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人間は本然的に無謬性を求める、と言えると思います。
無謬性という概念は「信仰」につながると思います。

人々はかつては宗教にそれを見ました。「聖書の無謬性」などという言葉もあります。

現在は科学にそれを見ているのではないでしょうか?
わからないことがあるにせよ、科学的に証明されたものは「絶対に正しい」、と。

あるいは、人間は間違えるが、AIは絶対に間違えない、と。
そこから、AIに対する「神格化」の感情が急速に高まっていると思います。

しかし、AIは設定された条件内においては間違いはないと思いますが、その「条件」
の中に誤謬があるいは不完全性がありうると思います。

また、科学が証明したものは、宇宙の中のどの位置にあるのか?つまり、科学そのものの
無謬性は証明できるのか?

無謬性ということについて、あるいは無謬性と信仰について、無謬性と科学について、そ
の他、なんでも結構です、よろしくお願い致します。

質問者からの補足コメント

  • ゲーデルの「不完全性定理」というものは難しくて理解しておりません。
    あくまで、一般大衆の感覚はこうであろうという前提での質問です。

      補足日時:2017/04/13 11:44

A 回答 (14件中1~10件)

伝統的宗教が歴史の中で


人間にとっての社会を維持するために
直観的に正しいと思われる価値観の正当性の拠り所として
神もしくはそれに類する存在を土台にした無謬性を構築する必要があった。
というのは科学が未熟な時代を経ながら進歩せざるを得なかった
人類にとって避けて通ることができなかった必然の過程だと思います。
現代という時代は
そうやって積み重ねられた歴史の成果としての科学という客観的な拠り所によって
無謬性を検討できる時代にはなっていると理解していいのではないでしょうか。

物質科学の隆盛期にこじれた宗教と科学の関係も
物質科学の先に展開することが可能になった精神科学に照らして
整合性を検討することで新たな展開も期待できると思います。

科学の世界における無謬性においても人間の認識能力の構造的限界というものがあって
その閾値以下の部分においては信仰という拠り所の必要性はなくならない。
そしてその領域の拠り所を求められる局面もなくならない。
今のところそんなふうに考えています。
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この回答へのお礼

広い視野に立ったご意見ありがとうございます。

精神科学の大いなる発展と、そこから「宗教」をどうするかが
最重要ではないかと思います。

お礼日時:2017/04/15 23:57

回答№11での図式をおぎないます。




○ カミと《わたし》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【?(非知)】:非経験の場(絶対):生命なる力:カミ〔有る神(梵・仏・霊);無い神(無梵)〕
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
【わたし】:経験存在(相対):いのちなる自然本性:カミの分有(霊我・仏性・霊我;無我)


○ 《わたし》は 人間であり 信じ・考え・感じる主体である。 ~~~~~~~~~~~~~~

【信じる】:非思考の庭:クレド( I believe. ):梵我一如(仏仏一如・霊霊一如;無梵無我一如)
                      〔生命力;知性(知恵・知識・倫理)の源泉〕
                      〔元気; 原知解(原科学)・原倫理(良し悪し)〕
                       ↓    ↓          ↓
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       ↓    ↓          ↓
【考える】:思考の緑野:コギト( I think. ):健全・ヒラメキ( inspiration )  ↓
【感じる】:感性の原野:センスス・コムニス:健康・           ヤマシサ反応(良心)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ ひとは 有限で相対的な存在であるゆえ
――道草を食ったり道をふらふらと逸れて行ってしまうごとく あやまちを冒す
ことがあるゆえ―― 
すこやかさ(健全・健康)は そこなわれ得るし 
ヤマシサ反応(良心)にさからって思考し行動する自由度をも自由意志として持
っており
――そのようなウソをつきイツハリをおこない得るヘソを曲げた心の状態にあり
得て――
ヒラメキの知性をも やましい心で利用することがある。

無謬であるわけには行かないらしい。
そして あやまちを覆い包む心は おのおのに そなわっていると思われ 
これを発揮し合って行くことは 現実的だと考えられる。




これからの課題として:
神論ないし信仰の理論を 構築する。《普遍神》のもとにというところが ミソ。

そのときの焦点は 《非思考の庭》と《思考の緑野・感性の原野》との区別をき
ちんとすることにあると思われる。

要するに人びとは 思考と想像の産物としての神をつくり勝ちであるゆえ。

あとは へそ曲がりがどうして起こるのか。その実態を捉え できればへそ曲が
り論として人間学の内に理論化しておくとよい。

観念の神――神の観念化――が ひとつの悪しき原因になっているのではないか
など。

心の場から 聖なる甘え または きよらかなおそれが消えてしまうゆえ。

要するに 非思考の庭を 思考や感情で塗りつぶし よくもわるくも人間知性の
裏庭へと押しやり掃き捨ててしまっているのではないか。
(無神論という信仰である場合には 裏庭行きであっても 《思考や感情で塗り
つぶす》ことがなければ 《よくも》に成り得る)。
うんぬん うんぬん です。
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この回答へのお礼

老若男女、どんな立場の人も、自由に言いたいことを言い合うということが、
民主主義の究極だと思います。

「無謬性」については、もっと悩むかと思いましたが、概ね腑に落ちてまいり
ました。

頂いたご回答はもう一度読んでみます。

お礼日時:2017/04/15 23:50

無謬性を問わなければ無謬性があり、無謬性を問うと無謬性が失われる。



つまり、無謬性はすなわち対象の限定、条件付けであって、いわば、コインの裏なのか表なのかを問うとコインの全体性が失われるのに似てます。
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この回答へのお礼

ケチをつけようと思えばいくらでもつけられるから、
つけない方がいい、ということですか?

お礼日時:2017/04/15 23:36

★(№3お礼欄) ~~~~~~~~


カントの定言命法と「よきに計らえ」の対比。

理論的なことはよく分かりませんが、「無謬」とはすんなりつながらない気がします。
まして、「よきに計らえ」という言葉のイメージとしては、命ずるほうが「意外性」を
期待しているという自由さを感じます。
~~~~~~~~~~~~
☆ 《よきに計らえ》やあるいは《よかれと思っておこないました》は 確かに無謬性
というよりは つねに万事よくうまく事がはこばれるとは限らないからには 多少の不
都合なことが生じたとしても よく終えられたとまづまづ言える結果が得られることを
願いそれを目指す・・・ということでしょうか。

問題は カントの命題とても 実際の現実としては けっきょくそういった内実を言お
うとしている・・・ということではないのか です。



★ ~~~~~~~~~~~
「アヌッタラ サンミャク サンボディー」=「無上正等覚」つまり、仏の悟りが「無謬」
なのか!?

人間が、というか哲学者がそう表現をしたがった、というよりも一般の人間たちがそう
解釈をしたがった、のではないかと今は思っています。
人は「無謬」を求めると思うからです。
~~~~~~~~~~~~
☆ 一般の人たちの思いと心理的な傾向を汲んでと言いますか やはりブディストたち
は そのさとりについて 非の打ちようなく・正しい真理だと言って来ました。

非ブディストすらも その前提を踏まえて議論をして来たのではないかと思います。

神とブッダは違うという――そしてその説明は成されない――議論が いまも少なから
ず聞こえて来ます。神は死んだが ブッダは違うと。

《非知なるナゾ》なら ブラフマンなどなどをふくめて みな同じひとつの普遍神のこ
とです。



普遍神は 無謬か?

《あやまつは 人のつね。ゆるすは 神》とも言いますが 《あやまつ》という言葉と
概念は むろん経験事象なのですから 経験世界を超えた神は それに馴染みません。

したがって 無謬か有謬かという問いが立ちません。普遍神は あやまちの有る無しを
超えた非知なるナゾです。それゆえ――人智を超えているゆえ―― もし言うとすれば 
真理です。永遠の法です。

《善悪の彼岸》というのは 伊達ではないはずなんです。

《絶対矛盾的自己同一》とか言う人もいました。





★ ~~~~~~~~~~~
しかし、ここで私も「無謬」という概念そのものに疑念を感じざるを得ないことになり
ます。

そもそも「無謬」とは人類の文明が確立した思考方法においては、存在しない概念なの
ではないか?
~~~~~~~~~~~
☆ 存在するかしないかが 人間には分からないナゾだと思います。




★ ~~~~~~~~~
その思考方法とは、おそらく、時空を根本概念とした思考方法であろうと思いますが、
では、そのほかの思考方法とはどういうものなのか?

ここで途方に暮れてしまうことになるのですが、まずはどのように考えを進めていった
ら よいと思われますか?
~~~~~~~~~~~
☆ 時空間を基礎とした思考やその方法は ふつうの人間の感性および理性にもとづく
認識や判断の問題だと思います。

人間には そのほかの思考方法はないと思います。

あるのは ヒラメキです。感覚としては ヤマシサ反応を起こす良心です。





○ 《わたし》は 人間であり 信じ・考え・感じる主体である。 ~~~~~~~~~~

【信じる】:非思考の庭:クレド( I believe. ):何らかの源泉
                 〔 原知解(原科学)   /  原倫理(良し悪し)〕
                       ↓            ↓
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       ↓            ↓
【考える】:思考の緑野:コギト( I think. ):ヒラメキ( inspiration )  ↓
【感じる】:感性の原野:センスス・コムニス(共通感覚):    ヤマシサ反応(良心)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ 《何らかの源泉》は ほんとは 《元気のみなもと》と書きたかった
のですが。

それにちなんでは パウロがくるったように 《わたしは 日々 死んで
います》と言っていることが思い浮かびましたが はてさて ここからど
のように問い求めをすすめて行けばよいか。

みんなで考え合い話し合っていくことだとは思います。わたしも いま上
の図式が――源泉とそのハタラキを加えたかたちが―― 最新の考えです。

それこそ わいわいがやがやでやって行ってよいと考えます。
自由――もっと自由 もっともっと自由――が 合い言葉でしょうか。
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この回答へのお礼

カントの命題はそういう意味での引用だったのですね。


ここで、「誤謬」ということについて思うことを書きます。

数字というものは記号であり、その意味は限られています。おそらく、曖昧な部分は
ないだろうと思います。数式でものを言ったことがないので想像になりますが。

一方言葉は、その意味合いに幅があります。定義が曖昧な概念も少なくありません。
にもかかわらず我々は言葉を数字のように扱って物事を理解しようとしている時がな
いでしょうか?
その実に単純な錯誤に気が付かず、混乱をきたしていることがあるのかも知れません。

だから、完璧な論理というものはないだろうと思いますし、仮にあったとしても論破
されることがあると思います。


全知全能の人格神は、科学の照射にあうと消えてしまう人間の想像力が生み出した神
ということになってしまいます。

一方、仏の悟りというものは、宇宙の摂理あるいは法というものを直観知によって理
解をした、悟った、という理解を私はしています。
尤もこれは仏教哲学を学ぶものとしては「初級」の表現であると理解していただいて
いいと思います。

しかし、そうであるならば、全知全能的無謬ということではなく、仏とは、宇宙の根
本法を悟り、それを教えてくれる人にすぎない、といえるのだはないか、また、その
点を一般的には誤解されているのではないかと思っています。

ちょっと、途中ですがいったん終わります。

お礼日時:2017/04/15 23:10

コメントをありがとうございます。



まづ先に 次のコメントを取り上げます。:

★(№2お礼欄) つまり、多くの人が全知全能の人格神を、
矛盾を感じながら信じてきた、とも言えると思います。
☆ そこで《感じる》矛盾は 神を人間にたとえてわれわれ
人間の思考と感覚において捉えうると見なし 捉えたと思う
ところに生じています。

それこそおそらくいわゆる無謬性を属性に持つと想定される
非知なるナゾ――としての神――を 擬人化し人格神として
表現し その上でいまひとつの属性たる全知全能をめぐって
われわれ人間の考えついた笑い話のようなお遊びです。

それによって 神が弱ったり困ったりするとか だから罰を
あたえてやろうと思ったりするとかというのは これも 人
間の思いや考えです。





《信じる》という〔それとして〕人間の意志の行為は 先ほ
どのナゾを 無条件に・無根拠にてわが心に受け容れるとい
うものです。

《非思考》です。思考や感覚を超えています。

矛盾を――あるいは矛盾がないとかと考えた結果を――信じ
るものではありません。

条件づけたり 根拠――あるいは 因果関係――を突き留め
たりすることの出来るものごとは 非知ではなく 可知(既
知か未知)および不可知のどれかに属します。


非思考にて受け容れる《信じる》ではない〔のに〕神〔だと
いうの〕は わたしは神についてあれこれと考えましたよと
いう問題です。


神のお告げがあったんだという預言は ヒラメキであり そ
の源泉は 非知なるナゾだと捉えられ その結果として得ら
れているもの(預言の内容)は すでに人間の思考の領域に
入って来ています。


ヒラメキの起こることは 神からのメールであり得ると捉え
られるならば 非思考の信仰から――つまり無根拠から――
得られたものと考えられ それを人間の言葉に表現したもの
(預言ないし仏智とか呼ばれて外化されたもの)は すでに
人間が思考し真偽を判断すべき対象になっています。

タテの関係は 非思考。ヨコの関係は 思考や感覚。




★(趣旨説明欄) AIに対する「神格化」
☆ この神格化も あくまで人間の思考や想像によるもので
す。

そして この世における――人間がかかわっていようがいま
いが その――経験的な行為や現象は つねに相対的で有限
で うつろいゆかざるを得ないものです。(諸行無常)。



と考えるんですけどねぇ。
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この回答へのお礼

いわゆる「神」が、人間であるほど人々は熱狂するのでしょう。

この原理を知るから、キリスト教の教会にキリスト像があり、寺院に仏像があり
日本の天皇が終戦の時まであれほど崇拝されたのだと思います。

もし、「三代目 J Soul Brothers」が神々の生まれ変わりだと認められたならば、
特に女性たちは狂ったように熱狂することでしょう。


あなたの哲学において「信じる」ということが「非思考」であるということ、こ
れを今ちょっと考えています。

お礼日時:2017/04/14 23:49

いろんな切り口から深めることができそうな問いですね。

中世西欧によくあったパズルのようなテーマを出して、DRさんの頭を楽しませることにしましょう。まず中国の故事にある最強の盾と矛の話を私が再度、示してみましょう。
 A. 神様は最初に矛を作ったとする。矛を作った時点ではそれがなんでも突き通すものであった。
 B. だが神さまはその後に最強の盾を作る。この時、矛は盾を突き通せないことになった。

 AとBの時点では、どちらも間違いではありませんね。Aの時点では矛が最強。しかしBの時点では盾が最強。神様は間違っていません。しかしAの時の神様の考えは、Bの時点では普遍的に正しいことではなくなってしまったわけですね。
 その場、その場で、正しいことを神様はおできになる。だが前の発言が、後においても正しいというわけではなくなってしまった。こういうのを神よりも時間が優位にあると表現します。神の権能をも時間が支配しているということです。
 盾と矛の話は私がここで作った創作ですが、これ、実際に神学上の議論です。この結果、ルネサンス期には神は世界の創造主ではあるが、完璧な創造主ではないと考えられるようになったのです。
 完全なる無謬性というものは、時間を超えるようなものでなければならないわけです。逆に考えれば、時間というものを超える方法を編み出せれば、無謬の存在を想定できるかもしれません。

 そんなもんないじゃんと思われるかもしれません。しかし、ここからが頭の働かせどころです。実は時を超えるものは現実として、すでに目の前にあるのではないか。まず科学に限らず、芸術とか伝統なんかに対しても、時を超えて人の心を打つ、という言い方がありますね。美の規範とは時代によって変わるはずで、過去のものが現代においても有効だとは限りません。しかし心を打つこともあるわけです。この時、その作品はホンモノだ、なんて言われるわけです。
 また法律はどうでしょう。法律は、普遍的な形で機能しないと公平性を担保できません。Aの時点の正義が、次のBの時に、正義ではなくなったら大変なことです。無謬性は憧れというよりむしろ、公平性を実現しようとする時に、ないとならないようなものなのでしょう。大げさに言えば、民主主義の根本に必要な考え方ではあるわけです。

 AIは新手の無謬性ではあります。条件の設定の仕方は改善がなされていくでしょうし、とても人間業ではないくらいになるでしょう。しかしAIは良くも悪くも、その場その場の情報に踊らされて、場当たり的に判断していくでしょう。AIが時を超えるのかどうか。ここがポイントであるように私には思えるのですよ。

>また、科学が証明したものは、宇宙の中のどの位置にあるのか?つまり、科学そのものの無謬性は証明できるのか?

 上の話からすると、時というものについて深く理解した時、答えが出ると言えます。場当たり的に正しいものは、普遍的な時間の中で、どのような位置付けにあるのか。今の人間(私を含む)が知っている時間は、事実を積み重ねていくだけの、単線的なものでしかありません。そして線の先に何があるのか、線全体がどのような形を描いているかもわからないわけです。これらが分かれば、全体の中の位置付けは的確に言えることでしょう。
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この回答へのお礼

盾と矛そして時間のお話、これが実際に神学において議論されていた
ということは興味深いことでした。
「聖書の無謬性」を保つために苦労していたのだろうと思いました。

そもそもユダヤ三宗教が全知全能の人格神を立てたのは、人間のエゴを
抑えるためではなかったかと私は考えています。
それが、聖職者の堕落により、人々を支配する方向へと走ったがために
ことさらに「無謬性」というものを強調せざるを得なくなったのではな
いかと。

このことは日本の宗教界も同様ですし、国家も大企業も自らの無謬性を
訴え続けてきたのですが、現代においてそれがガラガラと音を立てて崩
れ始めていると思います。

「無謬性」というものは権力者が民衆を支配する際に作られたしまった
もののような気がします。

お礼日時:2017/04/14 23:15

1.不確定性原理により、決定論的因果律は否定され、確率的に


  しか把握できない事が明らかとなっている。
  対象をいい加減に捉える事で、存在=有限な性質が生じている。
  「無いとは分からない事が有である」と言える。
  誤謬自体が物理である(存在的認識を無へと還元する過程)。

2.「科学的に証明する(無謬性)」という事は、「その言明が
  現実を記述している=Aと非Aを同時に導かない(無矛盾性)」
  という事と、「その公理系の中に、公理系で証明できない公理
  が介入していない(完全性)」を両立するものだと考えられて
  いたが、不完全性定理によって、その二者は両立しない事が
  証明された。

(一般の感覚は、古典物理的な素朴唯物論を前提としているので、
前提からして間違えています)
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この回答へのお礼

「不確定性原理」

電子の位置と運動を同時に正確に観測することはできない、という
量子力学の根本的原理、ということのようですが、文系の私には、
少しづつ理解を深めてゆく以外になく、これを哲学と結びつけると
いうことは現時点ではできません。

しかし、「不完全性定理」は比較的理解できそうです。

お礼日時:2017/04/14 08:19

自分から行ったのか


それとも呼ばれたのか招かれたのか

宗教的文脈では呼ばれたということかもしれないが、

そこから先へは進めないまま時間が過ぎている。

聖書を勉強してもお金を稼げたとしても
一生、あるいは死んでもずっと悩むのかもしれない。
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まあ、教会へ行ったのは


そしてその後行かなくなったのは

自分では信仰など無理だ。
そして教会活動なんか嫌だ

というそういうどうしようもなさです。
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私に問題があるとすれば


キリスト者になる。そしてそれは不可能だ。
という私の問題はどこまでも私個人の問題で、
それ以外はどうでもいいと自分で思っているだろうから
自己完結してしまっていて、それ以外は時間の無駄、
邪魔としか思っていないということであろうか。
キリスト教を伝道する気もない。できない。
どこまでも自分の問題でしかない。
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