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昔、エジプト文明で、人々を有利に動かす為
絶大な力を持つ太陽を神(命令発信者)と崇め、人々は決して逆らう事なく
王(太陽の命令伝達者)は民に言う事を聞かせたと調べてわかりました。
また、死後の世界も作り上げ、再度生き返ると洗脳し、
なるべく死を怖がらせない手法を用いたそうです。
人にいう事を聞かせる為に用いた反撃不能の存在が「神」。
逆らえば大地に災いがもたらされる。
そうやって王は自由に民の行動を制限し、誘導したそうです。
各地の指導者達は、民を自由に動かせる手法であると認識し
各地それぞれの「神」を作り上げました。
集団を自由に動かす有用な手段である為、当然戦争にも有効に使われました。
今でも宗教vs宗教の戦争が存在します。

人々にいう事を聞かせる為に作りあげた「太陽神」
いまや宗教は国家間の確執になり、民事裁判に至る小事まで
争いと災いしか生んでいないように見えます。
存在しない神をなぜ心の拠り所とするのか?
どなたか、簡単で良いのでご説明下さい。
宗教アンチではなく、純粋な質問です

質問者からの補足コメント

  • へこむわー

    一部、宗教アンチな発言がありました。
    撤回致します。申し訳ありません

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2016/04/20 00:55

A 回答 (14件中1~10件)

★(№11お礼欄) bragelloneさん個人として、神様の存在とは


どのような映像なのでしょう?
☆ 《映像》はさすがに 無理ですね。

神は 言葉による(つまり 経験合理性にもとづく)説明としては 
《絶対 あるいは 無限》という概念で成されます。

《二で割っても三で割っても その商はやはりもとの無限である》と
いう無限の概念で説明されるはずです。

かたちのある像をむすぶことはあり得ませんね。
(《絶対》を《絶対者》として擬人化したり あるいは神の属性を人
が考え 《真理・全知全能・慈愛・至高の善》などいろんな形容をも
あたえることがありますが それらは言わば正解を問い求めるための
補助線です。仮りのものです。《正解》じたいは 分かるか分からな
いか それが人間には分からないナゾであると見られます)。


つまりあるいは それゆえにも 神は《有る》と言っても《無い》と
言っても 同じことになります。

さらにあるいは その《有る神》をヤハヱ―と呼んでもブラフマンと
名づけてもアミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)と言っても すべて指し
示しているものは 同じひとつであり それは普遍神です。

これをまとめてみると 次のようだと理解しています。

○ 《梵我一如》なる信仰類型

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・
    ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

☆ ただし 個人の内面なる信仰とそして集団としての宗教とを区別し
たいと思います。

つまり 人びとはこの《普遍神〔とわれとの関係〕》に ついて どう
いうわけか信仰だけではなお不服であるらしく いろんな《オシヘ》を
こしらえ 飾りつけをしました。

オシヘの教祖が 絶対であって神にまで成るといったようにです。

《わが心の――固有の時なる――信仰》つまりそのわが主観から外に出
て行ってしまったのだと見ます。シュウキョウがです。

シュウキョウは 信仰という蝉のその抜け殻であると考えます。
仮りにお金儲けのためでないとしても 他者に対する支配欲によって支
配され互いに群れようとすることの好きな人びとの問題だと思います。

マツリゴト――政治≒宗教――ですね。
わたしは 根っからの《宗教アンチ》です。司会者の立ち場でないのを
よいことに。・・・
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この回答へのお礼

ありがとう

大変簡単に砕いて説明頂いているのだと思います。
すごく呑み込めました。
bragelloneさんの言う「神」と、全く概念の異なる「神」があるようですね。
普段耳にする「神」は、その宣伝活動ゆえに人の言葉でしかなく
神が言ったわけでもなく、神が誰かに伝言を伝えたわけでもない
人間がつくりあげた「飾りつけ」だったという事ですね。
形は無く、イメージしやすいよう擬人化され、あたかも人のカタチをしているような
想像の手助けをしているということでしょうか。

私は相対性理論を少々勉強し始めました。
空間の膨張に伴う「端」の裏側を想像したとき、
あまりに想像に難しく頭のテッペンが痛くなった経験があります。
調べていくうちに、ただ空間が無いというだけの事でしたが
やはりイメージでは裏側にも暗い空間を脳内で映像化してしまいます。

人は、理解を超えた想像を脳が拒否してしまうのだと思います。
だから擬人化せざるを得ないのかもしれませんね。

お礼日時:2016/04/21 01:50

そもそもは人為に意味付けをするものが宗教だったんだと思います。


その拠り所を最先端の普遍性ということで詰めていったときに
歴史の流れとしては
宗教が最先端であった時代から
物質科学がそれに取って代わった時期を経て
物質科学の先に萌芽した精神科学的スタンスからの調整の可能性が
見え隠れしているのが現状なような気がします。
神という概念は
どうしても対応せざるを得ない現実の未熟さの中において
科学的に説明できるすそ野の閾値以下の部分の説明を詰める際に
登場させざるを得ない、少なくともくさびではあったのだと思います。
それを争いに活用しようとするのは人間のわがままです。
そのわがままをどう取り扱うのが
人類の種としての繁栄と進歩に対して妥当かというのが問われているのが現状で
その切り札が精神科学ということになりそうだという気がします。
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この回答へのお礼

ありがとう

世間の「知識」が乏しければ、神は絶大な「発言力」を持つ事になります。
指導者は神がこう言っているというだけでいいのですからね。
世界中で真似されて、力を持つ者は更に力を増大させる「流行」だったのでしょう。
思いどうりに民衆を動かす道具でしたよね。正に最先端の統治方法でした。
時代は進み、神が「上」にいないとわかっても手を変え品を変え神は存在し続けます。
suzumenokoxさんの言う通り、
>科学的に説明できるすそ野の閾値以下の部分の説明  ですね。
これは、狭くなってきています。科学が進めば進むほどです。
些細な隙間に埋め込んだ「説明不可領域」。
最後は計算式でしか立証できない世界、宇宙論1点に戻ると思います。
もしも宗教の無い星だったら、どんなに救われるのか。
なぜ教えとは真逆の世界へ進んでいるのか。
人の心に対する「規制」。いつか始まるのかもしれませんね。

ありがとうございました。
(閾値という言葉を初めて知りました)

お礼日時:2016/04/22 20:09

神の存在を信じることと、宗教活動に身を投じることとは、少し違っているのではないでしょうか。



私は米国在住のキリスト教徒で、三年ほど前から宗教画を描きはじめ、欲しいといってくださる方もぼちぼち出てきました。たぶん、これが私の宗教活動になるかと思われます。

”なぜ(存在しない)神が心の拠り所になりえるか”

複雑な家庭に育ち、人間の醜さ、不完全さをまのあたりにしたせいか、幼いころから、人を頼りにすることがなく、成長しました。中学生のころから、趣味はお寺巡り、鎌倉の地蔵尊巡り、という渋さでした。まじめに勉強して、良い成績をとるのも、ひとつの趣向でした。美術館では宗教画に心ひかれました。完璧なもの、美しいものにどんどん心が傾斜してゆきますが、人間の世界を見渡しても、存在しないんですね。

結局は聖書にたどり着きます。当時妊娠していて、子供の教育の機軸をどうするか、と迷っていた時でしたので、子供たちが大きくなってゆくにつれて、日曜学校や幼児教育を、聖書の教えに基づいて施してくれる教会にはお世話になりました。日本でいうと、町内会の役目を果たしていました。夫婦で日曜学校の先生を担当したこともあります。

私の場合、実父の家族が、代々キリスト教徒であったことも、心のどこかにあったと思います。高校時代に”ファウスト”を読んで、涙が出るほど感動したのも、キリスト教に帰依する助けになっています。神に、一度も会ったことのない実父の姿を重ねているとも考えられます。

まとめると、私のような完璧主義者が、人間世界に絶望し、なおも生真面目に真実を追求しようとすると、神の存在に行き当たるように考えます。私の考え方が文科系であることも寄与しています。

理科系の頭脳を持っていたら、自然科学の虜になっていたかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ありがとう

やはり、信じる(頼る)強さは、幼い頃の環境も大きく関係しているのかもしれませんね。
そのときの感じ方、考え方が「基盤」になっており、
成長に従って、自然と思いが増長していくように思えます。
もちろん、性格や環境次第では変化するでしょうけど、基本形な気がします。

中学生の頃に色々周られていたそうですが、
多感な時期ですし、悪さを(その腐敗思考のまま成長)する中学生が大勢いるなか、とても良い事と思います。
色々な見聞きを吸収する年頃ですし、大変清い方向へ成長なさったんだと感じられますね。

完璧主義というのは自分には無い事で、大変羨ましい限りなのですが
>真実を追求しようとすると
と神様の存在がどうしても相反する事に思えてしまいます。
これは、存在を否定しているのではなく
見えない、聞こえない、感じられない事への懐疑心から来ています。

回答者さんの中で、「存在の有無は関係ない」と教えてくれた方がいました。
「信じる信じないも関係無い」という事も。
教えに従う(指示や強制)のではなく、考える事。
ciaopolpo2さんのお話しを重ね合わせ、何か見えてはいるんですが
懐疑心が邪魔をするのか、モヤモヤとしています。
こんな深い世界だとは思っていませんでした。

貴重な体験談、ありがとうございました

お礼日時:2016/04/22 19:44

★(№7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~


しかし、現代において宗教は行動の自由を制限し(良い意味でも悪い
意味でも)
信仰という“神の声(教え)に対する従事”に特化しています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これについては ひと言ですが:

信仰は 《神の声とわれとの関係(または 〈無い神〉というわが心
の選択)》のみです。その心より外へは出かけません。

外に・つまりほかの人たちに対するかたちへと出かけるのが 宗教で
す。そのオシへをあたかも神としてのごとく信じなさい(心に受け容
れなさい)ときわめて変なことを説く運動です。

オシヘは すでに人間の言葉で表わされている経験思想です。《信じ
る》のではなく《考える》ものですから。神の声そのものではありま
せん。

クルアーンについては特に《考える》ものを《信じる》ものと受け取
っているそのような傾向が見られますが。



★ ~~~~~~~~~~~~~~~
生きていく上で必要な政と宗教は切り離され
宗教そのものはただのビジネスに近い存在となりました。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 宗教組織としては 政治とは切り離されましたが 一般的なマツ
リゴトとして なおまだ残っています。なお活発です。

すなわち クウキが情況を支配するといったかたちでクウキ教とも呼
べる日本教となっている――組織されざる――シュウキョウが です。

 日本教・・・ナゾの総本山
  神道支部
  仏教支部
  キリスト教支部
  マルクス教支部

☆ 各支部はまた 宗派によって支所に分かれていますね。


★ ~~~~~~~~~~~~~~
こうなると、存在しない神様を信仰する意味すらありません。
信仰に対する報酬(収穫など)が無いからです。
~~~~~~~~~~~~~
☆ 神は有るとも無いともいづれとも証明し得ません。

非知なるナゾとして――非経験の場において――想定するのみです。
そこから人びとはそれぞれ 《有る神》派と《無い神》派とに 自由
に好きなように選択し分かれてそれとしての信仰を持って生きている。
というかたちでしょう。


★ ~~~~~~~~~~~~
その場合、政が政治であり宗教という考えだと、
信仰すべきは各政党という事でしょうかね?
~~~~~~~~~~~~~~
☆ 政党ないし政治団体は そうだとすれば 日本教の各支部として
のシュウキョウとかかわって運動しているかも分かりません。公明党
と日本共産党がいちばん分かりやすいようです。

昨今 日本教・中国支部だの韓国支部だのが現われていましょうか。

★ ~~~~~~~~~~~~
難しく理解できていなかったら申し訳ない。
歴史的情報ありがとうございました。
~~~~~~~~~~~~~
☆ いえいえ。どういたしまして。お互い研鑽していきたいと思って
います。
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この回答へのお礼

ありがとう

信仰=《神の声とわれとの関係》
その「神」です。選択として≪無い神≫という選択肢があるようですが、
信者が思う神様、ここの起点が疑問なのです。
経験上、子供の頃から「神様」という言葉を耳にし、
その存在が常識であるかのように成長してきました。
小学校の校門で、帰りにキリスト様の紙芝居も見せられました(笑)
今考えれば「あのオジさんは○○○だったのか」と分かりますが、
空白だらけの子供の脳みそに先入観を植え付ける、懸命な作戦ではあるなと思います。

でも大人は、さまざまな邪念が入ります。
それでも尚、「神様の存在」を否定する人は少ない。
bragelloneさんは信仰心が熱い方とお見受けしました。
bragelloneさん個人として、神様の存在とは
どのような映像なのでしょう?

頭の中をほじくられるような不快感がある場合、
ざっくりでも良いのです。
実のあるお話しが出来、大変光栄に思います。

(No11に対する疑問がいくつもあるのですが長文になるので
一旦ここで区切ります。)

お礼日時:2016/04/20 01:48

#5関連で。



>質問の答えも無く、ただ単に「人間ではない」という事ですが、
そのように、普通に市販されていた本にさえ、簡単に洗脳されてしまう人に対する疑問です。

回答というものは、これが答えですよ、というものもありますが、人の答えを丸暗記するのではなく、自分で答えを見つけ出すヒントを提示する方法もあります。自分の言葉で見つけたものは、他人のどんなに洗練された言葉や論理よりも、深いレベルで自分を説得できるのです。洗練された回答をそのまま覚えている人は一見知識がありそうですが、所謂マニアル人間で、マニアルがないと何も出来ないような、良く見かける勉強のできる人で終わってしまいかねませんからね。

>私の質問は、“存在しない神をなぜ心の拠り所とするのか?”です。
言い換えれば、“何をもって存在すると思っているのか?”
“存在に対して疑問は持たないのか?”という問いを投げかけたつもりです。

宗教は救いのためにあるのであり、論理的な整合性を論じるためにあるのではありません。理屈が分った所で、それで救われないんじゃ、そりゃ、カレー粉の入っていないカレーライスみたいなもんだ。逆に理屈の筋が通っていなくても、それで救われたんなら宗教の役割は全うされたことになる。

お主、顕教と密教の違いをご存知か。お主はどうも宗教には顕教しかないと思い込んでいるような印象をもったが、当っているか。


宗教のことを考える際の自分の深層心理探るには、カソリックとプロテスタントの違いを認識するのも一考と思う。

イエスは、偶像を拝むな、自分の父以外を拝むな、と明言している。ところが、カソリックじゃマリア信仰があり、マリアの像を拝んでいる。また、聖人なるものを多数指名してその像を寺々に安置して、それを信者たちが拝んでいる。要するに、イエスの言っている事を全く無視しているんだよね。もちろんバチカンじゃ、いろんな屁理屈を並べて、イエスの言っている事と矛盾してないなんてなこと捲し立てているが、それってみな詭弁だ。

一方、プロテスタントじゃ、聖書に帰れってんで、極端な話、アメリカのある宗派じゃ、十字架すら偶像と見立てて、教会に十字架すらない。彼等は、キリストの言葉との整合性を第一と考えているんだね。

んで、あんたは論理的な筋を通しているこんなプロテスタンンとのやり方と、イエスの言葉を平気で無視しているカソリックのやり方と、どちらがあんたの琴線に馴染むんかね。あんたは宗教を考えるときに、理屈を優先させるのと救いを優先させるのと、どちらに与し易いんかね。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

プンプン

「神」ありきの説明ですね。
存在しない神をなぜ心の拠り所とするのか?とは論点がズレています。
論理的な整合性を求めているのではありません。
一人ひとり、「神」とはどういう存在なのか?
その創造的な絵を、どのように描いているのか知りたいのです。
そこに付随する疑問、「神は人が作り上げた架空の存在なのに」です。

宗教は救いの為と言いますが、私が「人間か?」と問われて傷付くとは考えませんでしたか?
人間だとわかっている相手を否定、侮辱し、優越感に浸るのが、あなたの宗教の教えなら
ずいぶんと悪辣な組織なのでしょうね。上から目線で心が救われましたか?
小山の大将さん、あなたの態度は最初の質問「争いと災いしか生んでいないように見えます」ですね。
正に宗教の悪い部分、自分が正しい、相手を全否定。聞く耳持たない。困ったもんです
そこを知りたいのに。なぜそこまで洗脳されてしまうのか???

複数の回答を得られる質疑応答の場で、ヒントを求めてると思ってるんですか?
いろんな人の答えを聞き、考え、総合的な判断の材料になるんですよ。
あなたの答えを丸暗記するわけではありませんし、
敬語だったりタメ口だったり、「お主」だったり「あんた」だったり
文章に一貫性が無く読みにくい。増して答えを伏せている人の言葉など参考にすらなりません。
他人の思想をコピーするマニアル人間が、各宗派の信者に見えます。
教えに沿い、言われたままに行動する。他人の言葉に惑わされる事を否定し、教えが全て。ロボットですね

他の回答者の考えを見ましたか?
自分の思いを書きこんでいます。
そしてそれぞれの、思惑に対する傾きに並んでみるのです。
否定せず、一度心に心情を受け入れてみて、考えを巡らせる。
各々の頭の中を、少しだけ拝見したいという思惑がわからないのでしょうか。

理屈とか救いとか、誰がそんな事聞いてますか。どれだけ話をズラすんですか。

(夜中に書いてるので、誤字脱字あったら申し訳ない)

お礼日時:2016/04/20 00:51

宗教とは、「妄想」



それ以上でもないし、それ以下でもない。

人間なんて、バクテリアと同じ。

詰まらない、「考える」能力を身に付けた為に、自分こそは特別だ、と言う「妄想」を持つに至った。

考えることで、神を妄想し、その中で、恍惚に浸る。

しかし、現実は、バクテリアと同じ。

地球が消滅すれば、消滅するし、環境が変化しただけで、消滅する。

屁理屈をいくら並べても、何の役にも立たない。

バクテリアは何も考えず、必死に生きて、必死に死んでいく。

それと何も変わらない。

そんなことを思う、今日この頃。
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この回答へのお礼

ありがとう

異議ありませんね。ただ、その妄想(各宗教)に私財を投じ殺人まで犯す洗脳力は感心します。
人間は、蝶を愛し蛾を嫌う。正に特別な存在のようで
クワガタやカブトムシを捕獲し、自然界から隔離する。鑑賞という悦に浸る為に。
いろいろな動物を檻に入れ人々の見世物とする。金を得る為に。
農薬をまき散らし、虫の食事すら妨害する。殺害目的は「そこにいたから」。

そうなんですよね、神様は人間そのもの。弱肉強食以外で自由に生き物の命を操る存在。
絶対的なパワーを持つ人間も、さらに強い存在が欲しいのでしょうね
神の教えなら、行動の責任は「神様のせい」にできますからね

ありがとうございました

お礼日時:2016/04/19 03:52

生きる意味(価値観)や存在の起源(世界観)、即ち


第一原因を全知全能の神に求める、思考停止の旗印だ。
まぁ、人は、分からなくても生きない訳にはいかないからね。
見えない闇をゆくための、幻の灯明(気休め)。
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この回答へのお礼

ありがとう

深い思想への逃げ道、ですね。
それぞれが逃げ道として歩む道を指示してもらい、その責任を転嫁する。
psytex1さんのように気休め信仰であれば分かるのです。
漠然と、“上”に何か欲しいんですよね。
ところが世の中には、初詣に資金を提供し、神棚には毎日供え
団体に私財を投じ、殺人命令(外国)までこなす信仰者もいるのですが、
その大変強い信仰心、本当に神の存在を信じているのか疑問です。
信仰の根源は、小さな気休めから始まったのかもしれませんね。

ありがとうございました

お礼日時:2016/04/19 04:06

日本人の場合です。


すでに古代において 心性あるいは知性として次の三つの段階(類型)を経て来た
と考えます。

 知性の類型

 1. ヨリ(憑り):原始心性:世界に寄り憑く:アニミズム・シャーマニズム

 2. イリ(入り):歴史知性:世界の内に入る:時間的存在であることを自覚
               《世界‐内‐存在》

 3. ヨセ(寄せ):超歴史知性:ヨリ心性を束ね イリ知性を引き寄せ 全体
               として世界を超えたと言いつつこれを経営する

☆ ヨリなる原始心性は おおまかに縄文人を言います。

その狩猟・採集・漁労の生活から 農耕という生活様式が始まり弥生時代に普及し
た。

野生のままの稲ではなく 人間が栽培するという。ときにそこへ 鉄が入って来た。
生産のチカラが上がり やがて死者の副葬品には 違いが現われるという。格差が
出て来たと。

大きな古墳をもつくり始めた。
農耕において植物のそだつ過程を知り 人びとは時間を知った。その結果 ヨリ心
性は 時間という世界に入り 歴史知性を獲得した。(もともと自然本性としてそ
なわっていたチカラが現実のものとなった)。

ところがここで さらに大きな巨大古墳を築くのだという知性が現われた。
ヨリ心性もイリ知性をも自分のもとに《寄せる》というチセイ。

品行方正・学力優秀だった人間が イリ知性らに社会のことは自分たちにまかせて
欲しい 上手に経営してあげるからと言って 頼みからかしたところ イリ人らは
これに《くにゆづり》した。根負けしたのである。

こうして社会というやしろには 専門の経営層という第二階が出来た。
世の中は 二階建て構造となった。

かつては ムラムラにあって 穫り入れのときにはマツリを催した。初穂を神々に
ささげ感謝の心を表わしていた。そうしたところ あらたな国にあっては そのム
ラムラのマツリというマツリを束ね その上(二階)にマツリゴトを置いた。

マツリのささげものは マツリゴトへのみつぎものと成った。
マツリの神々は マツリゴトの雲の上なる神――ヨセなるスーパー歴史知性――に
仕えることと成った。

マツリゴトというのが 政治であり同時に宗教でしょう。
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この回答へのお礼

ありがとう

元々は、政治(民の指導者)が用いた手法なので
私の知っている政治と宗教とは逆ですが、日本ではそうだったのですね。
元来、祭政一致だった形態が階層化したのですな。

しかし、現代において宗教は行動の自由を制限し(良い意味でも悪い意味でも)
信仰という“神の声(教え)に対する従事”に特化しています。
生きていく上で必要な政と宗教は切り離され
宗教そのものはただのビジネスに近い存在となりました。
こうなると、存在しない神様を信仰する意味すらありません。
信仰に対する報酬(収穫など)が無いからです。
その場合、政が政治であり宗教という考えだと、
信仰すべきは各政党という事でしょうかね?

難しく理解できていなかったら申し訳ない。
歴史的情報ありがとうございました。

お礼日時:2016/04/19 03:26

人間は、宇宙の中のこの地球に、何も知らずに生まれてくるわけです。


で、明日どうなるか分からない生き物です。本能に従って生きることも
できない存在ですから、結局何かを信ずるしかないと思うんです。
だって、宇宙の摂理というべきものが分からないからです。

かつては、「宗教」と呼ばれるものを信ずる人は多かったけれど、今は
「科学的なもの」を信ずる人が多いと思う。

現在、「宗教」呼ばれているものがなくなればよい、という思想がある
のですが、実に浅はかな考えで、「宗教」は形を変化させて永久になく
ならないものであると、上記の人間の本質から考えると、そう思います。

これからの「宗教」は、特定の教義とか、教団というものを持たず、現
在の消費社会を維持できる「思想」を漠然と信ずる、というものが主流
になってゆく方向に向かっていると私は考えています。

そうなってゆけば、20世紀のような戦争はないとしても、「争い」は増
えるだろうと思います。自分たちの経済的利益を重要視するからです。
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この回答へのお礼

ありがとう

あくまでも完全な、私個人の意見ですが、
「宗教」の存在が無くなればいいという考えよりは
「宗教」そのものが詐欺行為であり、地球規模の被害者を生んでいると考えています。

仰る通り、日本においては仏教信者そのものの絶対数は減っていると思います。
ところが、新興宗教とその信者は増えているのです。
こうなると、集団心理とは違い、個々が己の判断で信仰している事になります。
こういう教団の洗脳方法にも大変興味がありますが、入る勇気はありませんw

「結局何かを信ずるしかないと思うんです」これは確かに分かるんです。
なんとなく、絶対的な存在があると仮定すれば、
そこから“指示”をもらえれば、行動の責任という意味で実に楽になります。
さらに将来、組織が消滅し、漠然と意識の中で存在するのなら
「自分に都合の良い信仰」を持ってしまいますね。
そうなれば、殺人だって「自分なりに正解」となってしまいます。
“嘘つきは泥棒の始まり”、“悪い事をするとバチが当たる”
“嘘つくと閻魔大王に舌を抜かれる”これら悪事の抑止教育は今や死語です。
何か新しい教育方法が必要なのかもしれませんね

ありがとうございました

お礼日時:2016/04/19 03:03

大分昔私が若い頃、西洋人の哲学者の本をに書いてあったことです。

著者の名前は忘れました。

確かその本の名前は『人間』だったと思います。

人間だけがする行為、すなわち人間であるための必要条件を語っている本でした。その本の章立ては確か、

・言語と論理
・芸術と科学
・社会
・宗教
・戦争

辺りだったと思います。このどれ一つを取り除いても、人間ではないようです。

んで、貴方は人間ですか?
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この回答へのお礼

うーん・・・

面白そうな本ですね。宗教を取り除いた私が人間で無いのなら
戦争経験の無い国の国民や少数民族は人間として認められないのでしょうか?
すごく偏見に満ちた、偏った著者ですな。

私の質問は、“存在しない神をなぜ心の拠り所とするのか?”です。
言い換えれば、“何をもって存在すると思っているのか?”
“存在に対して疑問は持たないのか?”という問いを投げかけたつもりです。
質問の答えも無く、ただ単に「人間ではない」という事ですが、
そのように、普通に市販されていた本にさえ、簡単に洗脳されてしまう人に対する疑問です。

ちなみに、必ず何か信仰しろと言われれば
太陽や宇宙、ビックバンに感謝の気持ちを述べる事はできます。
今の世界を作った実際存在するものですからね。

しかしながら、思いを蘇らせ、わざわざ書き込んでくれた事には感謝致します。
それも一つの意見ですね。ありがとうございました

お礼日時:2016/04/19 02:23

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