ふと思ったのですが、キリスト教と仏教、イスラム教とヒンズー教、みたいに複数の宗教宗派を同時に信仰してる人っているのでしょうか。
日本人みたいに曖昧に複数の宗教の行事をやっている、というのではなく、意識的に宗教組織に所属したり、信仰してる人限定で。
とある仏教関係の宗教家が「どんな神を拝んでもいい。その信仰に誇りがあれば」というような言葉を残しているのを聞いたことがあります。また、神道系の武術の伝承者でありながらキリスト教の神父をやっている人もいたりします。
ならば、「私はキリストや聖書の教えを信じていますが、同時に釈尊の教えも素晴らしいと思うので悟りも目指しています。そしてその手段として神道の修行も取り入れています」なんて人もいる気もするのですが、どうなのでしょう?
釈尊の教えは聞いた限り、特定の神への信仰は含まれていませんし、あくまで個人の悟りを開くための哲学のように感じます。
ならば仏教とキリスト教は別に矛盾しない気がするのですよね。宗派にもよるかもしれませんが。アッラーのほかに神はなし、って言ってるイスラム教は難しそうですが。
そういう風に複数の宗教の同時信仰って実際やってる人はいるのか?
また、同時信仰ってどう思いますか?
A 回答 (14件中1~10件)
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No.14
- 回答日時:
あれ? フェードアウトされちゃったんですか?
私も2週間お待たせしてすみませんでしたが、渾身の回答に対して、それ以上の期間、なしのつぶてで残念です。
私の回答は重すぎましたか? 確かにごちゃごちゃ書いたのはよくなかったかもしれませんが・・・。まあ、私も一方では結構軽い人間で、以下のような質問もしているふざけた人間です。
ねっねっ、前田敦子と大島優子って似てると思わない?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7560802.html
あなたの最短恋愛時間は?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7564611.html
要は、複数の宗教を同時に信仰することは、表向きは、あまりほめられたことだと思わない人間が大多数かと思いますが、私の個人的経験や、西欧の最近の学者の意見を読んでも、十分「ありうる」ことであり、人が「神」や「宗教」に向き合う方法は、色々考えられるのではないか、と思うのです。
必ずしも、キリスト教やイスラム・仏教などの大宗教(いわゆる『創唱宗教』)を経由して「神」につながらなくても、神に向き合う方法は色々あるのでは? 最近知ったのですが、ロシアの大文豪・トルストイも同じような疑問に付き当たったようです。
その点、同じ創唱宗教でも、仏教は、かなり寛容なイメージがありますね。
一言「お礼欄」にコメントと、締切、そしてできれば「ベストアンサー」をお待ちしています。
No.13
- 回答日時:
No.12です。
「一両日」と言いながら、大幅に遅れてすみません。新たに本を読んだり、今までの色々錯綜した考えを整理し、一から書き下ろしたために、「一両日」では到底済まず、これまでの私の全916回答の中で、最長の時間と文字数を要しましたが、自分の考えを整理する良い機会を与えて頂いたことに感謝します。私はカトリックの洗礼を受けていますが、仏教や神道など他宗教にも深い共感を抱いており、坐禅や読経の経験もあり、自宅には、祖父母以前の先祖の仏壇と父のカトリック式の祭壇があり、毎朝晩両方に手を合わせています。このように、異なった複数の宗教に、日々同時に接している私にとって、この問題は、極めて大きな問題です。
本稿では、キリスト教を例に取り、他宗教との付き合い方の諸形態についてまとめ、私のコメントを付け加えました。現代の潮流としては、次第に他宗教に対して、絶対的な排他主義を堅持する人は少数派になってきていることは事実だと思いますが、問題は、たとえ他宗教に対して「開放的」乃至「寛容」だとしても、そのレベルが如何ほどのものか、ということになると思います。
1.伝統的な「一神教」に基づく排他主義:キリスト教の「十戒」の第1戒には、「あなたには、私のほかに、神々があってはならない」という厳然たる掟があります。信者には「教会の外に救いなし」という意識が強く、家族で信じる宗教が違うと、死後行く所が違う、などと主張する人もいるようです。
昔は、同質社会の日本でキリスト教徒になるには、周囲のコミュニティから「村八分」も覚悟するほどの勇気が要ったと思います。それだけに、その信仰は固く(というより「頑な」であり)、他宗教に「うつつを抜かす」なんてとんでもない、という気風が強かったのだと思います。大正時代に青春時代を迎えた私の祖母は、ミッションスクールに通いましたが、そういう気位の高い先生やシスターの指導を受け、少々息苦しかった、そして彼らの気持ちの中に、非キリスト者の日本人を見下す特権意識や偽善があるのを感じて愉快ではなかった、と後年述懐しています。
カトリックの信者には、代々の信者で、「幼児洗礼」を受けた純粋培養の者が多く、このような「根っからのカトリック信者」に対して、祖母も、そして17歳で洗礼を受けた私も、「静かな抵抗」を試みたものです。祖母は、結局キリスト教には入信せず、代わりに多くの宗教に共通する根本原理を探求し、「全ての宗教は一点に帰する」という結論に至りました。ですから彼女の結論はキリスト教と同じ「一神教」ではあるのですが、その「一点」に至る道としては、色んな宗教があり、夫々共存は可能とのことになると思います。私も、祖母の人柄や生活態度、信仰態度から大きな影響を受け、その考えに賛同し、「キリスト教の神」というよりも「普通名詞の神」に対しての崇敬の気持ちが強く、「良きキリスト教信者」である以前に「良き信仰者」でありたいとの気持ちが強かったのです。(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7321056.html 参照)
幸い、第二バチカン公会議(1962~1965)で、カトリックの民主化や土着化そして他宗教との調和・協力方法などについて、多くの議論がなされた後、カトリック教会の印象は大分開放的(言い換えれば世間に対して迎合的)になったと思います。
さらに、前教皇ヨハネ・パウロ二世は、東方正教会やイスラムとの対話を進めたり、十字軍や異端審問など過去の過ちについて謝罪しました。そして、以下に見られるとおり、キリスト教徒の心の中に次第に他宗教に対する柔軟な目が開かれるようになります。
2.他宗教を「宗教」ではなく、「文化」や「伝統」、「習慣」として受け入れる姿勢
クリスマスや結婚式には教会に行き、お正月には神社に初詣に行き、葬式にはお寺に行くという「節操がない」大方の日本人と同様、キリスト教の人々にとっても、他宗教(特に後記No.11さんの言われる「自然宗教」やその色彩の強い神道など)を「宗教」ではなく、「文化」や「伝統」、「習慣」と見なせるのであれば、こだわりなく参列する気になるのではないでしょうか? 具体的事例としては、戦時中、天皇が「現人神」として崇敬されていた頃、カトリックの司教たちが当局に睨まれないために、打ちそろって「儀礼」的に伊勢神宮を参拝した事例などがありますが、彼らは別に他宗教を信仰している訳ではなく、あくまで「儀礼」と割り切って参列したのでしょう。同様に、他宗教の作法に則って行われる葬儀や法事などに参列することについても、それらが「儀礼」上必要なものならば、カトリックでは全く問題にしていません。
3.包括主義:他の宗教の存在を認め、その教えに一定の価値があることを承認するものの、究極的な自宗教の優越性への信念は放棄しない思想で、現代のカトリック教会の主流と言われているようです。他宗教に帰依している人々も、究極的には、「匿名のキリスト者」であり、キリストを通じて救われる運命にあるという考え方で、この考えに立って、表面的には仲良く、他宗教と「対話」しているというのが真相のようです。誰しも、自分の信じているものが一番だというのはわかりますが、それを相手(仏教など他宗教の人たち)が聞いたら愉快ではないでしょう。
4.多元主義:自宗教も他宗教も全く同等で相対的な存在に過ぎないとする考え方で、包括主義と同様、他宗教の中にも救いの存在を認めますが、包括主義とは違い、仏教徒は仏教徒として、ムスリムはムスリムとして救われると説きます。この説を唱えた代表的学者に、ジョン・ヒック(1922 -2012)がいます。1950年以降、彼の住んでいたイギリス・バーミンガムに大量の移民が流入し、ムスリム・ヒンズー教徒・シーク教徒などが異なる神々を信仰しながら社会の構成メンバーとして共存していた状況に接し、ヒックは宗教も進化すべきとの認識の下に、従来、自宗教の絶対性を主張してきた姿勢をプトレマイオスの天動説に例え、これに対する多元主義の立場をコペルニクスの地動説に例えます。
この考えに立てば、前述の私の祖母の考え方にも一理あることがわかります。現に、「神」の呼び方には、エホバ、ヤーウェ、デウス、主、父(以上キリスト教)、アラー(イスラム教)、天照皇大神(神道)など色々ありますが、それらは皆同じ存在であり、呼び名が違うだけ、という説明には説得力も感じられます。但し、キリスト教には、「父と子(キリスト)と聖霊」という「三位一体」の神という考え方がありますが、例えば、その「父」の部分が、仏教やイスラム教とも「浮気」していて、そちらの神も兼ねているというのは、何だか妙な気もしますよね。
現代の西欧キリスト教社会は、
(1)移民の大量流入などによる民族・言語・宗教の混在社会の中で、他宗教の人々にも気を使わなければならない、という客観的環境
(2)かつてキリスト教宣教を錦の御旗にして、十字軍や植民地への侵攻を進めた「キリスト教帝国主義」への反省
(3)キリスト教で最も重視される価値観である「愛」(隣人愛・アガペ)が、仲間内のみを対象としたものでなく、全く民族・言語・宗教などの環境も異なる「異邦人」をも対象にしうる、という自覚や、自国・他国を問わず困った人に尽くそう、という「ボランティア精神」(イエスの言われる「良きサマリア人」になろうとする心意気)などの影響もあり、少なくても表面上は、他宗教を持つ人に対しても、「愛」や「レスペクト」(尊敬の念)を以て接しようという心掛けは育っているものと思います。(裏を返せば、何教であれ、宗教を持たない人間のことは「信じられない」という気持ちはやはり強い。)
アメリカのように、他宗教者・無宗教者に配慮して、'Merry Christmas’の代わりに’Season’s Greeting.’というメッセージを使ったり、フランスのように、他宗教者・無宗教者にどのように接するかということを教育課題にしている国もあります。
そして、他宗教と協力したり、対話したりしながら、その信仰態度や作法などについては、お互いに影響を受ける部分もあるようです。相手の宗教を見下さず、リスペクトすることで、「君は君、我は我なり。されど仲良き。」(武者小路実篤の言葉で私の信条)という、良き緊張関係&友好関係を保つことも出来ているのではないかと思います。
しかし、それでも変わらない(変わりようがない)のは、いくら親しくても軸足は依然としてキリスト教にあるということではないでしょうか?
幸か不幸か「キリスト教社会」ではない日本に生まれた私には、ある意味「自由」があります。たとえ「キリスト教でないと救われないぞ。」と脅されても、キリスト教に留まら「なければならない」という必然性もなければ義務もありません。
私は、前記「包括主義」のように、他宗教の信者も潜在的にはキリスト教の「隠れた信者」であり、キリストによって救われる運命にあるなどという「詭弁」に組することは出来ませんし、寺や神社の祀る「神仏」の前で、キリスト教の祈りを唱えることも出来ません。「キリスト教徒」である前に、私は、イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』で言われた「日本教徒」でありたいと願っています。
結局、私に合うのは、キリスト教の神のように峻厳な神ではなく、インドのラーマクリシュナの説く、何でも許し、何でも受け入れる神のような気もします。(http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7321056.html 回答No.6ご参照)
No.12
- 回答日時:
最終回答から6日が過ぎ、そろそろ名回答が出揃い、クローズされる頃かと思いますが、一両日中に回答すべく準備中ですので、すみません、少しお待ちいただいてよろしいですか?
お待ちいただいている間、私の質問/回答した過去問をご覧下さい。
日本人は無宗教?(回答No.24)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7392484.html
海外で無宗教と言ったら無神論者ととられてしまった(回答No.13)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3211328.html
自分が何教かわからない。(回答No.4)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5308582.html
クリスチャンとノンクリスチャン(回答No.8)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3591349.html
信仰を目的とする,道具的存在としての偶像について(回答No.1)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7298873.html
キリスト教とその信者に反感を持つ理由(回答No.9,14)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7204518.html
クリスチャンの方に伺いたいのですが、(回答No.2)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7163727.html
宗教について(hisyaさん、勝手に転載してすみません。回答No.7)
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/4889486.html
まだまだ沢山回答していますが、部分的に挙げました。ご参考まで。
No.11
- 回答日時:
>曖昧に複数の宗教の行事をやっている、というのではなく、
意識的に宗教組織に所属したり、信仰してる人限定で。
#6です。 補足をします
ちょっとマニアックな内容になります
宗教という言葉について
宗教という概念語は明治時代に作られており
現代の日本人にとって無意識のうちに
宗教=創唱宗教、民間信仰=自然宗教みたいになっています
宗教には自然宗教と創唱宗教の二つがあります
自然宗教→民間の習俗的意識から、自然発生的に生まれた宗教
日本の神道はこれでほかの宗教とも同時にやりやすいのです
教義(定義)がないので他の神(仏)も似たものと取り入れやすい
創唱宗教→特定の教祖が提唱して、意識的に信仰してる宗教
キリスト教や仏教がこれにあたります
教祖と聖典と教義(体系)があり組織への所属がある
教義が曖昧でないために創唱宗教同士で同時にはやりにくいのです
神道は元々自然宗教でしたが神道系の新興宗教は創唱宗教になっています
仏教は広がるにつれて土着の宗教と習合しました
神仏習合は日本だけではなくてアジアの各地であることです
キリスト教布教前のヨーロッパにも土着の宗教がありました
キリスト教は土着の宗教を取り入れたり排斥したりしてきました
日本人の本来の宗教態度は教義=理屈を考えるのでなくて
なにか分からないけど、なにか有難きかなと伝統を大事にするものです
現代人の曖昧に宗教の行事をやるのは日本古来の宗教的な伝統に沿ったものとも言えます
>「宗教は教えを伴うが神道には教義が無い、故に神道は宗教ではなく信仰である」
神社本庁などの見解→別の回答者が神道の特異性を述べています
これは宗教という言葉に関わる問題です
ここでいう「宗教」は近代の概念語であり、その内容は創唱宗教の形式です
宗教の三要素は教祖・聖典・教義というのが近代人の教養になってます
これで考えると神道は宗教ではなくなります→教義だけでなく教祖もいない
このように神道は現代人が考える宗教とはだいぶ様相が違いますね
昔からある神道は世界各地にある土着の信仰に近いものだと思います
No.10
- 回答日時:
併行して勉強するケースはあるでしょうが、信仰するケースは稀だと思います。
キリスト教、イスラム教は一神教であり、神への絶対服従を説いています。
他宗教を信じず、キリスト教やイスラム教の神だけを信じる事です。旧約聖書には、他の神々を崇めるようになり、堕落した国家が神のご機嫌を損ねていく様が詳細に語られています。
キリスト教の保守派は、聖書絶対の立場なので、まず他の神々を崇めることは許さないでしょう。
イスラム教は、旧約聖書よりなので、旧約聖書を読むと他宗教の同時信仰はありえないと感じます。
仏教の事はよくわかりませんが、日本の仏教は中国経由の伝来仏教ですから、時代や宗派にも考慮して調べる必要があると思います。個人的には、仏教の経典は結構残酷で複雑な教えが多いと感じたことがありました。
仏教は経典が複数あるそうですから、どの経典にどう書いてあるかによっても異なるかもしれません。
原則として、キリスト教・イスラム教は他宗教への信仰は不寛容です。
キリスト教の最も重要な掟の一つは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37)です。
信仰と教義を学ぶことにはやはり大きな違いがありそうですね。
私自身は仏教は学んだことはありますが、信仰心はないのでどうも宗教を学術的、あるいはツール的に捉える感覚が強く、信仰心というものが具体的には分かりづらいですね。
No.8
- 回答日時:
一神教は基本的に排他的であり、同時に他の「全知全能の
第一原因」があっては、矛盾を起こしてしまう。
多神教の場合、往々にして征服した土地の神を、「帰依した」
として「多神」の中に取り込んで、現地の人の心を治めており、
そうした場合、それまでの祭祀がそのまま残って、複数の
信仰をしている様相を呈する場合がある。
多神教の場合、どうしても“絶対者”の迫力に欠け、人間的な
神様像となるので、我の強い遊牧系・大陸系の文化では拘束
力が弱く、自己中心的になりがちな個人の意識に社会性を
付与するには、強力な教義を持つ一神教が必要だったのだ。
宗教が社会形態と密接しているというのはよく聞きますね。
しかし、現代の先進国のように宗教が生存に密接に関わらない社会では教義はともかく個人の信仰レベルではかなり柔軟な考え方を持つ人はいる気がします。
No.7
- 回答日時:
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は元が同じ旧約聖書から発しています。
なので非常に排他的で他の宗教を受け入れることはありません。キリスト教は武力的に急激に勢力を伸ばしてしまった事もあり、他民族の宗教を「悪魔」と位置づけたために、取り込まざるを得なくなりました。ヤギの頭蓋骨、魔女、黒猫、クリスマスなどはその代表で、元は全て地域の神や信仰などでした。逆にブードゥのように他宗教に取りこまれてしまったものもあります。
このような形態変化はありますが、同時に別個のまま信仰することは無理でしょう。
キリスト教の一部は比較的柔軟で、例えば私はカトリック・マリア会で学びましたが、仏式などの葬儀などの出席も自由でした。でも剣道場や柔道場に香取神宮などの神棚はなく、あって礼拝してもそれは作法としてのみ捉えています。心に描くべきは常に「創造主」であるべきと教えられました。
更に原理主義に近い考えの人たちは日本武道に触れることも無いかもしれませんね。
確かにヨーロッパの一部には仏教を哲学、あるいは思想として捕らえている人が居ると聞いていますし、私もある程度そのように思っています。しかしそれによって取り入れた場合は、あくまでも信仰ではなく思想として取り入れているのであって、読経によって何かがあるとかいう考えは無いでしょうね。つまり異種の宗教を並列に信じているとは言い難い。
日本でも種々雑多に風習として取り入れていますが、信仰として取り入れているわけではありません。逆に原理主義的思考の人たちが複数の宗教を信じていると誤認しているいすぎません。
でも神道国日本が仏教を取り入れた経緯においては政治的意味が強いとはいえ、仏教という異種宗教として取り入れたことは事実です。思想としてならば救済のための仏像建造は無いでしょう。
ただし、逆に「宗教は教えを伴うが新党には教義が無い、故に神道は主教ではなく信仰である」というのが神社本庁などの見解であり、仏教公伝の時代に慌てて理論武装をしようとしたという研究もあることから、現代において、神道と仏教を「複数の宗教を並列で信仰している」という定義に当たるかは微妙だと思います。つまり、神道の特異性によってそれが可能になったといえるのではないでしょうか。
その神道も細かく見ていけば、道教や所謂「陰陽道」の考えや風習を取り入れていることから、異種の宗教を取り込んできた歴史があることは間違いありません。
とはいえ、外国の研究者や一般人には日本が異種宗教と対立することなく受け入れている文化が珍しく、ある意味理想として映っていることも事実のようです。
日本人は「神様・仏様」と大雑把な範囲で捉えているから受け入れることができるのではないでしょうか。教えを詳細まで決めてしまい守ろうとする宗教ではこのような寛容性は生まれないと思います。
つまり、海外の宗教では取り込むか、排斥することでしか信仰は成り立たない。日本は大雑把な部分で受容するので複数の信仰を並列に受け入れることができるというのが現状での私の考え方です。
一神教の教義を考えれば同時信仰は難しそうですね。
ただ、他の回答者さまの答えにもあるように個人レベルでは欧米人でもベースの宗教は1つに決めつつも複数の教義を受け入れて修行や個人の人生を極めようとする人はいるようです。それは多宗教同時信仰とは違うかもしれませんが、寛容さというものの表れな気がします。
No.6
- 回答日時:
宗教への基本的な考え方に二つのタイプがあります
宗教排他主義VS宗教多元主義です
宗教排他主義とは基本的に正しい宗教は一つという考え方です
キリスト教など一神教はこれになりやすく正統と異端の争いをします
仏教でも法華経系で自分たちが正方で他の宗派や宗教を認めないこともあります
宗教の伝道者や民衆の信仰者はこれが多いです=確信があり押しが強いです
宗教多元主義は宗教の本質が一つで宗教の表現はいろいろという考え方です
キリスト教でも仏教との対話を目指すところもあります(特に禅系と共存しやすいです)
日本の神道は基本的に宗教同源であり宗教帰一の考え方です
昔は神道と仏教が習合していました、神社に仏像があったのです
今の神道系のある新興宗教はほかの宗教と同時でもOKです
また、いろいろな宗教を統合した新興宗教もあります(デパート宗教との批判あり)
宗教の学者やインテリの信仰者にはこれが多いです=学問があって寛容的です
PS=実際の信仰
宗教多元主義の人でも実際の信仰の時にはいずれかの宗教を選ぶようです
ただ、一つの宗教を信じつつも他の宗教から学ぶ態度が見られます
現代のキリスト教の神学者であるグルデン先生の言葉
「私はよきキリスト教者になるために仏教を学び、よき仏教者になるためにキリスト教を学ぶ」
宗教多元主義という主義があったのですね。
なるほど。複数の教義を勉強していても実際には特定の宗教に帰属する、というのは現実的ですね。
複数の格闘技をやる人も、基本的には専門の何かを自分なりに決める人が多いですし。空手と柔道をやってる人は、柔道もできる空手家か、空手もできる柔道家、あるいは個人が理想と定義する無名の格闘技を極めるための手段として柔道と空手をやっているか。
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