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ルターの信仰義認論について教えてください。
私が読んだキリスト教の雑学本によると義認論が成り立つ根拠として「神が人になった」と書いています。
しかし「神が人になった」という意味がいまいちわかりません。
そこで、
 ・「神が人になった」という意味、
 ・これからなぜ義認論が出てくるのか
を分かりやすく教えてください。

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A 回答 (4件)

 信仰は 人と絶対との関係ですから 一般的なことですが 《義認》は 信仰の持つドグマにかかわります。

説明不可能のことにかかわります。
 その人が《義であると認められる》つまり 一般的に言って 《救われる》というのは その同じ一つの信仰を共有すると互いに見なした者どうしの間で さらに同じく そう見なされるという事態のことを言います。

 この義認に際して 《神が人となった》というやはりドグマは 一般には――つまり ローマ教会とプロテスタンティスムとのあいだで 一般的に言って―― あまり関係ありません。どちらも 同じく 認めている事柄です。

 義認論が 理論として分かれるのは その義と認められるのが 信仰ということによってか それとも おこない(善行)によってかをめぐってです。
 ですが 後者は ありえません。

 問題は したがって 信仰によって人は義と認められるということですが そのとき 同時に 善行が伴なわれていなければならないか それとも その善行は 信仰に必然的に付随するものであると見るか にあります。
 わたしは 後者が 妥当であると考えます。
 《信じる》という心の伸び それだけによって 人は救われる。こういう議論です。神の愛は 恩恵と呼ばれますが この《恩恵》というのは 《ただ(只・無料・無償)》という意味ですから そういうことだと考えます。つまり 善行といった功績によるのでは いっさい ないという意味です。
 経験的な行為は いっさい 人の努力として また その自由意志によって おこなわれますが 《すくい》は まったくの非経験のなぞであり めぐみだという意味です。
 これが 信仰義認という理論です。

 ▲ (ローマ書1:17) ~~~~~~~~~~~~
 福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2:4)と書いてあるとおりです。
 ▲ (ローマ書9:31-32) ~~~~~~~~~~~
 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行ないによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまづきの石につまづいたのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 なお 《神が人となった》については――それは三位一体論という議論ですが―― わたしの《QNo.3377425 :神とイエスと聖霊 =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3377425.html》への回答No.7を ご覧ください。
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この回答へのお礼

brageloneさま
丁寧なご回答をありがとうございます。
信仰義認は善行を必要としない神からの恩寵ということですね。

ただ個人的には善行すればするほど神からの恵みがあったほうがモチベーションが上がるんですけどね~。努力の成果が認められますので。

お礼日時:2008/11/12 20:49

> ルターの信仰義認論・・・。

 ・「神が人になった」という意味、 ・これからなぜ義認論が出てくるのか・・・。

神が人になった:人とはイエス・キリストの事です。その出来事として、キリスト教信仰が生まれた。聖書で言う神様には本来の形はありませんが人の形を取る事は有ります。(旧約聖書の創世記など) その中で、イエスは人の形をとった神とされます。

信仰義認:そのキリスト信仰の歴史は、エルサレムを基点に東西に広がりました。ルターの時代はドイツではカトリック教会が中心でした。優秀だったルターはカトリックの教えに疑問を持つようになります。そしてプロテスタントの信仰が始まります。カトリックの始まりも、人となった神の子キリストを信じる信仰が原点でした。しかし、長い間にその教えがゆがんでしまった為、ルターが異議を唱えたと言えます。

 確かにルターは信仰義認を大々的に普及させましたが、実はカトリックも当初、キリストを神の子と認めて始まったと言えるでしょう。

【結論】 信仰義認は、ルター以前からあったし、それはキリスト教の始りにすでに信じられていた教えでした。その教えをルターが信仰義認(キリストを神の子と信じる信仰が基本)を再び大々的に広めた、と理解できると思います。
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この回答へのお礼

soudan-ariさん
分かりやすい解説をありがとうございます。

もう一度本を読み再考したところ、どうも以下のような理屈のようです:

・イエスは神が人になったもの。
・人となったイエスは人間の代表と考えられる。
・神がイエスを復活させたことは人間イエスを復活させたということだから、人間を救済したことの象徴的行為とみなせる。

ゆえに神は人間を救済したということになるから、義認論が導出されたことになります。

だから義認論は、イエスは神の子という基本的なキリスト論からのからの帰結ということであって、逆に義認論からキリスト論が導かれるわけではないということのようです。

お礼日時:2008/11/13 20:47

神学には無学ですが。


>神が人になった

神が人に接するときにはその人に合わせた気さくな姿を借りて現れる。

信仰に厚い方の証言を総合するとこのような意味にとれます。
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この回答へのお礼

primeapeさん
分かりやすい解説ありがとうございます。
なるほどそういうことなんですね。

お礼日時:2008/11/13 20:24

 ルターからは離れますが ANo.1を少し補います。



 もっとも 引用だけです。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それでは次の言葉

   ゆえに 欲する者にもよらず 走る者にもよらず あわれみたま
  う神によるのである。
  (ローマ書9:16)

とはどういうことなのか。これは 召されなければ わたしたちは欲することができないし また 実行するように神が助けたまわなければ わたしたちが欲することは無益だということなのか。だからわたしたちは欲しなければならないし また走らなければならない。なぜなら次の言葉は無意味ではないからである。

   また地には 善い意志の人々に平和あるように。
   (ルカ2:14)

また

   だからあなたがたも 賞を得るように走りなさい。
   (コリント前書9:24)

 しかし《欲する者にもよらず 走る者にもよらず あわれみたまう神による》のは わたしたちが欲するものを獲得し 欲する所に到達するためである。
 (アウグスティヌス:シンプリキアヌスへ 第二問 パウロの恩恵論 赤木善光訳 著作集第四巻)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 考えるに 《善行より先に 信仰がはたらく》と言うのですが 《信仰》も 与えられた瞬間に それを受け留め 受け取るという行為があります。受け容れるのは れっきとした人間の経験行為です。それが 《信じる》ですから。
 どうも こうなるでしょうか。つまり 信仰の以前にも なにものかの力がはたらき 信仰の以後にも 同じ力が 欲すべきものを欲しさせ 走るべきことへと走らせる。こう言うべきなのでしょうか。《賞》もあるようですが。
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この回答へのお礼

brageloneさま
詳しい補足ありがとうございます。

・神の救済は欲するものにではなく、神の意思によって与えられる。
・しかし欲しなければならない。
・神の救済は欲する所に到達するため。

ということでしょうか。欲する所に到達するためには神の救済が必要条件だと理解しました。

お礼日時:2008/11/13 20:14

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