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私は普通の女子大生で、特別な知識はありません。テレビやニュースを見てなんとなく感じたことです。アホな文章だったり、見当ハズレなことを言っているかもしれませんが、なんとか読み取ってください。

最近のスピリチュアルブームや日本に新興宗教がたくさんあることを考えると、これからの日本人の宗教への関わり方ってどうなっていくんだろう?と疑問に思いました。

宗教は人間が生きる上で必要なものだと思います。人間の心のよりどころとしての必要性もあると思いますが、さまざまな考え方を持つ人間をまとめるのに宗教はとても便利です。宗教ナシで法律や権力だけで統率するのは難しいと思います。答えが出しにくい問題でも、宗教を基盤に考えたらわかりやすい。
日本には、全くないとは言い切れないけど、宗教による縛り(?)や共通的な価値観は海外に比べて薄いです。それでもなんとかやってこれたのは宗教への鈍感さを補うものがあったからだと思います。
日本は「恥の文化」といわれますよね。そのほか義理人情だとか、仏教的だけどご先祖さまが~とか「今時古いよ」と言われるような考え方が他国の宗教と同じような働きをしてきたと思います。しかし、宗教のような確固たるものではないので、古きよき日本人の考え方古い常識は薄れてきていると思います。(もちろん良いものばかりではないけど)
というわけで、スピリチュアルがブームになるのは、今まで日本に当然のようにあった「常識」や指針が揺らいできちゃってるのが原因なのかなぁ?と考えています。流行っているのは必然的なタイミングなのかなぁ?と。
日本人的な考え方がこれからどんどん薄れていくとすると、日本人にも宗教が必要なんじゃないか?(神道の宗教教育?)ほうっておくと、指針のなくなった日本人がスピリチュアルや新興宗教にどんどんはまっていくんじゃないか?なんて思います。

なんか・・何が聞きたいのかわからない文章ですが、上記のことを読み取ってくれた上で、「これからの日本人と宗教はどんなふうにかかわっていくべきか?」について回答者さんの個人的な見解を教えてください。(わかりやすく♪)


私自身は、無宗教(初詣・お盆・クリスマスを楽しむ一般的な日本人)ですが、無神論者ではありません。神に対してはファンタジー感覚です。あと、一神教の排他的な感じはあまり好きではありません。八百万の神をかじった程度の柔軟な感じが好きです。アニミズムもおもしろくて◎。神様も排他的な要素はあるし、天皇が神様になるなど、危険もありますが・・。なので希望としては、今までどおり、宗教に対して曖昧なままで済む日本がいいです。
個人的には何を道徳の基盤にするのか・・というと、特定の宗教に頼らず、聖書やコーランお経、親のしつけ、自分の経験、小説・・などあらゆるものから良いとこ採りして自分なりバイブル(哲学?)を持って生きていたいなぁと思っています。

全体的に意味不明ですがよろしくお願いします。

A 回答 (30件中1~10件)

自分以外の人の意見を聞くから自分が見えてくるってよく言うじゃないですか?日本人の宗教への関わり方に関心が有るなら西洋や中東、アジアで人々がどのように宗教に関わっているのかを知ることから始めてはどうでしょうか。


ちなみに僕も含め両親もキリスト教信者で、今、僕は熱心では無いですが生まれた時から両親に付き合い信者でした。
まず僕が感じたのはキリスト教は西洋の文化だと言う事です。例えば韓国やフィリピンなど民主主義的文化素地の有る国には浸透して定着しやすいですが、ご存知の通り日本はこんな国です。プロテスタント・カトリック含めキリスト教はあまり定着しないのだと思います。
恐らくおたくは周囲のまとまらない人間関係に悩まされ、宗教というツールを用いて便利に世の中が統率できないものかと感じたから質問されたのではあるまいか?
それから日本人が、西洋で定義される「宗教」を知り関わるためには「日本人にとってテレビという宗教がある」事などを冷静にディベートしたりできるだけの教養(単なる知識の事ではありません)が必要だと思います。ちなみにたいてい日本では、「テレビが宗教だって?おかしなやつだ」となり、この時点でディベートはおしまいです。ソレがディベート出来る環境が西洋文化、日本以外の文化だと思います。宗教論議というアプリケーションを動かすには、文化というパソコンOSから世界共通化する必要が有ると思うのですがどうでしょうか?
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日本が今まで平穏にやってこれたのは宗教にあんまり熱心でなかったからだと思います。


あなたの考えるように、どの宗教からも自分の為になることを学んで実行することがこの世を
良くすることにつながると思います。
 私がモルモン教会を去る時、熱心な信者の実の父親からひどい迫害を受けました。
モルモン教会を去るなんてサタンに影響されている、というのです。脅迫といやがらせに遭い、
一度は自殺しようと思った程です。警察に通報し、やっと生きる望みを持てました。
 これが宗教です。のめり込むと敵対し、殺し会うこともしばしばです。
一つに固執せず、葬式は寺で、結婚式は教会で、正月は神社で、宗教に振り回されることなく、
上手に活用して生きていくべきだと思います。
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私の宗教観は実生活に常識を与えるモノと考えてます。


もっと宗教は科学的に快適な生活や心構えなどを示唆し教えなければ、その存在価値が希薄になるでしょう。

宗教は実生活の対極にある奉仕精神を持って、静かな時間と生活を見直す(欲を捨てる、抑える)きっかけを与えます(行き過ぎを正す)。その際に考え方の転換をはかり生活のバランスが取れるのではないかと。それを多くの人が直感的に感じ取って集まるのだと思います(高学歴の若者が入信してるみたいですし)。

現代のスピリチュアルの反響は自分達の生活に不安(不況による不安定)を抱いてるからではないでしょうか。このままでは危険との思いで安心できる(生きやすい)モデルを探している状態。
そこで某氏(霊能力者)が恋愛を含め生活の色々(指針)を説くから『待ってました』とばかりに飛びついた。これが反響の原因!?では。

少し脱線するかも知れないですが、
現代は子供達に『権利』を教えて道徳(マナー、道)は教えない。その結果、『無理』して権利を獲得するべく他を省みない生活を送ってます。
今じゃ、お金で嫌な事は人に頼めるから経験、体験の機会がないから一人の人間としては考えの幅が小さくなる。世間的尺度も小さい事例に基づく。

現代人は自らの考えを抑圧し、更には他人の感性も否定する教育をしているのでは?その結果、合理性がなくなっているのです。
無理した人、感性の萎縮した人は生活費を稼ぐためにやってるのでしょうが・・。ですが、自分達の『学習した事柄』は『武器』であるのにその性能を検証しないのはおかしい(それ以上に生活に役立たない教育はもっとおかしい)。『勉強』は生活を支える術なのに、点数とって有名大学にいく道具になってる(お金を求めてですが、その心は最終的に安心を得たい気持ちでしょか)。その道具は捨てるのにそれに変わる道具は学歴と就職した企業名だけ。。。これでは会社に飼い殺しにされる(逃げることも出来ますが)。自分を導く感性が一番ではないでしょうか?

要するに、他人の土俵で勝負することが間違いです。他人の知識は、自らの体験にはかなわないのです(全てを言葉で説明することは難しいでしょう)。

これが、合理性だと思います。
もう一度考えてみましょう。
与えられた仕事を長時間ダラダラとしてみたり、反対にこれだけ長時間働いたから給料をもっと貰わないと割りに会わないとか、仕事がノロいからヤツは駄目だとか。工夫の意欲がとてもセコイきがします(私もですが・・)

自分の時間(考える時間)がない人が信頼出来ますか?判断を任せられますか??他人を蹴落とす人、切り捨てる人もです。

無駄に浪費する生活を送る人に多額の給料は必要ですか?煩悩の赴くまま!

仕事できないなら出来る仕事をさせれば?教え方が悪いかも知れないし・・。
(その時出来る最善の対応は可ですが準備してないと付け刃ですね)その為の宗教だと思います。

結論→宗教は、もっと科学的に合理的な日常生活の送り方を示唆(教えは個々感性に従い合わせる)すべきではないかと考えてます。

合理性が鍵としたいです。
経典は捨てずに何故、教えが民衆に受け入れられたのか研究すべき。輪廻も『可能性がある』に止めるべきではないか(宗教法人として)?
昨今の地球規模の被害をみるにつけ、宗教が科学的姿勢にも求められる時代なったのでは?と強く感じます。今の科学は安心よりも経済的道具に成り下がっている。それに対抗して宗教は安心・快適な生活を追及、研究、示唆、実践することが役目ではないかと。。。

・・・・と、まぁこのように感じてる今日この頃です。他にも書き足りないこと不備な点はあるでしょうが、あとは皆様の感性にお任せします。
今回、このような質問をしていただいたmimudanze様に深く感謝いたします。
とても興味深く、楽しんで書くことができました。投稿されて半月もたっているのですが、何かの足しになれば幸いです。ついでに、私も宗教は入ってませんが神を信じてます。

尚、この文章を最後までお読みの皆様へ
長い文章を最後まで読んでくださりありがとうございます。
不適切な発言がありましたら深くお詫び申し上げます。
皆様の生活に幸あらんことを!!
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「これからの日本人と宗教はどんなふうにかかわっていくべきか?」という質問者様のご質問に回答する前に、現代日本人が日常無意識に行っている慣習・行動などから書いていこうと思います。



 日本という国の不思議さは、「原義を排除してもその残ったヌケガラの様な部分だけは頑固にも保持し続ける」ということです。たとえば、昨今儒教と聞けば「なんか堅苦しそうなもの」と言い他人事の様に嫌っていますが、日本国民の常識として染み付いている「上下関係」や「お辞儀」などは、そもそも儒教の教えでした。しかし、「何故上下関係があるのか?」とは思うものの「どこから来たのか?」「上下関係の意味は?」とはあまり考えないのではないでしょうか。極端に言いますと、「儒教は要らないが上下関係・お辞儀は礼儀・マナーだから身につける」、これが現代日本人の特徴の様にも思えます。本来、これは本末転倒なのですが。
  また、同様な件に多くの日本人が仏教徒であるにもかかわらず「家は○○宗(宗派)だから、この作法で執り行う。」とお葬式や法事ではいいますが、お釈迦様の説法については無知であるケースが多いと思います。「クリスマス」も同様です。

  誤解を恐れずに言えば、日本人はイメージ先行型の民族であると思います。真実の在り処を突き止めることよりも自分で勝手に想像してその像を描く、という意味でです。廃仏毀釈などもこれが原因の1つでした。
 現代では表現等が変わっているだけで、やはり「儒教・仏教」の影響を受けた道徳観が巷には多数存在しています。
 字数制限の都合上、浅く表面上の事を2・3のケースで説明しましたが、現代の様に情報が氾濫する時代ではまずは各カテゴリー(宗教なら仏教・キリスト教など)の本質をご理解なさった上で質問者様がおっしゃる様に「特定の宗教に頼らずあらゆるものからよいとこ採りして自分なりのこころのよりどころ」となるモノをお探しになられることは、やはり日本人らしい宗教観・道徳観である様にも思えます。
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宗教の真髄を一言で言うと


「人のために自分を役立たせる」
これに尽きます。
教義による縛りなどなくても、難しい経文など覚えずとも、ぶあつい本を読まずとも、これだけでいいんです。
人生に宗教が必要なのではなく、自分が大事だと思うように人も大事だと思うこと、人の痛みすら自分の痛みとして感じられるような感度が必要なのです。そして、人の痛みを知るには自分も困難に直面し経験しなくてはなりません。それらの困難に対して前向きにとらえるための強い心が必要なのです。
藁にもすがるような思いで信仰にそれを求める人があまりに多いですが、信仰とはそもそも困難に打ち勝つための勇気を自分に奮い立たせるためのものでなくてはなりません。
神への信仰を口にした途端、困難が逃げ出すなんて都合のよいものではなく、またそれまでの罪を一気に帳消しにしてくれるものでもありません。
自分でした罪は自らが償い、まいた種は自分で刈り取らねばならないことを学ぶべきものでなくてはなりませんし、
困難は自らを磨く研磨剤としてとらえられるような姿勢を学ぶべきもので無ければなりません。
また、神について言及していますが神とは自然の法則がそれです。
自然はいまだ神秘に包まれていてその深奥を垣間見ることさえ許されていません。つまり人智を超えたものという意味です。
ですから神様を信じようとも、信じずとも、神様は一向に困りませんし、自分を信じないからといって罰を下すものでもありません。
信じたものだけを救うものでも当然あるはずがありません。
自然はあるがまま平等で、嫉妬深い人間くささを帯びたものであるはずがありません。

宗教とは、個々の価値観や理解の範囲に応じてその解釈の程度に違いが生じるものの上、
違う国のものであれば風土も文化も違い、表現の方法もまた異なるがゆえ、誤解を生じさせる場合があります。
ですが、言っていることはすべて同じで、その真髄は人のために自分を役に立たせること。これに結局は帰依するのです。
ですから世に起こる宗教論争、宗教戦争などはまったく以って本末転倒な不思議な出来事であるとしか言いようがないのであります。

大事なのは誰が何を言ったかということではなく、
あなたが何をして、何をしなかったのかということだけなのです。
宗教はそれの指針となるあくまで知識であり、あなたの行動は常にそれの上にあるのです。
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mimudanzeさん


「宗教は人間が生きる上で必要なものだと思います」と認識されていることは、素晴らしいことだと思います。
宗教は本来、生の目的とは何か、死後はいったいどうなるのか、また、神や来世、霊界などというものは果たして存在するのか、善とか悪とかいうものはいったい何なのかなどという問題を探究する使命を持っています。これは、人間の内的な(心の世界の)真理を探すための道であったということができます。
また、人間の外的な(物質世界の)真理を探すための道が、科学であり、すべての物質世界の根本は何であるか、また、それらのすべての現象は各々どのような法則によって生じるのかという問題を探究してきました。
宗教と科学は、それぞれ人生の内的な真理と外的な真理を見出すべく、探究を重ねてきたと言ってもよいでしょう。
しかし、今日の宗教は、その本来の責任を果たせずに、宗教紛争、教派分裂によって葛藤を抱えており、現代人の心の世界を指導すべき力をもっていないというのが現状だと思います。
だから、現代という時代ほど、真に新しい宗教革命を必要としている時代はないと言えます。
真に新しい宗教革命とは、新しい次元の真理を伝えるものでなければならないでしょう。
それは、究極的には
・神は存在するか
・神が存在するならば、神と人間はいかなる関係をもっているか
・人間と万物世界は、いかなる関係を持っているか
という三つの問題を解明するものでなければならないと思います。
このような真理が登場することで、人類は宗教、民族、国家の壁を越えて、本当の理想世界を地球上に作り出すことができると思います。
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横やり、失礼します。


よくこういった話になったとき、「無宗教」と「無神論」を混同されるのですが、宗教学的には両者は厳密に区別されます。
で、日本人は「無宗教」の人は多いですが、「無神論」の人は圧倒的に少ないです。

「無宗教」というのは、「特定の宗教・教団・宗派に属していないという意味」です。
一方、「無神論」は「神仏や霊魂まで、霊的な(宗教的な)存在を一切信じない」ということです。

なんで、
>私自身は、無宗教(初詣・お盆・クリスマスを楽しむ一般的な日本人)ですが、無神論者ではありません。神に対してはファンタジー感覚です

というのは、正しい認識であり、一般的な日本人の特徴だと思います。
それを示すのに、各宗教法人が自己申告する信者の数を合計すると、日本の人口の2倍近くになるそうです。(もちろん、外国人は含みません)
つまり、2重3重に信者としてカウントされてるんですね。
これは、神社やお寺なんかが参った人やお布施をした人を勝手に信者としてカウントするからです。
これに対して、別段本人から抗議がくるワケでも無し、実害もありませんしね。
そんなわけで、日本にある公的に認められた宗教団体の日本人信者数は人口の2倍近くにふくれあがってるわけです。

どうしてこういった現象が起こるのか?というのは、未だ「謎」で西洋なんかの宗教学者も不思議に思ってます。
一昔前は、「アニミズム=劣った段階」としてキリスト教圏の人は考えてましたけどね。(今では、キリスト教的進歩史観は見直されつつあります)

さて、これを解く鍵は幾つかありそうですが、以下は別のQ&Aでの私の回答に手を加えたモノです

==以下、コピペですが===

まず、日本人の「霊魂観」ですが、その特徴は「祖霊崇拝」にあると指摘されています。
「祖霊崇拝」というと、「お家」というのが強調されますし、現代日本でもその色が強いと言えます。(無縁墓地とか増えてるらしいですけど、、、)
しかし、「お家」というのが強く意識されるようになったのは近世以降、家康がすすめた「寺請制度」の結果です。
この制度は、簡単に言うとキリスト教や一向宗などの禁教を取り締まるために、個々人を寺院に登録させ禁教の徒で無いことを証明させる制度です。
別名「檀家制度」とも言われます。
最初は個々人でしたが、やがて一家に一寺となっていきます。そして、家に仏壇を置く風習も広がることとなります。

とまぁ、「お家制度」を強く意識した「祖霊崇拝」は江戸に入ってからですが、それ以前はもっと広く「祖霊」というモノを捉えていました。
そして、「黄泉の国」というのが想定され、死後人は皆そこへ向かうと考えられました。
ただ、この「黄泉の国」というのが、所謂「あの世」だとか「天国・地獄」などとは、ちょっと違う概念でもあるようです。
例えば、山中や海などの自然界に住んでいたり(自然崇拝との融合)、神棚やお墓、仏壇に住んでいたりと、色々な想定がなされています。
また、生前に特別な功績があったり、人々が祟りを恐れたりした場合には、神社が建てられて祀られたりします。
ただ、死者の魂は黄泉に住まい、時々子孫である私たちに会いに来ると考えられていました。
よって、「生まれ変わり」という思想は無かったと思われます。

ただし、神道は仏教伝来以来に仏教から多大な影響を受けます。
逆に、日本の仏教も神道から多大な影響を受けて発展します。
また、江戸中期以降には儒学が入ってきてそこからも多大な影響を受け、今に至ります。
日本の仏教や儒学が祖先(お家)を強調するのは、やはり神道の影響と言えます。
日本人の心の中では、神道と仏教・儒学が融合していると言えます。

こうした、仏教や儒学、キリスト教などの影響を受けつつも、古来から受け継がれてきた死生観が「祖霊崇拝」と言えます。
そして、その中心を担うのが「神道」と言えると思います。(江戸以降の寺請制度の影響で、葬儀などは仏式であって死生観は神道に根ざしてるとも言えます)
↓オリジナルはこちらに
http://okwave.jp/qa3756802.html

===引用以上===

と、まぁ、上記の引用にあるように、古来から日本人は草木一本から海・山・川など、自然にたいして畏怖の念とか神仏を感じていたようです。
また、神道と仏教が緩やかな(時には対立しましたが)融合をしたため、キリスト教・イスラム教のような一神教的な特徴を示していないんだと思います。
ただ、近代化いしていこうは、無意識に「キリスト教思想」を受け入れ、「神=全能・唯一絶対」というモノを想定している人が多い気がします。
本来は、「カミ≒魂」というのが日本的な「神」の概念です。
なんで、「全能」とか「唯一絶対」なんて事はなく、故に「八百万の神の国」と言われるんですね。
 
長文失礼しました。
参考になりましたら幸いです。
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よく日本人は無宗教だなどといいますが、他の方も答えていらっしゃるとおり、そんなことはありません。

家に仏壇のある家だって少なくないし、お正月には初詣に行って家族の健康や幸福を祈りますよね。
ただ、これも他の方の指摘のように、神仏習合の伝統から、神道と仏教を上手に使い分けてきたこと。神道も仏教も多神教で排他的でないため、鷹揚な宗教環境を形作ってきたことが大きいと思います。
以前はよく、一神教の外国人から見ると、不思議で、いい加減に見えると言われました。しかし、最近はそのゆるゆるさ加減が、むしろ見直され始めてもいます。世界のあちこちで起きている宗教対立にうんざり気味の欧米人の中には、この日本人の宗教的寛容さが新鮮で、学ぶべきところがあるんじゃないかという人たちも現れています。
というわけで、日本人は今までどおり、ゆるーく宗教とつきあっていけばいいのだと思いますよ。ただし、他の国の宗教に対する無知や無理解が、いらぬ摩擦や反感を招くことも少なくないので、もっと宗教を知識として知ることは必要だと思います。あなたのおっしゃるとおり、聖書でもコーランでもお経でも、いろんな宗教について勉強して、それぞれの先人の知恵に学び、自分なりの生き方を見つけていかれることが一番だと思います。
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外国人の友達に無宗教だって言ったら「お前それでも人間か!」っていわれちゃいました。

どうやっていいことと悪いこと見分けるんだ?とも。
よく考えてみれば世界の8割がキリスト教やなんらかの宗教を持っているといいます。無宗教であることは、世界的に見れば少数派なんですよね。

日本人のほとんどが神教だといっておられた方もいますがそれはちょっと違うと思います。宗教は形ではないからです。クリスマスを祝うからクリスチャンってわけでもないでしょう。自覚がなければ宗教に属するとは言いません。宗教は信じるものでしょ。信じてないのに宗教にはいってるって・・そりゃ新手のワンクリックかってかんじっすね。


 日本はお経を上げれば誰しも救われるというような、ご利益至上主義の宗教観があります。また絶対的な神がいないためあらゆるところに神の(絶対的な)存在を見ます。お茶だったりお花だったり。だから簡単にたどり着けちゃうんですね。神に。
それでお金を払えば病気が治るとか言っとけば、ご利益主義的な日本の宗教観では、引っかかる人が多いでしょう。新興宗教が多いのは、日本の文化というか風習だと思います。実際そんな楽に真理にもたどり着けないし、悩みも病気も治らないですよ。神様はたどり着けないから神様なんだし。だいたい冷静に見れば、ほとんどいんちきでしょ。

でもこれだけ世の中が悪くなっていくと宗教に頼りたいと思う人が増えてくるのは当然です。

 僕自身も創造者という意味での人的な神は信じていません。ただ絶対的なものってやっぱりあると思っています。
 どんなに哲学や科学が否定しても、やっぱり愛は地球を救うとかって思っちゃってます。

 宗教と付き合うというより、やっぱりつよく望むことじゃないでしょうか?本当のことって何なんだ?何が幸せなんだ?おれはどうすればいい?って常に考えることだと思っています。

その結果、宗教にたどり着くのであれば、やってもいいって思います。

ただ真理も真実も簡単にたどり着けるはずがない。お前らごときにたどり着けるものなら、人類等の昔に平和になってるはずだって。
弱みに付け込んで、結局金かって。そういう糞にはちかずきたくもないし軽蔑する。まあだいたい宗教名乗るやつらはこんなもんだけど。
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No.8です。



他の方も言っているように、日本がスピリチュアルブームになった理由は、テレビのせい。

日本はアメリカに比べて、20年文化が遅れていると言われ、30年ほど前、アメリカはスピリチュアルブームで、アメリカ社会は病んでしまったんですね。

法曹界が乗り出して解決したのですが、20年後、日本のその文化はやってこなかった。

どうしてかというと、オウム事件により、マスコミ業界に、その手の番組はやらないようにと規制がかかったから。

オウムが起こる前は無法地帯で、超常現象とか超能力とかUFOとか霊能力とかの番組が乱立していて、それによって育った人たちが、オウムに入信して、社会を破壊するまでになってしまったらしいんです。

それで政府は一番国民に影響を与える放送業界に規制をかけたんです。
それで、それまでその手のことで稼いでいた人々に出演依頼は来なくなり、それまであったその手の娯楽番組は制作されることも無くなり、それでアメリカがスピリチュアルブームが下火になった20年後 つまり 日本の10年前からいままで、そういう番組は放映されなくなったんです。
だからアメリカの20年後に日本はスピリチュアルブームにならなかった。


ところが、10年たったからもういいかもしれないと ちょこっとあるテレビ局がやったところ、政府が何も言ってこない。
それでほかのテレビ局も、やってみるか と流すようなり、本領発揮で、仕掛けを考え、国民を騙すというより、トリックで娯楽を作って、「嘘ですよ~  でも 娯楽番組だからいいでしょ~ 楽しんでね~」って流しだしたんです。

子供じゃなきゃ 騙されないレベルなので、本気で信じる人はいないとわかりきっている構成なので、国から指摘されることも無いだろうと、放送しだしたんです。

国民はゲラゲラ笑いながらその番組を娯楽として楽しんだわけです。

が、どうしたことか、娯楽として捉えることができない人たちも視聴者の中にいて、本気で信じる人たちも出始めたわけです。

あっちでもやり こっちでもやる ということで、そうなると本当にその世界があるんじゃないかと マジにとってしまう人も出てきてしまったわけです。

考えてみれば、スピリチュアル商法でなんでもお見通しなはずの人は、妻から冷たい目で見られ、息子から馬鹿にされているのはおかしい。
どうして、結婚する前にわからなかったのか?
自分のことに関してだけはわからないのか。
「妻に食器のガラスが落ちて息子が怪我するから そうならないように直しておけといったのに妻は信じず、結果起こってしまった。 予知できたのに妻は私の言うことを聞き流した」と自分の予知能力の高さを言ったわけですが、私からすれば、「自分でやりゃあ いいじゃないか」って思ったんですね。
はずれかかっているのなら、予知能力が無くても誰でも推測はできるので、100推測できてその1実際起こったのなら、そりゃあ 当たったとは言わないですよね。

尚、自称超能力者と一般の人が当てる率を比べたら、一般の人がまぐれで当てる確立の方が 断然高いそうです。笑

一般の人と自称超能力者の違いは、自称超能力者の場合、その著しく低い推測が当たった場合、放送電波などを利用して、「当たった 当たった」と喜ぶこと。笑
超能力とか霊能力じゃなくて、幼児能力が非常に高いわけです。


幼児性が高いので、「どうして未来を霊視できるのに、自分のことを馬鹿にする女と結婚をし、その女とセックスして自分のことを馬鹿にする息子をもうけたの?」って言われても、答えられないでしょう。
その世界による理論的な説明だと、前世のカルマにより、罰を受けたので、相性の悪い人と我慢して家庭をたもてば、来世は幸せになれるってことでしょうか。
公共の電波を使って家庭不和を愚痴ってもらってもねぇ・・・幼児能力の高さゆえのカルマってやつでしょうか。

まあ 娯楽番組での笑えるネタとしての提供なので、霊能者の家庭不和話にも笑っていればいいわけですが、、、

でも、笑える番組だけならいいのですが、笑いを取るつもりが、主婦を怒らせた。
さすがの放送倫理委員会も動き出した。


予知することができるのなら、そんなことになるとわかっていたはずで、未然に防げたはずなのに、実際は能力が無いので、知ることもできず、したがって回避することも不可能だったわけですよね。

そういう問題じゃあなくて、お笑い番組で、視聴率を取るつもりが、人の心を癒し仕事をするものが、よりによって人の心を著しく公共の電波を使って傷つける行為をやってしまったわけです。
金稼ぎのために人を犠牲にしてしまったわけで。
まさかこうなることは予想しなかったでしょうけど。
いやいや お粗末な霊能力です。

ですが、ほとんどの人は、この人が霊能力があるなど思っていません。
主婦が怒ったのは、証明できないことをもって、自分の善意を悪行だと決め付けられてしまったから。
イカサマにもほどがある。
ここがギボアイコさんの癒しの力と決定的に違うところ。
彼の場合は証明できないものが存在するとして、人を破壊することにもちい、ギボさんはそれを回復にもちいていた。

ギボさんの能力はこの回復させる能力が非常にたかったらしいです。
霊能力があるかどうかじゃなく、依頼者の心が軽くなるようなアドバイスを常にしていた。
だからカウンセラーとしての評価は非常に高かったそうです。
と学会でも、彼女のその癒しの能力の高さは認めている。
これが目に見えない力ってわけですね。


さて、目に見えない力。
日本には清めと穢れの文化がある。
例えば、ペンキが服についた場合、汚れたとはいうが、穢れたとは言わない。
汚れと穢れは汚れが目に見えるもの、穢れは目に見えないが悪いもの。

例えば、盗み。放火。昔は死罪でした。
悪行は目に見えないが、穢れた行為だとわかりますよね。

人を殺すことも、どうして人を殺してはいけないのか説明できないが、穢れであると日本人はわかっている。
スピリチュアルの穢れの部分。

で、人を殺した人を殺す。 
そうすると悪い人を殺した人も穢れますよね。
支配階級の人は、取り締まることで、自分が穢れてしまうから、取り締まれなくなるわけです。
で、実際、手を引いたそうです。

すると日本はどうなったか。 無法地帯。
それじゃ困るので、取り締まる人を設けたわけです。武士階級の人。


日本に喪中ってありますよね。
日本は死を穢れと思っているわけです。
だから神道では喪中の信者が神社に一定の期間もうでることを禁じています。
死んだ人の家のものは穢れに入るため、その人が清めの場所に行くと、清めオンリーの場所である神社が穢れてしまうとして、それで来ないようにしているんです。

では、穢れの部分は誰が担当していたか。
外注にまかせたんです。
仏教は日本の外からの来た宗教ですので、仏教に葬式の部分を担当させた。
だから日本の仏教は受け入れられたわけです。
仏教により穢れを清めてもらうので、神道にとって仏教は良きパートナーになるわけです。
また、人の生きかたも教えるので、日本にとって益になるわけです。


このように、日本はこれが日本の宗教という形がよくわからないようで、実は風習として庶民の深く根付いているわけです。

日本の宗教を紹介するとき、日本の風習を言えばいい。


外国の人に「どうして日本人は神輿を担ぐのか」と聞かれたら、「あれはいわゆる過ぎ越しの祭りみたいなもんです。
あの中にモーセが神からもらった石版が入っていると思ってください。
異民族だった祖先は、担いで移動していたので、そういう仕来たりが日本に来たとき名残で残っているんです」 と言ってしまうと、日本独特の宗教じゃないじゃないか って言われていまいますねぇ・・・

うーーん あれは 民間宗教であって神道じゃないですねぇ・・・。

なんでしめ縄で縄で丸く描いているのか。
神様がやってきて、その人を一泊させたとき、今から災いを起こすので、その災いを免れるため印として、この輪を。。。。ってこれも過ぎ越しの祭りの由来することになっちゃうので、民間信仰?

うーーん 神道って日本人でもどれが神道独自なのかわからないですね。

まあ、日本の宗教っていろいろなものを取りいれているから。
八百万の神々ってことで、もしかしたら世界全部の神様 取り入れているかもしれないですね。
確かめたければ神無月に出雲に行ってみたらいいですね。

ああ、スピリチュアルなので、見えないか。
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