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次の説明によって標題の成立を問います。

1. ひとは 《かみ》ということばを持った話。

老いた人間が或る日或る朝起き上がらない。いつまで眠り続けるのかと思っていた
ら 臭い。蛆虫がたかっている。

あぁ われらの精神はいくら高いこころざしを持ったとしても移ろいゆかざるを得
ない。
初めの心に立ち戻ることは出来る。
ただしそうしても 身はやがて朽ちて行かざるを得ない。

このようにままならぬ人生と世界から自由な――たとえばその不老不死なる思いを
鏡に事寄せて願いながら――《もの(つまり お化け)》を 人びとはその思いの
中に得た。これを《かみ》と呼んだ。

自分たちを相対的な存在であると思い知ったゆえに 絶対を神として持った。

2. 神とわれとの関係は 信じる(そのままを受け容れる)と呼んだ話。

神とのカカハリは 絶対だと知った。

もし仮りにその神が やっとさづけてくれた息子を いやいや初穂としていけにえ
に差し出せと言ってきたら あなたはどうするか?

アブラハムというぢいさんは なやんだ。くるしんだ。ひどくあたまも心をも痛め
た。朦朧とした精神のなかで それでもその長子で独り息子を やはり神にゆだね
ねばならないかと思って そのいけにえの場まで連れて行った。そのときふと《ひ
とは 自分をも他人をも ころさない》といったヒラメキを得た。と言います。

これが ひとつの信仰の動態であると言えましょう。

3. では 宗教とは何かの話。

モーセという男は 個人としてはアブラハムぢいさんと同じように 神を心にいだ
きつねに基本的に重要なことは神からのヒラメキにしたがって決断し行動していた。

ただし 周りの人びととの人間関係において・あるいは はらから(同胞)との間
のマジハリにおいて 互いの不平や苦情やケンカをどう扱いどう処理するかをめぐ
って こんどは考えなければならなくなった。

そこで――早い話が―― アブラハムの信仰の内容を表わした言葉があったのを捉
えて たとえば 《なんぢ ころすなかれ》(不殺生戒)という命題とし規範とし
た。人びとのあいだの秩序を 個人の内面の信仰とは別に 重んじた結果である。

この倫理規範が オシへであり これを人びとが守るべしというオキテとなれば
宗教が成立する。

ほんとうは 個人の心の内面における《神とわれとの関係》が 何よりも大事で
ある。ただそれをも守るために 表向きの秩序を或る意味で優先させた。そのと
き出来たのが 宗教である。

ほんとうは 宗教は 個人の信仰という蝉のその抜け殻である。

A 回答 (1件)

表題は成立していると思いますが



1と2が飛びすぎている間はあります
1で相対的な人間に対し、絶対という神を、その内面(精神)に作った

ここで神は絶対無比のただの思い(思念体)となっているのに

2では、その自分の思念体が、何故に自分の子供をイケニエにしろというのか
絶対無比の存在から、自分の思念とは別の相対的な絶対の存在となっています
ということは相対的な存在にランクダウンしています
ここで1との矛盾があります

でも神が絶対でも相対でも、どのポジションにしても
アブラハムぢいさんの信仰を命題としただけで宗教は蝉の抜け殻という事は成立していると思います

標題は成立していますが、1と2と3が繋がっていない

そんな感じに私は見えますね
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1で相対的な人間に対し、絶対という神を、その内面(精神)に作った

ここで神は絶対無比のただの思い(思念体)となっている
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 次のくだりですよね。

☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~
1. ままならぬ人生と世界から自由な《もの(つまり お化け)》を 人びとは
その思いの中に得た。これを《かみ》と呼んだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これは 舌足らずではあるのですが でもこの《心の作り》は 次のようだと
は思うのです。

 人の思い:経験思考
 その対象:経験思考を超えた(ままならぬ人生と世界から自由な)絶対なる神

神は 《お化け》のごとくあって観念あるいはその思念として持たれていますが実
態としては 何が何だか分からない。つまり 《かみ》というシルシとして持たれ
ているだけだと思うのです。

思念の中に持たれているが そのものは ただのシルシである。と。



★ 2では、その自分の思念体が、何故に自分の子供をイケニエにしろというのか
☆ つまり 《思念体》として人間の思考や想像でどうにかなるおもちゃではない
けれど ただし何故そのシルシが子をささげよと言うのか?

これは 人びとのあいだで神にものを供えイケニヘをささげるナラハシがあった。
感謝祭でもあるし 折節につれて神に頼る。ので おそらくこのナラハシ〔の発想
形式〕を乗り越えなければならなかった。のだと思います。それでいいのかどうか。

人びとの思考形式に一たん合わせるかたちを採った。そうして答えを得た。


★ でも神が絶対でも相対でも、どのポジションにしても
☆ すなわち《絶対として想定されたものが言葉ないしシルシとしては思念の中に
おさまっている・そういう仕掛けに成った神》のもとで:
★ アブラハムぢいさんの信仰を命題としただけで宗教は蝉の抜け殻という事は成
立していると思います
☆ 賛成票をありがとうございます。

★ 1と2と3が繋がって
☆ いるかどうか。どうでしょうねぇ。

お礼日時:2016/01/17 07:09

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