倍さんを本当のナショナリスト、右翼とは思っていません

 最大の関心事は、当時のプロイセンの事だった。どうして自国で本当の資本主義(帝国主義)が育たないのか?。そのために資本主義(帝国主義)先進国であるイギリスとアメリカに目を向けた。

 そこには「時は金なり」があった。それは推奨すべきものだった。しかし同時に資本家の醜さも知っていた。

>・・・簡単に言って《時は金なり》の自己目的化および生活における徹底ないし全人格における徹底から来ているであろうという点です。

 よって、時は金なり:質素・倹約・勤勉という美徳であったものが、自己目的化し、金の亡者へと変貌する様を克明に記述しなければ、気が済まなかった。だって彼は、歴史学者なんですもの。資本主義のなれの果てを切って落とすまで論を進めなければ、気が済まなかったのだと思います。歴史には、こういう理不尽な奸計もあるのだよ、と。

>つまり初めから 部分的な人格ないし精神の一側面を扱う・・・

 なので、そういう記述の仕方は可能だったかも知れないが、敢えてその体裁を取らなかった。それは過激なバランスを選択したからだと思います。この認識態度を採用したために、ウェーバーの語り口はいつも、激烈にひねくれてますよね。「職業としての・・・」、学問,政治でもそうだった。


>もうひとつには 《精神のない専門人と心情のない享楽人》という規定をおこなっているその人(ヱーバーですが)の立ち位置は どこにあるかだと見ます。

>学問至上主義なる孤高の地点ではないでしょうか。人びとの仰ぎ見る《星》としての位置ではないでしょうか。

 学問至上主義=人びとの仰ぎ見る《星》、ではないはずです。学問は、星として全く無力だからです。しかし、仰ぎ見る《星》になる事を理想としていたのは、そうだと思います。学問とは関わりなく。

 そうですよ。政治とは支配する根拠であり、支配される(強制される)根拠です。政治家は、強制するエリートでなければならない。確かにそう言っている。

 彼は、今から見るときわめて中世的な人間です。精神が社会を支配すると、はんば思っていた。ヘーゲル流の「良き歴史の奸計」は信じられなかったが。

 そこは学問の通用しない世界だ。そこで最後のよりどころとしたのが、誇りであり矜持だった。「信じるが故」のものだった。

 そのような誇り高き人間達が、過激なバランスを認め、(あやふやだが、もしかすると)普遍的かも知れない責任倫理によって苦闘した時、地球規模の共同体が出来るのではないか?。それはウェーバーの夢だったと思います。彼は実際、未来に対して否定的な事しか言っていません。そしてけっきょく結論を出せずに、終わりました。

 実際問題としては、無理ですよ。ただ分析の切り口としては間違ってないと思うし、聞くべき事はありますよね。
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この回答へのお礼

 ddtddtddt さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 個人的にウェーバーは全然中庸じゃないと思ってるからです。
 ☆ なるほど。この点は・つまりヱーバーの学問に《中庸》を見るという点は ヱーバー自身ではなく 日本人ヱーバー学者のあいだにしばしば見られる傾向であるかも知れません。

 中庸と言っても この場合は要するに資本主義の体制べったりでもなく またマルクス主義による反体制にそのまま与するでもないということが――いささか古い話であるかたちで――その中身なのですが。つまりこの点を大きく見たのは わたしの片寄りだったかも知れません。

 あと大塚久雄は クリスチャンでもありますから その影響もあるかと思われます。ヱーバー本人とは おっしゃるように 別であるかも分かりません。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 よって、時は金なり:質素・倹約・勤勉という美徳であったものが、自己目的化し、金の亡者へと変貌する様を克明に記述しなければ、気が済まなかった。だって彼は、歴史学者なんですもの。資本主義のなれの果てを切って落とすまで論を進めなければ、気が済まなかったのだと思います。歴史には、こういう理不尽な奸計もあるのだよ、と。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは手前味噌になるかも知れませんが おそらく 勤勉とその自己目的化としてのガリ勉とを その違いはエートスのあり方として ただの程度問題で済ますわけには行かないほどの質的な差であるというこ これを見ていなかった。見ていても 最初の出発点における時点で心理的な起動力の発揮の仕方について指摘し得ていない。

 言いかえると デモーニッシュに B.フランクリンの生活態度に密着してその言わば現場報告を詳細にしるす。あとでそれが勤勉志向から勤勉志向主義としてのガリ勉志向に変身して行き着いた先では やはりデモーニッシュなかたちでそのガリ勉エートスのイヤな側面のことをしるす。こういったルポルタージュになっているように見えます。

 《資本主義的市民たちよ おのおの われに還ろう。ただ そのことでひとの自然本性がふたたびよみがえるはずだ》くらいのことは言ってもよかった。

 すなわち 次のようにおっしゃるごとく そうは言わない姿勢であったようです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >つまり初めから 部分的な人格ないし精神の一側面を扱う・・・

 なので、そういう記述の仕方は可能だったかも知れないが、敢えてその体裁を取らなかった。それは過激なバランスを選択したからだと思います。この認識態度を採用したために、ウェーバーの語り口はいつも、激烈にひねくれてますよね。「職業としての・・・」、学問,政治でもそうだった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 ★ 学問至上主義=人びとの仰ぎ見る《星》、ではないはずです。学問は、星として全く無力だからです。しかし、仰ぎ見る《星》になる事を理想としていたのは、そうだと思います。学問とは関わりなく。
 ☆ そうですかね。わたしは ヱーバーにとってホンネはどうか知りませんがタテマエとしていちばんに来るのは 学問だったと思いますよ。例のファウスト博士ですよ。人間のたましいは 政治家や経済人のそれが 現実にひとつあるとしても もうひとつ大事なものとして 学問ないし学者の地道にあゆむその道にあると見ていたのではないでしょうか?
 《まったく無力》であったとしても という意味だと思います。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうですよ。政治とは支配する根拠であり、支配される(強制される)根拠です。政治家は、強制するエリートでなければならない。確かにそう言っている。

 彼は、今から見るときわめて中世的な人間です。精神が社会を支配すると、はんば思っていた。ヘーゲル流の「良き歴史の奸計」は信じられなかったが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《精神が社会を支配する》というときその《精神》は 《デーモン》でしょうね たぶん。《悪魔 ないし 悪魔と手を結ぶことのできる政治家たる人間》ということかも知れませんが 人びとがふつうに社会につまづかないで・またくじけないで生きて行くには デーモンのチカラを――或る種の仕方で 守護霊としてのように――見ていたし 求めていたように思われます。

 《政治》とは もし共同自治の線で捉えないとすれば 誰かが言っていたように《最高の道徳――倫理的実践――》だと思いますよ。
 《支配》という目でしか見られないというのは 時代のいかんを問わず 政治的センスがないと思うんですがねぇ。支配の問題だと見るなら けっきょくクーデタばっかりやっている権力闘争の人間たちしかいないと考えられます。(つまり ふつうの市民がいないという意味です)。



 ★ ・・・ただ分析の切り口としては間違ってないと思うし、聞くべき事はありますよね。
 ☆ 決闘をしたというのが 逆説的に 立派だと思うところがあります。

お礼日時:2013/09/20 22:01

 観念論の立場である不可知論から始る議論は結局思考のお遊びにしかなりません。


 とは言え「神」という存在は人類の歴史において大きな役割を果たして来ましたから、これを定義しないというわけにもいかないでしょう。唯物論的な立場から「神」を定義するならば、「人類と事物の関係の表象である」と言うことができるでしょう。太古、人々は自らの力の及ばぬ自然のありように畏怖し、例えば大量の水の流路である河と自らの生の営みの関係を表彰するものとして「河の神」を置き、あるいは山と自らの生の営みの関係の表象として「山の神」を置きました。自らの生の再生産が安定して行なえる事を願ってそれらの神に祈りを捧げた、こうした所から原始の祈りが始ったわけです。従って当初、神は意思なきものでした。
 後に人類は自らの必要に応じて神に意思を与え、この「神への祈り」を通じて人々を結束させる様になると原始の神は変質して行きます。最終的には律法の神として階級支配の道具と化して行きます。

 いずれにしても人類の起源を「神」に求めることは科学的ではありませんし、それは無意味であるばかりではなく人類自身の自省にとっても有害な思考であると言えるでしょう。
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この回答へのお礼

 たうるすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 観念論の立場である不可知論から始る議論
 ☆ とは思っていません。

 言葉は概念であって もしそれがきちんと経験事象と対応しているのでなければ たしかに観念と見なされます。
 ですが この場合のように神をあつかう議論を 単純に《観念論》だと決めつけるのは あまり意味がないと考えます。

 つまり 初めから神が《経験事象ではない》というところを それでも何とか経験思考にうったえるかたちの議論をしようとしているからには それを観念論だと言ってみても話は始まらないでしょう。


 もうひとつは 《不可知》という言葉に誤解があると考えます。次のように《非知》のことを言っておられるものと見なします。


 ○ (不可知とは 経験事象のことである) ~~~~~~~
  経験事象
    可知
      既知
      未知
    不可知(知り得ないと知ったもの)
  非経験の場
    非知(知り得るかどうかが知り得ないもの)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ということは 《非知》論から始まるのではなく この《非知》説が そもそも結論であることになっています。


      *

 ★ 唯物論的な立場から「神」を定義するならば、「人類と事物の関係の表象である」と言うことができるでしょう。
 ☆ お言葉を返すようですが このご見解には納得が行きません。

 そもそも《唯物論》は 唯心論と同じ類型の世界観だと見ます。
 
 経験世界を超えたところなる神を 唯心論は 《精神 / 世界精神》と言いかえたものであり 同じく唯物論は 《物質》と言いかえている。これだけのことだと見ています。

 《物質》が 神のことです。経験事物のことではありません。つまり 経験事象としてのモノは げんみつには《質料》です。
 世界は 物質なる神の自己運動として展開される。こういう世界観です。


     *

 ★ 後に人類は自らの必要に応じて神に意思を与え、この「神への祈り」を通じて人々を結束させる様になると原始の神は変質して行きます。最終的には律法の神として階級支配の道具と化して行きます。
 ☆ これですと すべては 人間の思考なり想像なりの産物であるとなります。つまり 神がです。

 このような考え方を 神についての《観念論》だと言うのだと思いますが いかがでしょう。

 次の考え方も 同じくだと考えます。
 ★ いずれにしても人類の起源を「神」に求めることは科学的ではありませんし、それは無意味であるばかりではなく人類自身の自省にとっても有害な思考であると言えるでしょう。
 ☆ 補助線を引いたというのは 人間の思考によっては捉えられないゆえ 仮りに指し示してみるということです。
 

お礼日時:2013/09/20 00:17

 #15です。

上手く言えるかわからないので、汲み取って下さい(^^;)。

 まず、

>《資本主義の精神 / 学問独立の精神(経験科学の有効性) / あるいは エートス》・・・

と並べる事はできない、というのが自分の意見です。何故ならウェーバーは、精神の問題に関して学問は、全く無力だと言っているからです。そこを起点にして学問価値自由論を始めた。

 次に、

>つまり 《精神》が先行し これが 歴史の推進力となっているはずである。殊更いう必要はないであろうが 大前提として そうである。

とウェーバーは考えてはいなかったと思います。ヘーゲルの歴史観を胡散臭いと思っていたから。しかしそれを唯物論的に転倒したマルクスの歴史観も、胡散臭いと感じていた。エートスの追及や理念型モデルの提唱は、唯物史観に対する反対意見でもあった。

 そこでどうしたかと言うと、実証可能で観測可能と思える起動力だけを、人間の精神活動から切り取る事を考えた。起動力だけが精神活動の全てではない。しかしそれによって説明可能になる事柄は多いと判断した。理屈をこねずに、事実をして語らしめるという手段に訴えたのだと思います。

 起動力を切り取るだけでなく、現実との明らかな比較が可能なように、起動力を意識的に誇張し、他の要因を排斥した。ちょっとオーバーですが、これは自然科学分野の実験思想そのものです。

 その結果はあなたが言ったように、精神活動の不完全な記述となる。あたかも起動力が精神に先行するかのような結論になる。

 ここでウェーバーは、起動力が精神に先行して良いのか?などの、こう言って間違いでなければ、存在論的な順序関係に悩んだのだろうか?。憶測ですが、それは省略したと思います。論を読めばわかると。

 ウェーバーは時に哲学者と言われ、哲学的素質・素養は十分ですが(本気でやっていたら)、彼はやはり歴史学者なのだと思う。その意味では社会学者でもない。結局ウェーバーにとって、<資本主義の精神>なる意識的に純化された起動力は、「補助線でなかった」というのが、ここでの結論です。それは資本主義を整序して眺めるための、ツールに過ぎなかった。

 ただ人文科学なので、自然科学のように観察対象と観測装置とを明確に分離するのは難しい。<資本主義の精神>は意識的な抽象化により構築されたツールであると同時に、構築過程で分析・析出してきた、起動力の立場からの結論でもある。だからわかりにくい。

 これだけわかりにくい事をやっておきながら、論を読めばわかるとは、やはり自分は理系の臭いを感じる。事実彼は、歴史学を文献学以上のもの、経験科学の名に値するものにしようとした。ところがそれは、彼を育て、彼が最後には決別したドイツ歴史学派の究極の目標でもあった。それで後に社会学の開祖と言われるような、皮肉な事態になったと思います。


 次は、学問価値自由論についてです。

 精神の問題に関して学問は、全く無力である。これを起点とすれば、学問至上主義に見えるものは、学問的判断に価値判断を含めるな、と言ってるだけだと考えられます。さらに言うと「職業としての学問」は、それだけを単独で取り上げても意味がない(そういう話は多いですが)。「職業としての学問」は、「職業としての政治」とペアで扱うべきものだ。

 例えば「職業としての学問」の字面だけを追えば、学問は価値判断とは無関係なのだから、学者や科学者は社会的責任を負わなくても良い、とも読めてしまう。

 たとえ学究行為自体はそうでなければならないとしても、その学究行為を選択した主体、その学究行為の結論を世に問うべきかどうかを価値判断する主体の視点が、そこでは全く抜け落ちている。

 そのために「職業としての政治」がある。そこでは、「職業としての学問」で徹底的に排除した全てに対して、全て逆方向に極めなければ駄目だ、と議論される。

 学問と政治を敢えて峻別しなければばらなかった、また「職業としての・・・」と冠さずにはいられなかった、歴史的制限と文脈の中にウェーバーはいた。前に一回そう書きました。故にウェーバーにとって精神は学問とは無関係に、個々人が孤高に持たねばならいものになります。その意味で、ウェーバーは貴族的です。


 そういう訳で「資本主義の精神」においては、その起動力を「デモーニッシュに暴く事」が目的になります。そういう事をやりたかったわけです。彼は自分の採用した方法に、忠実だったと思います。だから理系人間は、そんなに違和感を持ちません。首尾一貫してるから。

 でも以上の動機というか、発想の感性と言った方が良いかも知れないものは、確かに貴族趣味でしょう。とすれば事実をして語らしめて、どれだけ役に立つ結果を出せたかだと思います。


>  「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、
   人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、
   と自惚れるだろう」と

 ・・・かなり当たってませんか?。

 「精神のない専門人、心情のない享楽人」の複合体は、今や宗教させ利用するようになった。ここで享楽は、広い意味で使っています。例えば新興宗教です。

 科学技術はないと困る。でも神がいてくれないと不安だ。なので神は(わかりやすく)、超科学文明の使者であったり、宇宙人であったり、はては異次元生物であったりする。徹頭徹尾即物的で安易だ。

 そこには口を極めて、「神なんかいない!、いない!,いない!」と否定し尽くした後に、どうしても「神はいる」という実証事実があがった時に初めて、「神はいると、仕方なく認めてやるよ」といった、覚悟がない。安易だ。


 日本における最悪の「精神のない専門人と心情のない享楽人」の出会いは、オーム事件であったと自分は思うからです。 
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この回答へのお礼

 ddtddtddt さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >つまり 《精神》が先行し これが 歴史の推進力となっているはずである。殊更いう必要はないであろうが 大前提として そうである。

 とウェーバーは考えてはいなかったと思います。ヘーゲルの歴史観を胡散臭いと思っていたから。しかしそれを唯物論的に転倒したマルクスの歴史観も、胡散臭いと感じていた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここが 日本人請けするところです。中庸と言いますか。日本人好みなところです。大塚久雄の理論の真骨頂だと思います。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そこでどうしたかと言うと、実証可能で観測可能と思える起動力だけを、人間の精神活動から切り取る事を考えた。起動力だけが精神活動の全てではない。しかしそれによって説明可能になる事柄は多いと判断した。理屈をこねずに、事実をして語らしめるという手段に訴えたのだと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おそらく そうなんでしょう。
 問題は この――人格全体としての《精神活動》にとっては部分的な――《心理的な起動力》にかんして その扱いが一貫していないところにあります。

 初めにはフランクリンの資本主義の精神(これが じつは 心理的な起動力のこと)を言わば持ち上げ 最後には――資本主義の成れの果てに対しては――ぼろくそにけなす。この態度に問題があります。

 つまり初めから 部分的な人格ないし精神の一側面を扱うのだと言っていれば そんなに持ち上げることはないわけです。

 《時は金なり》なる心理的な起動力は なるほど《勤勉》ですが 精神ないし存在そのものではない。と初めからことわっていなければならないはずです。

 あるいはつまり 勤勉の自己目的化は ガリ勉ですが どちらにしても 人間の精神ないし生活の経済活動という一側面であるゆえ そこにおける努力なりエートスなりは 全人格までは表わさないとことわっておいてあれば あとで むやみに・勝ち誇ったように 成れの果てを切り捨てることもなかった。

 ガリ勉資本主義は ふつうの市民の生活態度ではない。と最初に批判しておけば足りたと思われるのです。

 ★ ここでウェーバーは、起動力が精神に先行して良いのか?などの、こう言って間違いでなければ、存在論的な順序関係に悩んだのだろうか?。憶測ですが、それは省略したと思います。論を読めばわかると。
 ☆ 《省略》だったでしょうか。――つまりですから 最後に捨て台詞を吐くということは 《省略》だったのではなく あたかも資本の原始的蓄積だか何だかを起動させた。のなら それは 着眼点としてもその徹底的な奮闘ぶりにしても 重要でありいわば立派であり そのようにして初めは そのプロテスタントらの味方として肩入れをしていたのではないか。と疑われるのです。



      *

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 たとえ学究行為自体はそうでなければならないとしても、その学究行為を選択した主体、その学究行為の結論を世に問うべきかどうかを価値判断する主体の視点が、そこでは全く抜け落ちている。

 そのために「職業としての政治」がある。そこでは、「職業としての学問」で徹底的に排除した全てに対して、全て逆方向に極めなければ駄目だ、と議論される。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここは うまくまとめていると読めるのですが まさにここが 曲者だと思います。
 つまり 《職業としての政治》となると 局面ががらりと変わってしまいます。
 
 要するに 《悪魔と手をむすぶ》ことが必要だと言っています。
 おそらく 表現の問題なんだろうと思われますので 悪魔うんぬんを議論しませんが 問題は その社会の運営のことを ふつうに《共同自治》と捉えるか それとも《言わばエリートなる政治家による政治行為》でありそのほかには何の要素もないと見るかだと思われます。けっきょくヱーバーは 後者の視点へとのめりこんでいると思われます。

 これは 学者の価値自由な態度と対照的だと言いますか。あるいはぎゃくに その没価値性と裏腹の関係で 政治というものは政治家が価値判断し決断したその内容をオブラートに包みつつもじっさいには《強制》として執行するものだと見ているかに思われます。

 市民の市民による市民のための共同自治といった考え方は 出て来ないように思われます。(時代の影響はあるとしても)。

 しかも――しかも です―― みづからの姿勢としては 人格およびその矜持をおおいに保ちます。
 ★ 故にウェーバーにとって精神は学問とは無関係に、個々人が孤高に持たねばならないものになります。その意味で、ウェーバーは貴族的です。
 ☆ つまり わたしの物言いは かんたんで単純です。その誇りを持つなら 政治家が仮りにエリートであったとしても それはそれでもう放っておいて エリート以前のふつうの生活者ないしその意味での市民性に立つことにおいてであるはずだというものなのです。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >  「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、
   人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、
   と自惚れるだろう」と

 ・・・かなり当たってませんか?。

 「精神のない専門人、心情のない享楽人」の複合体は、今や宗教させ利用するようになった。ここで享楽は、広い意味で使っています。例えば新興宗教です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり ガリ勉資本主義なる思想は A.スミスの《同感の原理》に 初めから 反していた。と考えられるのです。市民の賛同を 初めから 得られていなかった。
 ですから ここで堂々と価値判断したその自分の見解を披露しているその内容は ガリ勉の成れの果てでしかないということ。これは 初めに分かっていたことだと考えられます。
 というのが 市民の勤勉志向――ここに同感が寄せられると思われます――なる観点です。




 ★ 日本における最悪の「精神のない専門人と心情のない享楽人」の出会いは、オーム事件であったと自分は思うからです。 
 ☆ そういう傾向にあると見ておいて そうではなく問題になるのは ひとつに《精神のない専門人と心情のない享楽人》が出現したのは 簡単に言って《時は金なり》の自己目的化および生活における徹底ないし全人格における徹底から来ているであろうという点です。
 もうひとつには 《精神のない専門人と心情のない享楽人》という規定をおこなっているその人(ヱーバーですが)の立ち位置は どこにあるかだと見ます。

 学問至上主義なる孤高の地点ではないでしょうか。人びとの仰ぎ見る《星》としての位置ではないでしょうか。

 わたしの物言いは その誇りを ふつうの生活者市民としての立ち場から表わすのがよい これです。

お礼日時:2013/09/19 22:50

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